2009-06-13
モジモジさんのその4について
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20090613/p1
ネット上の論争は好きではありませんし、この話はもう書くまいと思っていましたが、前エントリーの行きがかりを感じているし、ブコメではどうかと思ったので(ただし、これで最後です。)。
第一に。たとえば、個人情報に関する「表現の自由」「言論の自由」は制約を受けます。その意味で、これらの自由は、絶対的な無制限を事前に約したものではなく、個々の表現物、個々の言論について、また、その特徴によって、制約を受けるか受けないかを決めることが可能なものです。
これはいいです。
(1)現状の制限、(2)現状の制限+陵辱表現に対する制限とするとき、(1)のままでいくか(2)にするかどうかは、とりあえずはオープンな問いのはずです。
これは微妙です。現実の規制を語るときに、完全にオープンな問いはあり得ない。現状の制限がどのように機能していて、そこからどんな利益や不都合が生じているのか、(頭の中ではなくて)実証的に研究しないと、現実の規制をどう変えるか(変えないか)の話はできないからです。
第二に。規制が規制であることは自明です。では、「表現の自由」「言論の自由」とはなにか。それは表現や言論への規制に対する「規制」です。規制の主張が「規制をちらつかせている」なら(いる)、「表現の自由」「言論の自由」の原則を連呼するのみの規制反対も「規制をちらつかせている」のです。よろしいでしょうか。規制派が(今はない)「規制をちらつかせている」のだとすれば、原則論的規制反対派は(現にある)「規制をちらつかせている」のです。そして、どうも後者には、その自覚はない。
これは意味がわからない。少なくとも「表現の自由」の通常の理解とは著しく異なります。「表現の自由」は国家(場合によっては社会的)権力による表現行為の規制に対する対抗原理です。ここで「規制をちらつかせている」ということの意味がわかりません。たとえば、現在野放しになっているヘイト表現を例にとると、ヘイトは「規制(あるいは規制のなさ)をちらつかせている」のではありません。彼らが批判されるべきは、ある集団に属する個人の尊厳を脅かしているからであって「表現の自由を連呼しているから」ではありません。どうもこのあたりから、伝統的な議論からは理解しがたい展開になっている気がします。
第三に。ゾーニングやレーティングなどの規制があるとはいえ、表現は現に可能な状況にあります。自主規制がなされたということは、規制がないことの裏返しです。世論の風向き次第で、元とまったく同じ表現を再度流通させることだって可能なものです。少なくとも今のところは。現状における優先権は、それがどれだけ非難にさらされているとしても、表現する側にこそあります。その意味で、強者です。このことは、陵辱表現が社会的に白眼視され、それによって孤立感を深めているという意味では弱者である、ということと両立します。表現者や愛好家たちがどれほど驚異を感じていようとも、今現在の優先権は表現を可とする側にあります。
これも違うと思います。陵辱表現を「表現の自由」の範疇でとらえた場合は*1、現状の規制はかなり厳しいものにあたります。これがいかに厳しい制限かは(さらに「ヘイト」と同視できないかは)、たとえば「外人は出ていけ」みたいな言論を18禁にするかとか、公然と表現した場合懲役刑を含む刑罰を科すか、という議論をするとなった場合に巻き起こるであろう、困難な問題を想像すれば、容易に理解できるでしょう。
「現状における優先権」以下は、いわんとされていることがわかりません。
規制に反対する多様な声の中にはは、原則的規制反対論に対して懸念を示したものもありました。しかし、当の原則論者自身がそれを受け止めた形跡はほとんどありませんでした。もちろん、ないことはないのでしょうが、大多数は聞き流しているようです。結局のところ、その懸念は原則的規制反対論者に届かない。なぜか。それは、その種の批判がなされないから、ではありません。原則的規制反対論者は、まさに「戦略的に」ふるまっているので、同じ規制反対論者からの懸念表明に対して、まじめに取り合っていないのです。彼らにとっては、規制阻止という結果のみが目標であり、そこに至る理由はどうでもよいものだからでしょう。
これ以下の趣旨は理解できます。ただ、「原則のみに依拠した規制反対論はクソ野郎だ」でいいじゃないですか*2。陵辱表現が、いかに女性の尊厳を傷つけきた歴史に根ざしたものであるか、またその再生産の産物であるかを、きちんと調査して、論証して、その結果を個人の尊厳にもとづく制度してインテグレイトする(私は、もっと日本では人権教育が行われてほしいと願っています。)のが、なすべき仕事ではないでしょうか。自宅で密かに楽しむ人の性的嗜好*3に対してまで国家権力の力を借りて「規制」を及ぼすのは*4、最後の最後の最後の最後です。
なお、私は陵辱表現をヘイト表現と同一視はできないと思いますが(その理由は前のエントリーに書きました。)、最後に長めのひとこと。
