戦後満州引き揚げ 故郷への道
NHK「その時歴史が」満州からの引揚の話があったが、身近な家にも、悲惨な話がある。多くの人々には引揚げは過ぎ去った話かもしれないが、未だに引きずっている問題である。
満州にいた佐々木一家は、ようやく引揚の話が伝わってきたので、母は荷物を抱えて、幼い子供4人と生後一ヶ月の新生児を抱えて、新京(長春)駅に来た。佐々木わき(母)、紘一(長男6最)、敦子(長女5歳)道子(次女)、隆子(三女)
早く列車に乗れば日本へ帰れると思って、朝から夕方まで待ち続けた。それが上の写真である。母は出産一ケ月たったばかりで、まだムリが利かない体であった。一番上の兄は1年生、長女は幼稚園児で、数え四歳、二歳の妹、人人人の中で列車は来ないし、来ても、超満員で混乱の車両に母が幼児4人を乗せるのは到底できない。最初の試みはムリだと思って、再び大荷物を抱えて公務員住宅の自宅へ帰った。もう一度、こんどこそはと駅へ行っては、混雑を見て諦めて帰ることが数度あった。
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←奥地から来た人は日本人会が世話する建物に住んで引揚チャンスを待っていた。 隣近所の家は続々と帰国してしまい、がらがらの公務員住宅の中で残っているのは、佐々木家ばかりという状態になった。母は産後の肥立ちが悪く、体調が優れないで寝付くことが多くなった。洗濯機があるわけでもないし、洗濯を幼稚園児の姉がやっていた。通りかかった中国人が、物干しに洗濯物を掛けているのを手伝ってやり、お母さんが病気なら、とタマゴをくれた。という話を聞いた。
公務員であった父は最後まで召集がなかったが、末弟が生まれるころ、終戦間際に徴兵され家にいえなかった。佐々木家は女子供ばかりに家になった。
ソ連が「日ソ不可侵条約」を破って満州へ侵攻して、新京(長春)を占領した。そこで、満州には関東軍という最精鋭部隊がいるはずだったが、住民には知らされない間に、既に主力部隊はほとんど南方諸島へ移動していた。それこそ、職業軍人ではない、開拓団から徴兵した素人兵隊ばかりの満州の日本兵だった。レイテ戦記 レイテ戦記2 レイテ戦記3 ルソン島死闘
日本軍には、「名誉ある降伏」をという標語が一人歩きして、ソ連の指揮下へ入った。このソ連が西側連合軍と同じ程度の約束を守る国だったら、その後の苦労がなかったが、ソ連の狡猾なだましで苦しんだ。日本人は外交も下手だが、個人も正直すぎて、コロっとだまされた。日本人は策がなく、えてして相手を信用しすぎる。島国の弊害、本来は世界中がこうなればいいのだが。
名誉ある降伏をと、全員そろって降伏するんだ、とソ連軍の指定する小学校の広場へ武器を持って集まった。そこが武装解除の場所だった。その後は、全員日本へ帰すから集まるように声をかけたわけだ。すっかり、ソ連兵の言い分を信じて整列して待っていると、ソ連兵が人数を数えるが、なかなか数が合わない。つまり、数が数えられないのだ。代わって、日本兵が数えてやる。兵器の数も、日本側で数えた、と義父は言っていた。
日本へ帰国するために港のある駅へ行くんだと整列させて、列車に乗せた。武装解除した日本兵は武器はないから、自動小銃をもったソ連兵に囲まれ、窓のない貨車に詰め込まれた。列車はゆっくり動き始めた。南下して日本海を目指すはずが、貨車の小さな隙間から見える景色を見て、北へ北へ進んでいると気づいた。日本兵たちはようやくソ連にだまされたと全員が騒いだが、コトは遅かった。
時々、列車はトイレ休憩で停車した。このまま列車に乗っていたら、ソ連の捕虜になる。このチャンスだ、と必死に逃亡試みるものがいたが、逃げることは死を意味した。実際、逃げ出した者もいたが、数キロは離れた場所まで逃げたが、軍用犬をつかった追跡でみつかり、見せしめに銃殺された。逃げることは不可能であった。 義父はそのまま、シベリヤ抑留となった。
抑留されてからの話は、復員してから聞いたものである。抑留中の消息は、内地では殆どわからない状態であった。父からは秋田県中仙町の実家へ軍事郵便のような「抑留者専用ハガキ」がきたが、父には母の死を隠して、父の妹が代筆して送っていた。父は、なんかヘンだと感じていたが母の死は引揚げてくるまでは分らなかった。
