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魯迅日本留学中の恩師『藤野先生』 北京で胸像除幕式
2007/09/29
魯迅
100年後の師弟再会
 9月25日、北京の魯迅博物館で、藤野厳九郎先生の胸像除幕式が行われた。文豪・魯迅(1881−1936)の日本留学中の恩師である藤野先生が、北京で日中友好のシンボルとなったのである。高校時代に国語の教科書で『藤野先生』を読んでいて、(ああ、あの藤野先生か)と思い出す人も多いと思う。

 魯迅が悲壮な覚悟で、医学から文学に方向転換し、仙台医学専門学校(現・東北大医学部)の藤野先生のところにいとまごいに行ったのが、今からちょうど100年前なのだという。そして、そのことを記念して、今回、藤野先生の胸像が北京に建てられたのだという。

 藤野先生は、明治の昔に、草の根の日中友好を実現していた人である。藤野先生は、使命感から、中国人留学生・魯迅をとても丁寧に指導した。そして、魯迅は、後年、『藤野先生』を著して、その気持を日中友好の記念碑とした。藤野先生は、今も、『藤野先生』の中にご存命なのである。

 新聞では、このニュースはとても小さな扱いなのだが、私は、魯迅と藤野先生の師弟愛は、後世に語り継ぐべきエピソードであろうと思う。


医学生・魯迅
 日清戦争後、清から日本(東京)に約1万人の留学生が流れ込んでいたという。近代日本から何かを学ぼうとした若者たちの群である。その中に当時若干22歳の魯迅もいた。彼は、日本の近代化は『解体新書』に始まると考え、1人東京を離れ、仙台医学専門学校に入学する。そして、そこで、解剖学の藤野教授から中国人留学生ゆえに個人指導を受ける。

『 「持ってきて見せなさい」
 私は、筆記したノートを差し出した。彼は、受け取って、1、2日してから返してくれた。そして、今後毎週持ってきて見せるように、と言った。持ち帰って開いてみたとき、私はびっくりした。そして同時に、ある種の不安と感激とに襲われた。私のノートは、はじめから終わりまで、全部朱筆で添削してあった。多くの抜けた箇所が書き加えられてあるばかりでなく、文法の誤りまで、一々訂正してあるのだ。かくて、それは彼の担任の学課、骨学、血管学、神経学が終わるまで、ずっと続けられた。』
(竹内好訳 『藤野先生』より)


医学から文学に
 しかし、1年半後、彼は文学に方向転換、藤野先生に前途を惜しまれつつ、仙台を後にする。仙台医学専門学校における彼の成績は中ほどであったが、言葉のハンディを考慮すると、優秀な留学生だったと言えるだろう。魯迅の祖父は、科挙試験に通った人であり、彼自身、秀才の誉れ高い周三兄弟の長男であった。彼の優秀さを仙台で支えたのが、藤野先生であった。

 「このとき、この場所において、私の考えは変わったのだ」魯迅は、『藤野先生』の中で、こう記している。それは、彼の個人史において「幻燈事件」と呼ばれるものである。教室で、日露戦争の幻燈を見せられた折、そこに日本兵に銃殺される中国人が映っていたのである。そして、それを喝采しながら見ている中国人の群衆の表情を見たとき、彼の中で何かが凍りつき、何かが立ち上がってきたのである。彼は、自分自身に対しても、不寛容であった。彼は、医学に挫折したのではなく、医学に安住しなかったのである。


文学者・魯迅
 近代中国きっての啓蒙思想家・魯迅の文学の幅は、とても広い。彼は、詩人であり、小説家であり、評論家であり、翻訳家である。そして、それらすべてにおいて、55年の生涯で、個性的な仕事を残している。『魯迅全集』は、全20巻である。しかし、文字通り苦節十年、苦労した年月は長かった。また、弾圧と絶望の日々に耐えるための、「さなぎの沈黙」とも言える休筆期間も長かった。

 37歳になって、再びペンを握った魯迅は、『狂人日記』によって中国文壇に躍り出る。中国三千年の歴史にメスをいれ、小説の手法で、中国社会積年の病巣を抉り出したのである。ニーチェに学んだ魯迅の闇は、その絶望の深さゆえに、ニーチェよりも暗かった。作品の完成度は、必ずしも高くはないが、彼が抱え込んでいた闇の深さは、比類のないものであった。


『藤野先生』
 以後、100のペンネームを持つ魯迅の快進撃が続く。護衛に守られ、命がけの言論活動が続く。そして、後年、彼は、仙台時代の藤野厳九郎教授に感謝の気持ちをこめて『藤野先生』を書く。日本で『魯迅選集』が編まれるときには、彼はいつもこう注文をつけたと伝えられている。「選択は任せるが、『藤野先生』は必ず入れてください」日中友好を意識してのことだったろう。そして、何よりも、そのとき消息のわからなかった藤野先生にぜひ読んでもらいたかったということであったろう(実は、藤野先生はそのとき郷里でご存命であった。『藤野先生』を読まれてはいたが、名乗りはあげられなかった)。

 藤野先生の添削指導を受けた魯迅の解剖学ノートは1800ページに及ぶという。そして、その未完のノートが、今日の中国では「国宝」の扱いだという。それは日中戦争をくぐりぬけ、現在、北京の魯迅博物館に保管されているのだが、それ以前に、激動期の中国で、生きるため各地を転々とせざるを得なかった魯迅自身が、藤野先生の写真とともに大切にしていたからこそ残っているのだろう。足掛け8年に及んだ日本留学だが、なぜか、彼は、『藤野先生』以外の作品を書いてはいない。


終わりに
 近年の靖国参拝問題などのためすっかり歪んでしまった日中関係だが、明治時代の魯迅と藤野先生の間には互いに敬愛してやまない友好の心があった。魯迅入魂の解剖学ノートは、藤野先生なくしては形を成さなかったのである。中国の人たちはそのことをよく理解している。それゆえの、今回の、100年後の師弟再会なのである。
◇ ◇ ◇
関連リンク:
北京魯迅博物館(仙台シティセールス情報館)
藤野厳九郎

(記事の一部を9月30日に訂正しました)


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[30310] 人生に無駄はない
名前:小倉文三
日時:2007/10/04 10:46
 成川さんの評論から抜け落ちていることを付け加えたいと思います。
 

 魯迅は、医者にはならなかったけれど、仙台医学専門学校で学んだ1年半は、彼の人生の実質的な糧にもなったという点です。


 彼が29歳で中国に帰って得た職業は、師範学校の生理学と化学の教員、そして、日本語の通訳でした。その後も彼は、理科系と文科系の両刀遣いとして、教員生活を続けます。それを可能にしたのは、無駄な時間だったようにも思える、仙台時代だったのではないでしょうか。また、藤野先生の日本語の文法添削は、彼が、日本語の通訳や翻訳をするときの力になったことでしょう。


 彼の解剖学ノートは、中国に帰国後も大切に活用されていたからこそ、今日、北京の魯迅博物館に保管されているのではないでしょうか。


 文豪・魯迅は、小学生から来た手紙にも返事を書いたことで知られています。そういう人間としての誠実な態度は、藤野先生から学んだような気がします。
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