闇黒日記2.0

一言メッセージ :福田恆存の名前を利用して嫌がらせを働くインターネットストーカー喜六郎(Kirokuro)の犯罪行爲に抗議する

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正字正かな

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「擬似科学批判」としての正かな派の立場

「現代仮名遣」は樣々な問題を抱へてゐる。が、その最大の問題は、批判が不可能である、と云ふ事だ。「これは正しいのだから、国民は黙って従わなければならないのである」と云ふ發想から、「現代仮名遣」は「正書法」として定められてゐる。
それに對して、歴史的假名遣は、科學的である。明治政府は、國語の基準を定めるのに、「新しい国語」を創作する事をせず、既存の契沖の復古假名遣を採用した。それは近代的なものであり、近代的な國家を築く基礎として、採用するにふさはしかつたからである。
けれども、歴史的假名遣は、再三の訂正が行はれた。それを「アンチ歴史的仮名遣い」の人々は「歴史的仮名遣いの欠陥」と解釋し、非難する。けれども、批判が可能であり、訂正が可能であるのは、歴史的假名遣が科學的だからである。

科學的であるものは、科學的である限り、反證可能性を持つてゐる。「現代仮名遣」は反證可能性を持たない。最初に述べたやうに「正書法だから正しい」と「定められてゐる」からである。
さうした「現代仮名遣」を批判して、我々正かな派は繰返し批判を行つてゐる。
そこでは、「現代仮名遣」を批判するのみならず、歴史的假名遣批判も當然ながら行つてゐる。その過程で、「歴史的假名遣は明治政府の創作である」とする非難に遭遇する事になつた。
これに對して、先づ正かな派は反論を試みたが、同時に正かな派は「明治政府が採用した固定的な規範としての歴史的假名遣」と云ふ用語の存在する事に、何うしても氣附かされる事となつた。

一方、正かな派は、「現代仮名遣」を「新仮名遣い」と稱する事に對して反論を試み、そこで存在する「旧仮名遣い」なるものについて、反省を強ひられた。ところが、「旧仮名遣い」なるものの存在は――寧ろ曖昧である事が自覺された。「現代仮名遣」以前の「仮名遣い」を「旧仮名遣い」と言ふ、と云ふ定義では、我々が現に使用してゐる假名遣を指して言ふ事は不可能であるが、同時に、具體的な規範として考へる事も不可能であつた。
「旧かな」――一體それは、具體的にどのやうなものであり得るのだらうか。

例へば、源氏物語の假名遣、宣長の假名遣――さう云ふものが、國文學では研究對象となる。そして、「明治政府が採用した歴史的假名遣と云ふ固定的な一つの規範」と比較して、「源氏物語の假名遣」には「異るものがある」、「宣長の假名遣」には「誤がある」、と評される。
のみならず、徒然草やら僞紫田舎源氏やら、浮世風呂でも何でも良い、さう云つたものに見られる「かなづかひ」は、「歴史的假名遣」と區別される許りではない、兔に角全部異るのである。さう言つたものを全て「旧かな」と一纏めに稱する事は可能か。
――可能だとしたら、それは「現代仮名遣」以前と云ふ亂暴な括りにせざるをえないが、では、現代人が書くものが「現代仮名遣」と異る、「昔風」の假名遣を用ゐたとしたら、それは何なのだらうか。「旧かな」と稱する事は、定義からして不可能である。それを「可能だ」としたところに、例へば松永氏の誤がある。

過去の或種の假名遣・「現代仮名遣」以前(或は、一部はそれ以後も)用ゐられて來た或種のかなづかひについて、我々は總稱を提案しなければならなかつた。「歴史的假名遣」については「明治政府」以後のものとされるのだから、別の名稱が必要である。「旧仮名遣い」は「現代も用ゐられる」のであるならば當然不可能である。
我々正かな派は、改めて、我々自身が用ゐてゐるかなづかひについて、反省が必要となつた。そこでは我々は、我々が「より正しい書き方」を求めてゐる事實を發見した――否、既に福田恆存に發見されてゐたのである。
實は、徒然草でも方丈記でも、浮世風呂でも、宗祇や芭蕉の發句でも、全て書き手は、それが具體的にどのやうなものかについて確信が無いまゝに、しかしそれでも「正しい書き方がある」と云ふ確信を持つて、それぞれ獨自の書き方をしてゐた。
さうした「正しい書き方への確信」或は「信仰」に基いた「日本語を書く態度」――これこそが日本人の傳統的な「かなづかひ」に對する態度であつたと言ふ事が出來る。斯うした心理的な考察を基に、我々は使用者が「正しさ」の存在を信ずるがゆゑの「かなづかひ」と云ふ意味で、「正かなづかひ」と稱したのであつた。
即ち、自分自身の正しさを振りかざすとか誇るとか、そんな事とは全く關係なく、ただひたすら内容に基づいて「正しさを志向する假名遣」として「正かなづかひ」と言つたのである。

然るに、さうした正かな派の立場を一切斟酌する事なく、「正かな」の「正」と云ふ字に拘つて、その言葉を用ゐる人間を「正しさを振りかざすもの」と勝手に極附けて、「傲慢だ」「威張るな」と非難する人々が出現した。
斯うした解釋は、圍碁の用語で言ふ「勝手讀み」であるが、誤讀である。誤讀に基いた批判は誤つた批判でしかない。正かな派は、彼らの誤つた批判を誤つた批判だと指摘した。ところが、それを「正しさを振りかざす証拠」だと、彼らアンチは極附けた。アンチは、理解を拒んだのだ。
或は、アンチは、正かな派の主張を理解出來なかつた。それは、自分が知るものと全く異る價値觀の提示だつたからだ。しかし、ただ自分が理解できないからと言つて、即座にその價値觀を否定する事は許されない。檢討を經た上で、態度を決定する事は、當然である。ところが、アンチはさうした檢討を最初から「する必要はない」と極附けた。餘りにも自分の「常識」と懸離れてゐたからである。
しかし、「常識と懸離れてゐる」事が、即座に誤であると言ふ事は出來ない。アインシュタインの宇宙物理學にしても、量子力學にしても、常識とは懸離れてゐるが、それだけを理由に誤と極附ける事は出來ない。
そして、實際、正かなづかひは科學的なのである。「現代仮名遣」は非科學的なのであるが、それに比べれば正かなづかひは遙かに科學的である。勿論、その科學とは、人文科學であるが、人文科學だから全て非論理的で良いと云ふ話にはならない、人文科學にも人文科學なりの方法論があるのであり、論理がある。正かなづかひは一つの観念であるが、人文科學の方法によつて十分檢討が可能である。「現代仮名遣」は、絶對的に、批判が不可能である。

科學的な立場を非難する人々は――國語以外の領域では案外常識的であるものである。しかし、國語となると途端に非科學的で、自己中心的な、勝手な態度を、さう云つた人々も平氣でとり始める。
それは、彼らが國語を舐め切つてゐるからである。だからこそ、好い加減で・非科學的な方法で、國語を弄る事を認め、或はその成果物としての「現代仮名遣」を受容れてしまふ。そして、より科學的な正かなづかひを敵視し、正かなづかひの立場から「現代仮名遣」を批判する態度を憎惡してしまふ。それは、擬似科學批判を憎惡する、「トンデモの人」「電波を受信してゐる人」の態度と何ら變りがない。松永氏が「正かな派」を罵倒する態度は、擬似科學批判を罵倒するのと全く同じであり、「トンデモ」の人の態度と全く同じである。ところが、「トンデモ」の人でも自分は十分科學的で論理的だと、常に確信してゐるものである。ところがさう云ふ人が持出す論理は、大抵異常で、論者の「絶對的確信」に基いたものであり、認め難い。松永氏の「ブログ」には、主觀的な價値判斷の文句が大量に現れる。松永氏が「トンデモの人」である明かな證據である。
が、松永氏に限らない。多くの日本人が、國語に對しては「トンデモ」な態度を平然と取り、正かな派の態度を「擬似科學」だと簡單に斷じて安心してしまつてゐるのである。ならば「現代仮名遣」は科學的か――正かな派がさう疑問を呈すると「科学は関係ない」と言出すのも彼らである。目茶苦茶もいいところだが、「トンデモ」の人にその論理の目茶苦茶である所以を説いても、理解して貰へない。

正かな派の主張は、假名遣ひが科學的であるべき事、そして國語を舐めるなと云ふ事の、二つである。

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ちなみに、この記事は、正かなの事をまるで理解してをらず、ひたすら自分定義で罵倒を繰返す、松永氏を批判して書いた。

http://d.hatena.ne.jp/matsunaga/20090418#1240052626

2009/4/20(月) 午前 2:47 [ nozakitakehide ]

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松永氏が頑なに「固定的な規範としての仮名遣い」を要求してゐる事は、氏が斯う述べてゐる事で解る。

>わたしは、邪字邪かなが決してすっきりしたものであるとは思わないが、「これぞ正字正かな」「これぞ正統表記」というようなものも幻想だと思っているのである。

馬鹿げた非難だ。

しかし、松永氏は、わざと馬鹿げた事を言つて、「馬鹿」と非難させようとしてゐるのでないか。さうした非難を浴びせる行爲を、松永氏は喜んで待構へてゐるのである。

>「異見」に対して「反論」ではなく「バカバカ」としか言えない人は、議論の対象にならない。

「異見」等と稱してゐるが、松永氏は、正しく相手の主張を理解しようとせず、ひたすら「俺定義」に基づいて他人を罵つてゐるのだから、「馬鹿」と批判されても仕方がない。ところが、松永氏は、再び「俺定義」に基づいて、何であれ「馬鹿」と言つたらそれは「議論をしようとしない決定的な證據」だと言張るのである。

松永氏は、自分が「俺定義」「俺ルール」に基づいて他人を罵つてゐる。そしてその自覺がない。
處置なしだ。

2009/4/20(月) 午前 2:51 [ nozakitakehide ]

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>私はここで「自分はこう考える」ということを淡々と述べているだけである。

