現在位置:
  1. asahi.com
  2. ニュース
  3. 政治
  4. 国政
  5. 記事

民主政権は「旗印絞れ」 細川元首相インタビュー(3/6ページ)

2009年8月9日3時5分

写真:細川護熙さん=鈴木好之撮影細川護熙さん=鈴木好之撮影

■「細川首相」浮上の背景

 ――歴史を感じますね。ところで細川政権ができたときは、新たな政治の扉が開かれたという熱気がありましたね。いま、そのうねりは感じますか。

 細川 そのときとはちょっと違うんじゃないでしょうか。あの頃は、バブルの崩壊、リクルート事件、政官業の癒着で、政治が変わることへの期待が非常に大きかった。いまは小選挙区制に促される形で二大政党化が進み、民主党が自民党を凌駕(りょうが)するかもしれないところまできている。立ち上げたのと違い、少し受け身な感じです。

 ――自民党が統治能力を失ったので、一度民主党にやらせてみようかというのは、悲しい選択かもしれない。

 細川 熊本県知事の頃から、中央政治の壁や官僚機構に嫌というほど頭をぶつけ、「既成の政治勢力では打開できない」と思い知りました。そのためには新しい政党しかないと心を決め、92年初夏、「文芸春秋」に新党結党宣言を発表。あのときは事務所の電話が鳴りっぱなしでした。

 ――日本新党を結党、7月に参院選があり、4人が当選しました。

 細川 日本新党は政治運動として始めました。私自身は議員になるつもりはなかったが、「言い出しっぺが出なくてどうする」と言われて立候補、参院議員になった。旗揚げから2カ月、十分な準備もないままに人が集まったのです。

 ――その後、金丸信・自民党副総裁の5億円の政治献金問題が起こり、93年春には金の延べ棒の不正蓄財が暴かれ逮捕された。細川さんは予言者のようでした。

 細川 たまたまそういう事件も起きて、既成の政治への不満が爆発する状況になった。われわれへの期待をさらに感じました。

 夏の都議選で20人、その後の総選挙では私も含めて35人が当選。遊説していると、ビルの上から人が駆けおりてきたり、窓を開けて手を振ったり。街頭演説も千人ぐらいのところは素通りし、3千人ぐらいいないとしなかった。申し訳なかったですが、ありがたい状況でしたね。

 ――総選挙の直前には新党さきがけが旗揚げ。田中さんはその中心人物です。細川さんとは話が通じていたのですか。

 田中 ええ。細川さんとは92年8月、経済雑誌「東洋経済」の対談で会い、そのあと2、3時間話をしました。その場で私は「宮沢内閣が終わる日に自民党を離党して行動を共にします」と約束した。たった一人で出る、と言いいましたね。

 ――総選挙の結果、自民党が過半数割れし、小沢一郎さんが動いて細川さんを首班とする非自民8党派の連立政権ができる。首相になる決意は、いつ?

 細川 選挙が終わって、小沢さんから「首相に」という打診がありました。私はまったくそういうことは考えていなかったし、首相のポストにはちっとも魅力を感じていなかった。だが「これは天命だ。受けるしかない」と直観的に思い、すぐに腹を決めました。

 ――さきがけの中には、自民党の後藤田正晴さんを担ぎ出し、日本新党と組んで政権をつくろうという動きもあった。

 田中 僕は全然、関知していない。

 ――代表の武村正義さんが工作していたと言われているが。

 田中 そういう相談が僕にあったわけじゃないしね。

 ――ほんとに?

 田中 細川さんに首相の打診があったとき、私は猛反対したんです。準備ができていない。「非自民」だけでは「旗印」にならない。ある日、旗が浮かんだ。政治改革政権の提唱です。これをこなさないと何も進まない。細川さんも納得しました。

 細川 ひとつの内閣で何もかもいっぺんにはできない。限定的な目標と期限を明確にして、断固やるかどうかです。あれもやります、これもやりますと喧伝(けんでん)した揚げ句、何一つできないのではダメ。その点、民主党は大丈夫かな。

 田中 細川さんは旗印がないと行動しない人なんだ。

関連トピックス

PR情報
検索フォーム
キーワード:


朝日新聞購読のご案内