ご存じの方も多いと思いますが、わたしは常にヘイトにさらされている人びとをクライアントとして、延々と商売をしてきた者です*5。最近では少なくなりましたが、性的暴力の被害者の最たるものである人身売買の事件も、真剣に扱ってきましたし、もっとも長くつきあっているクライアントの一人は性的暴力の犠牲者です(しかも少なくとも親の世代からの。)。未だに彼女のかかえる法律上の問題は解決していませんが、それ以上に、性的暴力が彼女の心に残した傷は、彼女と彼女の幼い子どもたちに深刻な影響を与えています(先週も、福祉事務所の人と話したのですが、正直、頭が痛いです。)。
だから、心情的にはid:mojimojiさんに共感する部分はあります。エントリーで「願わくば、こうした共感が、障がい者、被差別部落出身者、女性、性的少数者、外国人、民族的少数者ら、他の同じく人権を侵害されている人に対してもむけられんことを。」と書き、コメントでも「陵辱表現の自由を主張される方が、自己の陵辱表現を楽しむ自由さえ確保できれば、差別や脅威にさらされている他の人の人権が侵害されようが興味がない、と表明されるのであれば、個人的には軽蔑すると思います」と書いたのはそのあらわれです。
ただし、id:BUNTENさんがコメントされているとおり、この願いはかなわないだろうと思います。陵辱表現の自由を主張する立場から、私のエントリーを好意的に受け止めてくれた人の中で、私の普段の仕事に共感を持つようになる人は多くはないでしょう*6。こうした表現を愛好する人の中に(もちろん、規制を主張する人の中にも)、私の大事に思っている人たちに対して、叩き出せとか、犯罪者とか、学校に入れるなとか、罵倒のコトバを投げつける人がいることも知っています。
でも、それがなんだというのですか。私はそんなことは気にしませんし、彼らの口をふさげとも思いません*7。それは、私が求めるものは、個人の尊厳であって、彼らの口をふさぐことによって得られたり、「世論の風向き次第で」消えてしまうようなものであってはならないからです*8。
Elder Dayan Díaz y Rodolfo De La Valle “Ya Llegó”
Hay ya llegó la niña linda la que le voy a entregar el corazón
esa que al verla me dejo loquito y lleno de emoción,
la que me bajo los humos, esa que me tiene loco, es muy bonita la muchachita
la que cuando va pasando todos, la quedan mirando.
en realidad ella es muy linda.
es que ella es linda es bella es bella,
es que me encanta es tan tierna mi reina
オレの彼女はちょーかわいいんだぜ!!!!!!って歌っているだけなので訳は省略。
“la tiene confundida pues sus amigas le dicen que si yo no soy un, Peter si yo no soy Silvestre, ni mucho menos Luifer, porque me quiere tanto, que fue lo que te hice, preguntan impasientes porque no imaginaron que tu te enamoraras de alguien que cantara vallenatooooo...” (彼女の友だちが、オレのことをいってるんだ、「あんたの彼氏、ピーテル(マンハレス)でもシルベストレ(ダンゴン)でもルイフェル(クエージョ)でもないんでしょ、いったいどうしちゃったの、なんでバジェナート、ト、ト、ト、ト、ト、ト、ト、歌ってる男なんて好きになったの? しんじらんな〜い」だってさ〜!!!!)だって。
マグダレナ県フンダシオン市の市庁前広場にて。もりあがっていてうらやましい。ふと思ったけど、こんなかんじの人の群れのなかに日本人がいるってかなりヘンな感じだったろうな。あ〜、バジェナートききてえ。
Diomedes Diaz & Nicolas“Colacho”Mendoza “Zunilda” 1990(たぶん)
Yo no tengo vida tranquila オレには心安らかな人生なんてない
yo solito sufro mis penas オレはひとりで自分の犯した罪に苦しんでいる
Tengo que volver a la sierra ラ・シエラに帰らなきゃ
solamente a ver a Zunilda スニルダに会うために
Solo para ver a Zunilda スニルダに会うために
tengo que volver a la sierra ラ・シエラに帰らなきゃ
tengo que volver a la sierra ラ・シエラに帰らなきゃ
sólo, para ver a Zunilda, スニルダに会うために
