「青年戦線」最新号より

1999年10月25日・No.153より

|●治安諸立法成立・東海臨界事故糾弾!若者と共に、反撃の戦列の強化を!…大仲 恵
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●アジアのいまを考える………………志村七蔵
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8.28国際フォーラム 21世紀の東アジアを考える
|●台湾―新しいナショナルセンターと新しい左翼組織の建設をめざして………洪 瑜家
|●香港―アジア経済危機下で強まる新自由主義……………………丁 洋
|●座談会 青年論を語る(1)…………………………………………………編集部
|●上野千鶴子を読む(4)……………………………………………吉川潤一
|●「新左翼と女性差別」―かねこさち論文を読む―……………………………遠山裕樹
|●学習ノート「われわれの社会革命」……………………………樹村 稔
|●問題提起 新自由主義に対する「或る」批判……………………………中野新一
|●連帯を求めて(28)………………………………………………………萩原邦彦 


上野千鶴子を読む (4)

「発情装置 エロスのシナリオ」(筑摩書房)
「ナショナリズムとジェンダー」(青土社)

吉川潤一


  「私はエロチカを、性差別や人種差別や同性愛差別(ホモファビア)から免れた、性的な感情や興奮を呼び起こすものであり、すべての人間と動物に対する敬意を伝えるものと定義しています。
 私は、セックスをあからさまに描くことそのものを、女性の貶めであるとは何ら考えていません。それどころか、エロチカがそれ以上に大胆なものになりうることは、言うまでもありません。逆に、オレンジの皮を剥くことでさえ、エロチックに描きだすことができます。」*1)

 世の中には、ポルノグラフィがある。男性が欲情し、都合の良いときにマスターベーションをするためにあるようなもの、それがポルノグラフィだ。男性はそれを見て、好きなタイプの女性、ジャンル(SMからコスプレ、レイプ)に至るまで、自分の都合のよいように女性を選ぶ。それは、男性にとって当然にもポルノを買い、消費するという行為だ。いわば、男性は、商品を消費するという行為を通して、性欲を解消するものだ。
 その「好み」が何も悪いって訳じゃない、と私は思っていた。男性だったら誰でも、いや、人間だったら誰でも「好み」はあって当然であると思っていたのだ。しかし、男性の「好み」そのものが「視線の政治」関係によって規定されている。「視る側」と「視られる側」と。「視る側」の特権を握っている男性がポルノを消費するという行為は、どのようなことを意味するのかを私自身の「視線」を分析しながら考えていきたい。その問題を抜きに「視線の政治」について考察を続けることは出来ないと考えるからである。

