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アメリカよ・新ニッポン論:第4部・受容の終わり/1(その1) 「死の行進」

謝罪を表明した藤崎駐米大使(左)に拍手を送るテニー会長=米テキサス州サンアントニオで5月30日、隅俊之撮影
謝罪を表明した藤崎駐米大使(左)に拍手を送るテニー会長=米テキサス州サンアントニオで5月30日、隅俊之撮影

 ◇米捕虜ら800人犠牲「死の行進」 日本、68年目の謝罪

 ◇歴史認識、議論へ一歩 慰安婦決議が呼び水

 第二次大戦中の1942年、旧日本軍がフィリピン・バターン半島で米兵捕虜ら1万人以上を約100キロ無理に歩かせ、約800人以上の犠牲者を出した「バターン死の行進」について5月30日、藤崎一郎駐米大使が元捕虜団体の会合に出席し、日本政府として初めて謝罪した。日本では90年代後半の歴史教科書問題以降、先の戦争の意味や責任を巡って論争が続くが、日米間の歴史認識問題は事実上封印されてきた。68年目の謝罪は何を意味するのか。

 米テキサス州サンアントニオ。謝罪を求めてきた「全米バターン・コレヒドール防衛兵の会」は、会員の高齢化を理由に同日の総会で解散した。

 「日本政府の立場をお伝えしたい。バターン半島と(米軍司令部のあった)コレヒドール島、その他の場所で、悲惨な経験をされた元戦争捕虜を含む多くの人々に、多大な損害と苦痛を与えたことを心から謝罪します。日本招待にも取り組みます」。藤崎氏が述べると、約400人の出席者の半数以上が立ち上がって拍手を送った。

 藤崎氏は会場で「基本的考え方は95年の村山談話の範囲内だが、元捕虜の方々の関心に明確に答えた。最後の会合に出席できてよかった」と語った。

 会長のレスター・テニー氏(88)は昨年11月、藤崎氏と初めて面会。同12月と今年2月、謝罪の親書が届いたのを受け、総会への出席と会員への直接の謝罪を求めていた。会合での大使の率直な発言に、テニー氏は「一つの大きな区切りはついた」とうなずいた。

 タブーだった日米の歴史認識問題に激震が走ったのは07年7月。米下院がいわゆる従軍慰安婦問題で対日謝罪要求決議を採択。日本政府は阻止しようと動き、日本の保守派言論人や政治家も反発する騒ぎになり、両国のずれがあらわになった。

 外務省の衝撃は大きかった。「一般の米国人には、戦後日本の平和主義が十分理解されていない。米国で日本に謝罪を求める声があれば、国としてできるかぎり応じるべきだ」(幹部)。68年目の謝罪は、地道な一歩だ。

 横田洋三・中央大学法科大学院教授(国際法)は「捕虜の扱いは戦時国際法違反の問題。米国が日本を追及すれば、日本から原爆投下や空襲を違法とする反論が出る。日米両政府は以心伝心で日米安保が崩れかねない問題を避けてきたのではないか」と指摘する。

 冷戦の要請で同盟強化を優先し、戦争責任問題は棚上げしてきたツケが、安保改定50年を迎える日米間に、今もわだかまる。

 冷戦後、日本では戦後の歴史認識を米占領下で受容させられた「自虐史観」と決めつける論議が強まった。ただ、安全保障を依存する米国を正面から論じる代わり、矛先は中国・韓国・北朝鮮に向きがちだ。保守系雑誌に扇情的な言葉が広がり、5月に月刊誌「諸君!」が休刊したのは、「基本は保守だが、反論も含め幅のある議論を」という姿勢が、風潮に抗しきれなかったのも遠因とされる。

     ◇

 自前の歴史観を求めながら米国の影に縛られ、保守論壇が狭まっていく逆説。第4部は、文化における戦後日米関係の転機を探る。(3面につづく、次回から2面に掲載)<14、15面に戦後論壇特集>

毎日新聞 2009年6月22日 東京朝刊

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