2009年05月

2009年05月09日

胃の調子がものっそい刺激的。

寺院'Sそしてベーツ憲法研究所代表の中井多賀宏です。

全く眠れなかったので、パソコンで仕事をしようと思ってつけてみたらビックリ!
ダイナミックに何も動かなくなっておりました!
せっせと入れた音楽もすべてオジャン!
なので、まずは音楽を入れる作業から復旧しております。
音楽をかけていないと仕事にならん訳です。

最近は憲法から少し離れて、色々な哲学や思想の勉強をしているのですが、これが思いっ切り憲法論に返ってくるんですね。
憲法や法学を専攻している人ではない研究者の憲法観ってのはかなり刺激的でした。
憲法や法学を専門にやってきている者としては「当たり前」「常識」「当然」という概念に縛られていたりするんですね。
それを疑って行く姿勢が大切なんだ、と言い続けてきたし、そういう姿勢で臨んできたつもりなのですが、いざ、例えば経済学者の憲法論を読んだりすると、感動的に鋭い視点なんかが提出されていて、「ああ、俺なんかほんまにまだまだやなぁ・・・」とつくづく思ったりしている日々です。

そして同時に、憲法は、そして法学一般は、法学者や法曹だけのものではない、という気持ちを新たにすることができました。
ほんまに憲法や法学ってのは全ての市民の日常事なんだ、という事を再確認できたのも収穫です。

まだ勉強の過程なのでハッキリ言えるまで思考が固まっていないのであれなのですが、ここ暫くの勉強で、中井の憲法観も相当変化して行っております。
憲法の理念と現実との乖離を埋めること(もちろん、憲法の理念に沿った公権力の運営)を思考してきたのですが、その辺も色々と考える事ありで、憲法というものが、民主主義というものが、国民主権というものが、「隠蔽」してきたものを掘り起こしていきたい、という感じで研究を続けております。

そして体調の方がまだ優れないので、なかなか活動的な事ができないでいるのが残念なのですが、早期復帰を目指して養生します。
青汁飲みます。
気合いです。

バンドの方も暫しストップになってしまい本当に申し訳ない!
新曲を書いて行こうと思っているのだが、ギターを握ると何故か懐メロ(それもレゲエばっかり)を弾いてしまってお話しにならない状態なので、この点も気合いを入れて行こうと思いますので、乞うご期待、ということで。

と言う感じの昨今。
皆様もご自愛のほどを。



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2009年05月05日

従容。

禁煙がきつくなってきました寺院'Sそしてベーツ憲法研究所代表の中井多賀宏です。
完全にネオシーダー及びニコレット中毒になっております。
チェーン・ガマーないしはチェーン・ガミストになっている状態。
一日に12個までしか噛んではならないとのことなのだが、本気で我慢できません。
そしてネオシーダーに至ってはもはや禁煙でも何でもないのではないかという話が・・・。
ここまでニコチンにやられていたとは。
情けないことであるよなぁ。

世間ではゴールデン・ウィークとのこと。
皆様も満喫されておられますでしょうか?
もう帰省ラッシュが云々、という話を聞きますが、高速での渋滞に難儀してはるんやろうなぁ・・・と他人事ながら心配を。

そんな中井は体調が余り芳しくないので何処に行くということもありませんでしたよ。
まあ出不精な中井なので、体調が万全でも自部屋に籠もって何やら訳の解らない事を考えて虚しくなっていることでしょう。
実際その通りです。

ところで、このページはベーツ憲法研究所のHPに接続するものなのですが、中井の履行遅滞のせいでなかなか時間が掛ってしまっております。
何とか早く完成させますので、どうぞ宜しくです。

そのように、ここは憲法研究所のサイトに繋がるという事を忘れてしまって、色々と好き勝手なことを中途半端に書いておりますがご容赦を。
こんな感じで進めていきますので。

「憲法ってなんだい?」の方はしっかりとした憲法話を書こうと意気込んでおりますので、期待してやって下さい。

ということで、訳の解らないブログは続く・・・。


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胡蝶の夢。

ニーチェは体系的な研究者ではなかったという事を言う者が居るが、それは正しい。
そしてそれは体系学者の巨人とも目されているマルクスにも当てはまる。
彼らの仕事に体系が読み取れるとすれば、それは「ニーチェ主義者」や「マルクス主義者」の「仕事」のためである。

