断酒会発祥からの足跡

下 司 孝 麿


断酒会導入まで

 私は、1938年岡山医大を卒業後、精神医学を林道倫教授、生理学を生沼曽六教授に学び、未知の分野へ挑戦する研究姿勢を体験した。

 1946年から、高知市の中心街にある町田病院精神神経科長と郊外の精神病院(精華園)の院長職に従事した。ところが戦後いち早く、高知県には慢性酒精中毒症の患者が現れた。私は、生理学で学んだ条件反射を利用して、治療したいと考えていた。なお、慢性酒精中毒症は、現在アルコール依存症という。今後は略してア症と称する。

 塩野義製薬宣伝紙「モダンテラピー」(1950年)に、慢性酒精中毒症の海外における新しい治療薬が紹介された。抗酒薬エメチンとアンタブス等である。エメチンは吐剤で酒に入れて服用すると嘔吐する。これを繰り返していると、酒が嫌いになってくる。これは、私の考えていた条件反射利用の治療そのものである。そこで、抵抗なくエメチン療法を始めることになった。日本でこの治療法を追試したのは、これまでに私だけである。

 エメチンは、運よく高知市中沢薬業に進駐軍放出の薬があった。1950年6月12日から治療を開始した。また、デンマークで開発されたAntabus(化学名Tetraetylthiuram disulfide; dislfiram)が、鎮痛剤テプロンに似ていることを知って、日新製薬株式会社に頼み製造してもらった。治療は同年9月26日からである。その後、大内新興化学から2キログラムの試供品提供を受けた。詳しい治療法が分からないまま手探りで治療を開始した。その後、高松市の進駐軍図書館に通い、アメリカ医師会雑誌等で文献を調べ治療上の参考にした。

 1950年10月8日、高知県医師会医学集談会で、慢性酒精中毒症の薬物療法(エメチンとアンタビュース)を発表したところ、全国の地方紙や朝日新聞、NHKで報道され全国から多数の問合せがあった。当時わが国ではア症の特別な治療法はなく、遺伝的な性格異常であるから断種して子孫を残してはならないと、名古屋大学精神科杉田直樹教授は主張していた。アメリカやドイツでは悪質なア症に断種法が適応されていた。

 1951年、第48回日本精神神経学会で、「慢性酒精性中毒症のエメチン療法とアンタビュース療法」について発表。その際、薬物療法の他に精神療法の必要性を述べた。
これが、ア症治療への原点となった。この学会で東大神経科の高橋 宏らも、「抗酒剤アンタビュースに就て」の演題で発表した。

 1951年11月9日までに問合せは788名に及び、治療したのは497名(エメチン343名、アンタビュース154名)である。その治療成績を「新薬と臨床」第1巻第7号(1952年12月)に発表した。

 1955年、私は日本に導入されたばかりの集団精神療法を、名古屋大学精神科で田原幸男講師から直接教えて頂き、臨床に用いていた。田原講師は中学先輩である。

 一方、薬の取引先である高知市中沢薬業の中沢寅吉社長は熱心な禁酒論者で、日本禁酒同盟(理事長:片山哲元総理)発行の禁酒新聞を、毎月届けてくださった。その中でアメリカの断酒会AAを知った。私は禁酒同盟を訪ねて教えを乞い、小塩完治専務理事と山室武甫牧師の知遇を得た。小塩専務は、禁酒新聞の編集者である。山室牧師は、エール大学アルコール研究サマースクールで学び、AAをわが国に紹介された。

 1956年から、私は東京にしばしば出張して、東京断酒新生会の例会を見学し、断酒会が一種の非指示的集団精神療法であることに気づいた。集団精神療法を採用していた私にとって、断酒会をア症治療に取り入れることは自然の流れであった。

 1957年、私は日本精神病院協会の第一回アメリカ精神病院視察団(29人)に加わり、3週間の視察旅行をしてきた。当時のわが国の精神病院では、入院は保護監禁が主な目的で、人権は無視されていた。日本医師会長故武見太郎先生は、いみじくも精神病院を牧畜業と言い放った。