「私」「私」「私」。「自分はこう考える」。正にさうだ。
他人が何う考へてゐるかを全く見ようとせず、「自分はこう考える」とひたすら言ひ續ける。

「自分」と云ふ殻の中に閉籠つてゐる時點で、松永氏がコミュニケートを拒絶してゐる事は明かだ。ところが、そんな「自分」を理解して呉れないと松永氏は泣くのだ。何て情けない人だらう。

2009/4/20(月) 午前 2:53 [ nozakitakehide ]

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しかし、さう云ふ泣き言を言つて、自分を防衞しようとする態度は、松永氏だけではない、多くの人が當り前のやうに思つて、實踐してゐるのだ。

「私は私の考へを述べてゐるだけです」――「述べてゐるだけ」なんて事はあり得ない。ウェブと云ふ、誰でも讀める場で物を言ふのは、「他人にも自分と同じやうに思つて欲しい」から言ふのだ。松永氏が「自分の考え」を言つたとしても、それを松永氏は他人も「持つて欲しい」と考へてゐる。ならばそれは既に「思想の押附け」を意圖してゐるのだ。

全て公開の場で行はれた發言は、思想の押附けであり、正義の押附けである。

如何に「自分の考え」を謙虚に述べたに過ぎないかのやうに裝つても、松永氏は自分の信ずる「正しさ」を振りかざしてゐるのである。そもそも、全ての人間が正しいと信ずる事を持つてをり、それを表明する事が發言である。ウェブでも何處でも、發言は全て「正しさを振りかざす」行爲にほかならない。

松永氏にはさうした自覺がない。とぼけてゐるのである。とぼけた方が、自分の信ずる事を他人にも信じ込ませるのに有利だからである。

2009/4/20(月) 午前 2:57 [ nozakitakehide ]

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>そして、つきつめればつきつめるほど、「正しい日本語」なるものが幻想であるという事実にぶつかってしまうのである。

私にはさう云ふ態度こそ、受容れ難い。そもそも、「全てのヴァリアントを許容する」と松永氏は言つてゐるけれども、「許容」と言つてゐるから松永氏は解らないのだ。

松永氏の言つてゐる事は、「全てのヴァリアントは全て正しいのである」と云ふ主張にほかならない。ならば、松永氏もまた正しさを振りかざしてゐるのだが、「許容」等と寛容さうな印象を與へる言葉を用ゐてゐるから、松永氏は自分がまるで優しい人間になつたかのやうに錯覺できる。しかし、松永氏の文章の書き方を見れば、馬鹿でなければ誰でも分る、松永氏は實に傲然と、自分の立場を・自分の正義を主張してゐる。とぼけるのも好い加減にしてほしいと私は言ひたい。

2009/4/20(月) 午前 3:02 [ nozakitakehide ]

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そもそも、松永氏の許し難いのは、定家假名遣から契冲假名遣を經て、明治以後にも假名遣に關する研究があつた歴史的事實を、徹底的に否定してゐる事だ。
松永氏は、歴史的な學問の發展を否定してゐる。これは學問を冒涜するものだ。
定家にしても契沖にしても、正しい假名遣がある筈だ、と云ふ確信を持つてゐた。だからこそ、彼らは假名遣を研究したのだ。彼らは研究者だつた。研究者の研究の結果、成立した幾つかの規範を、多くの人々が利用した。けれども、さうした規範を墨守しようとした事は、研究者當人の意圖に適つた事だつたか。

2009/4/20(月) 午前 3:06 [ nozakitakehide ]

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私は思ふのだ。研究者であつた定家も契沖も、より正しいものが提示されれば、それを認め、受容れたに違ひない、と云ふ事を。彼らは、正しい國語がある、と云ふ確信を懷いてゐた。

それを松永氏は徹底して否定する。松永氏は、墨守された規範を、それぞれ「正しい」ものと認める、と言ひ、「より正しい」ものは絶對に無い、あり得ない、あつてたまるか、あつたら嫌だ、と激しく主張する。

これは、學問の否定であり、研究の否定である。
松永氏は、何としてでも學問を否定し、研究を否定しなければならない立場に追ひ込まれた。が、それは、研究の成果でも學問の成果でもない「現代仮名遣」を肯定する爲には當然の事であつた。

2009/4/20(月) 午前 3:08 [ nozakitakehide ]

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要は、「現代仮名遣」を肯定する爲には、學問や研究を否定しなければならなくなる、と云ふ事。けれども、それは科學の根本的な否定と同義だ。

私は、學問も研究も、科學そのものも、人間には必要なものだと思つてゐる。だからこそ、それらを否定する態度には抗議せざるを得ない。
擬似科学は、眞面目な科學を冒涜するものである。「現代仮名遣」は眞面目な國語學を冒涜するものである。

正かな派の立場は、擬似科学批判の立場であり、「現代仮名遣」批判の立場である。が、それは結局のところ、「正しさを追求する態度」そのものを擁護する立場である。

2009/4/20(月) 午前 3:12 [ nozakitakehide ]

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松永氏は「正しさを追求する態度」を「正しさを振りかざす態度」に直結させ、罵つてゐる。それは大變危險な行爲だ。
松永氏は、「正しさ」と「正しさに対する態度」とを一致させたいと望んでゐるのである。

既に論じた通り、「言行一致」は大變怪しいものだ。それは、現實と理想とを一致させるべき事を言ふが、その爲に理想を現實レヴェルに引下げる事の主張に即座に轉ずる。

オウムの思想は、結局理想を現實に引下げる事で實現をはかるものとなり、テロに結び附いた。「テロで實現する低レヴェルな理想」を、オウムの信者は持つに至つたのだ。もちろん、それにオウムの信者であつても疑念を抱いてはゐた。が、その疑念が批判に結び附かないところに、理想と現實との直結を願ふ態度の弱點がある。何としてでも結果を出す事に、さうした態度をとる人々は意義を見出してしまふ。

2009/4/20(月) 午前 3:16 [ nozakitakehide ]

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松永氏は「現代仮名遣」にしても定家の假名遣ひにしても、或はその他諸々の事柄にしても、「結果」「成果」であるがゆゑに、その存在を認める事が出來る。

けれども、私が主張するやうな、飽くまで理想としての「正かなづかひ」と云ふものを、「成果を出してゐない」として拒絶する。

そんな松永氏も、をかしなところがある。樣々なヴァリアントの中で、「明治以降の歴史的仮名遣い」だけは絶對に認められないと言ふのである。もし認められるのなら、正かな派が歴史的假名遣で書いてゐるのを「不徹底」とか言つて非難したりはしない筈だ。

松永氏は「明治政府が創作した歴史的仮名遣い」を認めない態度をとりながら、自分は「全てのヴァリアントを許容する」態度をとつてゐるのだと偉さうに宣言する。口から出任せも大概にしろと言ひたいが、松永氏は自分が出任せを言つてゐる積りはないのである。相對主義者は常に獨斷的に好き嫌ひを言ふのを當り前だと思つてゐる。

松永氏は安易に自説の例外を認めてしまつてゐる。「現代仮名遣」が安易に例外を作つてゐるのと何か關係があるやうにも見える。

2009/4/20(月) 午前 3:24 [ nozakitakehide ]

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これだけ松永氏の問題點を客觀的に指摘しても、何うせ松永氏は「不当に非難された」としか言ふまい。私の豫言はよく當る。

2009/4/20(月) 午前 3:27 [ nozakitakehide ]

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誤讀を指摘された。松永氏はまともな意見の持主ではないんださうだ。

松永氏は、自分がをかしな人間である事を認めつゝ、「をかしな人間を叩いていい氣になつてゐるんぢやねえよバーカ」と人を嘲笑つてゐたらしい。

松永氏は、「似非科學批判批判」をぶつてゐて、しかしその一方で、似非科學の似非科學たる所以を説いてゐたりするらしい。訣が解らない。

松永氏のところを眞面目に讀んでゐたら氣が狂ひさうになるのでまともに讀まないで書いたら誤讀した。正直すまなかつた。


ちなみに、喜六郎のところも全然讀んでない。讀まなくても人生何も變らないし。
何も得るところのない文章を讀む事くらゐ空しい事もない。

2009/4/21(火) 午前 2:06 [ nozakitakehide ]

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何うでも良いが何でうちのWXGは「名に萌えるところのない文章を」と誤變換して呉れるのだらう。

2009/4/21(火) 午前 2:06 [ nozakitakehide ]

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がはは、それはつらいですね。一噌の事、SKK にされてはいかがですか:-pと云ふのは冗談としても、「なにも『う』るところのない」としてもダメですか?(「名にも賣るところのない」になつたりして。)

閑話旧題。
科学、似非科学のくくりで假名遣ひを論じる事自体にそもそも無理が有ると思ひますよ。これがどなたの発明か存じませんが、松原先生の「ご先祖様の流儀」の方が断然しつくり来ると思ひます。何より価値中立を旨とするのが科学なのに、「正義」云々を持ち込んだ時点で自己矛盾でせう。 削除

2009/4/21(火) 午後 2:34 [ gahahayoumustbekidding ]

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他人を貶す爲にSKKや科學を引き合ひに出すのはあまり氣分の良いものではありませんね。どちらもそんな野暮に使ふ道具ではありませんよ。

閑話休題。
科學は眞理追求の一手段です。どのやうな「假説」を唱へるのも自由ですが、全ての反論を退けられないとなりません。全ての反論を退けられた假説が、眞理に近いと言へるわけです。さういふ方法であります。假名遣ひについても同じであり、それは論理的な手段で正しい假名遣ひを追求する方法論です。「論理的に眞理を追求すること」と「論理的に正しい假名遣ひを追求すること」は同じ方法論であり、さうして假名遣ひの追求してきたことが、我々の御先祖樣の流儀であるわけです。どこにも無理や矛盾はありませんね。矛盾と感じるのは理解が足りないからでせう。或は、次元の違ふものを混同して解釋してゐるのでせう。 削除

2009/4/21(火) 午後 10:21 [ 江洲 ]

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人文科學は、價値觀に基いた價値判斷を考へるものであり、そこで重視されるのは公正である事だけです。價値中立なんて事はあり得ません。正義を問題にしない事こそ、人文科學では誤です。

2009/4/21(火) 午後 10:59 [ nozakitakehide ]