Solamente a ver a Zunilda スニルダに会うために
a la que le tengo cariño オレの好いた女に会うために
Ella dice que yo no la estimo 彼女はオレが彼女を忘れしまったという
por que dice que yo la olvido オレが彼女ををだいじにしていないという
Dice que yo no la estimo アイツはオレがアイツををだいじにしなかったという
dice que yo la olvido オレがアイツを忘れてしまったという
Yo la quiero porque la quiero ああ、アイツがほしい、アイツを愛している
y por ella sufro en la vida 狂おしいほどにあいつが恋しい
y si ella no olvida a su negro もしもアイツがネグロのことを忘れていないなら
yo tampoco olvido a Zunilda オレもアイツのことは忘れない
si ella no olvida a su negro もしもスニルダがこのネグロのことを覚えていてくれなら
yo tampoco olvido オレもアイツのことを忘れないよ
“ラ・シエラ”とはマグダレナ県・セサル県・グアヒーラ県にまたがる標高5,700メートルのシエラ・ネバダ・デ・サンタマルタ山(http://en.wikipedia.org/wiki/Sierra_Nevada_de_Santa_Marta)のこと。サンタマルタにはさして近くない。ちなみにサンタマルタではコーヒーは栽培していないので、日本でコーヒーに“サンタマルタ”とつけるのは、たぶんこっちが由来。
バジェドゥパル市からの山のながめ。
Diomedes Diaz “Sin medir distancias” 2007
La herida que siempre llevo en el alma no cicatriza, オレがいつもいだく心の傷 いやされることのないその傷は
inevitable me marca la pena que es infinita, 容赦なくオレに無限の罪をきざむ
quisiera volar muy lejos muy lejos sin rumbo fijo, とおくに飛んでいきたい うんととおくに 方角もきめずに
buscar un lugar del mundo sin odio vivir tranquilo, 憎しみもなく 心やすらかに生きる場所を この世界にみつけるために
Eliminar las tristezas, las mentiras y las traiciones 悲しみも偽りも裏切りもとりのぞけば
no importa que nunca encuentre el corazón 探しもとめた魂がみつからなくても
lo que ha buscado de verdad 今のオレにはさして大事なことではない
no importa el tiempo que ya es muy corto すでに残された時間がわずかになっているのに
en las ansias largas de vivir 生き続けていたい、という思いが大きいままであることさえも 今のオレにはちっぽけなことだ
cualquier minuto de placer もしもオレが魂に
será sentido en realidad 永遠の魂にみたされていれば
si lleno el alma de eternidad いかなるよろこびの瞬間も
Si lleno el alma, si lleno el alma de eternidad 現実のものとして感じることができるのだから
Es muy triste recordar momentos felices 幸せに満ちた日々を思いおこすことは
de un cariño que sangró mi corazón なんて悲しいことなんだろう
llego la hora de partir sin medir distancias 別れのときがきた 距離をはかることもできないほど遠くへと旅立つときが
Y ni sombras quedarán de aquel amor そしてここにはあの愛の影すらも残らないのだろう
1986年発表のカシーケの代表曲の再録。アコーディオン抜きの企画もの“Bendito Vallenato”より。
グスタボ・グティエレス作のコロンビアを代表する別れの歌だが、個人的な思い出とも分かちがたく結びついている。それ以来、“すでに残された時間がわずかになっているのに 生き続けていたい、という思いが大きいままであることさえも・・・”のあたりで声がつまって、最後まで歌えない。
(参考)“Sin medir distancias”「距離がはかれないほど遠くへ」 http://d.hatena.ne.jp/isikeriasobi/20090314/1237029753
*1:これにはかなり難しい議論がありえます。http://h.hatena.ne.jp/isikeriasobi/9234069568555944127 http://h.hatena.ne.jp/isikeriasobi/9234069593623357771
