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2008年12月12日 (金)

教皇様、09年世界平和の日メッセージを発表

毎年1月1日は神の母聖マリアの祝日であるとともに、世界平和の日とも定められています。教皇様は毎年この日にあたり、平和メッセージを発表されますが、09年1月1日の世界平和メッセージが、昨日公表となりました。教皇庁正義と平和評議会の議長であるマルティーノ枢機卿が、昨日バチカンで記者会見を行いました。今年のメッセージは、昨今の世界経済の混乱や、それによって直接にまた間接に被害を受けている人たち、特に貧困に苦しむ人たちや、権利が保障されていない人たちに手を差し伸べることを求めた、時宜に適った内容となっています。日本語訳は中央協議会から近日中に発表されるでしょうが、英語タイトルは「FIGHTING POVERTY TO BUILD PEACE」(つまり「平和構築のための貧困との闘い」とでも訳すでしょうか)になっています。

そもそも教皇様は昨年07年9月に、パウロ六世の回勅「ポプロールム・プログレッシオ(諸民族の進歩推進について)」発表の40周年を記念して、回勅を発表される準備を進めておられました。昨年9月30日のお告げの祈りで教皇様は次のように語りました。

「40年前に教皇パウロ六世が書いた回勅『ポプロールム・プログレッシオ――諸民族の進歩推進について――』は今も忘れることのできない価値をもっています。パウロ六世は飢餓に対する戦いについて次のように述べます。「すべての人が・・・・十分に人間らしい生活を送れるような世界、・・・・貧しいラザロも富める者とともに食卓につくことができる世界を建設することが、目標とされなければなりません」(同47)。回勅はいいます。多くの悲惨な状況の原因は「人間によって」また「十分に制御できない自然によって負わされている隷属状態」(同)です」

この時点で教皇様は次の回勅を社会教説にすることをすでに決めておられ、正義と平和評議会に草案準備を命じておられました。昨年12月のアド・リミナで私たちが正義と平和評議会を訪れたとき、マルティーノ枢機卿は、次の回勅の草案がすでに出来上がっていることに触れておられました。そして大方の予測では今年、つまり08年の9月30日に発表されるといわれていました。タイトルも決まっていました。「Caritas in Veritate」(つまり「真理における愛」とでも訳しましょうか)であると、5月28日頃にベルトーネ国務長官が語ったと伝え聞きます。ところが9月に入ったあたりから世界の経済状況は加速度的に悪化し、どうしてもそのことを強調した内容に書き換えなくてはならなくなったと伝え聞きます。回勅の発表が遅れていたのです。

昨日の記者会見でマルティーノ枢機卿は、今回の世界平和の日メッセージが、その新しい回勅の内容を踏まえていると言明しました。報道によれば(Zenit News)、待たれていたこの社会教説の回勅は、来年早々にも発表となる模様です。

世界平和の日のメッセージは、グローバリゼーションのもたらすさまざまな問題について考察を加えています。教皇様は、貧困と闘うためにはグローバリゼーションという複雑な実体を注意深く理解することが必要だが、同時に単に経済学や社会学の手法を用いるだけでは足りず、そこには霊的倫理的視点が不可欠だと強調されています。そして物質的な貧困のみならず、精神的貧困や権利の否定など、さまざまな形での人間の尊厳をおとしめるような事例が世界中で起きていると指摘しています。

その上で、倫理的な課題として5つの問題を取り上げます。第一に人口増加への対応に関して(それだけを貧困の原因とすることは正しくない)、第二にHIV/AIDSをはじめとする感染症への対応について、第三に子どもたちを襲う貧困について、第四に軍縮と発展の関係について(現在の世界の軍事費はあまりに大きすぎる。軍拡競争をやめて、それを開発発展に向けることこそが、真の平和をもたらす)、そして最後に食糧危機について(政治と経済のシステムが本当の人間の必要に応えていない)詳しく語ります。

最後に教皇様はこれらの指摘を踏まえて、世界的な連帯の必要性を呼びかけます。そして世界にとって今必要なのは、妥協の産物ではなくて、創造主である神に基づいた「倫理的行動基準」を生み出すことだ指摘しています。目先の利益に捕らわれ、自分の保身ばかりを考えた経済行動に走るのではなく、人類の将来を見据えた経済行動をとるようにと、呼びかけています。(メッセージ原文はバチカンのサイトに掲載されています)

今回のメッセージでもそうですが、貧困との闘いのメッセージには、しばしば「marginalized」という用語が状態を表して使われます。冒頭でも「権利が保証されていない」などと訳していますが、よく使われているのにコンテキストによって訳がしばしば変わる用語です。中心ではなく周辺に追いやられているという意味ですが、本人の意志ではなく状況や構造によって、本来あるべき場所からはるか辺境に追いやられた状況とでもいいましょうか。「小さくされた」とか「見捨てられた」とか、そういう意味合いで使われている言葉です。日本語にしにくくて、通訳を頼まれたときに困る単語の一つであります。

それから、今回のメッセージで、教皇様はヨハネパウロ二世の回勅「新しい課題(Centesimus Annus)を引用されています。とても大切な箇所だと感じましたので、ここに原文から引用しておきます。

「貧しい人々(個人としても、国民としても)を、他人が生産したものを消費しようとする迷惑な盗人のように、厄介者扱いする考え方を捨てることです。貧しい人々は物的材を享受する権利、自らの労働能力を活用する権利を求め、それによって、すべての人にとってより公正で豊かな世界をつくり出そうとしているのです。貧しい人々の進歩は、全人類の道徳的、文化的成長、さらには経済的成長を達成する大いなる機会なのです(28)」

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