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ふーむ、他人を貶すために、ですか。IME の馬鹿さ加減を嘆くのはよく有る風景で、それに他の IME を勧めてみたり、違う「入力」を勧めてみたりもありきたり。これが「貶める」事になるのですか。それに科学は「まだ」引き合いに出してゐません。もう少し言葉を厳密に使つて欲しいものです……なあんて、「閑話旧題」等と書いてちや、あんまり説得力ないですね。すみません。

科学の定義の説明、有り難うございます。でも、それでは、学問一般と代わり映えしないですね。「科学」と云ふからには、やはりここはもう少し厳密に「仮説の提唱とその検証」かつ、「その仮説は反証可能な形でなければならない」とすべきだと思ひます。「論理的な真理の追及」では十分ではない。とは言え、他の学問(数学、歴史学)を軽んじてゐる訣ではないですよ、勿論。対象によつてアプローチが違ふべきだ、と申し上げているだけです。

従って、假名遣ひの研究がどのやうな「反証可能な仮説」を積み上げてきたのかを云つて頂かないと、それが「科学」であると俄かに頷首はできない、と私は思ひます。 削除

2009/4/22(水) 午後 1:53 [ gahahayoumustbekidding ]

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橋本進吉つて御存じですか。岩波書店から著作集が出てゐます。最初の方の卷を讀めば充分ですから讀んでください。ウェブでも一部讀めます。
「さふらふ」か「さうらふ」か、なんて論文があります。
http://home.q02.itscom.net/tosyokan/data2/HASIMOTO013.txt
かなづかひに關してはちやんと國語學の方法で研究が行はれてゐます。ちやんと學問的に行はれてゐるのですから、疑ひやうもありません。事實として研究があるのですから、理窟を言つても仕方がないでせう。理窟なら何とでも言へますから。

2009/4/22(水) 午後 2:56 [ nozakitakehide ]

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また、ここで一々説明するまでもなく、既に當方のウェブサイトで簡單な説明をしてゐます。
http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/kokugo/rekishi/
http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/kokugo/rekishi/FukkoKanadsukahi.html
假名遣の研究としては、定家以來、契沖や宣長と言つた偉い人のものがあります。他にも國文法の研究(富士谷成章「あゆひ抄」その他)など(時枝誠記が『日本ニ於ル言語觀念ノ發達及言語研究ノ目的ト其ノ方法(明治以前)』で江戸時代以來の研究を纏めて採上げてゐる)も假名遣ひ研究の周邊に含めて良いと思ひます。

2009/4/22(水) 午後 3:03 [ nozakitakehide ]

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野嵜さん、申し訳ないですが、暫く黙つてゐて頂けないですか?私達(江州さんと私)は「科学」の話をしているので、「学問」の方は後でゆつくりやりませう。 削除

2009/4/22(水) 午後 3:09 [ gahahayoumustbekidding ]

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一方で、gさんに御尋ねしたいのですが――skkには「結果として歴史的假名遣で正確に入力できる」以外にメリットつてあるんですか。
skkの入力法式は、人間の思考とどれほど適合するのですか。

――人文科學の方法は、自然科學の方法と違ひます。けれども、基本的に方法論があり、それは自然科學的でなくとも、人文科學的にちやんと檢討の方法があります。が、自然科學と全く同じ觀點での反證可能性を執拗に要求する事で、人文科學獨自の態度を否定しようとする人がゐます。それだけは避けてもらひたいものです。人文科學の領域においても、ちやんと反證可能性だの何だのの原則は當嵌ります。が、それは自然科學の純客觀の方法とは異ります。そこに文句をつけてもらつては困ります。

2009/4/22(水) 午後 3:09 [ nozakitakehide ]

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あれれ、議論しようとしてゐたら「默れ」と言はれたよ。何この人。なんで對話を拒絶するの。

もしかしてgさんつて、「一對一」で「對話」するものだと思つてゐるのかな。ここはウェブだよ。誰でも議論に參加出來るんだよ。わかる?

2009/4/22(水) 午後 3:11 [ nozakitakehide ]

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すみません、全然違ふ複数の話題について行けないのです。拒否しているのではなくて、間に沢山のコメントが繋るとフォローが難しくなるのですよ。(つて、ブログの持ち主に言ふセリフじやないですね。)なんとか、頑張りますので、遅れはご容赦。 削除

2009/4/22(水) 午後 4:06 [ gahahayoumustbekidding ]

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成程、人文「科学」は真性の「科学」とは違うぞ、と。では、野嵜さんの仰る人文科学とは一体どんな学問分野を含むのですか。「仮説とその検証」に代る方法論とは具体的にどのやうなものなんでせう。それは、普通に学問と云ふ時のそれとどのやうに異るものなんでせうか。 削除

2009/4/22(水) 午後 8:51 [ gahahayoumustbekidding ]

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>成程、人文「科学」は真性の「科学」とは違うぞ、と。

あなたは何を言つてゐるんですか。「真性の「科学」」つて何ですか。あなたは馬鹿ですか。

科學の中に自然科學・人文科學があるだけです。それ以外にgさんの頭の中には何か變な「真性の「科学」」があるらしいですね、それは何ですか。私には解りませんね。

間のぬけた反論は馬鹿にしていいと思ひますので、もうg氏の事は馬鹿にするだけで濟ませます。まともな反論をしたらまともに應へます。

2009/4/22(水) 午後 9:01 [ nozakitakehide ]

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それに「遲れ」つて何ですか。考へがあつて私やその他の人々を批判して來たのではなかつたのですか。若しgさんにちやんと考へがあつたのなら、「遲れ」なんてものはあり得ない筈ですね。なぜ「遲れ」が生ずるのですか。

2009/4/22(水) 午後 9:03 [ nozakitakehide ]

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根本的な部分で私の立場は一つです。複數の話題が出ても、根本の部分で私の言つてゐる事は一つです。ですからその根本の部分でgさんは話をすればいいだけの事です。なぜそれが出來ないのか、私には解りません。

私には、私を非難する人々が、私の言つてゐる事の根本の部分を見ないで、話題が分れてゐると、その先の部分だけを見て、兔に角非難しようとするやうに見えるのです。
けれども、私の言つてゐる樣々な事から、私の一番言ひたい事は解る筈です。
――それを解らうとしないで、或は「簡單に解つてしまはう」とする爲に、私の言つてゐる事に就くのでなく、或種の人々を攻撃するパターンに從つて、私を非難してしまふ。松永氏も喜六郎もそのパターンで私を攻撃してゐますが、結局、私の言つてゐる事それ自體を認識すらしてゐない訣です。

2009/4/22(水) 午後 9:08 [ nozakitakehide ]

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gさんは解らないと言つて非難するが、喜六郎は「解つた」積りで非難する。其處が違ふけれども、結局私の言ひたい事をありのまゝに受止めて理解しようとして呉れてゐない點で變りはありません。

2009/4/22(水) 午後 9:09 [ nozakitakehide ]

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>科学の定義の説明、有り難うございます。でも、それでは、学問一般と代わり映えしないですね。

似非科學と科學の相違點は、後者と違ひ前者が眞理追求の手段でないことです。それが示せれば野嵜氏の文脈に則つてゐるので、それ以上に嚴密な定義など持ち出す必要はありません。

あと、假名遣ひの研究云云は岩波の古語辞典でも眺めて察してください。常識があれば、研究がどのやうなものかは大體理解できます。その質問は、水伝の「研究」を鵜呑みにして既存の研究があることすら調べない「好意的讀者」がやらかす愚問と變はりない無意味なものです。 削除

2009/4/22(水) 午後 10:37 [ 江洲 ]

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「遅れ」云々は、私があなたのとは違う時間帯で暮してゐるから、です。寝る前に、江洲さんの反論をお聞きしたかつからです。ちよつとをかしなお願いをしてしまつたのは申し訳ないです。

真性の「科学」とは、私が略述した方法論を厳しく守る学問分野とでも考えて下さい。これの有効性は万人の認める処ですね。ところが、人文「科学」はその方法論とは違ふと仰る。なので、では、それがどんなものか教へて下さい、と申し上げてゐる。さうでなければ、「假名遣ひは科学的であるべき」と言はれてもどうして良いか分らないではないですか。

それに狼狽へないで下さい。なんだか不安になりましたか?野嵜さんの反応は分りやすいですね。あと、非難されている、と思ふのは(何度でも云ひますが)被害妄想です。私はまだ批判さへしていません。 削除

2009/4/23(木) 午前 1:09 [ gahahayoumustbekidding ]

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挑發なハンドルで、明確に「自己矛盾」と論旨を否定する言葉を投げておいて、「まだ批判さへして「ゐ」ない」とは隨分無禮な言ひ草ですね。やはり氏は科學を他人を侮辱する道具としか思つてゐない。

氏の「科學」の定義は狭過ぎて、實際の科學として行はれてゐる行爲には適用できないものです。だから「眞正の」なんて失笑するやうな言葉を付けなければならないのです。で、意圖的に範圍を縛つておいて「お前の科學は科學ではない」だもの。扇動するにしても、こんな幼稚な論理展開ではコピペ荒しと大差ありませんね。 削除

2009/4/23(木) 午前 8:16 [ 江洲 ]

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さうですか、「『科学』に『正義』を持ちこんだら自己矛盾でせう」がどなたかの論旨を否定してゐる、と。私自身には「自明」すぎて自覚が有りませんでした。批判と言へば批判ですね。「まだしてない」は間違ひでした。訂正してお詫び致します。

私がした「定義(方法論)」は、別に私のオリジナルではなく、科学論の入門書・教科書ならどんな本にでも書いてある事です。定義が狭すぎると云ふ事はなく、およそ「科学」と名がつくものならば、どのやうな学問分野でも従ふべき方法論だと思ひます。「真性」をつけたのは、単にお二人の仰る「人文」科学と区別するためです。それで、その人文「科学」とはどのやうな学問分野を含み、その方法論はどのやうなもので、通常の「学問」とはどこが違ふのでせうか。幼稚かも知れませんが、この分野に不慣れな私にはどうしても必要な「基礎概念の明確化」ですので宜しくお願ひ致します。

