10歳のときに長崎で被爆した美輪明宏さん。軍国主義が支配したころの日本は「愚かで野蛮だった」と振り返った。しかし選挙を前にしたいま、「新しい息吹を感じる。政権交代もその流れ。古い汚いものは自滅していく」と力を込める。【國枝すみれ】
美輪さんの家は長崎市南部の本(もと)石灰(しっくい)町(まち)にあった。原爆が投下された9日、縁側の机で宿題の絵を描いていた。「絵の出来を見ようと椅子から立ちあがり後ろに下がったとき、マグネシウム1000万個をたいたような光に包まれた。あれっ、と思った瞬間、大音響、地響き。瓦が落ち、窓ガラスが飛び散った」
お手伝いさんと兄で、隣の船大工町にある防空壕(ごう)を目指した。家の外は地獄絵図だった。髪がずるりと抜けた人、服なのか皮膚なのか判別がつかないほど焼けただれた人。死んだ子供をおぶったり抱いたまま逃げる女たち、中腰のまま、坂の途中でぼーっと焼ける町を見ている下宿屋のお姉さん。リヤカーの上には枕が一つ。理性的な行動をしている人は誰もいなかった。
金融会社を経営していた父は爆心地に近い浦上に集金に行く予定をサボって釣りに行ったため、助かった。実母は美輪さんが2歳のときに病死、継母もすでに病死していた。山を越え、弟たちが疎開していた田手原村(たでわらむら)に逃げた一家は、玉音放送を聞き、すぐに長崎に戻った。
毎日新聞 2009年8月7日 東京夕刊