「一スジ(脚本)、二ヌケ(映像)、三ドウサ(演技)」。“日本映画の父”牧野省三が残した言葉だ。しかし、一番大切なものとして挙げられた脚本を手掛けた人の名前が、公開中の映画「アマルフィ 女神の報酬」にはない。脚本家たちは「映画製作における脚本軽視の表れ」と問題視している。【勝田友巳】
この映画は全編イタリアロケのアクション娯楽大作。だが、ポスターなどの宣伝材料だけでなく、映画本編にも脚本家の名前が見当たらない。
シナリオ作家協会は、映画が公開された7月18日付で「映画作りの根本でもある『脚本』も脚本家もクレジット表記されないで公開されるこの異常事態に、我々は重大な疑義と強い憤りを覚える」との声明を発表。映画を製作したフジテレビの亀山千広プロデューサーらに送った。
フジテレビによると、作家の真保裕一が基になる脚本を作ったが、撮影現場の状況を勘案していなかったため、西谷弘監督が撮影中に手を入れた。通常なら2人の脚本とするところだが、両者とも固辞したため、「原作・真保裕一」のみの表記となったという。「脚本・脚本家軽視」という認識はなかったようだ。
撮影開始後に現場の状況などにより、脚本が変更されることは日常茶飯事。脚本家も、一言一句脚本通りでないと納得しないタイプから、監督に任せてしまうタイプまで十人十色。数人の合作もあれば、監督が兼ねることも多い。ただ、どんな場合でも脚本のクレジット表記はあった。今回のような事情で表記が消えることは前代未聞だ。
シナリオ作協の西岡琢也理事長は「今回のケースは、昨今の日本映画製作のあり方を象徴している」と指摘する。
かつては、脚本家が監督らと何カ月もかけて脚本を練り、監督はセリフやト書きの意味を理解した。双方の間で脚本を尊重する意思疎通ができていたのだ。しかし、テレビの連続ドラマなどでは、全話の脚本が未完成のまま撮影に入ることが普通。西岡理事長は「テレビ局が映画製作を主導し、脚本が作品として見られなくなっているのではないか」と話す。
映画の脚本についての問題は他に、2006年公開の「やわらかい生活」をめぐるケースがある。原作者が「シナリオを活字として残したくない」と、年度ごとの優秀作を集めた本「年鑑代表シナリオ集」への掲載を拒否。これに対し、原作を脚本化したシナリオ作家らが「脚本を出版して後世に残すことは、脚本家にとっては最も大切」などとして、今年7月に出版妨害の禁止などを求める訴訟を起こした。
西岡理事長は「昨今の映画界は興行成績優先で、芸術表現をないがしろにしている。その中で脚本家は使い捨てにされ、映画の設計図である脚本の役割がますます軽視されていくのではないか」と懸念する。<月末を除き毎週火曜日に掲載します>
毎日新聞 2009年8月4日 東京夕刊