ある詩人さんに「『ユクヘシレズ』の方が切実感があるが自分は『無限多角形の満月』の方が好き」という旨の事を言って頂いた。
この差は何に起因するのか暫く考えていたのだが確たる答えが出ない。
両者とも出版時に色々な雑誌などに書評が書かれていたのだが、そのどれも当たっているようで当たっていないような、当たっていないようで当たっているような、書いた当人すら(だからこそ、か?)解らないような感じでいる。
書いた時期的な問題というのは確かにでかい。
「無限多角形の満月」を書いたのは(出版したのは)、2005年5月。
「ユクヘシレズ」を書いたのは、2007年1月。
とのこと。
この二年の間隔というのは実は俺にとってかなりでかい思考の変容があった時期であるのだ。
私生活上のダイナミックな変化、ということが本当は一番でかいのだが、それはこの際置いておく。
至極プライベートな話になりすぎるからだ。
隠喩的にだが考えてみると、この間に、見た目には(「文体」と言ってしまうのは誤解が生じる)具体から抽象へと変わって行っているように思う。
しかし本人が実際に書いている時の思考法としては、逆に、抽象から具体へと変わって行っていると感じている。
いちいち本から引用をせずに書くので読んだことのない方にはとんでもなく不親切な話が続くがご容赦。
(今もう一度作品を(テクストを)見直す、という行為がとても「怖い」のだ)
この話はそもそも論としての「詩とは何か?」という議論を呼び起こしそうだが、それは避けたい。
この問題に関して様々な詩人や評論家が論じてきたが(俺もその中の一人)、その結果、「無益を越えて有害な議論である」との結論に至ったからだ。
現代に生きて活動している「詩人」たちが侃々諤々議論したし今もそれは断続的ならがも続いている。
形式論的問題から本質論的問題まで議論百出で、それはそれで面白かったのだが、結果、俺は先のように思った。
詩、というものを内部に取り込んでいる(と思っている)者も、外部から俯瞰して見つめている(と思っている)者も、結局、「詩とは何か?」という論点に関して内部的にならざるを得ず、外部と内部の境界性を見ることが出来る者は、逆説的かつアイロニカルだがポストモダニストだけという「惨憺たる」情況となってしまった。
この場合「ポストモダニスト」に対置されるのは「モダニスト」ではなく(況や「構造主義者」ではもっとない)、現象主義者と目される者の論だったように思われる(それがソシュールの言語学を根拠に持つ者を意味するならば事態は「最悪」になるし、「構造主義的に」マルクスを「解釈」したアルチュセール的な思考であってもやはり「最悪」になる)。
ポストモダニストと相対主義者はイコールではなく精々ニアリー・イコールでしかないが、それは幾何学的に言うと、ユークリッド幾何学と相対性理論ほどの「差」がある。
そしてそのような「差」(柄谷行人的に言えば「差異」)が何をもたらすかと言えば、「文学の自殺」そのものだと考える。
平行線の問題を例に出すまでもなく、このことは明らかだと思われる。
即ち、「詩と何を分かちたいのか」という議論当初の問題が、ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学の平行線の問題として、議論の中で、或いは議論が起るその理由からして、最終的には自己撞着を起こすという結果が明白であるにも拘わらず行われ続けているのである。
健全か不健全か(無害か有害か)の問題はこの際棚置きしたとしても、このような性質を持つ議論は、少なくとも無意味である。
この問題を考える際に俺の中で出てくるのはいつも決まって大杉栄である。
彼はアナキストであるとかアナルコ・サンディカリズムなどの文脈で語られてしまうのだが、それは決して中心核がないということを意味しない。
むしろ他の誰よりも強烈に中心核を持っていた人間である。
彼は評論を書く事と翻訳を主な仕事としていたが、「評論の評論」をしてみたり、「詩」を書いてみたり、「小説」を書いてみたり、あまり知られていないが色々な事をやっている。
特に「詩(社会か監獄か)」「小説(鎖工場)」に挑んでいることはもっと知られても良いと思う。