また、「正義を問題にしない事こそ、人文科學では誤です」との御言葉ですが、その方法論とどう関係するのかご教示頂きたいと思ひます。正義を問題にしなかつた所為で「仮説」「理論」が誤つていた例など挙げて頂ければなほ幸甚です。 削除

2009/4/23(木) 午後 0:58 [ gahahayoumustbekidding ]

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>真性の「科学」とは、私が略述した方法論を厳しく守る学問分野とでも考えて下さい。これの有効性は万人の認める処ですね。ところが、人文「科学」はその方法論とは違ふと仰る。

自然科學でも人文科學でも科學である以上、g氏の言ふやうに、反證可能性その他の規定は守ります。けれども、その規定を滿たす具體的な方法論が、自然科學と人文科學とで異る、と言つてゐるだけです。人文科學も眞正の科學です。

gさんに反對するものでなく、人文科學は十分gさんの要求に即してゐる、と私は指摘してゐます。だから反論する必要を認めませんし、gさんがさらに私共を非難・攻撃する理由を認めません。

話を續けませう。

2009/4/23(木) 午後 8:30 [ nozakitakehide ]

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自然科學は主觀を排した客觀の世界の領域を扱ふ科學です。

一方、人文科學は、主觀それ自體を扱ふ科學です。主觀それ自體を扱ふ以上、そこで主觀への配慮を排してしまつたら、誤に陷る事は必定です。一方で、主觀が存在する領域である事を十分承知して、そこで出現するあらゆる事象に主觀の介在する可能性を考慮して、愼重に檢討する態度をとる限り、人文科學も眞正の科學として通用する理論を持ち得ます。

2009/4/23(木) 午後 8:33 [ nozakitakehide ]

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ところで、gさんは、何うしても人文科學には反證可能性が無いと云ふ事を主張したいやうですが、實際さうですか。
人文科學はどのやうに主張をするもので、それがどのやうに反證可能性を缺いてゐるのか、具體的に指摘していただけますか。

と言ふか、人文科學の事、gさんは解つて物を言つてゐるのですか。

2009/4/23(木) 午後 8:43 [ nozakitakehide ]

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しかし、反證可能性がないと言つたら、「現代仮名遣」にはまるつきりない事は、gさん、御認めになるのでないですか。その點では私の説に贊成なさるのですね。

2009/4/23(木) 午後 8:44 [ nozakitakehide ]

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なかなか議論が進まないので、脇道ですが……
・私は理系の人間(エンジニア)で、人文科学や文系の学問には詳しくありません(有り体に云ふと、全く疎い。)
・色々な理由で、かねてから歴史的假名遣ひには憧れが有り、最近使つてみやうと思ひ立つた。(初心者なので間違ひが多いのはご容赦。訂正して頂けると有難いです。)
・なので、「非難・攻撃」をする理由も無いし、してゐるつもりもありません。(今、改めて読み返しても、「罵詈雑言」は書いてないやうですね、良かつた。)
・また、人文科学なんてものは無い、だとか、その仮説に反証可能性が無いだらう、とも言つてません。(さう云ひ切るだけの知識も有りません。)
・しかし、職業柄「科学」とはかういうものだ、については少し調べた事が有つて、特に「その有効性は上に述べた方法論から来ている」には確信を持つて居ます。また、その方法論は「狭い」どころか、実際よりはるかに「緩く」してあります。 削除

2009/4/24(金) 午前 0:02 [ gahahayoumustbekidding ]

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・社会科学である「経済学」、歴史性を扱はざるを得ない「古生物学」なども、「再現性」、「数値化可能性」とか「制御可能な実験」だとかの、上記(純粋)科学の方法論は断念せざるを得ない変りに、それに代わる方法論(「価値観からの自由」、「統計的手法の採用」等)を採用し、上の「ゆるやか」(一般的)な方法論を維持しやうとしてゐます。これはとりも直さず、その一般的方法論が「有効性の源泉」であるとの認識を共有してゐるからだ、と理解してゐます。
・ただ、「科学」でない学問がつまらないとは全く思つていません。「反証可能である仮説」を積み上げる事では扱へない対象はいくらでもあるし、そのように表現できない「認識」も多いから、です。

しかるに、このスレッドのトップに「正假名派の主張は『假名遣ひが科学的であるべき事、國語を舐めるな』の二つである。」と書いてあります。科学礼賛派の私としては嬉しい限りでした。 削除

2009/4/24(金) 午前 0:04 [ gahahayoumustbekidding ]

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しかし、どうもそれをあつさり認めてくれる人ばかりでは無ささうで、科学だ、いや似非科学だの応酬が始まつてゐる。しかも、かなり押されてゐるやうだ(野嵜さんの「相手を馬鹿呼ばわり」や「理解して貰へない」が始まると、どうしてもさう見えてしまふ。)

私はむしろ「科学」云々を持ち出さない方が良いのでは、と思ひますが、モットーとして挙げてしまつたからにはさうも行かないのでせうか。

で、この線で押すことにして、キーワードの「科学」の定義が曖昧なので、議論がすれ違ひ混乱してゐるやうに見えます。(混乱してゐる理由のほんの一部でせうが。)今のところまでで推察される「定義」のうち、「真理に近付かうとするのが科学」では、殆どトートロジーで(似非科学の側も「私も真理に近付こうとしてゐます」と言ふでせうから)、第一これでは「学問」の定義と変らない。また単に「反論を受入れる」でも十分ではない。ここは例へば「仮説が反証可能な形になつている」等の方法論が明確になつてゐる事が定義として重要だと思はれます。(これは例であつて、人文科学もこうでなければ、とは言つてません。念のため。) 削除

2009/4/24(金) 午前 0:08 [ gahahayoumustbekidding ]

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なので、野嵜さん、江州さんの仰る人文科学がどう云ふものか、中でも特にその「方法論」についてお聞きしてゐるのでした。「正義を問題にしない事こそ人文科学では誤り」についての実例の方も宜しくお願いします。

ちなみに、「仮説は反証可能の形に表現するべし」は「科学の方法論」として重要なのですから、「(科学ではなく)規範である」と自ら称するものに対して、「反証可能性」が全く無いから(科学的でない、間違っている、不当だ)と云ふのは、そもそも筋違ひ、ですね(規範には仮説は無いでせうし)。むしろ「その規範は妥当・有効・無矛盾ではない、こちらの方が妥当・有効・無矛盾である」「そう云ふ批判を聞き入れないのは不当だ」とした方が「有効」な議論になると爺 (g) は思ひます。 削除

2009/4/24(金) 午後 1:41 [ gahahayoumustbekidding ]

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歴史學に就いて堀米庸三が述べてゐる通り、人文科學系の學問では「圖式化」による説明を假説として提出し、それによつて事實を説明する方法が屡々とられます。その圖式が正しいか何うかは、事實の説明が妥當か何うかで批判されます。

「現代仮名遣」は「科學でない」事を主張してゐますが、その主張が後附けの主張であり、ただ「反論を封じ込める」だけの爲にされてゐる主張である事は、福田恆存が指摘してゐます。
http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/kokugo/rekishi/Seishoho.html
「正書法だから非科學的で良いのである」とする「反論封じの爲の主張」を認める事は出來ません――と言ふより、そもそもさう云ふ「非科學的である事を積極的に認める」態度が根本的に問題であると言ふ事が出來ます。

2009/4/24(金) 午後 8:12 [ nozakitakehide ]

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しかし、何うして規範には「假説がない」のでせうか。假説として規範は「定められる」に過ぎませんし、さうでなければなりません。

正かなづかひの理念は、理念であり、現實ではありません――假説的に提出される以外、存在し得ません。そして、さう云ふ物を當座の規範として、現實的には使用する、と云ふだけの事です。
それは常に訂正されねばならない――假設である所以ですが、ならばそれは科學=學問に基礎を置いたものでなければならない。

「現代かなづかい」もまた、出現時點では「現代」の國語が變化するのに應じて改訂される事を謳つてゐました。ところが、途中から「絶對の規範」だと言出したのです。非科學的である事を認めながら、開き直つた訣です。
そして「現代かなづかい」は「現代仮名遣」に「改定」された。斯うなると「現代仮名遣」は「正しいものは正しいんだ、何しろ正しいと言つてゐるんだから」と云ふ「正しさを振りかざす」態度をとつてゐると言はざるを得ません。我々正かな派としては、さうした「正しさを振りかざす」文部省の役人や改革の當事者たちの態度を突崩す爲に批判を行つてゐる訣です。

2009/4/24(金) 午後 8:23 [ nozakitakehide ]

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「現代仮名遣」は、そもそも「規範」である・「正書法」であるから、科學性がなくても構はない――さう云ふ主張を文部科學省の役人や、改革の支持者は言つてゐる訣です。けれども、それだと批判が不可能になる。傍から見て矛盾に見えようが誤を含んでゐるやうに見えようが、「正しい」と「定めた」から「正しい」と云ふ「理窟」で、批判がそもそも却下されるんです。

科學に基いた假説的な規範こそが必要である、と云ふ價値觀を共有しなければ、彼と我との間に議論が成立しません。そして、議論を成立させなければ「彼ら」=「現代仮名遣」擁護派の「勝ち」になります。が、それは「派閥争い」そのものであり、現實を良くする・しないと云ふ觀點がすつぽり拔け落ちてゐます。それでは困る。
だから兔に角議論のテーブルにつけと正かな派は要求してゐる訣です。

2009/4/24(金) 午後 8:28 [ nozakitakehide ]

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人文科学の方法論他についての回答有難うございます。しかし、これが最も成功した例だとしたら、やつぱり仮名遣ひの議論に「科学(的)云々」を持ち出すべきではないと思ひます。

種本も手許に持たない為、うろ覚えで論つてゐるので、私の「反証主義」の説明もかなり怪しいものですが、この議論の中で重要な事(かつ野嵜さんに理解していただけてないと思はれる事)は、然程複雑ではなく、(と云ふか些か無理な単純化をすると)

