水底のオアシスコラム>ヒキコモリ

 

ヒキコモリについて

 


 ヒキコモリは良くない。学校へ行きなさい。
 親が言う。
 なぜヒキコモリはいけないのか?
 それが理屈で納得できないと、自分が引きこもった原因を推してまで学校に行くことは出来ない。
 学校に行かないまま大人になったらどうなるのか?
 本当に幸せに生きられないのだろうか?
 このコラムはそこを分かりやすく説明するための物だ。

 中学、高校くらいになってくると自我が芽生えてきて、親への返事もYESだけじゃあなくなってくる。
 反抗期の正体だ。
 いろいろ外部と接触してぐんぐん脳のシナプスが繋がってどんどん色んな事が分かってくると、絶対視してた大人の中にクズが居ることもだんだん分かってくる。
 親の言うことに間違いはないだろうからと、これまでは親が決めた規則をなんとなく守ってきた。
 だが、自分の頭で考えるようになれば親も人間だって事はすぐに分かる。
 彼らの論理に矛盾がウヨウヨしてることに、すぐに気が付く。
 理不尽にぶん殴られたり、罵倒されたり、罰を受けたり。
 親を絶対視してたガキの頃なら耐えられるかも知れないが、どう考えても納得できない。
 じゃあどうする?
 だから、YESで答えることを辞めざるを得なくなる。
 それはごく自然な事だ。
 余談だけど、親が他人の意見を聞かないタイプだと、反抗期の時きついよな。
 増長するヤツとかね。威厳見せようとしてより横暴になったりして。もう、付き合ってらんない。
 で、まあおれは家を出ちゃったんだけどさ。

 自我が目覚めてくると、学校での意識も変わってくる。
 個性を出そうとして、マニアックな物を好んだりする。そう言う場合は大抵、真価を分からずに信仰している場合が多いので、大人になると恥ずかしく思ったりする。おれもさして好きでもないグロ写真を友達に見せてすげえすげえ言ったもんだ。
 この頃から他人と意見が衝突し出す。
 むやみに他人を否定したり、貶(けな)したりするヤツも出てくる。
 クラスの中のカースト制度の下の方にいるヤツは存在すら認められてなかったりする。
 頭も良くない、顔も不細工、運動もダメ、取り立てて自慢できる特技もない。
 ま、当然いじめに遭う。
 差別なんて感情は人間の中に普通にあるもんで、無理矢理平等化された今の子供とかなら差別が顕著に現れてしまっても何らおかしい部分はない。至極当然のことだ。
 無理矢理平等化とは「子供が傷付くことをしちゃいけない」ってんで敗者を作らないことね。
 敗者が出ないって事は勝者も出ないって事でさ。それぞれの持ち場で活躍させてやらなきゃフラストレーション溜まるって。
 そういう強(こわ)ばった空気の中では「差別心」ってのが完全にシャットアウトされてるから、抑圧された感情はいつか歪んだ形で爆発する。
 子供は思考回路が充実してなくて、自分でそういうの解消できないからね。
 その歪んだ形ってのがいじめだったりシカトだったりするわけだ。

 いじめに遭うのは、彼らにとって気に入らないヤツだ。
 自分のことをほんとに分かってくれて評価もしてくれる人間には白羽の矢は立たない。
 相手を理解できる人間であれば、いじめから回避できるんだ。
 まあ、子供に相手の気持ちを推し量れと言ったって、無理な話なんだけどさ。そういう訓練もされてないし。
 国教が無く、確固とした倫理観を持たない日本では、相手を理解する事って無茶苦茶難しいんだよ。
 善悪の基準がないし、理想の人間像もないからね。
 生きる意味さえ曖昧になっちまって、ただでさえ「生かされている」って意識が強いのに、「周りが悲しむから生きなさい」「いつか良いことがある」じゃあ、自殺も止められないって。
 歴史から倫理を学ぶことも出来るけど、第二次世界大戦の東京裁判のことがばれるのが恐くて戦勝国がウソを教えてるから、教科書じゃ日本は悪者だろ?これもバツ。
 そう、「相手を否定すればアイデンティティが保たれる」と考えてしまいがちな反抗期には、相手の考えを理解するって事は尚更難しい事なんだ。
 だから、大人が上から平等を押しつけたり「みんな特別なオンリーワン」なんて歌ったりして「いじめ格好悪い」を力説しても、そりゃあピントがずれてる。
 そんなの、平等やオンリーワンを安売りする行為でしかないんだ。

