karat.gif 「伊藤(バカ)くんとイニシエーション」



『国際オタク大学』に、また伊藤(バカ)くんのことを書いた。これでまた、僕に対するオオツカさんの罵倒がいずこかでなされることであろう(笑)。言っておくが、アレを書かせたのは岡田斗司夫だからね。
 
   かし、あの原稿は(海外取材旅行出立の直前に4時間で書き上げたものにしては)非常に気にいったものとなった。論旨の粗雑さは措くとして、そもそも自分が、いや、いま20代半ばからのオタクたちが、なぜあれほどまでに伊藤(バカ)くんを意識し、彼のエピソードを聞きたがるのか、あれほど負のキャラクターをもち、個人的には絶対尊敬も感心もできないタイプなのに、みんな伊藤(バカ)くんばなしを聞くことだけは大好きなのか、その秘密が、筆を進めるうちに、天啓のように脳内にひらめいた。まさに“ユーレカ!”である。


これは、イニシエーションの問題なのだ。


ニシエーション。文化人類学用語であり、入社式、成年式などと訳され、それら人生の節目々々において、自分のヒエラルキーが共同体の中で上がり、新たな権利を獲得していく一連の儀式を総称して“通過儀礼”と訳されるのが最近の通例である。伊藤(バカ)くんは、あのオタク大学での僕の講義においても語られていたとおり、共同体への無意識な参加をとにかく嫌悪していた人間であった。つまり、イニシエーションを拒否し続けていた存在なのだ。
 
   う考えると、彼がテレビ版『エヴァンゲリオン』に、近親憎悪的な感覚を抱いていたのもよっくわかる。通常のロボットアニメにおいて、主人公に巨大ロボットが与えられる、という設定は、彼が一般の平凡な少年から、世界を救う使命を帯びた存在へと変容する、イニシエーションとして描かれている。例えばバイク狂の一少年だった兜甲児、札付きの暴走族だった葵豹馬、プロ野球の選手をめざしていたツワブキ・サンシローなど、視聴者の立場にどちらかというと近い平凡な少年たちが、マジンガーZ、コン・バトラーV、ガイキングというロボットの操縦者としての地位を与えられることで、ヒーローとしての力と、そして自分の意志を超えた大きな使命を与えられるストーリィだ。通過儀礼には大抵、犠牲もつきものであある。兜甲児における、肉親(祖父)との死別などがそういう代償として描かれる。それらの悲しみを越えて、少年はやがて、大人へとなっていくのである。
かし、あの『新世紀エヴァンゲリオン』においては、そのイニシエーション理論は否定される。自分しか操縦できない、巨大な力(=ロボット)を与えられながら、あの主人公シンジは、それを操縦すること、力を得て大人になることを拒否するのである。
 伊藤(バカ)くんは以前、マジな顔で僕に、「どうして20歳すぎて半ズボンをはいちゃいけないのか、僕にはわからないんですよ」
 と言ったことがあった。彼はそれが許されるならば、いつまでも半ズボンをはいていたい、と真剣に言うのだ(最近流行りのレジャー用半ズボンではないよ。子供用の、正太郎くんがはいているような、あの半ズボンのことだ)。聞いたときは気味が悪かったものだが、これは彼の、成人式拒否を如実に表した言葉だったろう。また、彼は以前、高校の卒業式で感動のあまり涙を流した級友に、たまらない嫌悪感情を抱いた、とも電話で僕に語ったことがある。そのときは、センチメンタルに流される安直な感動への嫌悪だろうと分析したのだが、これも、よく考えてみると、卒業式という、「大人になるための儀式」全体への拒否が泣いた級友へ向けられたもの、ととれないこともない。
 



“子供”という存在はまた、ジェンダーを欠いた存在である。伊藤(バカ)くんが現在、泊倫人としてショタ漫画評論家になっていることは皆さんご存じと思うが、彼は少年という存在を神格化し、好きな女優も広末涼子のような、できるだけ女性を感じさせない体型、顔つきの女優であった。
 そこから“男”になるためには、通過儀礼を必要とする。オタク大学の原稿にも書いたが、アメリカの人類学者D・ギルモアは著書『男らしさの研究』(春秋社)で、“男”というジェンダーは生物学的な先天的決定事項ではなく、社会的通過儀礼によって後天的に付与される文化的な事項なのだ、と論じている。また、作家の橋本治も、ごま書房から出した著書、『男になるのだ』の中で、男とは人間関係の中で自立していくことで男になっていく、と述べています。橋本治から男とは、という説教を聞きたくはない、と思う人も多いだろうが(笑)。
 