・「XXX は科学(的)」と言つて自説を擁護する、もしくは箔をつけるなら、その XXX は、確固とした科学(とその成果)に基いてゐないと迫力が無い。で、確固とした科学とは大抵「反証主義」に基いてゐるだらう。従って、「假名遣ひは科学的であるべき」は、あまり良い惹句になつてゐない。「科学と言つても、歴史学のやうな人文科学の事です」と付け加へると、「何だか良いもの、確かなものに違ひない」と無闇に感心してくれる人は少ないだらう。 削除

2009/4/25(土) 午後 1:36 [ gahahayoumustbekidding ]

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・また、反証主義とは、「仮説とその検証」の「仮説」が「反証可能な形であるべし」と云ふ事であつて、誰かが反論を受け入れるかどうか、等と言ふ意味ではない。なので、規範が「(非)科学的」である理由を「反論(不)可能」だから、とするのもかなり筋違ひ、です。

これらが組合さつた上に、さらに「あるべき論」と「方法論」の混乱が上乗せされてゐるやうに見えます。

実際これらを取り除けば、かなり議論が見通し良くなるやうに思ひます。またまた、全体像も議論の経緯もよく知らずに出しやばる風ですが、

野嵜さんら正假名派の大義は、「正書法(国語表記の基準)を現代假名遣ひから歴史的假名遣ひに改める事」 と考へて良いですか? 削除

2009/4/25(土) 午後 1:38 [ gahahayoumustbekidding ]

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云ふまでもない!と叱られさうですが「正かなづかひの理念は、理念であり……」の箇所は、ちょっと回りくどくて、正書法になりたいのかなりたくないのか良く解らない。(規範を「非科学的」としてしまつた所為で、自家撞着になる事を虞れてゐるのでせうか。)しかし、もし本当に「なりたくない」のであれば、現在の正書法は、個人がどういふ假名遣ひをしても「お構ひ無し」なのですから、何も変へなくても良いやうな気がします。それとも、現在の正書法を一部修正してもらふだけで良いのでせうか。

なんだか自信が無くなつてきました。どつちが正解なんでせうか。

ところで、正書法の代案になるべきものは今存在するのでしたつけ。何回も改訂した、とあるので、存在するのは間違ひ無いやうですが。(実を言ふと、初心者としては、これが一番お聞きしたかつた事なのでした。) 削除

2009/4/25(土) 午後 1:39 [ gahahayoumustbekidding ]

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「現代仮名遣」=「正書法と定義されてゐる正書法」=「反證不可能で非科學的な表記の規則」=「批判を受附けない政治的な命令」=「一方的に正しさを振りかざしてゐるもの」

「正かなづかひの理念」=「人々の觀念の中にある正しいとされるかなづかひ」∋「正かなづかひを志向する具體的な規範」∋「明治政府が定めた歴史的かなづかひ」

2009/4/25(土) 午後 5:41 [ nozakitakehide ]

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「理想としてのかなづかひ」と「現實に存在する規範」とは別です。

ただ、現實を理想に近附けようとするのか(正かなづかひの立場)、理想を現實に近附けようとするのか(「現代仮名遣」の立場)、に違ひがあります。

「理想に近附くやう現實に命ずる」(正かなづかひの立場)のは理に適つてゐますが、「現實に理想を近附けながら、再び現實に理想に近附くやう命ずる」(「現代仮名遣」の立場)のは目茶苦茶です。

2009/4/25(土) 午後 5:44 [ nozakitakehide ]

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gさんは、野嵜が「規範は一般に非科學的なものである」と定義してゐると言つてゐますが誤解です。

「現代仮名遣」は、制定者・國語改革の當事者が「規範である」と言ひ、「正書法である」「正書法だから絶對に正しいのである」と言つて、反論を封じたものです。
だから非科學的だと私は批判してゐます。

規範は、現實に存在する規範であるのだから、理想ではない――理想の完全な體系とは、必ずしも一致しない。が、一致する方向に改良を進める態度が必要である。それには科學的な態度が必要である。

2009/4/25(土) 午後 5:55 [ nozakitakehide ]

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正かなづかひの理想は、飽くまで理念であつて、現實ではありません。が、さう云ふ理想に近附くやうに、人々は努力すべきであり、その指針として存在する筈の規範もさう云ふ態度に基いて定められなければなりません。契沖のかなづかひは、學問的に追究されたもので、理想を求めたものですが、科學的な成果だと言へます。それを明治政府が採用して、我々はその「明治政府が採用した假名遣」を「歴史的かなづかひ」と稱する。が、その「歴史的かなづかひ」は、現實に存在する規範であり、正書法である訣ですが、しかし「絶對に正しい」と云ふものではなく(誰もさう思つてゐなかつた)、假名遣の研究に基いて何度も訂正が行はれてゐます。

で、この訂正が行はれた事實について、その價値を、「現代仮名遣」派の人は「良くないことだ」と判定し、「正かな派」は「良い事だ」と判定する。

この價値判斷のところで、基準が彼我で大きく異つてゐる。そしてこの價値判斷の基準の違ひが、彼我で話し合ひを出來なくする原因となつてゐる。

2009/4/25(土) 午後 5:55 [ nozakitakehide ]

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人と人とが話し合ひ、議論を行ふ爲には、共通する價値觀が必要となります。さうでなければ、兩者が互ひに互ひの主張を判斷するとつかかりがなくなる。

しかし、「現代仮名遣」派の人は、「安定した・変化のない規範」が「あればよい」と考へる。その爲には、「規範」はただ固定してゐさへすれば良いのです。どのやうな理由で定められたかは全く氣にしない。
「固定的である」ものが「正しいもの」なのです。さう云ふ價値觀なのです。

それに對して、「正かな派」は、科學的な批判によつて、人々が寄りどころにする假名遣の規範を改良して行くべきだ、と云ふ價値觀を持つてゐる。改良と言ふのは、現實にある規範を、理念として考へられる理想に近附けようと努力する事です。
それはより良い方向への變化を求める事こそが正しい、と云ふ價値觀です。

が、斯うした價値觀の相違が、彼我で共に意識されてゐない、それで話し合ひすらも出來ない事になつてゐる。

2009/4/25(土) 午後 6:00 [ nozakitakehide ]

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けれども、本當に問題なのは、「ただ固定的な命令がありさえすればそれでいい」筈の非科學的な「現代仮名遣」派の人が、もつともらしく「科學的」な風を裝つて「歴史的かなづかひ」と云ふ現實に存在した規範を否定し、その規範の志向した理想の「正かなづかひ」をも否定しようとしてゐる事です。

彼らの試みは、全て「科學的」の「錦の御旗」の下に行はれてゐます。が、そもそも彼らは、科學的な物の見方と云ふ事を理解してゐない。だから全部やる事が間違つてゐる。なのに自分が間違つてゐると氣附かないんです。
そして、自分が信奉する「現代仮名遣」については、「定義」によつて科學に據る批判を免除してしまつてゐる。

もうね、「自分の立場を守る」と云ふだけの爲に「現代仮名遣」派の人は「正しさ」とか「科學」とか云ふ言葉を利用してゐるんです。が、それらが全部贋物なのです。

2009/4/25(土) 午後 6:04 [ nozakitakehide ]

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贋物を贋物だと、「正かな派」は言ひたい訣ですが、「現代仮名遣」派の人は、贋物と本物とを區別する「必要」それ自體を感じません。

根本的に價値觀が違ふんです。

だからこそ、その價値觀のギャップを埋める――と言ふより、「現代仮名遣」派の間違つた價値觀を徹底して批判し、彼らをして議論に參加し得る條件にまで引つぱつてこなければならない。

2009/4/25(土) 午後 6:07 [ nozakitakehide ]

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問題は價値觀それ自體にあるのであつて、價値觀が彼我の間で違ふ事をはつきり認識せしめなければならない。議論の地盤を作らなければならない。その上でないと、議論が出來ないんです。

「現代仮名遣」の理論的・現實的な缺陷を「正かな派」が指摘しても、「それがどうした」と言ふのが「現代仮名遣」派なのです。それでは話にならない。

2009/4/25(土) 午後 6:10 [ nozakitakehide ]

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どうもやっぱり「正しさ」や「科学的」が堂堂巡りの原因のやうに思はれます。(なので次は「価値観」を云々するつもりだつたのですが、「科学的」でかなり苦戦してしまつたので、もう止めておきます。)それらは措いて、現状をどう思つてゐるのか、何をどうされたいのか、についてお伺ひしたいと思ひます。

目安・規範としての正書法と、その内容としての現代假名遣ひと歴史的假名遣ひを一応区別します。
・國語改革後の「正書法」は何度か改訂されて、つひには目安となつてしまひ、また、かねてから批判されてきた(きずな → きづな)なんかは「許容」されてしまひました。「変へない」とか「批判を容れない」といふ批判は当らないやうに思ひますが、如何ですか?
・議論の地盤とありますが、どなたとどなたの議論なのですか?こちらは「正假名派」だとして、お相手は?國語審議会はもう無いやうですし。現代假名派とはどのやうな方々を指すのでせうか。(さう言へば、申し訣ないですが、「正假名派」も私は良く知りません。) 削除

2009/4/25(土) 午後 10:34 [ gahahayoumustbekidding ]

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・歴史的假名遣ひを正書法とする事等は狙つてゐない、と仰つてゐるやうに聞こえますが、当つてますか?もし狙う(目指す)として、「案」はありますか?(特に、字音假名遣ひをどうされるのか。)
・根本的に価値観が違ふと仰いますが、煎じ詰めれば、その違ひは何でせうか。(「科学的」かどうかとか規範はどうあるべきか等を一先ず措いて頂くと、)「ご先祖様の流儀に従うべき」と「音韻に従ふ事で負担を軽くすべき」に行きつく、と思へますがいがですか? 削除

2009/4/25(土) 午後 10:38 [ gahahayoumustbekidding ]

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野嵜さんは自身の「正字正かな」についての考へをサイトでまとめてゐますので、一讀をおすすめします。
「國字問題Q&A」
http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/kokugo/QA/

また福田恆存氏の『私の國語教室』も參考となるでせう。餘裕があれば同じく福田氏の『當用憲法論』もおすすめします。 削除

2009/4/25(土) 午後 11:26 [ 佐藤 俊 ]