 アルコール依存症の患者はアル中と軽蔑されていた。大阪と静岡の精神病院では、閉じ込められて怒った患者が病院を占居して、機動隊の出動で解除された例がある。精神科医なだいなだは、当時の対応を「アル中患者は、同じ病棟に3人以上入れない」と著書の中で書いている。アル中は病院にとって招かれざる客であった。

 では、アメリカの精神病院はどうであったか。

  @入院患者を一個の人格として認め、丁重に対応しているのを実際に見て感動した。
    医者の特別待遇も見たが、キャフェテリアでは院長が並んで順番待ちしていた。
    また、診察場の医者と患者の椅子が、全く同じなのも驚きであった。
  A精神療法が主流で、レクリエーションも盛んであった。
  B看護婦は少ないが、ボランティアが多い。
  C病院が立派であった。

 人権問題、精神療法、リハビリ、病院の運営や設計等に関して、この見学旅行から大きい示唆を受けた。また、ア症治療の精神療法に自信が増した。ここで、断酒運動と禁酒運動の歴史を述べる。



断酒会発祥

 1935年、アメリカで2人のア症患者が出会って断酒を誓った。それから、週一回会って励まし続けた。お互いに氏名や職業は打ち明けなかった。仲間は少しずつ増していったが、4年目にロックフェラー財団から資金援助の申し込みがあり、5年目に2人の体験談を綴ったAAが発行されてベストセラーとなってから、急速に発展した。AAとはAlcoholic Anonymousの略で、「匿名のアルコール中毒患者」の意味である。今や、英語圏を中心に広がり、会員数は数百万名と言われる。

 わが国では、1867年(明治20年)札幌禁酒会が発足した。札幌に、わが国初の禁酒会が誕生したのは、“Boys be ambitious!”《青年よ、大志を抱け!》で有名なクラーク博士(禁酒論者)の影響である。1890年東京禁酒会、1898年日本禁酒同盟が結成された。特筆すべきことは、根本正代議士によって「未成年者禁酒法」が1901年に提案され、1922年(大正11年3月25日)成立、4月1日に施行されたことである。根本代議士は、既に「未成年者喫煙禁止法」を1899年に提出し、4月後の1900年に施行されている。それと比べて、未成年者禁酒法が提案されてから施行までに21年の歳月を要している。アルコール問題対策の難しさがひしひしと感じられる。

 1953年、禁酒同盟の中に断酒友の会、森崎事務局長主導の断酒会や一万田元日銀総裁を会長にした酒害啓発団体などが生まれたが,いずれも消滅した。これら3つの団体の会長や事務局長はいずれも、ア症患者ではなかった。1957年、禁酒同盟はAAを参考にして東京断酒新生会(会長:大久保勇)を結成。酒害者が会長の断酒会誕生である。

 さて、松村春繁は高知県における社会党ナンバー2の闘士で、戦後の農地改革の際に会議の議長を努めるなど、社会的指導者であった。しかし、酒に溺れて落ちぶれ、その模様は作家でありアルコール依存症の専門家である堀内秀(なだいなだ)が、文芸春秋(昭和45年5月号)に「あるアル中の栄光の死」の題で書いている。1950年、私が松村を往診したときは40℃の高熱で譫言を叫び、意識混濁して振戦せん妄の状態であった。

 彼を精神病院ではなく、町田病院の一般病棟に入院させた。これがよかった。数日で回復したのでアルコール依存症を開放病棟で治療する方針が、自然に決まったのである。

 松村にエメチン療法を実施し、一応断酒に成功した。しかし、数ヵ月後には、再発して再度入院。こんなことを5回繰り返した。さすがに5回目には私もあきれ果て、むなしい思いに打ちのめされた。そんな表情が、松村に私に見放されては大変だとの意識が芽生えたと、なだいなだが述べている。

 1958年、松村の年賀状に、私は返事を送った。アメリカにAAという会があって、断酒に成功している。貴方は断酒会を作って、救世主にならないかと書いた。同年11月中沢社長は禁酒同盟の小塩専務を招いて、刑務所で世界連邦の講演を企画した。この機会に中沢社長と小塩専務にお願いして、断酒講演を保護会館で開催することができた。