 「女犯5」(バクシーシ山下作)を観る

 先日、バクシーシ山下のビデオを見ることになり、「女犯5」というビデオを見た。このビデオを見たのは男性運動の会合でだった。バクシーシ山下という監督については、以前、彼の著書「セックス障害者たち」という本を読んでいたので知っていた。その女性蔑視、人間不信観については、その本のタイトルと内容からも伺い知ることができた。バクシーシは「監禁」モノや「レイプ」モノビデオを作製し、山谷の労働者や障害者や「小人」などをアダルトビデオに出演させている。
 「性的自由主義」とバクシーシ山下のビデオを批判し続ける浅野千恵氏は、このビデオを見るにあたって、細心の注意が必要であると次のように述べている。
 「レイプビデオに出演させられた女性たちは、他のレイプ被害者と同様(あるいはそれ以上に)自分の受けた被害を訴えにくい困難な状況に置かれている。まず、ビデオが合法的に商品として流通していることによって、自分の受けた被害は法的・社会的に犯罪被害として認定されないのだと女性たちは思いこまされてしまう。また、被害を訴えるとなると、ビデオを通して自分の受けた被害を多くの人に見られてしまう可能性がある。セカンド・レイプに対する恐怖から沈黙を強いられている女性も少なくはないのではないかと思う。この論文自体が、『女犯』を問題化することによって、それに出演した女性たちを精神的に傷つけたり、追いつめたりする危険性をはらんでいる。」*2)
 「女犯5」の内容は文字通りの「レイプ」ビデオだったことだけは確かだ。
 私は、見終わった後、私の中の何者かが崩れ去っていくような感覚を味わった。この何者かが崩れ去っていく感覚とは、一言でいえば、私がポルノグラフィを見ていたことへの強い失望感といったらよいだろうか。映像を見る前に、もし、このビデオで「興奮してしまったらどうしよう」という一種のジレンマがあった。しかし、見終わると同時に興奮もしないし、撮影している現場に殴り込みをかけ、全てを壊したくなる衝動にかられたのだ。しかし、バクシーシや出演している男優と同じ視点で安心して見ている自分にも気づいてしまうのだ。「男」であるという理由だけで、性暴力にさらされる危険性があまりにも低く、ビデオを見ていられるのだから。
 その意味で、女性がこの映像を見終わった時とは違う。例えば浅野千恵氏はこのビデオに対する感想を次のように述べている。
 「私はこのビデオを視聴することによって、かなりの精神的打撃をうけた。たとえば、楽しい気分でいるときにも、とつぜんビデオの映像がよみがえってきて、不安定になったり、精神的に落ち込んだり、人間不信におちいったり、世の中に対する絶望感にうちのめされたりした。また、ビデオの中で用いられていた特定の表現や行為・対象を日常生活の中で発見すると心臓がどきどきして、恐怖に陥った。二年以上経過した現在(一九九八年六月)においてもこのような状態からまだ完全には立ち直っていない」*3)

 レイプをあっせんする宮台真司