自分に都合良く解釈をするためにはテクストを、そしてエクリチュールを都合良く取り出してつなぎ合わせるパッチワーク的作業が必要だ。

そしてその落とし子として「体系」が生まれて「しまう」のだ。
それを俺は信じない。
「テクストに誠実に取り組む」とはそういうことだろう。

弁証法的に物事を思考する、というスタイルは今では相当変容されてしまっているが、まだ本来的意義で有効であると思う。ただしジンテーゼがある一定の場所まで来たら殺される、という非成長的な事態が多々起りうることは別として、だ。

ある程度まで髭は伸びるが、一定程度伸びたらそれ以上伸びないのと同様に、現在における弁証法的思考者の思考はある一定程度まで来たら不思議なほどに止まってしまう。
これはなにもトロツキズムを賞揚している訳ではない。
至極簡単な話、根気がないのである。

これに関しては人のことを言う資格が全くない俺なのだが(俺もその中の一人)、これでは過度の感覚の高波に飲まれてしまい、テクストが白紙になってしまうという事態を生むことになるだろう。

そのような事態を回避するためには、そのテクストから「主題」(著者が最も主張したいテーマ。そしてそれを表象するキー・ワード)を抜き去り、一見すると些細な部分に光を当てる作業が必要になる。
実はそこにこそ「真実」があるような気がしてならないのだ。

「小さな甲虫」を「片手で潰した」ことを巡る一瞬観の思考をストーリー化した上田現の「ラブ・ソング」という歌詞がある。
主人公は「腹が立ったんじゃない。殺しちゃったんだぜ」と続ける。
そして「どうしようもない。恥ずかしいと思った」と自己分析する。
更にラストには「僕病気じゃない。みんな病気じゃない。みんな同じとこの健康体さ」と結ぶ。

たったこれだけの歌詞なのだが、何故タイトルが「ラブ・ソング」なのだろうかとの疑問が先ず浮かぶ。
そして小さな甲虫を片手で潰した「僕」は「みんな」と同じ「健康体」であると言う。
ここで最初のポイントは「片手で潰した」という点だ。
恐らく主人公は傍を這っていた小さな甲虫を「何気なく」潰したんだろう。
まるで石ころがあったから蹴ってみたというように。

しかし主人公はすぐに「殺しちゃったんだぜ」と告白する。
キリスト教の告白システムを無意識のうちに行っていると考えるのはまだ早計だ。
何故なら主人公は小さな甲虫を殺してしまった理由を「腹が立ったんじゃない」と逆の意味での理由付けをしているからだ。
この点、決して「腹が立ったら殺していい」などと主人公は思っていないことにも注意が必要だ。
しかし何故ここで「腹が立ったんじゃない」と内省するのだろうか。

そして最後には「僕病気じゃない」「みんな病気じゃない」と言う。
これはこの世に起る全ての事柄を一瞬にして肯定している最高の肯定形式だ。
逆に「病気である」ということを否定しているという訳でもない。
確かに「みんな同じとこの健康体さ」と言ってはいるものの、ここで言われる「健康体」という概念はほぼイコールで「病気」と連結してしまう。

ここで気を付けなければならないのは、主人公は決してポストモダン的発想を手段としてそのような内省をしているのではない、と言うことだ。
つまり「何でもあり」だとは思ってはいないし、逆説的に「みんな病気だ」などとは露とも思っていない、ということだ。

「小さな」「甲虫」「片手で」「潰した」「腹が立ったんじゃない」「恥ずかしいと思った」「病気(じゃない)」「健康体」・・・と言った必要最小限の言葉で語られるこの「ラブ・ソング」。
この構造はキルケゴールに通ずるとも考えられるが、やはりそうではないだろう。
何故ならこの主人公はこの歌詞が終わった次の瞬間には「日常」に戻っていることであろうから。
そう言えるのは、この曲のタイトルが「ラブ・ソング」と名付けられていることから想像できる。
誰に対しての、何に対しての「ラブ」ソングなのかという事も明らかにされてはいないが、彼の「胡蝶の夢」という作品を合わせ考えるなら、そのような結論に達することも可能だと思うのだ。

音楽の歌詞の分析と純粋なテクストの解釈はまた別の方法論が必要なのだが(文章と曲を両方書く人なら解るだろう)、彼の一連の作品には確実にそこらの哲学者を越えている。
メロディーという枠の中で書かれなければならない歌詞というものは不自由であるが、他方、不自由であるが故に、作者の「本音」が直裁的に現れ出でるものだ。
その点、上田現の作品は、メロディーの制約を受けていないように思える。
受けているとしても何らの問題もないようにも思える。
むしろメロディーのおかげで彼の歌詞は命を宿していると言える。