 私はア症患者250人に招待状を発送した。参加したのは、松村春繁と小原寿男の2人だけであったが、保護司が数十人出席してくれた。講演会の後で松村は、断酒会結成を提案した。1958年11月25日、高知県断酒新生会が下司精神科(当時は診療所)の応接室で誕生した。会名や会則は、東京断酒新生会のそれを踏襲した。会員は上記の2名であった。支援者は高知大学泰泉寺正一先生、中沢社長と私の他にも河淵束稲県会議員、日本キリスト教矯風会高知支部青木俊子会員の6名であった。なお、泰泉寺先生は工芸美術専門で後に高知大学名誉教授になられた。先生は断酒会のロゴマーク、バッジや会旗をデザインし、会の歌を作詩したり、例会運営にアイディアを出して指導された。

 1958年3月29日、会員2人と支援者6人の全員8人が腕章を巻き、プラカードを担ぎ、断酒会趣意書のビラ配りなどして、繁華街の街頭行進を実施した。この写真は、機関紙「新聞断酒」創刊号1頁を飾った。新聞、ラジオで大々的に報道され、反響が大きかった。

 断酒会の会長は、酒害者の集まりであるから、当然酒害者でなければならない。これまでは、正常人が会長になって失敗している。そこで、私は松村を初代会長に推薦した。松村春繁は、すぐれたオルガナイザーであったが、始め2年間は会員が余り増えずに悲観的になっていた。私はアメリカの例を挙げて必ず成功すると励まし、文子夫人も「貴方は酒をやめるのが仕事。生計は私に任せて」と言って山奥の教員の仕事を続けられた。

 私は松村を下司病院職員に採用して、断酒運動に専任してもらった。断酒会結成3年目から次第に会員が増えてきた。そこで1961年、機関紙「新聞断酒」を発刊した。創刊号に、禁酒同盟第三代会長伊藤一隆作詞の「断酒誓約」を掲載した。但しこれは漢文調であるので、私は「断酒の誓」と改名し文章も話し言葉に変えて発表した。だいぶん後のことであるが、松村には外国語大出身で英語に堪能な長野泰子と高校出の女性秘書をつけ、12畳の事務室と電話を提供した。これで機関誌発行のみならず外国との連絡もできるようになった。1959年、沢村栄一高知大助教授がアメリカに留学する際、AAの見学や資料収集と翻訳をお願いした。それを初期の新聞断酒に数回掲載した。アメリカの断酒運動の理論と実際がわかり、我々の指針となった。彼は英文学者で、現在高知大学名誉教授である。

 断酒会を金儲けの手段であると誤解されることを恐れた私は、ア症患者の診療は極力避け断酒会出席を勧めた。断酒例会会場に職員食堂や外来待合室を無料提供した。
断酒例会開催は午後7時から9時の2時間、月2回で、私は毎回出席した。出席者と司会者の氏名はすべて新聞断酒に発表し、1965年8月11日の第162回本部例会まで続いた。
はじめ10年間、断酒会一辺倒であったが、その有効性を確信してから、ア症患者の医学的治療にも力を入れるようになった。当時の下司病院の精神科医は私一人のことが多く、内科疾患が増してからは、専従の内科専門医を雇った。

 1956年、私は高知ライオンズクラブに入会し、“We serve”《我々は奉仕する》をモットーに社会活動をしていた。断酒会支援活動も、奉仕の精神で現在まで続けている。

 1962年には高知アルコール問題研究所(所長:下司孝麿)を設立。所員は松村春繁、沢村栄一、泰泉寺正一、川崎清直(下司病院薬剤師)で、目的は断酒会育成、断酒会の全国拡大と調査研究である。信州大学薬理学の赤羽治郎教授(後の日本アルコール医学会第ニ代会長)から、いち早く激励文と資金カンパが届き、さい先よいスタートを切った。

 この研究所の顧問には、知事、市長、県・市議会議長、県教育長の他に、裁判所長、検事正、警察本部長、国立大学学長、酒販連会長、薬業社長、農機会社社長など高知県における官民のリーダーを網羅した。この顧問団の陣容のおかげで、信用は絶大であった。地元高知新聞も協力的で、よく断酒会の記事を書いて酒害啓発に努めてくれた。