 しかし、このようなビデオの犯罪性を隠蔽するような動きも出ている。宮台真司は、バクシーシのビデオに多くの男優をあっせんしている。その理由として、「性的な弱者」である「もてない男」や「仮想現実の性的嗜好を持った男」をビデオに出演させることで、彼の幻想を実現させることによって社会的な適応能力を身につけていくというものだ。
 例えば、宮台真司は、上野千鶴子との対談で
 「バクシーシ山下のビデオには変態もレイプ犯も出てきます。多くはぼくの友人でもある。でも、バーチャルなんです。バーチャルといっても生身が相手ですが、演技空間での行動を通じて、やはりガス抜きができている。使用前、使用後でいえば、使用後には明らかに攻撃衝動が減っているし、自分自身がこの世界にいてもいいという承認も獲得できているんです。」*4)
 
 では、このビデオがバーチャルなのかバーチャルでないのかが問われてくるのだが、バクシーシは彼の作品について、出版した「セックス障害者たち」(太田出版)において、「撮影の際に男優や女優に全てのシナリオを知らせずに映像化していることがほとんどだった」と告白している。
 その上でバクシーシは、レイプビデオを撮影するらしいが、その著書で男優の暴力性を何の惜しげもなく紹介している(ある意味でその暴力性とレイプとの関係に無自覚だからここまでいえるのだろう)。
 「(ある男優について触れて)レイプ役が似合ってるんですよ。迫力あるし、どこまで演技なのか、僕にも判らないくらいですから。僕が見る限りでは、本気でやってるとしか思えない(笑)」*5)
 「何の迷いもなくガバッて襲いかかって、しかも中で射精しちゃったんですよ。本人は本気でレイプしてるつもりだったんでしょう。」*6)
「(元自衛官あがりの男優)もひどいヤツで、本気で女の子を殴るんですよ。しかも正拳で鼻とか殴ってるんです。本当のレイプだと思ってるから仕方ないんですけど、これは痛かったでしょうね」*7)
 これらの証言からは、バクシーシや宮台が「フィクション」とか「バーチャル」だと述べ、「レイプではない」という主張がむなしく響くだけにしか聞こえない。出演者にことの全ても話さずに、女性の合意を破棄してまで行われる現場は、「レイプではない」というところで境界線はつけられない。むしろ、その二分法そのものに問題があるのだ。要するに、この撮影は監督がいくら演技と称したとしても、男優から見れば「本当のレイプ」だったのだ。あるいは、出演女性が肉体的・精神的に受けた暴力や合意していない内容の強要などが、「契約書」へのサインということだけで、人権侵害が平気で行われる現場なのだ。
 さらに、バクシーシがレイプビデオを撮影する心得として次のように述べているのは興味深い。
 「しかもこのレイプって、女がずっと震えてるじゃないですか。これは演技じゃできないですから。本当に怖かったんだと思いますよ。泣いたり喚いたりしないし、実際のレイプに限りなく近い感じですね。本当に怖い目にあった女の子の表情が、すごくよく撮れてますね。」*8)
 こうなると、このような撮影現場を「バーチャル」として共有化している宮台の滑稽さと犯罪性も浮き彫りになるというものだ。恐らく、大半がこのビデオを宮台のように「バーチャル」であると片づけることに異議を唱えないだろうが、その意識がこのようなポルノグラフィを合法化させる余地をあたえるのだろう。