*2:ただし、私はこうした人全員を「クソ野郎」とは思っていません。事が個人の性的嗜好というプライバシーに関するものであるうえ、陵辱表現の愛好者は、社会から白眼視されているので、そうした論法にすがるしかないという事情もあるでしょう。そして、それが「表現の自由」〜後ろめたかったりする表現や、口べたゆえにうまく説明できない表現も保護する〜のひとつの意義です。
*3:こうした人の中には、自己の嗜好が性差別に根ざしていることを自覚し、後ろめたさを感じながら〜別にオナニーしている最中に感じなくてもいいですが〜たしなんでいる人もいるでしょう。性の問題は複雑なのですから。このような人たちに、社会に向けて自己の嗜好の有用性を説明せよ、というのは、私生活に対する不当な干渉にあたるのではないでしょうか。
*4:「性暴力ゲーム/自主規制では不十分だ」http://www.worldtimes.co.jp/syasetu/sh090613.htm
*5:http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4947719052/ref=ase_japanassociat-22/250-6056944-7893057
*6:少しはいそうな気もしますが。
*7:これは「原則」です。例外的に「ふさいでもいいのではないか」と思う口もあります。たとえば「○○人は強姦遺伝子」とか書くアホなマンガとか。
2009-06-12
自分は陵辱表現のこれ以上の規制には反対だが、モジモジさんはヒドイとは思わない。
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/
規制といっても、事前規制、事後規制、刑罰を伴うもの、伴わないもの、表現そのものを規制するもの、時、場所、方法、相手方など特定の態様の流通を規制するもので、表現行為に対する抑制効果はまるで違う。
性表現は、暴力を伴わないものをふくめ、すでに性器そのもの(に限らないが)を表現した場合の刑法175条、それに至らない場合であっても公然と表現した場合の刑法174条に基づく刑罰、18歳未満に対する流通の禁止、児童ポルノに対する制限等々、すでに他の表現行為とはあきらかに異なる広汎かつ強力な制限が及ぼされている(その多くは、他の表現行為の場合には致命的ともいえるもので、私はそのうちのいくつかについては支持をするが、ある部分については違憲ではないかと思う。)。
id:mojimojiさんの議論は、「どう規制されるべきか」、つまり規制の具体的な内容についてその考えをあきらかにするものではなく、規制されるべき理由として彼が考えるところの利益について見解を述べるものである。その趣旨は「陵辱ゲームの愛好家・擁護者は、『表現の自由』を正しく行使せよ。」という、いささか挑発的かつ不用意な表現からみてもあきらかである*1。その内容にはなるほどと思う部分、しばらく考えてみなければならないと思う部分もあり、少なくとも、ここまで叩かれるほどヒドイ内容ではない。ブコメで、表現の自由がわかっていないと彼を罵倒するのであれば、きちんとしたエントリーをたてて、みずからの見解をあきらかにすべきだ(でないと批判する者が何がわかっていて、何をわかっていないのかも、わからない。なお、私はid:mojimojiさんには、この問題を「表現の自由」だけではなく、「私生活について不当な干渉を受けない権利」の観点からも検討してほしいと思う。)。
さて、私は、陵辱表現について、これ以上の規制には、原則として反対する。それは、いっさいの規制に反対するからではなく、陵辱ゲームについては、未成年者への販売の禁止等、既にさまざまな流通規制が、かなり強力なものまで含めてなされており*2、これ以上の、特に表現そのものに踏み込む規制は、特定の少数者にとっては人格の否定そのものにつながりかねないからだ(id:NaokiTakahashiさんの一連のエントリーやコメントはたいへん勉強になった。*3)。表現行為を「性暴力そのもの」とするid:mojimojiさんのような考え方は、ひとつの切り取り方としてはじゅうぶんわかるが、具体的な規制の文脈で考えた場合、女性一般が知覚しうるに過ぎない*4表現行為を「暴力」の概念に含むことは、現実の性暴力被害者の被る損害の深刻さを稀釈する危険がないだろうか。性暴力の意義を、社会的コンテクストの中でひろくとらえるとしても、特定の人に向けられた暴力を超える部分に対して、表現行為をこれ以上規制することで対処するのは、効果にも疑問がある*5。人権教育とモア・スピーチで対抗するべき問題であると思う。
何はともあれ、表現の自由というもっとも重要な人権のひとつの規制について、ここまで敏感にその危険に反応して反対する人がおおぜいいるのは心強い限りだ。願わくば、こうした共感が、障がい者、被差別部落出身者、女性、性的少数者、外国人、民族的少数者ら、他の同じく人権を侵害されている人に対してもむけられんことを。
(参考)
http://h.hatena.ne.jp/isikeriasobi/9236550009687776802
