阿佐田哲也(朝だ徹夜)。
「麻雀放浪記」で阿佐田哲也の出発点になった不忍池。一面に広がるハスのそばで、カメが日なたぼっこ=東京都台東区で |
徹夜麻雀は昔の話。今はゲームとしての「健康麻将(マージャン)」に主婦が集まる=東京都大田区で |
色川武大が通ったジャズ喫茶「ベイシー」=岩手県一関市で |
阿佐田哲也(色川武大)と孝子夫人 |
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ペンネームは、徹夜麻雀(マージャン)にちなんで付けられた。麻雀の世界では「雀聖」とあがめられた伝説の打ち手だった。
ピカレスクロマン(悪漢小説)の傑作「麻雀放浪記」は映画にもなったが、真田広之が初々しく演じた主人公「坊や哲」のモデルは、本人である。
小説の冒頭は、こんな調子だ。
「東京が見渡す限りの焼(やけ)野原と化したことがあった。上野の山に立って東を見ると、国際劇場がありありと見えたし、南を見れば都心のビル街の外殻が手にとるように望めた。つまり、その間にほとんど建物がなかったのだ」
敗戦から2カ月。東京・上野の不忍池(しのばずのいけ)の辺りでは「チンチロリン」の場が盛っていた。親がサイコロ三つをどんぶりに投げ入れ、目によって大勢の子方とやりとりをする単純な博打(ばくち)。坊や哲はそこで「ドサ健」と出会う。「ボス」か「おヒキ(手下)」か「敵」か、この三つしかないという博打打ちの世界。坊や哲は、最初こそドサ健からコーチを受けるが、やがて、麻雀で真っ向から勝負を挑んでいく。
坊や哲ならぬ阿佐田の原点は、その履歴で「空白」となっている戦後の5年余りにある。第三東京市立中学(現文京高校)に入学した年に開戦。1944(昭和19)年、級友と発行していたガリ版刷りのアングラ誌が勤労動員先で見つかり、無期停学処分をくらう。いっそ退学だったら別の学校へ移ることもできるのだが、無期停学というのは無期懲役みたいなもの――と悩んだ思春期である。
こうした状態で敗戦を迎え、阿佐田は「いっぺんに気が楽になった」と回想している。それからというもの、学生服姿で上野、浅草の焼け跡を徘徊(はいかい)する家出同然の生活が始まった。父の軍人恩給が途絶えて窮したこともあるが、かつぎ屋やヤミ屋を経るうちに、博打で食いしのぐことを覚えた。22歳で小出版社に拾われるまでの間、本人しか知らない、闇の時代なのである。
そんな阿佐田のもう一つの顔は、本名の色川武大(たけひろ)という純文学を志向する作家。78年には「離婚」で直木賞を受賞した。もっとも、より多く読まれ、印税の面で貢献してくれたのは、阿佐田の無冠のギャンブル小説の方だ。色川名で「名」を、阿佐田名で「実」をとった形だとも言えよう。
「離婚」は、「妾(めかけ)にして」と転がり込んできた女に男がひかれて結婚し、一度は離婚するのだが、お互いが気になって再び同居生活を始める――という奇妙な男女関係をユーモラスな筆致でつづった作品で、自身の夫婦生活がヒントになったとみられている。
ところが受賞が決まり、「おめでとうございます」という関係者からの電話に、妻の孝子さんが「私がいただいたわけではありませんので……」と応じたことが、出版界では語り草となってしまう。
君のことを最後に書こう
ナルコレプシー(発作性睡眠症)。阿佐田哲也と言えば、「居眠り病」とも呼ばれるこの病を想起する愛読者も多い。麻雀(マージャン)でツモ順が回ってくる度に他の3人が揺り起こしたり、友人の吉行淳之介が対談の最中に「いまちょっと眠りましたね」と指摘したり……。
東京・吉祥寺に妻の色川孝子さん(63)を訪ねた。ふたりのなれそめにもこの病が関係していた。
孝子さんがいとこと久しぶりに再会したのは24歳のときの68年、武大の弟の結婚式だった。「たっちゃん、近々遊びにおいでよ」と誘われ、東京・大久保の住居兼仕事場へ出向いた。そこでナルコレプシーによる幻覚の発作を目の当たりにした。武大が突然テーブルを倒すと「しょっちゅう、お化けみたいなものが出てきて苦しいんだ」。