 事務員に川村効子(元高知県知事令嬢)を雇って、所員とした。1963年、彼女をアメリカへ派遣しAA本部と折衝したが、断酒会をAAの支部としては認められなかった。川村は、全米断酒運動の指導者マーティ マン女史に面会した。マン女史はアルコール依存症から回復し、NCA(National Council on Alcoholism/米国アルコール中毒協議会)会長となり、断酒相談や酒害啓発運動に没頭した。その功績が認められて、エリザベス  ブラックウェル賞を与えられている。夏期休暇であったにも拘らず、ニューヨークに戻っての面会という特別な計らいであった。マン女史は言う。「AAは治療機関、NACは教育機関。アルコール中毒は病気である。」 そして、“Alcoholics are respectable”《アルコール中毒患者はきちんと評価されるべきだ》と何回も繰り返されたという。川村が羽田についた時、奇跡とも言うべき事態が待ち受けていた。朝日ジャーナル(朝日新聞社発行)の羽田通信は帰国者中、週間で最も話題の人物として川村効子を取り上げ、1頁にわたってアメリカでの活躍を報じた。同時に、高知アルコール問題研究所も紹介した。

 私は、断酒会実践の中で学んだ事を「断酒鉄言」《十文字の標語》や「心の誓」等にまとめ、断酒指針として新聞断酒に発表した。1962年、断酒鉄言として発表した最初の標語は、「今日一日だけ止めよう!」「例会に必ず出席しよう!」の2つである。
現在も大会の舞台正面左右の垂れ幕に、「一日断酒」「例会出席」と書かれて掲げられている。1968年までの6年間に、鉄言の数は26条になった。「心の誓」「家族の誓」は大会の舞台で、夫婦がそれぞれ読み上げる。これはセレモニー定番となって今も続いている。

 断酒会を最初に認めた精神科医は、大原健士郎先生(高知県出身)で、現在浜松医大名誉教授である。1959年、義兄がアルコール依存症で幻覚と妄想があり、精神病院へ入院するよう指示された。翌年帰省した時、入院せずに回復しているのを見て、「これは奇跡だ」と専門誌「精神医学」に発表された。

 次は、鳥取大学医学部神経精神科新福尚武教授である。中四国精神病院協会の会合で親しくなっていた新福教授から、1964年に断酒会設立の相談を受けた。翌1965年、米子市で新福教授司会の下に、鳥取県断酒会が誕生した。この時、私は松村を派遣した。

 また、岡山医大の学生当時によく利用していた岡山禁酒会館に連絡し、禁酒団体から会員の山方辰三郎氏を紹介され、岡山県断酒新生会を結成してもらった。その他、岡山大学医学部精神科奥村二吉教授にお願いして、臨床講義での松村春繁講演が実現した。

 1965年、禁酒新聞で酒害対策に熱心な韓国人の氏名を見つけ、早速連絡を取った。
大韓禁酒奉仕会の崔栄煥総務、金永輝先生と信福病院鄭士永院長(京城帝国大学卒・医学博士)である。1966年ライオンズ大会で韓国を訪問した時、精神科医として日本人初の訪問と言われた。大韓禁酒奉仕会主催の歓迎会で、崔栄煥総務・石履慶博士・朴客来博士の歓迎の挨拶の後、政府の広報部長官金秘書から、激励と日韓両国の酒害問題に一致協力して目的を達成して頂きたいと要請を受けた。鄭士永博士の信福病院では、断酒講義をした。また、医学雑誌社の金成変社長宅で、聖神医科大学盧東斗教授、首都医科大学李丙充副教授、国立精神病院陳星基院長、鄭士永院長、兪 鎮医博(開業医)、崔栄煥総務、金永輝先生等出席の晩餐懇談会を設けて頂いた。

 そして2つの断酒会が結成された。帰国の際、国際ホテルで、東亜日報社、朝鮮日報社、中央日報、京郷新聞社の新聞記者5人から1時間半のインタビューを受けた。延世大学校の大講堂で、朝8時から9時まで、総長以下付属病院院長、各科医師全員、全看護婦並びに全校学生に断酒の特別講義が企画されたが、出発時間のため中止になり残念であった。