http://h.hatena.ne.jp/isikeriasobi/9234280627615912948
http://h.hatena.ne.jp/isikeriasobi/9234280647634392567
*1:なお、私は一般人の書く文書について、「まとめ」のようなものは別にして、揚げ足取りのようなマネはしない。だが、彼が「思想の自由市場」を、そこで合理的な理論を展開できない者や醜態をさらした者は規制されるべき、と考えているのであれば、そこには強く反対する。
*2:「原則として」としてと書いたのは、私は規制の細部について詳しくなく、なお具体的な問題があり得るから。ただし、現行の規制はすでに相当強力なものである。少なくとも、その内容をいっさい知らずに生活を送ることはじゅうぶん可能で、現に43歳の中年男性で性的少数者でない私はその詳細を知らない(というかこの騒ぎになるまで陵辱ゲーム自体を具体的に認識していなかった。)。
*3:さらに彼の文章を読んで、「陵辱」とひとくくりにされるジャンルをすべて「無価値」「差別的」と切り捨ててよいかも疑問をもった。この点でmojimojiさんの言い方は、挑発がすぎる。
*4:この点で、特定の思想について一般の支持を求め、さらに対象とする相手方に対して届くことを意図して行われるヘイト表現とも同視できない。
*5:さらに恣意的な規制の運用なども怖い。
2009-06-07
イゲロンの木の下で
El día en que lo iban a matar, Santiago Nasar se levantó a las 5.30 de la mañana para esperar el buque en que llegaba el obispo. Había soñado que atravesaba un bosque de higuerones donde caía una llovizna tierna, y por un instante fue feliz en el sueño, pero al despertar se sintió por completo salpicado de cagada de pájaros.“Siempre soñaba con árboles”, me dijo Plácida Linero, su madre, evocando 27 años después los pormenores de aquel lunes ingrato.
「自分が殺される日、サンティアゴ・ナサールは、司教が船で着くのを待つために、朝、5時半に起きた。彼は、やわらかな雨が降るイゲロン樹の森を通り抜ける夢を見た。夢の中では束の間幸せを味わったものの、目が覚めたときは、身体中に鳥の糞を浴びた気がした。『あの子は、樹の夢ばかり見てましたよ』と、彼の母親、プラシダ・リネロは、27年後、あの忌わしい月曜日のことをあれこれ想い出しながら、わたしに言った。」
1990年当時、カリブ最強バンドはまちがいなくビノミオ・デ・オロだった。
Binomio de Oro canta Rafael Orozco “Relicarios de Besos”
アコーディオンと歌手を切りはなし、アコーディオンの左手をベースに移して、四つのバジェナートの伝統的なリズムをトロピカル音楽の手法で再解釈する、というのはバジェナート第3世代*1に共通の特徴だが、それをもっとも意識的に、かつ歌手の歌唱法もふくめて全面的にかつ大胆に推しすすめていたのが、当時のビノミオだった。
Binomio de Oro canta Rafael Orozco “El Pollo Negro”
この方向でそのまま進んでよかったのかは、実はよくわからない。1989年に当時トロピカル音楽を席巻していたメレンゲの帝王・ウィルフリード・バルガスのアルバム“Más que un loco”にゲスト参加したときは、完全にバルガスを食っていたビノミオだが、人材豊富で、市場規模が比べものにならないくらい大きなトロピカル音楽に、バジェナートが飲み込まれてしまうということもありえたと思う*2。
だが、ビノミオの挑戦は、1992年にあっけなく終わりを告げることになる。6月11日の夜、歌手のラファエル・オロスコは、バランキージャの自宅で家族や親しい友人とのパーティの最中に、ディオメデス・ディアスのバンドのメンバーふたりの訪問を受ける。楽器を貸してほしいと願い出た彼らと話すために、ラファがテラスにでたところ、暗闇から男が現れた。男は手にしたリボルバーをラファにむけて撃ちまくると、ふたたび暗闇に消えた。9発の弾丸を浴びたラファは、翌日未明、搬送先の病院で、家族に見守られながら息をひきとった。
Binomio de Oro canta Rafael Orozco “El higuerón”
No busques negra, ああ、ネグラ、おまえがオレのことを探してくれないから
que yo me muera オレは死んでしまう
como me dejas, おまえがオレを放っておくから
pasando penas. オレは苦しくてたまらない
