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わが娘の「二十歳の原点」

2009年6月19日14時38分

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写真木彫りの娘の像と高野アイさん

写真高野悦子さん

写真関川夏央さん

写真坪井義哉さん

 「おはよう」と声をかけ、木彫りの娘の像の頭や肩をなでてあげるのが高野(たかの)アイ(85)の一日の始まりだ。栃木県那須塩原市に住んでいる。

 長い髪の娘はギターを抱えている。8年前に逝った夫の三郎(さぶろう)が彫刻家に作ってもらった。そばに、ひな人形を飾った。

 「おひな様をいつまでも出しておくと、お嫁にいけないといわれますが、もうお嫁に出すこともないので、しばらく飾っておこうと思って」

 娘の名は悦子(えつこ)。69年6月24日、立命館大3年生のとき、京都で鉄道自殺をした。

 悦子は大学ノートの日記を残していた。死から2年後、新潮社から出版された。「二十歳の原点」である。

 「あの子が死んだあと、京都の下宿で一晩かかって日記を読んだ。ああ、こんな風に思っていたのか、知らなかったと悔いが一番大きかった」

    ◇

 東大安田講堂攻防があった69年、立命館大でも寮問題から全共闘がバリケード封鎖をする。共産党系の民主青年同盟との対立。機動隊の導入。悦子は「機動隊、帰れ」と叫び、それを機に全共闘と行動をともにする。

 しかし、日記を読むと、心が揺れているのがわかる。

 「傍観は許されない。何かを行動することだ。その何かとはなんなのだろう」「私は要するに『心情的全共闘派のインチキ学生』」「階級闘争あるのみ(ウソだなあ、どうしたってこれはウソだよ)」「あたしゃ頑張りますよ。ブルジョアを倒すまでは。とか何とか言って大丈夫かい」。そして、「みごとに失恋――?」。

 その年5月、アイと三郎は東京で悦子に会い、学生運動をやめるよう説得した。だが悦子は途中で飛び出した。話し合うつもりはなかったのだろう。日記に「今日、東京へ行ってくる。……家族との訣別(けつべつ)をつけるために」と書いている。

 アイと三郎は、娘にやりたいようにやらせてあげようと思いを改める。それを伝えに、アイはひとりで京都へ。

 「悦子はほっとしていた。何かほしいものはないかと聞くと、服と靴がほしいという。街で一緒に茶色のワンピースと同じ色の靴を買ったの。京都駅で、一緒に帰ろうと言いたかった。でも、それを言ったら、信頼されなくなる。しかたなしに、さよなら、と」

 悦子の日記には、母が京都に来たことは書かれていない。6日後、霊安室で対面。アイが買ってあげたワンピースと靴を身につけていた。「涙も出なかった。呆然(ぼうぜん)というか、夢の中にいるようで。私が至らなくて、あの子にさびしい思いをさせたんじゃないでしょうか」

 「二十歳の原点」が出たばかりのころ、作家関川夏央(せきかわ・なつお)(59)は書店で手に取った。あまりにいたましくて、棚に戻した。のちに評論「一九六九年に二十歳であること――『二十歳の原点』の疼痛(とうつう)」を書く。

 関川も69年に20歳だった。

 「あまり運がいいとはいえませんね。主体的に考えろ、世界を見ろ、と強要するような空気があった。高野さんのような、悩むのに不向きな人にまで悩むことを強要し、自分を責め続けさせたという意味では、時代の悪意があった」

 関川は上智大の学生だった。そのころ何を? 「昔のことは忘れましたね」

    ◇

 「二十歳の原点」は、「序章」「ノート」との3部作で約350万部。その新装版が今春、東京の出版社「カンゼン」から出た。企画したのは編集者坪井義哉(つぼい・よしや)(36)。若い読者向けに脚注もつけた。たとえば、フランスデモは「道路幅いっぱいに広がりながら行進」と。

 「あのころの熱気、なぜか、僕にはよくわかりません。でも、こんなに真剣に自分に向き合うというのは時代をこえて普遍的だと思う」

 反逆の日々を送った学生たちも、もう還暦。学生運動は何をもたらしたのか。同じ世代の私は人々をたずね歩いた。

 (このシリーズは文を臼井敏男、写真を山谷勉が担当します。本文は敬称略)

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