「幻覚に苦しむ姿や寂しそうな表情に母性本能が呼び起こされたんでしょうね。この人は2、3年で死ぬに違いない。それまでの間だけでもそばにいてあげようと思ったんです」。孝子さんは毎日のように大久保へ通った。
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プロポーズは、武大が行きつけの新宿のバー「ボタンヌ」で。「おれは、40になるまで女と暮らそうと思ったことはないが、どうかね」
孝子さんは「自分としてはあくまでも『いとこのタケちゃん』だったので、戸惑いました」と振り返る。結局、70年には目白のマンションで一緒に暮らし始め、3年後に結婚する。
一緒になったのは阿佐田哲也として売れ出したころで、編集者がよく泊まり込んでいた。麻雀仲間も押しかける。クラブのホステスが出入りし、年頃の女性が住みついてしまったこともあった。誰からも愛され、「来るものは拒まず」で、優しすぎる武大には、断れなかったのである。
しかし孝子さんは、決して上品ではない「阿佐田」関係の交遊に好感を持てなかったようだ。
さらに武大には過食の症状があり、日に6食、しかも半端でない量を用意しなくてはならなかった。大好物の混ぜご飯は1度に4合。カレーも「ライスが余っているから、カレーを入れてくれ」「カレーが余っちゃったよ。ライスをもう少しくれ」の繰り返しで4皿くらいは平らげたそうだ。
「離婚」は、そんな生活に疲れた孝子さんが高輪に別居し、離婚届を出す出さないとなっていた時期に書かれた。小説では妻が赤坂に部屋を借りることになっている。現実がモデルであることは疑いない。ところが、小説で「フラッパーな魅力」と表現されている奔放な妻が実際の妻であるように読まれることは、孝子さんには耐えられなかったという。武大の死後、『宿六・色川武大』でもこう書いている。
「主人公のそばにいる女性のすみ子は私だと思われ、数年間は人間不信に陥り、本気で自殺までも考えたほどでした。誤解されては困るのです。『離婚』はあくまでも小説なのです」
こうした心境が、直木賞受賞時の電話の応対につながったというのだ。
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武大は「引っ越し魔」でもあった。目白→荻窪→広尾→練馬→四谷→成城学園と都内を渡り歩き、88年に単行本『狂人日記』を出した翌年、岩手県一関市に一軒家を借りて引っ越した。
この地へのとっかかりは、音響の良さで全国のファンに知られるジャズ喫茶「ベイシー」。ジャズ好きで膨大なレコードのコレクションもある武大はこの店を訪れたことがあり、店主の菅原正二さん(64)と知り合いだった。
孝子さんによると、一関へ赴くにあたっては「阿佐田哲也君をやれば、なんとか生活はしのげるが、これからは純文学一本に絞っていこうと思う。オレにはもう時間がないんだ」と意を決した様子だったという。交遊の誘惑から距離を置いて、色川文学の集大成を心に期していたようだ。
「麻雀放浪記」の生みの親で、連載した週刊大衆では当時デスクを務めた柳橋史(やなぎばし・ふひと)さん(73)には、「夏目漱石をやりたいんだ」と漏らしていた。そういえば、「黒い布」で中央公論新人賞を受けた32歳の色川武大は、「好きな作家は」と問われて「古いとわらわれますが、夏目漱石」と答えている。
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ところが引っ越して1カ月の89年4月3日、武大は心臓発作で入院。荷物整理のため本格的に居を移していなかった孝子さんが病院に駆けつけたが、それから1週間で亡くなった。
「タケちゃん流の人生から解放してくれてありがとう。あんな忙しい生活がずっと続いていたら、私の方が先だったわ」と孝子さんは語りかけた。
武大は一関に越す前、「君のことを最後に書かせてもらおうと思っている」と話したこともあった。机の上には原稿用紙が開かれたままだった。
文・小西淳一 写真・内藤久雄