Debajo del higuerón, debajo del higuerón あのイゲロンの木の下で
debajo del higuerón, donde siempre te esperaba. オレはいつもおまえのことを待っていた
Allí me diste tu amor, yo también mi amor te daba あのイゲロン木の下で、おまえとオレは愛を交わしあった
llora, llora corazón, dale un consuelo a mi alma オレの心が泣いている オレの魂に安らぎをくれないか
debajo del higuerón, donde siempre te esperaba. あのイゲロンの木の下で オレはいつもおまえのことを待っていた
「黄金の二項式」(Binomio de Oro)の一項が欠けた後、アコーディオン奏者のイスラエル・ロメーロは、二度とラファを探そうとはしなかった。正気と狂気の境目を行き来していたビノミオ・デ・オロは、1年以上の沈黙の後、ラファの座るべき席を空けたまま新しいアルバムを発売すると*3、やがて、すっかり好々爺のようになってしまったロメーロが、ゆったりしたアコーディオンで甘い歌声をもつ若手歌手をささえる、ロマンティックなバンドへと変わっていった*4。以後、私の知る限り、ビノミオの路線を承継したミュージシャンはいない。
ラファエル・オロスコがこの世を去ってから今月12日でちょうど17年。ラファの命を奪ったとされる殺し屋も、2年前の7月に、ベネズエラのマトゥリンで、警官隊と銃撃戦をくりひろげた末に射殺された。
2007年2月に「バジェナートと植物学」というテーマでシンポジウムを開催した*5メデジン植物園(Jardín Botánico de Medellín)*6の科学部長アルバロ・コゴージョによると、この古い歌*7に出てくるイゲロンの木は、どこにあるのか誰も知らないが、これをみつけてその花を手にした者は、“el hombre más verraco*8 de la región”(その土地でもっともドえらい男)としてたたえられるという。その花をみつけたラファは、イゲロンの木の下でもう17年も、誰かが自分をみつけてくれるのを待っている。
*1:これは私が勝手にした分類です。名人世代→チューハイ世代→革新世代→中2階(メザニン)世代→新伝承派世代となります。ラティーナ2007年5月号に駄文がのってます。
*2:なにせ当時はカルロス・ビベスのデビューもまだなく、ボゴタにようやくバジェナート専用ラジオ局ができたばかり、バジェナートはコロンビア国内ですらコスタ以外では田舎音楽に毛の生えた程度の扱いだったのだ。
*3:http://www.thelyricarchive.com/album/150812/Todo-Corazon:-Viva-Mi-Seleccion
*4:http://www.youtube.com/watch?v=DR6ED6lvkb4&feature=fvst
*5:http://www.youtube.com/watch?v=kjGIjcP2Shc
*6:http://es.wikipedia.org/wiki/Jard%C3%ADn_bot%C3%A1nico_de_Medell%C3%ADn
*7:一般にアベル・アントニオ・ビジャの作曲として知られるが、http://www.youtube.com/watch?v=rG2WtQYou5w&feature=related 最近の研究によるとセバスティアン・ゲーラというバジェドゥパルの地元のミュージシャンの作品らしい。
*8:コロンビアのスラング。「傑出した」「すごい」「興奮した」「やっかいな」など。http://es.wikipedia.org/wiki/Berraco
2009-06-03
スペイン語のなまり
人によってちがうと思うけど、ボクの場合、外国語で話していると相手の「なまり」がよくうつる。やはり語学習得はマネから始まるからだろうか。今日の午後は、ひさしぶりにキューバ人と話していたのだけど、自分もいつしか語尾や子音の前のSが消えていた。
で、変な「なまり」ほどうつる。“La Virgen de los Sicarios”ばかりみていると、トンデモないスペイン語になりますよ。
「昔はドラッグの取引をめぐる抗争で、強盗、殺人、ホントにひどかっけど、今はだいぶ静かになった。暴力もずっと減って、うん、メデジンは確実に前に進んでいるよ」だそうです。
“los barrios ahora se han calmados porque si se metieron los parcos y acabaron con todos pillos de los barrios, muchos pillos se metieron ellos mismos y hicieron unión con ellos ”(パラミリタルが町に入ってきてチンピラをみんなぶっ殺してくれたからな、残った奴は進んでパラミリタルにはいって奴らの仲間になった…)。
うちのバイトいわく「これ、スペイン語に聞こえない」だそうです。