しかし、これらを「詩」「小説」と位置付けるのは我々の勝手な「構造主義的思考」の産物なのであって、彼自身はそんな構造などいっかな気にせず書き始め、書き切ったのだと思う。
そしてそれは評論を書く時も、自説を述べる時も、翻訳をする時も、同じであったと思われる。
日本の政治思想史が語られる上で、不当に軽視されているのが大杉栄だ。
殆ど無視されているに近い状態と言っても良いかもしれない。
このことが先の「詩とは何か?」などという「無意味な(そして場合によっては有害な)」議論を生んでしまうのだ。
大杉栄は政治思想史だけではなく、文学界に於いても・・・いや、むしろ文学界に於いてこそより読まれなくてはならないのだ。
その意味で、大杉栄は日本文壇の「躓きの石」であるのだ。
従って、俺は人に「詩とは何か?」と問われたら「大杉栄を読んだらいいよ」と答えることにしている。
そしてそこから真に意味ある議論が生まれてくれれば幸いだと思っている。
毎度!寺院'Sの中井です。
0時に寝たら2時に目が覚めてしまったわたくし。
最近こんなんばっかり。
で、何もすることがないから適当に更新。
本当は何もすることがないなんて事はないのだが。
やらなあかん事は山積みなのだが。
なんせ飯が喰えんのだもの、やれんよ。
とにかく俺がやる活動といえばマニーになってペイされるような状況にはあらぬ事ばかり。
現代詩しかり、憲法学しかり、バンドしかり。
ギリギリ喰っていける程度のマニーがあればそれで充分なのだが、今現時点でその状況ではない。
災いであるよなぁ。
どんだけ詩を書いても、どんだけ憲法の講義をしても、どんだけ原稿を書いても、どんだけバンドで歌っても、チットも好転しない我が暮らしぢっと手を見る。
嗚呼、生命線が消えそうやんか。
感情性がボロボロやんか。
だから俺、イオン・サプライ。
決定論か非決定論か、という議論はひとまず置いておくとして、俺は自ら選んでこれらの活動をしている。
なのでマニーにならない事など端っから承知なんだよ。
なのでぼやくのはやめよう。
ぼやくとしてもちんみりぼやこう。
NO MORE HEROES。
それにしても俺の精神の脆さが悔やまれる。
脆いというか、何かもう情けないというかダサイというか臭いというか。
それでもアスファルト路面に踞りながらイキテイルのです。
深夜の雨に打たれてる頭とLIFE。
ハハ、実に洒落ているね。
軽い感じの、こうライトな、ね、感覚を、こう、何というか、それを俺が持っていたら、あれだ、また何か違ったのかもしれない。
何か非常に重いんだよ、最近のわたくし。
自分の(意味のない!)言葉にすら殺られてしまってハチミツ舐めてるやんか!
しかも勝手に!
実に自己中心的だね。
実に独裁的だね。
ファッショ。
ファッショなんだよお前は。
あなたのモニターに、何て映ってます?
そんなわたくし、本日は少しだけなのだがお出かけの予定。
眼鏡屋さんやけどね。
昨日も行ったんやけどね。
嗚呼、肉眼で直接ものが見たいよ。
これを読んでプラトンのイデア論を思い出した人は確実に精神を病んでいます。
わたくしと同類です。
共に精神病院に通おうじゃないか。
何の未練もなく捨てて行けよ。
前の話になるが、うちのポストにビラが入っていた。
内容は「深夜に大音量で音楽を流すのはやめて下さい」とのこと。
俺、深夜に大音量でギターを弾きながら大音声で歌いながら曲を作ってるんですね。
なもんで、そのことだと思うのだが、それを止められてしまったら俺は曲が作れない。
暫くは自粛している日々だったのだが、もう気になんかしてやるもんか。
俺は大音量でギターを弾き、大音声で歌いながら曲を作る。
現代のパンクシーン、いやロックシーン、いや音楽シーンを少しでも良くするための崇高なる作業なのだ。
少々我慢して下さい近隣の方々。
大きな仕事なんですよ。
なので近隣の方、大きな心でわたくしの創作活動を見守っていて下さい。
ギターの音は、ちょっと落とすけどね。
そんなこんなで今日も一日が始まる訳だが。
未来に向かって一直線に伸びる道的なイメージがとても怖いよ。
関西詩人協会から連絡があり、HPに「無限多角形の満月」と「ユクヘシレズ」の作品をアップしてもいいかとのことでした。
もちろんオッケー!
