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「現代日本語の起源は百済語」(下)

著書『天皇は百済語で話す』を執筆した金容雲教授

 三国統一以後、新羅は征服地の百済と高句麗の古地名を漢字語に変え、『三国史記』地理志は変更後の地名と古地名を共に記している。これによると、「三ヒョン(ヒョンは山へんに見)県」に名前が変わった村の本来の名前は「密波兮」だった。「密(ミル)」は、まさに日本語の「みっつ」の語源と同じ、というわけだ。「七重県」という村は本来「難隠別」という名前だったが、「難(ナン)」は日本語の「ななつ」の「なな」と同じ。『三国史記』で「タソッ」は「于次」と表記されているが、これが日本語の「いつつ」になったという。

 また金教授は、終結語尾は百済語に由来すると推定する。現在の全羅道の方言「…ダンッケ」は、伝聞・推定を意味する日本語「…だっけ」に当たり、忠清道の方言「…ソラウ」は謙遜の日本語の終結語尾「…候(そうろう)」として残っているというわけだ。「…ヘッタンマシ」「…ムッセ」といった韓国語の語尾は、日本語の終結語尾「…ます」「…ませ」「…まし」「…もうす」などに変形した。金教授は「忠清道や全羅道では、“…マシ”“…ソラウ”などが今でも日常的に使われているのとは異なり、日本では過去に身分の高い貴族たちが使い、現在もなお格式ある言葉として残っている」と推定した。

◆謎の存在「継体天皇」は百済の王弟・昆支 

 日本の歴史書『日本書紀』『古事記』には、第26代「継体天皇」が第15代「応神天皇」の5代目に当たると記録されている。しかし、この二つの文献では、継体天皇の先祖については具体的に言及しておらず、ただ、天皇の娘を妃にしたとだけ書かれている。

 金教授は、『三国史記』に百済の第22代国王・文周王の王弟として登場する「昆支」が、継体天皇と同一人物ではないかと主張する。『日本書紀』に出てくる天皇の名前は、通常は万葉仮名を使って書かれており、継体天皇の名前は「男大迹(おおと)」だ。金教授は、「これは“大きな人”を意味する“大人(おおと)”で、昆支(コンジ)もまた“大きな人(クンチ)”を意味する。ここから、昆支と男大迹(継体天皇)は同一人物だと解釈した」と語り、さらに「日本で百済を“くだら”と読むのは、“大きな国(クンナラ)”という意味。倭(日本)は百済の分国だった」と主張した。

李桓洙(イ・ハンス)記者

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

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