2009年8月9日3時5分
細川護熙さん=鈴木好之撮影
■宮沢・細川会談の真実
――細川さん、最近は。
細川護熙 田舎暮らしで草引きをしています。
――一時期、細川さんの庭の野菜が評判になっていましたが。
細川 そうですか。野菜が余るのであちこち配り歩いています。喜んでいる人もあるけど、ありがた迷惑な人もいるかも。
――陶器づくりは。
細川 焼き物はやっています。発表会も年に数回。
田中秀征 細川さんは以前から、自分のことを「農本主義者」だと言っているんだ。
細川 いやいや、私なんかちょっと草引きしているぐらいで、すぐに嫌になるほうですから。
――さて、いまから16年前のこと。細川非自民政権ができ、自民党の宮沢喜一さんから首相のバトンを受け取りました。あのときの政権交代の経験と教訓をうかがいたい。8月17日、小雨の軽井沢での宮沢・細川会談は政権交代を象徴する場面でした。
細川 実は首相の引き継ぎというのはないんです。各省大臣は事務引き継ぎのサインをしますが、首相にはない。
――そういえば、そうだ。
田中 すべて官僚が知っているから引き継ぐ必要がないのです。宮沢さんは特別だった。
細川 田中秀征さんと一緒にお会いしましたが、助言、アドバイスというものでした。中身は日米関係や欧州との関係。とりわけ中国の軍事大国化、経済大国化を心配されていた。国連安全保障理事会の常任理事国入り、NPT(核不拡散条約)延長は「自分は中途半端にしてある」と、手で抑えるしぐさをされた。
私自身、憲法や安全保障、例えば海外での武力行使はダメだとか、同じ考えを持っていましたし、宮沢さんのようなバランス感覚のある賢人からそういう機会をいただいてうれしかった。懇切に、ほんとうに思い入れがこもった話でしたから。
――あのときの話の中身をこんな風に聞くのは初めてです。
細川 しゃべったことがないですから。
――安保理常任理事国入り問題ではどんなやりとりがあったのですか。
細川 「あまり物欲しそうな顔をするのはいかがなものか」ということでした。当時、ドイツが常任理事国になりたいとはっきり表明していたので、外務省も宮沢さんに前向きな姿勢を示してほしいと、さかんに言っていたようです。この問題はその後、秀征さんが矢面にたって、外務省とやりとりがありました。結局、「積極的に常任理事国にしてくれとは言わない。大多数の国がなってくれというのであれば受ける」という線で、1カ月後に国連で首相演説をしたわけです。
田中 会談が終え細川さんは私に一言、「宮沢さんという人はすごい人だね」と言いました。
――宮沢さんを見送った後、細川さんが「あの人たちと一緒にやりたかった」とつぶやいたとも記録されている。
細川 ほんとうにそうでした。
田中 冷戦が終わり、経済の拡大が約束されなくなったという時代認識を2人は共有していました。その後も私を含めた3人で会い、何度も助言してくれました。
細川 自分を引きずり下ろした張本人なのに、助けていただいていたのだから。
じつは新聞記者を辞めて政治家になるとき、通産相だった宮沢さんを訪ね、「政治のほうにいきたいのですが」と相談したのです。宮沢さんは祖父の近衛文麿首相の秘書官だった父の細川護貞とも親しく、息子の私にも親近感をもっていただいていました。そのときは即座に「政治の世界なんてやめたほうがいいですよ」と言われましたが、その後もゴルフ場や食事先で折に触れてお会いし、あいさつをしたりしていました。