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佐藤さん、リプライありがたうございます。Q/A は読んでゐまして、今も読み返しましたが、上の質問への解答は見付かりませんでした。「私の國語教室」も読みました。が、こちらはさうおいそれとは読み返せませんね。でも、これらへの解答は無かつたやうに思へます(時代的に当然ですが。)

「当用憲法論」は読んでません。これも假名遣ひを論じてゐるのでせうか。さう云へば、佐藤さんと野嵜さんには、憲法の存在理由云々に関して、「国民主権」を取るのか「天皇主権」か、と云ふ質問をしてゐたと思ひますが、こちらについては如何ですか?是非お聞かせ下さい。 削除

2009/4/26(日) 午前 10:52 [ gahahayoumustbekidding ]

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結局、gさんは「正字正かな」を肯定するのですか。否定するのですか。
>「ご先祖様の流儀に従うべき」と「音韻に従ふ事で負担を軽くすべき」
どちらを支持するのですか。
gさんのいつてることは、もはやただの「揚げ足取り」ですよ。
自分はさも「素人」「中立」であるかのように見せかけ、「AはBである」といふ主張に對して「辞書に載つてゐる意味と違ふ」と「文脈」を無視して「キーワード」をもてあそび、野嵜さんの主張を混ぜ返してゐるだけではないですか。
gさんは二言目には「○○についてはよく知らない」といひますが、知りもしないことには口出ししないはうがいいでせう。 削除

2009/4/26(日) 午後 10:10 [ 佐藤 俊 ]

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といふか、このエントリのコメントだけでも、野嵜さんは參考となるサイトや資料を示してゐるですが、「Q&A」も含めて本當に「讀んだ」のでせうか。gさんのコメントを見てゐると讀んだとは思へません。
そもそもgさんは、野嵜さんの主張を「理解」しようとしてゐるやうに思へません。「對話」にしろ「議論」にしろ「批判」にしろ、相手の意見を理解した上でなければ始まりません。相手の意見をただ否定したり混ぜ返したりするだけであれば「アンチ」と呼ばれても仕方ありません。
>「当用憲法論」は読んでません。
では讀んでください。「話」はそれからでも遲くはありません。 削除

2009/4/26(日) 午後 10:13 [ 佐藤 俊 ]

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體調があまり良くないので言葉を選ばないことにします。多分、選んだところで無駄でせうから。

例へばさ、氏が私の述べた「眞正の科學の定義」だけど、實のところ私が書いた科學といふ方法と大差ないよね。大差ないのに氏が根本的に差があるやうに騷ぐ。馬鹿ぢやないの。そしてその少しの差がかなり恣意的よね。あれだけ狹く定義したら「人間原理」も議論できないではないの。ああいふ狹い理解で「科學」なんて言葉を振り囘されたら、混亂しか生まないでせう。

あとさ、こちらは定義を示したよね。それから參照すべき情報についても示したよね。で、氏はそれらについてその後に調べるなり何なりしたの? 岩波の古語辭典も讀んだと考へて良いの? 語源に多く言及した辭典を眺めて、假名遣ひがどのやうな研究に基づいてゐるのか想像もできなかつたの? 想像できなかつた己の見識が「狹い」ものだとは思はなかつたの? 削除

2009/4/26(日) 午後 10:50 [ 江洲 ]

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記事の本文で野嵜さんは
>ならば「現代仮名遣」は科學的か――正かな派がさう疑問を呈すると「科学は関係ない」と言出すのも彼らである。
といつてゐますが、gさんはまさしくこれです。本文の論旨を無視し、「科學」といふ文言をことさら論つてゐるだけです。 削除

2009/4/26(日) 午後 10:50 [ 佐藤 俊 ]

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氏は言葉を嚴密にするだとか科學禮讚だとか調子に乘つて書いてゐるけど、エンジニアの好奇心といふよりは、出來の惡い學生が見當外れな質問を延々やらかして先生を困らせて悦んてゐる圖式しか思ひ浮ばないのは何故? 優秀なエンジニアなら野嵜氏に陳腐な質問する前に、やるべきことがあるのではないか。こんな程度の低い「質問」連發する己が無知は反省しないの?

といふか、文字通りふざけたハンドルで基本も知らない質問を續けてゐるのだから、もうこれはコメントを汚してゐるだけの無意味な文字列と言はざるを得ませんよ。根本的に「勉強」が足りてゐないのだから。勉強してきたらどうですか。現役エンジニアとして、かういふ無知を自覺しない幼稚な文章を「エンジニア」を自稱して出されると不愉快です。 削除

2009/4/26(日) 午後 10:51 [ 江洲 ]

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全然關係ありませんが、このブログのコメントは不便ですね。書ける字數が少いので、emacsで書いて整へてゐます。頭がまだふらふらするので、推敲できるのは良いことなのですが。疲れたので寢ます。 削除

2009/4/26(日) 午後 10:56 [ 江洲 ]

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>「変へない」とか「批判を容れない」といふ批判は当らないやうに思ひますが、如何ですか?
では告示「現代仮名遣い」は「批判を容れ」て改正されたのでせうか。さうした例外を「許容」をさぜるをえないこと自體、「現代仮名遣い」が實際のかなづかひとは相容れない、「非科學的」なものでしかないことを示しています。
>議論の地盤とありますが、どなたとどなたの議論なのですか?
「正假名派」と「現代假名派」の議論ではないのですか。分つてゐるのならばそらとぼけるのはやめてください。「現代假名派」はそれこそ野嵜さんのコメントにもある松永氏がそれにあたるでせう。
かういふ點でもgさんは「讀んでない」「理解してゐない」、あるひは「そらとぼけてゐる」としか思へないのです。 削除

2009/4/27(月) 午前 0:12 [ 佐藤 俊 ]

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>歴史的假名遣ひを正書法とする事等は狙つてゐない、と仰つてゐるやうに聞こえますが、当つてますか?
當つてません。「かなづかひ」について「科學的に」考へれば、「現代仮名遣い」を「正書法」とすることは間違ひであるといはざるをえない、といふことです。
>「ご先祖様の流儀に従うべき」と「音韻に従ふ事で負担を軽くすべき」に行きつく、と思へますがいがですか?
これが「根本的に価値観が違ふ」のではなくてなんなのでせうか。同じだといふのですか。『私の國語教室』を讀んだのであれば分かつてゐるはずです。
gさんは「興味がある」といつて「正假名派」であるかのようによそほひ、實は茶化し、否定してゐるだけです。 削除

2009/4/27(月) 午前 0:13 [ 佐藤 俊 ]

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私のハンドル名が余程お気に召さないやうなので、「爺」に変へます。読み方は「ジジイ」、「ジイ」どちらでも可。(私の好みは孫の「ジージ」です。)実は、このブログに書き込みするには、ログインしないといけないと思ひ込んでゐたのでした。

ふむ、でも確かにこちらの方が、「言葉を選ぶのをやめた」江洲さんが、私を罵倒するにもやりやすいですね。「この耄碌ジジイ」と言ふとなんだか勢ひがありますが、「この馬鹿gahaha...ing」じやあ日が暮れちまう。ともあれ、Welcome to this blog!です。

ところで、「今頃」ですが、ずつと「江州」と書いてゐましたね。すみませんでした。

「エンジニアを自称」されると不愉快ですか。それはすみませんでした。どうも私の質問や批判が「感情的」に受け取られるので、人文科学には疎くて、つまらない質問をしますが……と云ふつもりだったのですけどね。なので、無知は自覚してゐますし、そう言つてもゐるつもり、です。(そもそも自分では「エンジニア」は蔑称だと思つてをりました。) 削除

2009/4/27(月) 午前 7:11 [ ]

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だから、「出來の惡い學生が見當外れな質問を延々やらかして先生を困らせて悦んてゐる圖式」はなかなか良い比喩だと思ひます。が、全く「悦んて」なんかゐませんよ。そもそも「先生」はお困りなんでせうか。「陳腐な質問」なら「それは『これこれかう』だ、先週説明したじやないか馬鹿もん」とでも言って先に行けば良いやうなものですが。それとも、このあたりには何か「触れてはいけない事情」でも有るのでせうか。 削除

2009/4/27(月) 午前 7:20 [ ]

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また、「例へばさ、氏が私の述べた「眞正の科學の定義」だけど、實のところ私が書いた科學といふ方法と大差ないよね。」の下りですが、仰る通り一見「大差」はないですし、それが普通の理解だと思ひます。ひよつとすると、科学者だつて毎日自覚的に「反証可能性」なんて考えてないかも知れないですしね。そもそも、「反証主義」は科学と擬似科学を区別する際に最も有効になるもののやうですから。で、正にさう云ふ場面で使はれてゐる。しかし、
「けれども、批判が可能であり、訂正が可能であるのは、歴史的假名遣が科學的だからである。」
「科學的であるものは、科學的である限り、反證可能性を持つてゐる。」
とやつてしまふと、はつきり「間違ひ」です。「反証可能性」は「仮説が反証可能な形であるかどうか」といふ事で、「「批判」や「訂正」が可能であるかどうか」等と云ふ事とは違うから、です。

これは最初と次のパラグラフの中心的な陳述に対する批判ですから、「あげあし取り」ではないと思ひます。また、江洲さんの「科学方法論の定義」に基いたのでは、この点について論じる事もできない、つまり「大差」が有るのではないですか? 削除

2009/4/27(月) 午前 7:41 [ ]

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誤解の無いやうに付け加えますが、ここまでは、「歴史的假名遣ひの探求の方法が科学的でない」とか「反証主義でない」とかと云ふ話ではなく、「ここで仰つている事が論理的でない」とだけ言ってゐるのです。

しかし、この文章を論理的に正しく直すのは難しそうですし、後々「(非)科学的」が多く出て来ますので、読む方は、何だか文意全体に信頼が置けない気がしてきます。で、繰り返しになりますが、「(非)科学的」なんて言葉はここで、こんな風には使はないはうが良い、と思ひます。

佐藤さんが、これを「「文脈」を無視して「キーワード」をもてあそび、野嵜さんの主張を混ぜ返してゐるだけ」と本当に感じておられるなら、またもし、野嵜さん自身もそう感じておられるなら、確かにお節介ですね。