 ポルノグラフィは何をもたらすのか

 ではバクシーシのビデオは何を意味しているのだろうか。
 このビデオが、苦痛に顔をゆがめる女性のシーンをこの上ない喜びと感じる感性や、人間を虫けらのように殺せる感性を養うビデオというだけではないだろう。
 バクシーシは、撮影する手法が「天才的」だとポルノグラフィ界やサブカルチャー界でもてはやされている。今でもその筋では売れっ子らしい。私には、撮影手法なんて判ったものじゃないけど、彼の写すものは良かれ悪しかれ、ポルノグラフィの撮影現場の裏表すべてを映し出していると思う。バクシーシは、撮影の裏までをも見せることで、出演女性の品格をおとしめ、「この女性ならレイプされても」と見ている者を思わせることに成功した。と同時にポルノグラフィの現場とは、このような差別と暴力装置で防衛されていることを、その「撮影手法」が証明しているのだ。「契約書」へのサインから「ちゃんとやることやれ」、「お前わかってきてるんだろ」という恫喝や暴力は、出演女性の置かれる状況をとらえたものだ。私たちは、その裏側をポルノグラフィの中で見ていなかったことになる。
 そこから導き出される問題として二つあると思う。
 一つは、ポルノグラフィは「バーチャル」な世界ではなく現実なのだということ。契約をすれば逃げられず、暴行を加えられ、セックスを強要してもいいというポルノグラフィの現場があるということだ。これは、契約を交わすことによって成り立つ「親しい仲」であるカップルでの暴力やレイプの発生と重なる部分があり、DV(ドメスティック・バイオレンス)被害者がこのビデオを見たら、全く同じような状況に立たされていると感じるだろう。
 もう一つは、ポルノグラフィを見た男性がもつ、宮台のいうような「ガス抜き」と称した女性に対する暴力の可能性である。このビデオが極端ではあるが、ポルノグラフィは、そのイデオロギー性において、女性に向けられる差別や暴力性を規定している。すなわち、ポルノグラフィによってつくられた意識が、女性に対してどのように抑圧的であるかが問われるのだ。
 二つの問題は、男性と女性とのダブルスタンダードに支えられていることも重要だ。
 同時に、私たち男性の欲望表現としてのポルノグラフィは、大量なカネを介在させた女性への支配装置としての役割をはたしていることも、指摘されるべきだろう。それは当然にも暴力を介在させて成り立っている。消費され続けるポルノグラフィの表現形式は、ソフトモノからレイプモノに至るまで、暴力装置と契約書によって女性の自由を奪い、製作されているということになる。そして、女性への性暴力を含めた人権侵害が公然と行われることも多いだろう。*9)しかし、私たち男性は、その憎悪と悲しみを見ていなかったことになる。憎悪や悲しみが映らない部分で私たちはマスターベーションをしていたのだ。
 以前、私は嬉々としてポルノグラフィを見ていたことがあった。
 小学校の時分から、仲間内でポルノグラフィを共有し、その「フィルター」を通して女性を見ていた。学校から帰ると、ポルノグラフィを隠してある「秘密の場所」に行き、みんなで悶々とした気分を味わっていた。その空間は、ポルノグラフィを見る(あるいは小説などを読む)ことによって、集団的な心理が働き重大な事件につながるような現象が生まれたりする。
 例えば、私を含め友人複数でポルノグラフィを見ていると、友人が思いついたかのように「通行しているヒト(女性)を襲っちゃおうか」という話になった(小学校六年生だった)。その中の何人かがそれに反対し事なきを得たが、これはバーチャルな世界を現実に変える程の迫力をポルノグラフィは持っている一つの事例だと思う。それと同時に仲間同士で集団的な強迫観念にとりつかれたように、女性を襲うことに反対するものが「意気地のないヤツ」とか「おまえホモかよ」とかいわれていたことも事実だ。それは「男になる」ことを通じて男性の性規範を強制する役割を果たしたし、その規範に違和感を感じている者を男性と認めない空間だったように思う。
 繰り返すが、ポルノグラフィとは幻想の世界であると同時に現実でもある。このイデオロギー装置には、男性が都合の良いときに消費する「商品としての女性」という記号が組み込まれている。「商品としての女性」は、男性の仮想現実にあわせセクシャリティを作らされ、その規範にあわない人間を「価値あるもの」として認めない。日々車内広告に繰り出される、若い女性のグラビアはアイドルを次々と生み出している。しかし、次々と女性が変わり、自分の「商品価値」を維持するために次々と着ている服をはがされ、ヌードグラビアに変貌していく女性たちの姿は、私たち男性の「視線の政治学」に規定されている。あるいは、年齢や容姿、スタイルなどにつきまとわされる女性たち。摂食障害を持つ女性の大半が、その理由として男性からの「視線」を感じていたのだ。人間はそれぞれがそれぞれのセクシャリティをもっても良いはずなのに、それを疎外する強制装置でもある男性の「視線」とその力関係。現在でもポルノグラフィを所有している男性は、幻想レベルの消費される「商品」の領域から抜け出せない「女性」との関係性だけが本当の「女性」であると錯覚する。その域を克服できずに会社や社会的な運動を担う重要なポストに就いている人間がいるとすれば、重大な問題となるだろう。現にセクハラなどの事件を見れば、それは現実的な問題となっている。

