中日スポーツ、東京中日スポーツのニュースサイトです。ナビゲーションリンクをとばして、ページの本文へ移動します。

トップ > 中日スポーツ > サッカー > 蹴球探訪 > 6月の記事一覧 > 記事

ここから本文

【蹴球探訪】

フィンケ監督が進める 浦和の改革

2009年6月26日

従来のスタイルから脱却を図る浦和フィンケ監督

写真

 昨季7位の不振から巻き返しを図るJ1浦和で、着々と“改革”が進んでいる。今季就任したフォルカー・フィンケ監督(61)はコンビネーションサッカーを掲げ、個人技頼みだった従来のスタイルからの脱却を図っている。ドイツ・フライブルクの監督を16年間も務め、当時のドイツでは斬新なショートパス主体のサッカーを提唱。教職出身という異色の経歴を持つ指揮官に、そのルーツと理念などを聞いた。 (聞き手・塚田陽一郎)

ドイツで教員14年

−監督の現役時代はどんな選手だったのか

 「1人の学生として、今でいうドイツ3部でプレーしていました。セミプロですが、大学生としてはありがたい収入も得ており、両親も私を金銭的にサポートする必要はありませんでした。プロ選手として仕事をするオファーも2、3回あったのですが、自分を分析して、たくさんお金を稼ぐほどの将来性を持っていないと考えました。私にとって、大学で勉強する方が大切だったのです。14年間先生をしましたが、この職業も大きな喜びを感じていました」

 −教職の傍ら、74年からアマチュアクラブで監督を務めたが、当時からコンビネーションサッカーを掲げていたのか。

 「その通りです。私は若いころからフランスやポルトガルのような地中海周辺の国々を訪れていましたが、彼らはドイツとは全く違うサッカーをしていました。その影響を受けたのです。クラブにはお金がありませんでしたが、若くて強い意志を持った選手を集め、この国のサッカーとは『違う新しいこと』を実践できたのです。例えばハヴェルセというクラブを2部に昇格させたとき、多くのドイツの専門家が選手に『君はピッチ上を走り回っていて、一体どのポジションなのか私には理解できない』と質問してきました。私にしてみれば、とてもいいシグナルでした。若くて無名な選手を集め、他クラブと違うサッカーをしていると証明されたからです。ボールを奪われたらチーム全体がスライドして奪い返す。一昔前によくあった90分間マンマークは望みませんでした」

 −91年にはフライブルクに就任したが、教師を辞め、プロ監督になる決心をした決め手は

プロへの決心

 「最初はプロのサッカー業界に入ろうという目標は持っていませんでした。私はギムナジウム(日本の中学・高校)でも、校長に次ぐ役職を得ていました。将来を保証されている仕事をけってまでプロ監督になるべきか、非常に悩みました。失うものが大きかったからです。フライブルクでの最初の6年間は特別休暇という形で学校を離れました。最終的には州政府から『戻る気がないなら辞めるように』とお願いが来ました。その頃には、1部リーグ3位という結果を残し、多くの監督オファーもきました。今後もプロの指導者としてやっていけるだろうと確信を得られたのです」

 −そして16年間も小規模なクラブで指揮を執り続けた

 「ドイツでは『お金がゴールを決める』とよく言われます。シーズン開幕前にクラブの年間予算が発表されますが、9割以上はシーズン後の順位とほぼ変わりません。いいチームは、必ずしも最も(年間予算が)高いチームであるとは限りません。しかし、優れた結果を残したチームは1、2年で年俸が高くなり、優秀な選手を手放すことになります。私は何度も無名な選手を集め、新しいチームをつくり上げました。これが、監督業で最も興味深いことです。もちろん、高い選手を買っても、必ずしもいいチームになるわけではありません。そのような経験をできたのが、21日の横浜M戦でした。代表選手が戻って紙の上では優れた選手が揃いましたが、それまでのナビスコ杯で実力的に劣ると思われた選手たちで作られたチームの方が、ずっと優れたプレーを見せていたからです」

日本人の長所

 −監督として影響を受けたチームやクラブは

 「誰かに師事したことはありません。私の練習方法は様々な研究を重ねた結果です。例えば、大学で勉強したスポーツ生理学的な要素を練習に取り入れました。サッカーの練習といっても、体を鍛えるわけですからスポーツ生理学的な背景を無視することはできません。守備は、アリゴ・サッキ監督のACミラン(イタリア)に影響を受けました。コンセプトを持って、4バックがシステマチックに動く。当時の欧州全体を見渡しても、サッキのACミランが最もすばらしかった。サッキも元々はプロサッカー選手ではなかったが、大きな改革をもたらした監督でした」

 −攻撃では

 「北アフリカで見たモロッコ、チュニジア、ポルトガルのような魅力的なサッカーを実践したかった。北アフリカは、現在もフランスサッカーの土台になっています。マルセイユも私の印象では、最北にある北アフリカの町と言えるでしょう。北アフリカでは現在もストリートサッカーが残り、技術の優れた選手がたくさん生まれるのです。攻撃にさまざまな新しいアイディアを持ち、流動的にポジションを変えます。ジダンが最もいい例ではないでしょうか。彼はこの20年間で最も優れた選手だと思います」

 −日本にジダンのような選手が生まれるためには何が必要か

 「あまり大きく語りたくないですが、ひとつ言えるのは、無名な選手でもしっかりした技術を持っていれば、いいチームを作り上げることは可能です。短いパスをつないで、相手が寄ってきたら空いたスペースにロングパスをける。これができればいいと思います。日本の選手はオーストラリアを目標にする必要はありません。背が高い選手をかき集めるのではなく、日本選手が持っている長所トを生かすべきです。日本人選手は少し背が低く、体の重心が外国人選手より低いから、ボールをさらによくコントロールできる。いい例がスペイン代表ではないでしょうか。MFの平均身長は171センチ前後でした。比較的背が低い選手が集まっても、高いレベルのサッカーができると証明しています」

ミスから学べ

 −教師経験が指導に役立っている部分は

 「12〜18歳の若者と毎日接して、彼らに新しいことを学ぶ意欲を持たせるようにする経験は大切だと思います。例えば、悪い成績が出た後にどういう反応を示し、どのような形でサポートを望むか。一人のサッカー選手を育てる上で、人間教育はとても大切です。教育的な経験を持っている方が役に立つと思います」

 −浦和には若く有望な選手が揃っているが、教育に携わってきた人間として彼らの成長に必要なことは

 「公式戦で多くの観客が見守る中、選手はたくさんのミスを犯して初めて成長します。これは誰もが通らなければいけない道です。ミスからさまざまなことを学んでコンスタントに高いレベルでプレーできる選手が、本当のいい選手です。プロのサッカー業界では、若い選手になかなか時間を与えることがありません。場合によっては短期的な勝利を収めなければいけない重圧が強くなりすぎ、長期的に若い選手をのばす余裕と時間がなくなります。だから、正しいバランスを見つけなければいけないのです」

 ▽フォルカー・フィンケ 1948年3月24日、ドイツ・ニーダーザクセン州出身。現役時代はセミプロ選手としてドイツ下部リーグでプレー。その後、教職に携わる一方でアマチュアクラブの監督を務め、91年にドイツ2部のフライブルク監督に就任。就任2年で1部昇格を果たし、95年にはクラブ史上最高の3位。07年まで16年間にわたる長期政権はドイツ・プロリーグでの最長記録。今季から浦和監督。

 

この記事を印刷する

中日スポーツ 東京中日スポーツ 中日新聞フォトサービス 東京中日スポーツ