HPの方は「関西~」と検索すれば出てくるので、宜しければご一読を。
最近は憲法の仕事が多いのでじっくりと詩作できる時間がなかなかないのが難なのですが、時間を見つけてしっかりと作品を作り続けて行きますので、どうぞ宜しくです。
そして生活費を削って本を買って下さい。
どちらも必携、ということで。
某新聞で特集されたりなんかもしたのだが、本を出すとそれなりにリアクションがある、というのは感謝の心。
これからも素敵な本を出して行きますので、それなりのリアクション(笑)宜しくです、メディアの皆さん。
それにしても体調が全然優れない。
治ってきたかと思えばぶり返し・・・の無限ループ。
これじゃあやれんよ、実際のところ。
祖母の施設にも行けないしで困ったもんだ。
仕事の能率もガッツリ落ちるしな。
皆様もご自愛のほどを。
そんな俺の家、久々にゴキブリくんが出現した。
災いな事に置いてあった俺のジャージの中に潜り込んで出てこない。
振っても振っても出てこない。
あまりに気持ち悪いのでそのままそっと持って外に出しました。
そして家人と相談し、捨てることにしました。
嗚呼、俺のジャージよ・・・。
アディダスのジャージよ・・・。
ゴキブリ、嫌われてるね。
俺の如く。
Just like me.
風に吹かれて。
本日は余り思考していないので、今のところ思考ネタはなし。
頭スッカラカンです。
そんなこんなでもう少ししたら外出。
雨、降りませんように、の、心。
ええ感じで早起きできたので勉強しまくろうと思っていた俺だが、ダイナミックに昼寝をしてしまったよ泣くよ。
読んでいる本があんまり難解(不親切)だったので退屈になってしまったのだ。
「俺の読解力の低さ+難解さ=睡眠」。
情けなし。
本日は憲法記念日だった訳だが、全く憲法に触れず終い。
憲法判例に関する資料が送られてきたのだが、ほんの一瞥するだけで閉じてしまった。
目下の関心事が憲法問題ではなくて哲学的な思想の問題であるからこんなはめになるのだ。
そんな事をしていても、いっかな飯の種にはならんのだから憲法に取り組めよという話だが、俺の脳は単純にできているので、それができない。
君は今から鳥になり人に追われて暮らすのさ。
眼鏡を掛けたまま寝たもんで、眼鏡のツルが曲がってしまった。
right now。
法学書とかで高いのになると、ブックカバーとは別に本の表紙にあぶらとり紙みたいのがついてることが多い。
あれ、格好いい。
好きだ。
「俺ぁ好きだな」(矢吹丈・玉姫公園を見て)。
Who are you?
I'm highway man
気付いた頃には終わってるのさ。
告白するが、俺は西田幾多郎を読んだことがないのだ。
これは決定的なことだが、読んだことがないということが決定的だと考えるその思考の方がよっぽど決定的なのだ。
何が決定的なのか。
曰く、ご飯が美味しく食べられない、ということ。
食生活、基本やからね。
そんなこんなで俺は西田幾多郎に限らず日本自体を知らない。
これこそ決定的だ。
飯が不味くなる。
飯喰うな。
日本の文学も哲学も思想も、俺はなにも知らない。
下手したら憲法すらも知らない(理解していない、とかではなく、純粋に「知らない」)かもしれない。
外国かぶれというわけではないのだが、読むものといえば決まって外国人が書いた本だ。
日本を見つめることがあったとしても、それは外国人の~それも特定人の~目を通じた日本でしかない。
だから俺は居心地が悪いのかもしれない。
常に。
日本の十八世紀の哲学的状況が知りたいよ。
切実に。
サボるな-!!!