 仙台市東北会病院の寅岩頼勝院長は、1957年のアメリカ精神病院視察団に参加した仲間である。1966年、日本精神神経学会で偶然お会いした時に、断酒会に興味を持っていただけた。そこで早速、松村を東北会病院へ派遣し、断酒会が結成されたのである。

 九州には、北九州断酒友の会(会長:末永豊紀)があって、松尾病院とタイアップしていた。1966年、私は韓国に赴く途中、末永会長夫妻、堀副会長と福岡空港でお会いして全断連へ加盟して頂いた。飛行場から旧知の九大精神科桜井図南男教授に電話して、全断連顧問と北九州禁酒友の会支援の快諾を得た。帰国した際、福岡空港で偶然お会いした北海道大学医学部精神科諏訪教授に、全断連顧問をお願いして、快く引き受けて頂いた。その後、北大を訪れた時山下助教授のご協力を得た。何でもあたって砕けろである。

 1970年、新潟県精神衛生協会上村忠男会長(岡山医大精神科元助教授・新潟大学医学部精神科前教授)の依頼で、新潟県精神衛生協会大会で私の断酒講演が実現し、その直後に断酒会が結成された。

 新聞断酒には、断酒会が全国へ発展する情報を逐次記事にした。厚生省、日本医師会、各大学精神科教室、有力精神病院、報道機関、各地断酒会等へ毎月5千〜1万部を無料発送した。厚生省精神衛生課の岩城課長は愛読していると言われた。

 話が後先になるが、私は、東京の断酒会と接触を重ねる内に、大野徹夫妻と親しくなり自宅に泊めて頂く仲になった。大野さんは東大出で、日通商事の役員であったが酒代のために家屋敷を会社に売り渡したという酒豪である。奥様は断酒会に1年通い、ご主人に断酒会出席を勧めたが、どうしても出席しなかった。ところが、テレビで重大事件の映像を見て感激し、断酒に踏み切った。断酒の動機は、人さまざまである。
断酒会に出席しても大野さんは体験談発表をせず、ひたすら聞くだけであった。大野夫人は東京禁酒白菊婦人会を組織し、1962年会員総勢9名で高知県断酒新生会の第90回例会に出席した。

 この席には、松村の同志である氏原一郎高知市長が出席し、酒害について15分間も熱弁を振るわれた。これを機会に、高知と東京の断酒会は強い絆で結ばれ、全日本断酒連盟結成への布石となった。断酒鉄言に「奥さんは最高の治療者」とあるのは、松村夫人と大野夫人がいなかったらご主人の断酒は続かず、また断酒会の成立もなかったとの思いから、自然に沸いてきた標語である。そこが、アメリカのAAにおける家族の役割とニュアンスが違っている。



全日本断酒連盟結成と進展

 1963年、高知県断酒新生会5周年大会を期して、東京と高知の断酒会が提携し、全日本断酒連盟(全断連)を高知市で結成した。東京断酒新生会からは、大野夫妻だけの出席であったが、参加希望の団体は全国で14あった。東京からは禁酒同盟小塩専務夫妻、IOGTの横山支部長が出席され、知事代理西村高知県秘書広報室長(知事選のため知事は出席できない)が祝辞を述べられた。また、珍しくも高知地方裁判所の谷弓雄所長が出席して、祝辞を賜った。アメリカのAAやスウェーデンのIOGT、国会議員、日本医科大学長、各大学教授、高知市長初め高知県内指導者の皆様からの祝辞、祝電を頂き豪華な門出となった。

 私は挨拶で、「酒害者民主主義を提唱し、患者中心の自助組織が生まれ、わが国の医療体系に新しい道を開いた」と述べた。

 その後私は、札幌・室蘭・仙台・新潟・静岡・大阪・鳥取・岡山・高松・北九州・大分等に出向き、精神科教授や精神科医等に依頼して断酒会の拠点を作った。各大学精神科教室への新聞断酒配布の威力が遺憾なく発揮できたと思う。私は、松村を全国各地に派遣し、組織の拡大を図った。彼の活躍なくして、今日の全断連の発展はあり得ない。