収容所(ラーゲリ)内では、共産党に心酔して、ソ連の思想を盛んに語る連中がグループ指導を率先して行っていた。そういう連中が、優先して帰国できたようだ。義父は、身分を隠していたが、満州の公務員とソ連側に分って、多くの人が帰国しても、シベリアに抑留が続いた。満州の役人は、支配階級と判断されて、昭和25年まで帰国が許されなかった。早く帰国したいがため、ソ連へのエセ心酔者になり、仲間を裏切る情報を通報する連中が増えた。
新京の家では、母の体調はよくなる方向へ進まず、医師を呼ぶこともままならない状態で、衰弱していった。29歳の母は、日本敗戦の中、いかにして子供たちを日本に帰すか、衰弱する体調の間で苦悩し、死んでいき、子供ばかりが残された。子供では、新生児の末弟に乳を飲ませることもできず、半年生きたが、母の後を追うように死んだ。子供らが弟に重湯を飲ませたと聞いたが、それは、どんなものだったろう。死の間際の母の気持ちは、推察するに余りある。
そんな状態で、親戚がきて、母の亡骸を空き地に埋葬してくれた。しばらくは子供の世話をするが、帰国するにはどうしたらいいか、と相談した。独身の元気な遠縁のちょっと怖いお兄さんがいた。帰国するには、規則では、女子供が優先で乗ることになっており、独身男子はすぐ船に乗ることができなかた。しかし、子供4人を連れていれば、優先的に帰国できる。そこで、その青年に子供4人を託すことになった。
おまけの話であるが、死んだ母の枕元には、帰国するに十分のお金があったと父はいう。土壇場の混乱では、そんなお金はあった、なかったという親戚でいざこざがよく起こる。戦後、そのことで争うことになった。
こういう混乱した場では、乱暴な男ならこそ、多少のムリが効く。そうでなければ、乳飲み子抱えた母が、年端もいかない幼児ばかり4人を連れて、混乱した列車に乗り、船の港へ着くことはムリだっただろう。このお兄さんについていかなければ、はぐれてしまう。子供達も、必死だった。混乱の中、このお兄さんの乱暴な態度が役立ったもかもしれない。母自身の命と交換に子供を日本まで届けた、ともいえる。
外地からの引揚は、占領統治する連合国の主導で始まった。日本政府は無力で、何ら手出しはできなかった。しかし、満州を占領していたソ連は引揚は許さなかった。満州の民間人204万人は、意図的に放置されていた。
ソ連は、ドイツ軍に国土を荒らされ、2000万人が死傷した。国土復活のため、捕虜でもない日本軍をシベリアへ連れて行き、裁判が行われたわけでもないのに、囚人並の強制労働に駆り立てた。60万の軍人軍属が厳しい条件で無料で働かされている。日本人のシベリア抑留者をソ連の戦後復興に利用した。
引揚が始まるのは、満州に立ち上げた日本人会の幹部が、このまま冬を迎えたら、子供、老人は全員死亡するという危機感に、元気のいい男性3名を日本政府に救助を求めて送った。上記図のように、迂回して一ヶ月かかり日本に到着した。
最初、吉田茂外相に面会して、満州からの民間人引揚を要請したら「日本政府は、GHQのメッセンジャーでしかないから、満州から来た君たちが直接マッカーサーに訴えてくれ」と言われた。まるで満州の日本人は捨てられたようなものだ。日本政府のふがいなさにがっくりきたが、満州から来た三人は、現在の銀座松屋にあったGHQ本部に行って、最高司令官マッカーサーに窮状を訴え、日本人の帰国を計らうように必死に頼んだ。
二週間後、マッカーサーから呼び出されて、司令官の命令で引揚第一便の船が出ると聞かされた。その話を今でも語る3人の日本人会の人は、涙なくして語れないようだった。三人はGHQ内部で抱き合って涙を流したという。満州の邦人救助を必死に戦ってくれた3人の心がジーンと伝わってきた。
政府は何もできないのは、占領下であるという点を差し引いても、民間人の命に対して冷たい扱いである。国体護持以外の点では、政府はなにもしなかった。今現在、平成の御世でも、大きい声で主張している意見は、国体護持以外は常に後回しになっている。そう、日本は民の声はいつも後回しだ。大銀行、大企業が優先の社会だね。
アメリカがまったく人道的な見地で善意で行ったわけではない。これは、中国全土で、八路軍(共産党)と蒋介石国民軍が戦い始めて、満州を占拠していたソ連軍が引き揚げ、そこへ中国共産党軍が治め始めたので、国民党軍がアメリカに援助を求めてきた。国民党軍と武器などを上海から満州ロコ島へ送り込む船の帰りに、日本人を乗せて引き上げ援助をした。三角航路でアメリカ船を利用した。中国満州に日本人を残さないアメリカの方針によって引揚げが実現した。