 オンリーワンについて一言。
 最近個性についての見解が甘すぎる。本来「Only.1」は「bP」より難しいものなんだ。
 引きこもって家族と対立することが「個性」か?
 それは単なる「我(が)」だ。わがままは個性でもなんでもない。
 「我」なんて社会に出れば何の役にも立たない。
 社会の中で際だって目立ち、役に立ってこそ「個性」でありオンリーワンだろう。

 相手が理解できず、どうしても意見が合わずに苦しむことがある。
 それは社会に出て、人と接して行くに連れて徐々に解消していけるものなのだが、残念ながら誰でもそうだとは大手を振って言えない。
 社会に出ても、老人になっても、簡単に人と対立して関係を悪くする人はいる。
 そして皮肉なことに、人と意見が合わずに悩み、苦しんでいる人間ほど、相手の気持ちを理解する努力の効率が悪いように思う。
 ボタンを掛け違っている人間の努力は実らないから、努力を無為に思うだろう。
 やがて疲れて拒否反応を起こすようになる。脳みそが、勝手に。
 こうなると人付き合い自体無為に思えてしまうので、とても面倒なことになってしまう。
 人付き合いを拒否しようにも、人間は一人で生きていくことは出来ないからだ。
 孤独な人間は必ず理解者を求める。
 理解者とは、相手の気持ちが分かる人のことだ。
 自分は相手を理解できないのに、相手にばかり理解を求めるとどうなるか。
 負担になる。単なる荷物だ。付き合ってもためにならない。
 ある程度の負担を超えると、徐々に関係を絶たれることになるだろう。
 断たれたほうは、もちろんなぜだか分からない。今まで通りなのに。自分の態度は変わらず、今まで通り付き合っているのに。寝耳に水。
 これは恐い。
 一方的に理解を求める関係は危険だ。
 どちらの時間も無駄に消費するだけで、どちらにも悪影響なのだ。

 核心を突こう。
 基本的に、人は自分を基準に物を考える生き物だから、他人を理解することは出来ない。
 そして、自分の基準に近い人間しか理解できない。
 だから、自分の基準に合わないもの、遠いものは、理解できずに苦しむ。
 おわかりだろうか?
 答えはここにある。
 「自我」という一つの基準に囚われているのだ。

 人間を量る物差しを「自我」の一つしか持ち合わせていない、反抗期のままの人間。
 人はこれをモラトリアム(引き延ばし)という。
 「自我」一つでは、様々な価値観を推し量ることはできない。
 理解したつもりでも、それは「この人はこういう人」と決めつけているだけだ。
 ならば他者と触れてもゆるがない「自我」を形成する事が他人を理解する近道だろうか。
 もしくは親や隣人と対立し、自分の価値観を認めさせる事が理解する近道なのか。
 違う。
 それは相手を理解することを拒否しただけで、理解ではない。

 ならば、決めつけでなく正確に相手を理解するにはどうするか。
 「自我」から距離を置くことだ。
 たくさんの価値観を、正誤性抜きに把握し、理解していく。
 自分の価値観と遠いものを主観で切り捨てることなく、あるがままを正確に把握する。
 そう努力することこそが、人心を理解する努力なのではないだろうか。

 ヒキコモリの危険性はここにある。
 学校や会社など、「たくさんの価値観がひしめく社会」を見ることが出来ない。
 情報を得ることはあっても、真偽は分かり得ない。即ち知識ではない。
 TV、新聞、文献、コンピューターは平面世界であり、表情、雰囲気、温度が把握しづらいのだ。
 「自我」という灯火一つでは、心という闇を照らすことは出来ず、闇を手探りで進むしかない。
 だから、社会に触れることが人を理解する近道なのだ。
 社会に出て快適に過ごすには重要視される必要があるのだが、その人格形成のお話はまたいつかさせて頂くとして、当面の問題はこれだ。
 個性を鍛えて社会に触れなければ、孤独に立ち向かうことが出来なくなってしまうのである。
 
 ヒキコモリはモラトリアムを作ることに他ならない。




コラムへ
TOPへ