後、「gさんは二言目には「○○についてはよく知らない」といひますが、知りもしないことには口出ししないはうがいいでせう。」の仰せですが、「よく知らない」と言つてものを聞くのはダメで、「よく知らない事を言つて間違へてしまふ」つてのは良いのですか? 削除

2009/4/27(月) 午前 9:53 [ ]

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「文脈」といふ言葉に反応して、松永氏の Blog をやつと見に行つてきました。迂闊ですね。松永氏との論争がどんなものか良く知ろうともせず、自分の知りたいところだけ教えてもらはう、自分の分りそうなところだけ議論しよう、といふのがまず無茶でしたか。で、暖気に「正書法」云々とやつて罵倒されてちや世話ないです。流行り言葉で云ふと KY つて云ふんでしたつけ。

正字正假名については、どちらが正論なのか私にはまだ判断が付きませんが、でも、松永氏の

「このような考えを持っている私を「バカ」と言って悦に入ったり、どこの誰だか知らない人間と同類だなどとレッテル貼りし、私の考えてもいないことを勝手に忖度して「さもありなん」などと決めつけるのであれば、それは私のコミュニケーション能力の範囲外であるから、対話にならない。」

の点は、野嵜さん達も真摯に受けとめた方が良いと思ひますよ。私も全く同感ですから。こんなにうまく要約できませんでしたが。

やれやれ、せつかく新しいハンドルを使ひ始めたのに、何だか妙な具合になりましたね。 削除

2009/4/27(月) 午前 10:02 [ ]

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さすがにもうこれまでの質問の答へは頂けないと悟りましたが、少々期待はしてゐます(私は真性の KY ですね) 削除

2009/4/27(月) 午前 10:13 [ ]

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反證可能性が何うの斯うのと云ふ爺氏の主張に附合ふ氣はありません。なぜなら、國語學は誰が何う見ても明かに科學ですから。私が自分の發言を形式的に「反證可能な形に書く」か何うかを爺氏は問題にしてゐますが、そんなのは問題ではありません。當り前でせう。

大體、爺氏が「反證可能性」の問題を論じて、「歴史的假名遣の探究においては、ここが何う云ふ風に反證可能性を持たない、非科學的な主張を含んでゐる」と、具體的に指摘しないのは異常です。何も知らないで「あなたがたは反証可能性をわかっているのですか」と爺氏は執拗に言ひ續けてゐる。
解つてゐないのは誰ですか。

2009/4/29(水) 午後 5:40 [ nozakitakehide ]

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また「科學的であるものは、科學的である限り、反證可能性を持つてゐる。」つて、誰が言つてゐると云ふのですか。誰も言つてゐない事を爺氏は「正かな派」がさも「言つてゐる」かのやうに示唆してゐますが、何處で誰が何時そんな事を言つたと言ふのですか。

橋本進吉でも時枝誠記でも、讀んだら良いでせう。その上で反證可能性でも科學でも論じたらいい。

しかし、同時に、爺氏は、人文科學それ自體の性質に就いても學んだ方が良いでせう。文學や哲學に就いても、爺氏は無知であると思ひます。或は歴史學。
多分、インターネットサーフィンして目についた文章を讀んで、爺氏は自分が物知りになつたものと思ひ込んでゐるのでせう。しかし、爺氏はウェブ以外の本を讀んだとは思はれません。ポパーに直接當つたとも思はれません。

2009/4/29(水) 午後 5:44 [ nozakitakehide ]

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松永にしても爺氏にしても、無知である自分の思ひ込みを「根據」に好き勝手な事を言つてゐます。松永は事に「嫌悪感」「共感」と、はつきり自分の主觀を「根據」にして言つてゐると宣言してゐます。が、それは明かに非科學的で――同時に、他人からの反論それ自體を封じ込めようと云ふ意圖の下になされた、一方的な主張でせう。

爺氏は、さうした松永の態度を我々に「眞摯に受止めよ」と言ひ、松永に「共感した」と言つてゐます。が、それは爺氏が松永と同樣、本質的にコミュニケーションを拒絶し、一方的に自分の感情を他人に押附けようとする人間である事を示してゐます。

2009/4/29(水) 午後 5:46 [ nozakitakehide ]

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松永は、私やその他の人々が他人に「馬鹿」の「レッテルを貼っている」と極附けてゐます。けれども、事實として馬鹿である松永を馬鹿と言ふのは、レッテル貼りではなく、事實の指摘であり、適切な批判です。

松永こそ、眞摯に自分が馬鹿と言はれてゐる事を反省したらいい。

それを「レッテル貼りされた」と言つて責任逃れをはかり、剩へ「レッテル貼りしている連中はコミュニケーション能力のない愚か者だ」と居丈高に宣告して、威張つてゐる――松永こそ極附け・レッテル貼りをして人を罵倒・侮辱してゐるんです。それが松永には自覺出來ないし、爺氏にも解らない。

松永も爺氏も、反省する能力が無いんです。私はさう云ふ「反省する能力がない手合」を相手に戰つてゐる。そこでこちらが反省しても、弱みを見せる事にしかならない。

2009/4/29(水) 午後 5:52 [ nozakitakehide ]

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人間、「反省してゐない」事は態度を見れば解ります。松永は明かに反省してゐないし、反省する積りもない。反省する能力なんて、ないんです。松永の場合、自分の主觀をストレートに表現する事に抵抗がないんだから、自覺的な反省なんて事が出來ない人間である事は火を見るよりも明かです。

――さう言ふと、爺氏は、「反證可能性がない非科學的なレッテル貼りだ」と非難する訣ですが、此處で私がきちんと分析を經て松永を論じてゐる事は、人文科學の研究方法を少し齧つてゐれば解る事です。無知だから爺氏は、私が一方的に惡口を言つてゐると思つてしまふ。

2009/4/29(水) 午後 5:58 [ nozakitakehide ]

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科學――自然科學――の事には詳しい人間が、ウェブには非常に多い。ところが、人文科學の領域に屬する事については、最う殆どの人が解らないんです。無知なんです。

私は、「科學」「科學」と叫んで「科學」なる言葉を振囘しながら、人文科學の事が全然解らない人間に惱まされ續けてゐる――自然科學より人文科學の方が難しいんです。人文科學は、人間に就いて、或は自分自身について、相當意識的にならないと實現出來ない科學だからです。

さう言ふと爺氏は、私が「眞性科學とは別の人文科學なるもの」を主張してゐると言ふ。

私にしてみれば、爺氏こそ、人文科學や自然科學のやうな科學とは別の「眞性科學」なるものを主張してゐるトンデモさんに見える。

2009/4/29(水) 午後 5:59 [ nozakitakehide ]

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「科學」「人文科學」といつた邊の認識が、最う私と爺氏との間で全然違ふ。ところが、この邊の認識で互ひに理解が成立しないと、互ひに價値觀の共有が出來ないんです。そして、私にしてみれば、私の價値觀こそが正しいのであり、爺氏のそれは間違つてゐる。

爺氏は、科學から人文科學を切離したい。人文科學と言つてゐる野嵜を、爺氏は誤つた主張をしてゐるかのやうに非難してゐる。が、さう云ふ事を言ふ爺氏の認識にこそ誤があると私は言つてゐる。

人文科學の方法が科學の方法である事實を、私は爺氏に――或は、松永に――「認めて貰ひたい」訣です。が、これは價値觀の問題で、しかし價値觀それ自體を簡單に爺氏や松永は考へてゐるから、こちらの主張を解らないし、そもそも解らうとしない(解らうともしないのは「コミュニケーションを拒否してゐる」事にほかならないのだが、松永にはそれが理解できない、自覺がないからだ)。

2009/4/29(水) 午後 6:04 [ nozakitakehide ]

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で、價値觀のところで互ひに共通の理解がない時、議論にならないんです。

私が「〜は正しい」と言ふ。
松永(喜六郎でも誰でもいい)は「正しいと言ふ奴はうさんくさい」と言ふ。

これは議論ですか。

反證可能性も糞もない。反證可能性を問題とし得るためには、その人が科學と云ふ事を價値判斷の基準として認める價値觀を持つてゐなければならない。そして、その價値觀を共有してゐる人同士の間でのみ、價値判斷を同じやうにする事が可能になるし、互ひに互ひの價値判斷が妥當か何うかを檢討し合ふ事が可能になる。

だから、價値觀の問題をほつたらかしにしておいて「先に行く」のは不可能なんです。

2009/4/29(水) 午後 6:08 [ nozakitakehide ]

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で、「歴史的假名遣は科學的である」に爺氏は執拗に反對を唱へてゐるんですが、私にはなぜ反對するのか、それがまるで理解出來ない。爺氏が「反對すべきである」と判斷した價値基準がまるで解らないからです。

私にしてみれば、正假名遣は理念ですし、その理念に近附くやう、科學的な檢討をする事は良い事です。さうした檢討の過程の産物として、定家の假名遣も契沖の假名遣も「ある」訣ですし、「明治政府が採用した歴史的假名遣」なるものも「ある」と言つて良いと思つてゐます。が、さうした具體的な成果物は、「研究の成果物」であるのであつて、科學的なものだと言つていい。

が、「現代仮名遣」は、さう云ふ科學の成果物ではない。理想の假名遣を發見する目的で行はれた研究の過程における成果物ではない。
さう云つたものを否定して――國語研究を否定して、便宜の爲に、と云ふイデオロギーに基いて理論から構築した人工の表記である訣です。が、ならば「現代仮名遣」は明かに政治的な存在です。だから「正かな派」は「現代仮名遣」を非科學的だと言つて非難してゐる。

2009/4/29(水) 午後 6:13 [ nozakitakehide ]

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それに對して、松永は、「正かな派」の「やり方」が「科學的」であるから「私はコミュニケーションできない」と言張つてゐる。これは、非科學的な松永のやうな人間には、科學的な正かな派のやり方は受容れられないし、「受容れなくていいものだ」と言ふものですが――。

誰が何う見ても、トンデモさんの理窟でせう。

或は、今の時代、人間は科學的な思考を拒否できない。少くとも、科學的な價値觀を拒否できない。だから、科學的な主張に對しては、それなりの應對をする義務が全ての人間にあるんです。その義務を松永は放棄し、しかもその放棄したのは自分がわからない領域だけで、自分がわかる領域で松永は依然として科學的な態度をとつてゐる。
が、それは保身の爲の態度であり、御都合主義的だと言はざるを得ない。