というのが、現実である。国際情勢、国家間の駆け引きは、さように冷酷な側面がある。それを上手に人権、あるいは善意のカモフラージュをして見せるのが外交官の役目である。
そして、ようやく、帰国第一便が出ることになった。佐々木家の子供たちも、K兄に引き連れられて、乗船できたのである。ただし、第一便か、どうかは定かではないが。
子育てをしたこともない青年が4人の子供を面倒を見るというは、相当難儀だったと思う。かなりいい加減で乱暴であったが、子供たちもこのお兄さんから離れたら、日本に帰れないし、死を意味する。兄姉妹4名はわかっていた。
←多分この子の腕のような状態だったろう。 だから、このK兄(仮称)は、もう面倒になり、手間のかかる2歳の妹を置き去りしていこうとしたときがあった。すると、引揚同胞の人の中で、3人兄妹が一斉に大声で泣き叫び、K兄も放っておくことができず、連れていくことになった。肉親でもないK兄は、母親と違ってかなり強引で乱暴な面が多く、子供たちは恐れながら付いて行った。子供兄妹四人は、団結はしっかりしていたという。食べるものも十分であるわけではないし、食の細い子供は栄養失調であった。
新京(長春)を出て朝鮮の港から舞鶴の港に着き、秋田大曲まで半年近い旅だった。昭和21年秋、大曲の駅に着くと、祖母、父の妹たち、(仙北郡)中仙町の近所の人々が出迎えてくれた。子どもたち、半年の間着替えもせず、一度も風呂は入らない体で、髪の毛はべちゃとくっついて、浮浪児より汚れていた。不潔と栄養失調が影響して、髪の毛が普通に生えるまで数年かかった。
連れてきてもらったK兄とは、(秋田県)東北線大曲駅で別れて、それ以後、一度も会わないという。K兄は、道で出会えば、懐かしそうにするのに、兄姉妹は、怖い兄というトラウマで、ちっとも会いたがらなかった。40代になったころ、引揚話を聞きたいと思い始めたころに、K兄は亡くなった。一度、詳しく聞いておきたかった。
←引揚手続き施設 NHK「その時歴史は」の話では、博多へ近づき日本が見えると、女性が海に飛び込んで死ぬ人が連続したという。それらの人々は望まない異国の子供を妊娠していて、日本での偏見を恐れての自殺だった。自分の身を殺してしまうことが起こっていた。そこで、帰国した女性で妊娠している人を救助するため、施設で堕胎手術を施した。
←堕胎手術 女性たちは、設備の十分でない手術室で、麻酔もなく、相当強引な手術を耐えた。痛み苦しみにも、叫び声も上げず、必死に耐えていた、と手術につきそった看護婦だった人が述べていた。博多だけで500名以上の手術が行われた。全国の港では数千人の堕胎が行われただろう。
満州のソ連兵の強姦や樺太の電話局を死守して最後に青酸カリを飲んで自殺した交換手の話、涙亡くして忌めない記事がある。
ソ連軍=ロシア人は鬼畜 :03/07/30 03:57
■ソ連軍がベルリンに突入して制圧した際、スターリンは兵士に対し「ベルリンはおまえたちのものだ」といい、3日間の祭りを許可した。ベルリンの女性のほとんどがソ連兵によりレイプされ、連合軍に届けられたものでも10万件を越えた。
ソ連軍がベルリンを制圧した時、スターリンの兵士への呼びかけ。「ドイツ人の夫達が東部戦線にいる今、おまえたちは人種的優越性にひたるドイツ女に充分陵辱を加えよ。焼き、殺し、犯すのだ!」ドイツ人女性の被害者は堕胎数から推定で数百万にも達しており、自殺者も大量。
■満州でも、ソ連軍は強姦しまくっていた。日本の連合軍への降伏により、日本軍は38度線を境に、南鮮はアメリカ軍、北鮮はソ連軍へ降伏するように指令された。南鮮の日本人は終戦の年の暮れまでにほとんどすべて引き揚げたが、北鮮では約31~2万の日本人がそのまま残っていた。もともと北鮮に住んでいた27~8万と、満州から戦火をさけて逃げてきた4万人である。北鮮にはいってきたソ連軍は、満州におけると同様、略奪、放火、殺人、暴行、強姦をほしいままにし、在留日本人は一瞬にして奈落の底に投じられることになった。白昼、妻は夫の前で犯され、泣き叫ぶセーラー服の女学生はソ連軍のトラックで集団的にら致された。反抗したもの、暴行を阻止しようとしたものは容赦なく射殺された。「韓国・朝鮮と日本人」若槻泰雄(原書房)ソ連軍が満州やドイツで行なった強姦、輪姦
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