 男の「芸術」とジェンダー変数

 では話をすすめよう。上野氏は「カメラマン」という、カメラを覗く人がまず男性であったことを指摘する。
 「近代に『視線の優位』が確立して以来、「見る主体」は常に男であった。」「フェミニズム批評がアートの領域に及ぶことによって、芸術至上主義の名によって守られていた性的なスキャンダルが次々に暴かれていく。」
 これは、男性の「芸術」という名のもとに賞賛された作品を、次々にジェンダー変数で力関係を暴いていく。前章のノートで見たようなマネ作の「草上昼餐」の絵のように、公的な場所で女性がヌードとしてさらされ、男性は制服を着て一時を過ごしているような構図が、何の疑問もなく描かれていた。それは、現在でも変わらない。日本のフェミニストの作品などによっても精力的に批評されてきていることは、上野氏の著作からも伺うことができる。
 その中での「芸術」という名を借りた男性の作品の中に「ポルノグラフィーとの境界線を引くのは難しい」と上野氏は述べている。
 上野氏はその上に立って、ジェンダー変数を導入して次のような四類型を行い、個別に分析している。
  氈@ 男が女を撮る
    女が女を撮る
  。  女が男を撮る
  「  男が男を撮る
 中でも特筆すべきなのは「女が女を撮る」という視点が、男性のポルノグラフィなどのジェンダー非対称の視線にからめ取られ、その視線からの脱却をはかっている女性たちの様を伺い知ることができて私として勉強になった。
 「女がカメラのファインダーの向こう側にまわった時、女はやはり女を撮った。女はあまりに深く『見られる客体』であることに慣れていたために『視る主体』にまわっても、対象に自分自身を持ってくるほかなかった。女性写真家がしばしばセルフ・ポートレイトを撮るのはそのためである。」
 上野氏はこのように述べ、女性の作品を紹介していく。中でもダイアナ・ブロック作の鏡併せになった女性二人が安心したような表情をしているヌードは、男性が消費するポルノグラフィのような攻撃性を全く感じさせない。逆に言えば、これは「男に感じてもらうためではないの」といったようなメッセージ性と「女性同士だから安らげるのだ」と訴えているような構図だ。上野氏も彼女の作品を「それは異性によって対象化されることを待っているボディではない。女同士は互いに似たものとして自足的に相手を写しあっている」と述べている。
 女性たちがこのような自分たちに向けられる「視線」を、自分たちが視線を主体的に構成することによってメッセージ性を変えた。男性に「視られる側」として作られたセクシャリティから、「自分たちのセクシャリティの発見」というきわめて主体的なファインダーの戦略をもっていることを改めて知ることができた。
 また、上野氏は、その対象系として男が男を撮った場合というケースを取り上げているがこの視点もなかなかおもしろい。一つは非常に、「あまりにも無防備で無力な」性的対象としての同性を撮るケースや鍛え上げられ筋肉質で黒く焼けた身体によって男性性を表現しているものなどである。これらは、男性が性的に求める女性の身体のありかたと、男性のそれと著しく同様なポーズであることに気づく。あるいは、「男らしさ」の身体のあり方の基準がいかに「強さ」や「たくましさ」の鎧で守ろうとしているかが伺える。
 男性がファインダーからとらえた「芸術性」とは、対象が無防備に自分を迎え入れてくれる存在として、あるいは攻撃的に相手を自分の支配下におくような構図によってのみ、高く評価される。そして、それが発情する重要な記号として成立している作品が大部分をしめていることになる。私たちは、この「視る側」としての立場から、その問題性を、ポルノグラフィの問題やフェミニズム批評を機軸としながら、自分自身のセクシャリティを見つめ直す必要性がある。これは、私たち男性が自身を取り戻す「視線の政治性」だと思う。
 上野氏は、フェミニズムを通過した後の男性が自身の身体を見つめ返している作業に触れ次のように結論づける。
「これは、女が欲望するボディでもなければ、男が陶酔するボディでもない」
自分のポートレイトを男性が撮ることによって
「そこにあるがままのものとして、男が美しくもたくましくもない自分の肉体を見据えることができるようになった」
と述べている。そして
「女の目に自己像がどう映るかを気にしはじめた男たちが、自分自身のボディに向かう時、彼らも女が経験した自己解体や自己疎外を味わうことになるのだろうか。」
 上野氏のこの指摘は楽観論のようにも聞こえる。しかし、私自身の身体が私自身だけのものだと感じられる社会を、セクシャリティが個別に開花するような次元を、私も夢みたい。

*1)「暴力、ポルノグラフィ、女性憎悪―ダイアナ・ラッセルとのインタビュー 」
より「かけはし」(九八年四月六日号)
*2)「セックスワーカーを搾取しないフェミニズムであるために」(シリーズ「女
性と心理」第二巻セクシャリティ・新水社 所収)
*3)同右
*4)宮台・上野「対談 メディア・性・家族」(『論座』98年7月号所収)
*5〜8)バクシーシ山下「セックス障害者たち」(太田出版) 
*9)日本の現行法では、ポルノグラフィに対する規制はきわめて限定的で
   あり、「わいせつ物領布罪」が存在するのみである。犯罪あるいは犯罪
   的な ビデオであってもビデオ倫理委員会が承諾することによって流通
   してしまう。私は、直接的なAVに出演する女性の異議申し立てを聞
   くための回路をもっと整備し、その訴えや視聴者からの糾弾に対して
   どのようにポルノグラフィを扱うかを巡って議論の場やその上での法
   規制は存在すべきだと思う。その意味で後述する上野氏の権力と表現
   の自由をめぐる考え方には異論がある。   

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