   は上記の二冊、また他の現代社会における通過儀礼に関する社会学の本を読むたび、脳裏に伊藤(バカ)くんの顔が浮かぶ。これまで、彼を単なる社会適応性のないバカ、としか思っていなかったことが間違いなんじゃないか、かえって、彼こそが、大人になるための通過儀礼を受けられず、いや受けようとせず、永遠の少年のままに、義務も力も放棄したいと望む、現代のピーターパンなのではないか、と思いついた。そして、その時、彼とエヴァとの関係が驚くほどスッキリと見えてきたのである。オタク文化とは、大人への脱皮を拒否した者によるネオテニー文化だ。伊藤(バカ)くんというウーパールーパー男は、オタクたちにとって負の鏡なのである。
の理論は後にまた場所を変え、オタクという存在そのものともからめて、発展させていきたい。とりあえず、今は上記の文章を念頭において、『国際オタク大学』(光文社)所載の僕の文章を読んでみてほしい。
 



ころで、そういうイニシエーション小説の傑作として僕が評価しているものの一つに、SM作家の館淳一氏の作『肛姦未亡人』(マドンナメイト)がある。タイトルから内容は一切想像できないと思うが(笑)、これはマドンナメイトとしては珍しいショタ小説で、母が売春していることをネタに、主人公の啓少年が不良に体をいいように弄ばれる話だ。
 もちろん、僕はショタ小説として興奮してこれを一気に読みおえたのだが、啓と彼を犯す不良との関係に、これはイニシエーション文学としても読めるな、ということを発見した。
 大人の世界への入会儀式の話なのだ。やおい小説の読者ならご理解いただけると思うが、男の子同士のセックスは全くの第三者から見ればマウンティング(猿などの仲間うちでのヒエラルキー確認行為)に見えるのではないか。橘外男に『男色物語』という、やはりイニシエーションとしての(ただし失敗に終わる)少年愛小説があるが、さして文学史的に大きな位置は占めていない。大人の世界へのパスポートを苦痛を代償にして得る、というストーリィを、日本の読者は今、ショタ小説の中に求めているのかもしれない。
 
   はあの、デブエヴァ映画『映画の中心でアイを叫んだけだもの』のストーリィを女房と作るとき、本家のエヴァが成人拒否の少年を主人公にしたネオテニー・ドラマだったことへのアンチテーゼとして、シンジ(中野貴雄)が最後にウケからタチになる逆転の物語としてパロディしたのだが、この『肛姦未亡人』の、啓が母親の客となるラストにも、見事なそのビルドゥングスが描かれている。特にその前に、不良の尻奴隷となって全ての人格を否定される件りがあるから、余計、その死〜再誕という儀式性が強く感じられる。フリーメーソンリーはじめ、ほとんどの秘密結社の入団儀式はこの形式をとっているのだ。
 先ほど、イニシエーションの訳語として「通過儀礼」というのが一般的だと言ったが、直腸から肛門への暗闇を通過することで、出産〜誕生を再体験し、男は一人前になる、なんて深読みができそうである。 本家のエヴァでは、あの地下基地からの射出がそれに当たるだろうか。・・・いや、ここでエヴァ論をやる気はないのであった。
藤(バカ)くんのようなホモっぽいスタッフと痴話ゲンカみたいなことをやらかしたおかげで、僕までホモ疑惑が浮上してしまった。迷惑しているのであるが、しかし、彼のイニシエーションのためならば、一回くらい、尻を犯してやった方がよかったかも、とも実は思っていたりする。
 一度、徹底して己れのジェンダーを踏みにじられたあとでなければ、彼が啓のように“男”(大人)として再生することは、不可能なのではないのかと思っているのである。
 

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