 1963年、松村は私の紹介状を持って国立療養所久里浜病院(ア症治療の基幹病院)に堀内秀医師(なだ いなだ)を訪ねた。堀内医師が、ヨーロッパで学んで自助グループを持ちたいと思っていた時であったので、誠にタイミングよく受け入れてもらえた。その後、東京や静岡の会員が久里浜を訪れるようになると「久里浜病院は断酒会の御用達の病院の感を呈した」と、なだいなだはその著書の中で述べている。

 1965年、厚生省に厚生科学医療助成・アルコール中毒研究班(班長:東邦医大新井尚賢教授)が発足し、下司孝麿はその一員となり、助成金を交付された。

 1966年、大阪の浜寺病院に入院歴のある二見泰之助氏を招待して、断酒会運営を伝授し、大阪に断酒会創設をサポートした。

 1970年、厚生省の酒害対策費300万円で、大野全断連会長代行と私は分担執筆して二色刷り小冊子を作り、全日本断酒連盟の名で発刊した。

 1973年に、大野さんにピンチがあった。全断連会館建設地の購入問題で職責を問われていた。大野さんは高知市まで相談に来られたので、私は1000万円を寄付した。すると全国の会員から拠金が相次ぎ、会館土地代1500万円の全額達成に成功した。それのみではない。会館建設費1500万円も、瞬く間に集まったのである。

 なお、大野 徹さんは日本精神衛生連盟内村祐之会長の信任を得て、1974年に同連盟の理事長に就任した。私の友人である慈雲堂田辺子男院長が、日本精神病院協会会長と日本精神衛生理事長を歴任して、勲二等を授与されている。それなら大野さんも勲二等を頂けるでないかと思いついた。私は厚生省の精神課に出向いて、広瀬課長に全断連叙勲対象団体指定と大野さんの勲二等授与を陳情した。その時は拒否されたが、間もなく広瀬課長から電話で「全断連の叙勲対象団体の件はOK」と告げられた。紆余曲折はあったが、大野 徹理事長は、1992年勲4等瑞宝章受賞の栄に輝いた。叙勲祝賀会には、小泉純一郎元厚生大臣初め厚生省広瀬精神課課長、懸田克躬日本精神衛生連盟会長、東大精神衛生学教室逸見武光元教授等多数のご出席があった。

   私は国会内にアルコール問題議員懇談会を提案して結成され、参議院会館で講演させて頂いた。そのころ、全断連は3000万円の交付金を厚生省から頂いた。1999年にはアルコール問題議員連盟《会長:小沢辰男元厚相、事務長:今井澄(民主党)》が結成され、趣意書に「断酒会を制度的、財政的援助が必要とされている」とあった。今井先生は内科医で民主党シャドウキャビネットの厚生大臣と称され、全断連大会にも出席され熟知の方であったが、惜しくも逝去された。2000年に全断連は厚生省地域保健総合推進事業費補助金で、リーフレット「中・高生のためのアルコール教室」を15万部作成して、全国に配布した。2002年、坪井栄孝日本医師会長はこのリーフレットを高く評価するとメッセージを賜った。このように全断連は、厚生省・国会・日本医師会、アルコール関連医学会などから支持、信頼されて、わが国の精神保健福祉に大きい役割を果たしている。

 全断連所属の断酒会は全国都道府県総てに約680あり、保健文化賞を本部と地域断酒会で6回受賞した。全国大会には4〜5千名の参加者がある日本最大の自助団体である。1987年第24回全国大会(三重)には、厚生大臣斉藤十朗先生(その後参議院議長)の御出席を賜った。なお、顧問には小泉総理初め、多士済々である。



高知県での対応

 私は県民の啓発を兼ねて、高知県断酒サマースクールを毎年1回開催し、今年7月で32回となった。講師はわが国のアルコール関連問題の指導者で、最近は400名前後の参加者がある。昨年から断酒を酒害と改め、県民の啓発に一層の力を注いでいる。

 断酒例会は、会員の体験発表の場であり、断酒運動の原点である。
下司病院でも毎日断酒例会が開かれているのみでなく、アルコール関連の医学講話や各種プログラムを、月約80回開催している。

 国立療養所久里浜病院に日本で初めてアルコール病棟が誕生した時、河野裕明医長(後の院長)が下司病院を訪れて、アルコール依存症の治療をしている日本唯一の病院と評価され、断酒会を視察し講演された。また久里浜病院の堀内秀医師(なだいなだ)は、下司病院をたびたび訪れコメントを残されている。また、著書の中で、「下司先生は私費を投じて、断酒会を全国に広げた。」と紹介された。