大杉栄の研究をしようと思い続けて早幾年。
しかしその間、世間で特別なる動きはなかった。
若い学者が一冊研究書を出したぐらいだ。
もっとも大杉は研究の対象になるような「チンケ」な男ではない。
体系的に纏められてしまうような「ちっぽけ」な男ではない。
ブルース・リーのようだが、考えるんじゃなくて感じるのだ。
それが「杉よ!目の男よ!」なのだ。
「春三月縊り残され花と舞う」
この極めて切実な、しかし大胆なほどのチープさが実に素晴しいじゃないか。
感覚の問題です。
忌野さんのように、現ちゃんのように、いつかは誰もが死ぬのです。
決定論か非決定論かなどといった議論の彼岸に嫌でも辿り着けてしまうのです。
それなのに、嗚呼、それなのに、何故に我々は語り得るだろうか。
歌い得るだろうか。
思考し得るだろうか。
ここで問題なのは「行動」がスッポリと抜け落ちていること。
目的的行為論を如何に突き詰めて行っても、我々は善悪の彼岸に達してしまうのだ達してしまわざるを得ないのだ。
何かが始まるとしたらまさにその地点からだ。
それまではせいぜい楽しもうぜ。
無理矢理顔に皺を拵えることなくな。
わたくしの生活。
もはや完全に破滅している。
破綻している。
それなのにわたくしときたら馬鹿なことを繰り返してぶるぶる震えている。
自分で自分を震わせている。
ギリギリの快楽と誘惑に乗ってみる俺が居る。
後先も何も考えずに卵の殻からからからから蘇る。
礼節は知っておいて損はないよ。
そんなことを思うんだ。
隣人の顔も名前も知らないくせに。
災いであるよなぁ。
グローリア・イン・エクセルシス・デオ。
本日はええ感じに早起きができたので、しっかりと勉強させて頂きますよ。
中井は無職業的職業を開店休業状態で細々と営んでいるのだが、この事態を何とかせなならん。
勉強をしたところでそれが直接的に麺麭という形で返還されてくるということもなく、もっともやってはならないと今のところ思っている自己満足的な奢侈的好事家的作業になっちゃったりしそうで困惑。
かと言って、生きる上で必要な知識や思考を得るために勉強するのも必要だがそれだけでは虚しい。
なので丁度いい着地点として、人に伝えるためにインプットする、というスタンスでやっているのだがこれが正解かどうかは定かではない。
話が変わるが忌野清志郎さん。
昨日の速報よりも本日のニューズや何かの報道でガンガン伝えられているのを見ると、ようやく(というのも変だが)実感が湧いてきた。
亡くなってしまったんだなぁ・・・。
その人が最も必要としてしまうことを奪い去る。
なんて残酷なんだ。
生きるということは残酷だ。
死んでしまうこと以上に残酷だ。
病気で死んでしまう運命にあると解っている人の感覚ってどんなものなのだろうか。
俺の母は癌で死んだのだが、彼女も近しい時に死んでしまう運命にあるということを理解していた。
どんな気持ちだったのだろうか。
気丈に振る舞っていたが、その仮面の下の素顔はどんなだったのだろうか。
何か得る時には何かを失うとはよく言われる言葉だが、俺は何を得たのだろうか。
何を得て何を失ったのだろうか。
無職業的職業を営んでいる俺は忌野さんや現ちゃんのように、何かをしっかりと残しているだろうか。
もし俺が死んだ時に、俺の作品を思い浮かべてくれるような状態にあるだろうか。
何かを作り出すことを無職業的に営んでいる俺は、彼らのように生きる痕跡をしっかり残せているだろうか。
もちろん、それを残すことが目的で作品を紡ぎ出している訳ではないが、そういう作品が生れればいいな、とは思っている。
少なくとも今は、ね。
結局寂しいだけなんですよ。
情けないだけなんですよ。
一歩踏み出す勇気はネットからは決して得られないよ。
そう思います。
少なくとも今は、ね。
何しろ俺は生きている。
忌野さんも現ちゃんもジョー・ストラマーも俺の母ももうこの世には居ない。
しかし俺は生きている。
それだけが真実。
だから俺は照れることなくテケテケ生きるのさ。
終わりの後に何がある?