感覚と理論の両輪が不調和的調和の相を成している上田現という人間は巷間言われるように「鬼才」なのだろう。
そしてその意味で、彼は思考する人であり、行動する人であったのだと思う。
弁証法的思考に最も近く最も遠い人間であったということも、彼の天才のひとつであったと思われるのである。



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2009年05月04日

作品のユクヘ。

他のブログにも書きましたが、関西詩人協会から「無限多角形の満月」と「ユクヘシレズ」からの作品をHPにアップしてもいいか、との連絡を頂きました。
もちろん即オッケー!
HPは検索したらすぐ出てくるので、時間がある方は是非。
そして宜しければ購入の方も是非。
両作品とも必携で御座いますよ。

現在、中井は憲法の勉強よりも頭脳トレーニングの割合が増えております。
曰く、思想書の本ばかり読んでいる、ということ。
憲法の勉強不足を痛感しているので、一から憲法を学び治そうとしております。
その上で、思想書・哲学書は実に役に立ってくれる訳でありますよ。
感覚と理論・論理のバランスをしっかり取れるようになるためにも有益。

いわゆる古典ばっかり読んでいるのだが、今もしっかりと通用する理論ばかり。
俺の作品は何にしても「使い捨て」的であるのと真反対。
俺の場合、体系的かつ普遍的な作品を作りたい、という意識が殆ど無いんですよ。
現代詩でも楽曲でも使い捨てでええ、と思う方なんですね。
法学書はさすがにあれだが。

何とかかんとか言う前に、俺にはそんな体系的で普遍的な作品を作ることは無理だろうと思っているので、必然的にそんな感じになるってのも本当の話。
芸風の問題やね。
これが中井の芸風です。

しかし一貫して感じていることは、詩壇も法律界も音楽シーンも、俺から見れば完全に停滞しているということ。
俺が足を踏み入れている場所はどこもぬかるんでいるのですよ。
なので何とか打破したいと思って頑張っているつもりなのですが、いかんせん、俺、ダサイ。
なので結果、チンマリと膝を抱えて踞る日々なのです。

「僕は中途半端が好きだ」という論を書いた人は誰だったか忘れてしまったが、俺は中途半端を極めているからそれはそれで先端にいるのかもしれない。
因みに「僕は精神が好きだ」と書いたのは敬愛する大杉栄。
自由自在。


とか言うとりますけども、そろそろ外出の時間なのでアディオス。




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2009年05月03日

明日辺りから「主体」という概念について考えてみます。

寺院'Sそしてベーツ憲法研究所代表の中井多賀宏です。

本日は憲法記念日ということですが、憲法について思いを巡らせた方はそんなに多くはないだろう。
素敵な話。

かく言う中井も全く憲法に触れずに一日が過ぎてしまいましたですよ。
俺にとってはかなりの度合いでダメな話だ。
その代わり睡眠はダイナミックにとったよ。
眠ったのさ。
そう、俺は眠ったのさ。
夢の中でアリスと戯れていたのさ。
中井はフォイエルバッハと同じくふたり居るから気を付けろ!

講師をしている人間が公に告白するのもどうかと思うが、中井は憲法を知りません。
なのでまずは「私は憲法を知らないのです」と告白してから憲法の講義をするという実に誠実かつ戦慄の走る状況にならざるを得ないのです。

なのに、なのに、憲法記念日でもあるのに、なのに、なのに、俺は夢の中で高校生だったよ!
とっても破廉恥!
アリスが俺に優しく話し掛けてくれたよ!
とっても淫猥!

なんかもう、このブログが近い将来会社のHPに接続されるということを無視したような事ばかり書いているが気にしない。
俺は俺になるために転がり続けるぜ。
過去も現在も未来も、俺はプラナリアのように切れば切るほど増え続けてやるぜ。

僕、句読点が大好きです。

今までは深夜に仕事をしていたのだが、最近、深夜が異常に寂しくなってきてキュー。
深夜の方が思考が纏まっていたはずなのに(纏まっていてこれかよ、と、読者の方および受講生の方は言わない方向で懇願)、宵の口から既に寂しくなってくる。
かといって本日のように朝からしっかり起きると決まった時間に昼寝をしてしまい眼鏡の蔓を曲げてしまうという惨事が降りかかる。
年々歳々、俺の精神は弱くなる脆くなる頼りなくなる。

そんな俺、禁煙をしておりまして、確かに煙草は先月の6日辺りから吸っていないのだが、ネオシーダーとニコレットがやめられない。
こっちの方が問題があるような気がするが詳しい方報告求む。
俺はいつも何ちゃら中毒だ。
まあネオシーダー中毒なんて可愛い内はいいけれど。




・・・皆様、一体何処に居るの!?




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