 新聞断酒には、多くのアルコール専門の学者が寄稿して下さり、また励まして頂いた。1971年の新聞断酒十周年記年号には、厚生省公衆衛生局滝沢 正局長、日本精神神経学会大熊輝雄理事長、日本アルコール医学会赤羽治郎会長初め各界の指導者から祝辞を頂いた。その中の圧巻は、日本医師会武見太郎会長のお言葉である。「日本はいま経済成長の最中にあって、地域社会の体系的健康開発、精神衛生開発を忘れがちである。断酒運動はこれらの時代に先がけて、地域精神衛生の問題と取り組んだ大きな歴史を誇りにしている。」誠にありがたいお言葉であり、我々は勇気づけられた。



国際交流

1.ICAA(International Council on Alcohol and Addictions)《本部:スイス》
  私は、日本アルコール医学会に、ICAA加入を勧めて実現した。ICAA国際大会(アムス
  テルダム)にアルコール医学会会員30名と共に出席した。
  国内では、ICAA SYMPOSIUM IN JAPAN(6日間)が開催された。私は理事を歴任した。
2.WHOの指導者G.Edwards ロンドン大学教授に、洲脇先生(現日本アルコール・薬物医
  学会理事長・現日本アルコール精神医学会理事長)と共に招かれ、私は断酒会につ
  いて講演し、G.Edwards 教授主筆のBritish  Journal on Addiction(現Addiction)国際
  編集顧問に就任した。
3.米国アルコール中毒医学協会(AMSA)から立派な会員証を授与(1981年)
4.韓国断酒会(前述)
5.2001年、中国安徽省(高知県の姉妹県)の医学博士 仲学鋒(中国健康教育対外交
  流協会理事)等に断酒会結成を提案、よい感触を得ているので実現へ努力したい。
6.病院のゲストブックには、日本並びに各国からの来訪者のコメントが書かれている。

  @1982年、WHOのARIF薬物依存部長が意見交換に来院。高知新聞に掲載。
  A1984年、M.Galanter  MD (ALBERT EINSTEIN医科大学精神科教授)
    “ My highest regard is for those who first began medical treatment for alcoholics ,
     when others were not true to help.”・・・M.Galanter教授は1999年 に、AMSA会長
    に就任(香川大学洲脇教授の談話による)。
  B1985年、マンチェスター大学 Dr. B. D. Hore Consulant l/C Alcoholism unit
   “ It is a great  honour to meet one of the first pionerers in Alcoholism in the world.”
  C1966年、大韓断酒同盟 会長崔 栄煥・金 永輝
  D1974年、なだ いなだ(作家・精神科医)“ うまき話より よき聞き手でありたい ”
  E1976年、東京都精神医学総合研究所 石井 毅・1986年、同 斉藤 学
  F1988年、内閣法制局参事官 粥川正敏
  G1989年、WHO Western Pacific Regional Office
   梅内拓生(東大大学院国際保健計画学講座元教授)
  H1992年、国務大臣 科学技術庁長官 谷川寛三
  I1999年、榎本 稔(現 日本外来精神医療学会理事長)
  J2001年、中国安徽省合肥 医学博士仲学鋒(中国健康教育対外交流協会理事・女性)
   中国安徽省母子保健所 主任医師張業武(男性)
   中国安徽省 安徽医科大学第一付属医院腫瘍科副教授 副主任医師(女性)



アルコール対策

 1992年7月31日、厚生省は「アルコールの飲み過ぎによる経済的損失は、年間6兆6千3百億円(医療費1兆1千億円を含む)、死亡者推計(事故も含む)男性21,015人、女性8,173人(計29,188人)と発表した。翌日報道した新聞社は、読売新聞のみで、12月になって合同通信配信による全国地方紙と産経新聞が報道した。アルコール依存者数は427万人(2003年、KAST結果)と推定され、未成年者、若い女性と高齢の飲酒者が増加している。
 