忌野清志郎さんが亡くなったね。
俺は色々なところでこれについて書きまくっているので、もう書かないでおこうと思ったが、やはりでかいことであるので少々。
これも色々なところで既に書いたが、俺は忌野さんにもRCにも全く思い入れがない。
しかし今回の件には大きなショックを受けている。
人の死、ということに敏感になっている俺の特性もあり、かなりのショックになって迫ってきている。
癌での死、と言うと、3月に肺癌で亡くなった元レピッシュの上田現ちゃん(元ちとせの「ワダツミの木」の作詞作曲者と言った方が通りがいいのかもしれない。悔しいが)のことを思い出さずにはいられない。
レピッシュ復活ライブ(彼の最後のライブになってしまった)の楽屋でメンバー達に「可能性は低いだろうけど、必ず治すつもりでいるから」と言っていた現ちゃんの姿に俺は大泣きしてしまった。
現ちゃんの言葉を借りるなら「だけど蠢く人ごみの中で、恥ずかしいね、大の男が、泣いてしまいました」(爆裂レインコート)、という感じだ。
泣いたよ。
俺は泣いたんだよ。
俺も俺で歌をうたっているのだが、それを奪われたらどんな気持ちになるのだろうか。
最近体調を壊してバンドを小休止させているのだが、やはり歌っていてこそナンボや、という思いがある。
俺ですらそうなのだから、忌野のさんや現ちゃんに至ってはどんな思いで闘病していたのだろうか。
考えるだけで涙が出て仕方がない。
泣いているよ。
俺は泣いているよ。
現在俺は生きることに必死で心に余裕がない。
マニーもない。
なので何とか無職業的労働状態を脱しなければならんのだが、今は自分のやりたい事を思いっ切りやりたい時期であるのだ(だらだら~っとしてるけど)。
俺は何に於いても半可通なので、何を語ることもできないのだが、少しだけでも自信を持って語りうる自分自身を構築したい。
何かを得る時、何かを失う・・・とはよく言われる言葉だが、これは実に真実であり時として嘘だ。
曰く、ヒューモア。
情けなっし。
申し訳なっし。
死に向かって順調に歩みを進めている我ら。
その道中で出会った人達や出来事。
出会えなかった人達や出来事。
俺はそれら全てを鉤括弧から解き放したいんだよ。
自分自身の脳内作業として。
肉体作業として。
正直、今、プレッシャーに押し潰されております。
あるはずもないプレッシャーに。
架空のプレッシャーに。
空想のプレッシャーに。
馬鹿げているだろ。
でも夢の中でも俺はプレッシャーと闘っている。
起きた時には汗でぐっしょりだ。
精神が崩壊しきっている時もある。
情けなっし。
タフにならなければ。
ぶっ壊して、打ち立てて、またぶっ壊して、打ち立てて。
いつも瀬戸際。
崖っぷち。
ベリー・クール。
虚無的になるには早いんだよ。
遅すぎたんだよ。
タイミングはいつも俺が気を抜いている時を狙ってやって来る。
イカしてるな。
ベリー・クール。
フォーチュン・テラーのケツを蹴り上げて跡形もなく燃やしてしまえ。
燃えろ燃えろ燃えろ燃えろ。
そうやって時間はまた俺の手から零れ落ちて行く。
毎度です。寺院'Sやらなんやらかんやらの中井です。
性懲りもなくブログを作ってしまいました。
他にも色々やっているのだが、まあ気紛れ万歳、ということで。
書く内容によって言葉遣いから何からズンズン変わっていくかと思うのですが、全部わたくしですので宜しくです。
とりあえずまだルールが解っていないので適当極まりますがご容赦。