 Addiction誌(1995年4月号)によると、スイス アルコールと薬物問題予防研究所・アメリカ国立統計センターは、「15年間の追跡調査によると、60歳未満の男女ではアルコール消費量と全死亡者数は直線的関係にある」と述べた。この論文から国のアルコール政策は「酒消費量の減少」にあると考えられる。

 1980年、WHOヨーロッパ支局は酒類消費量を今世紀20年間に25%削減を提案した。インターネットによると、ほとんどの欧米各国はこの勧告に添って酒類消費量削減に向けて努力し成果を上げた。特に、イタリアと韓国は20年間に約半減、フランスは1961年〜2000年の40年間に半減している。ところが、日本と中国は逆に消費量を伸ばした。これでよいだろうか。2002年8月8日の高知新聞は「ニューヨーク市がタバコ増税で1年後に、タバコ販売半減、税収5倍」と報じた。以上を踏まえて、私の今後の方針と提案を述べる。


                     私自身の取り組み

1.韓国における酒類消費量半減対策に関する調査を準備中。

2.ニューヨーク市のタバコ増税対策をアルコールにも適応すれば抜本的な効果がある。

3.酒類購買許可証(「アルコール依存症とアディクション」第11巻4号1994年12月“巻頭言”)
  アメリカの“LIQUOR  PURCHASE IDENTIFICATION CARD"を参考に発行したい。

4.アルコール賠償保険「アルコール依存症とアディクション」第11巻4号1994年12月“巻頭言”)
  飲酒による死亡事故と疾病は、自動車による交通事故の死亡や負傷者数の約3倍であ
  る。自動車損害賠償保険があるなら、その3倍も危険な酒類の飲用者には当然アルコール
  疾病賠償保険があってもよいと思う。酒類に起因する疾病の医療費は、内科を含めると年
  間約2兆円である。2002年に破綻すると言われた政府官掌健康保険、組合共済健康保険
  と国民健康保険制度(赤字総額9000億円)を救う一助になればと思って提案する。

5.PL法(製造物責任法・平成7年7月1日に施行)製造物に欠陥があり、それが身体・生命・
  財産に損害をひき起こしたことを消費者が証明すれば損害賠償を請求できる。という法律
  面からの対策を考えたい。

6.アルコール依存症による生活習慣病予防(抗酸化剤服用)
  《日本医師会雑誌(2000年12月1日号「生活習慣病とストレス」参照》
  抗酸化剤が、アルコール依存症患者に多発する“糖尿病、肝硬変、癌、高血圧、脳梗塞、
  心筋梗塞”等の予防に有効と思われる。
  私は、抗酸化ビタミン剤(B2 12mg・C1000 mg・E 300 mg)が副作用もなく安価であるの
  で推奨している。これについては日本アルコール関連問題学会雑誌(2000年6月)の特別
  寄稿の中で発表した。一流製薬会社が大衆薬として発売し、1日の薬価は煙草一箱代
  より安い。一日の薬価が50円位になる有力会社(東証一部上場会社)の製品もある。

7.アルコール依存症の回復と治療に対する考察。
  アルコール依存症は、“Once an alcoholic, always an alcoholic” 《一度アル中になれば、
  一生アル中》と言われてきた。果たしてそうであろうか?10年断酒していても再発するこ
  とや飲酒への強い欲求 (craving)の消失困難を考えての理論である。
  このような一面的な見方ではなく、身体的・精神的・社会的・Spirituality(霊的)の4方面か
  ら考察を加えねばならない。治る可能性のある疾病である。

8.酒害防止の記念切手発行
  WHOは、酒の謳歌と酒害の2種類の切手を対比して、“貴方の国のアルコール政策はどち
  らか?”と問いかけるポスターを発行している。2022年は未成年者禁酒法施行100周年に
  当たる。日本郵政公社に記念切手発行をお願いしたい。

9.EAP(Employee Assistant Program)《従業員援助計画》
  アメリカでは50年以上前から始まり、多くの企業が採用。ア症の早期発見と早期治療のた
  めに企業が家族や医療関係者と共に取り組んでいる。我が国でもEAPの普及を計りたい。



終わりに

 いくつかの提案をした。わが国のアルコール政策推進に少しでもお役に立てば幸いである。


初出  日本アルコール精神医学雑誌 第11巻第1号 2004年8月