2009/4/29(水) 午後 6:17 [ nozakitakehide ]

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一方で、爺氏は、科學的と言つてゐる「正かな派」の「科學的」は「本當に科學的か」と疑ひの目を向け、執拗に疑問を呈し續けてゐるのだけれども――。

科學の領域に入れていいのは自然科學だけだ、自然科學こそが「眞性科學」だと爺氏は料簡の狹い事を言つてゐる。
けれども、人文科學も自然科學と同樣、科學ですし、學問です。疑ふなんて飛んでもない。全ての人間が、人文科學も科學として・學問として、認めなければならない。が、自然科學を信奉してゐるから、人文科學と言ふとそれだけで「うさんくさいんだよ」と上から目線で極附けてしまふ。爺氏がそれです。が、喜六郎なんかもこれだと思ふ。

みんな人文科學を馬鹿にしてゐるんです。が、私にしてみれば、さう云ふ馬鹿にする態度こそ、人文科學に對する無理解の原因であり、人文科學の領域に屬する事柄に關して無知になる原因であると思はれる訣です。そして、その結果として、無茶苦茶な「現代仮名遣」が通用してしまつてゐる。

2009/4/29(水) 午後 6:21 [ nozakitakehide ]

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二三日書き込みが無いので、私のアドバイス(と云ふか、松永氏の批判)を真摯に受け止めて下さつたのか、なんて思うて居りましたが、そんな訣ないですね。野嵜さんは変はらない。

「また『科學的であるものは、科學的である限り、反證可能性を持つてゐる。』つて、誰が言つてゐると云ふのですか」…………(「爺、ちよつと言葉が出てこない」の図)野嵜さん、真面目に言つてますか、これ。私が「最初と次のパラグラフ」と場所まで挙げて引用してゐるのに。(ちなみに、この文自体は「然程」間違つてはゐないのですよ。その前の文章と繋るから、をかしい、と言つてゐる。)

「反證可能性が何うの斯うのと云ふ爺氏の主張に附合ふ氣はありません。なぜなら、國語學は誰が何う見ても明かに科學ですから。」……さうですか、「反証可能性」なんて聞いたやうな事を間違つて持ち出して(上記)、混乱した議論を始めたのは野嵜さんで、私はそれを「間違つている」「説得力が無いからやめた方が良い」と言つているのですから、別に「付き合つて」頂かなくて結構です。すっぱり止めませう。(でも「國語学は科学だ」と来る……) 削除

2009/4/29(水) 午後 10:41 [ ]

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「多分、インターネットサーフィンして目についた文章を讀んで、爺氏は自分が物知りになつたものと思ひ込んでゐるのでせう。しかし、爺氏はウェブ以外の本を讀んだとは思はれません。ポパーに直接當つたとも思はれません。」……私は無知だと自覚してゐますし、ウェブ以外の本も(少しは)読みますし、ポパーさんの本も読んだ事があります。で、かう云ふ無茶で無礼な決め付け(松永さんは「忖度」と言つてをられる)をして、何が仰りたいのですか? 爺の議論(批判)に反論できないから、せめて間違つてゐると云ふ「印象」を与へたい?そんな事をしても、ご自身の議論の前提と論理がをかしいと云ふ事実は覆ひ隠せないと思ひますよ。(如何して「ポパーによると爺の云ふ事はこのやうに間違つてゐる」と云つたやうな「建設的」議論ができないのでせうか?)

ちなみに、野嵜さんは、「反証可能性」と云ふ言葉を最初どこで読んだのですか?私の知り合いは「馬鹿の壁」からじやないの?等と申しておりますが。「間違ひ方が似てゐる」のださうです。当つてゐますか? 削除

2009/4/29(水) 午後 10:57 [ ]

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「松永も爺氏も、反省する能力が無いんです。私はさう云ふ「反省する能力がない手合」を相手に戰つてゐる。そこでこちらが反省しても、弱みを見せる事にしかならない。」……「戦つている」との自覚がお有りなら、議論で持ち出したらもっと「弱味になる」事はやめた方が良いですよ(「虚仮威し(に失敗する)」「論理的欠陥」「馬鹿呼ばわり」等等。)そもそも議論してゐる相手に「反省」する能力を求めるのは筋違ひでせう。主張や議論は「反省」できない。「無礼」「怠慢」「知的な不誠実さ」は「反省」できるし、しなくてはならない。としたら、まず「反省」しないといけないのは、野嵜さんではないですか? 削除

2009/4/29(水) 午後 11:12 [ ]

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「で、『歴史的假名遣は科學的である』に爺氏は執拗に反對を唱へてゐるんですが、私にはなぜ反對するのか、それがまるで理解出來ない。」……野嵜さんは緻密な議論が苦手なやうですが、私が「執拗に」申し上げてゐるのは、ここで「科学的」なんて言はないはうが良い、と云ふ事です。(定義が間違つているし、矛盾してゐるから。)そのやうな間違つた言葉を使つた記述を、肯定も否定もできないではないですか。間違ひを指摘すれば十分なはずですが、取り敢へず「対案」を示しますと、まず、「上記の二つの文章は削除する」で、「『科学』=『実証的研究』と置き換へてみる」(これはかなり妥当ではないかと思ひます。)すると、

私にしてみれば、正假名遣は理念ですし、その理念に近附くやう、科學的な檢討(=実証的研究)をする事は良い事です。さうした檢討の過程の産物として、定家の假名遣も契沖の假名遣も「ある」訣ですし、「明治政府が採用した歴史的假名遣」なるものも「ある」と言つて良いと思つてゐます。が、さうした具體的な成果物は、「研究の成果物」であるのであつて、科學的なもの(=実証的研究の成果)だと言つていい。 削除

2009/4/30(木) 午前 6:09 [ ]

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が、「現代仮名遣」は、さう云ふ科學(=実証的研究)の成果物ではない。理想の假名遣を發見する目的で行はれた研究の過程における成果物ではない。
さう云つたものを否定して――國語研究を否定して、便宜の爲に、と云ふイデオロギーに基いて理論から構築した人工の表記である訣です。が、ならば「現代仮名遣」は明かに政治的な存在です。だから「正かな派」は「現代仮名遣」を非科學的だ(=実証的研究に基いてゐない)と言つて非難してゐる。

とすれば、野嵜さんの主張はほぼ一貫したものにできると思ひます。二つ目の置き換へは、トートロジーつぽいので、省くとすれば、「科学的」などと云ふ、うるさい爺には因縁をつけられ、後の方で価値観とごつちやになつて混乱の素となる言葉なぞ使はなくても、と云ふか全く使はない方が、明解な議論ができる訣です。

「人文科学」でも良いじやないか、と云はれさうですが、「人文科学」が、二つ以上の学問に共通した方法論(の集合)を意味するので無い限り、この文脈では意味が無いでせう。 削除

2009/4/30(木) 午前 6:11 [ ]

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さうした上で考えると、松永氏は、「『理想の(正しい)假名遣ひ』と云ふものを見付ける事はできないだらう、少くともとりあへずの正書法をそればかりで揃へる事はできない」と仰つているのだと思ひます。云ひ換へれば、(何か天下り的な判断を含まず)実証的研究の成果だけで正書法を作る事の限界を示唆しておられる訣です。これは十分(実証的)検討に値する真つ当な議論であつて、「非科学的だ」と切り捨てる事はできない、と思ひます。逆に云ふと「(非)科学的」などと云ふ言葉さえ使はなければ、さうさうは切り捨てる事のできない意見だと思ひます。

で、私は(議論の後半で)「現代假名遣ひが政治的(決められ方が非民主的)」を、これまた「現代假名遣ひは非科学的」と切りすてる(さう言つて議論をやめてしまふ)のを一旦控へるならば、「規範なんだからそれでも良い」と云ふ反論を一旦受け入れざるを得ないと思ひます。それで、「現代假名遣ひの決まり方が政治的だ」と非難だけしてゐたいのか、「こちらの方が良いぞ、比較してみろ」と云ふところまで行くのか、と云ふ認識が出てくるのではないでせうか。 削除

2009/4/30(木) 午前 6:24 [ ]

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>「よく知らない事を言つて間違へてしまふ」つてのは良いのですか?
そんなことをいひだしたら、間違ひを恐れてだれもなにもいへなくなつてしまふ。
「無知」ゆゑの「過ち」は間違ひではない。「過ち」はそれこそ「反省」すればいいだけのことだ。またさうして「知」を得る事ができる。しかし「無知」をいひわけにしたり、いなほつたりするのは間違ひである。「過ち」を認めない、「反省」しないことだからだ。
「「よく知らない」と言つてものを聞くのは」、「無礼」でも「怠慢」でも「知的な不誠実さ」でもない、だからおれは「反省」する必要などない、と爺氏はいひたいわけか。
そもそも「よく知らない事を言つて間違へてしま」つてゐるのは爺氏なのだけど。

>「虚仮威し(に失敗する)」「論理的欠陥」「馬鹿呼ばわり」等等
「虚仮威し」に「「反證可能性」など「虚仮威し」でしかない」と「論理的欠陥」にもとづいて「馬鹿呼ばわり」。そつくり自分がやつてゐることではないか。 削除

2009/4/30(木) 午前 8:44 [ 佐藤 俊 ]

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「批判が可能であり、訂正が可能である」ことと「反證可能性を持つてゐる」ことはなんら矛盾しない。むしろ「批判が可能であり、訂正が可能である」ことによつて「反證可能性」は強化されるのではないか。

>「『科学』=『実証的研究』と置き換へてみる」(これはかなり妥当ではないかと思ひます。)
『実証的研究』によつて『科学』は形作られるのではないか。であれば、この「置き換へ」には何の意味もない。ただのことば遊びだ。 削除

2009/4/30(木) 午前 8:49 [ 佐藤 俊 ]

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>これは十分(実証的)検討に値する真つ当な議論であつて、「非科学的だ」と切り捨てる事はできない、と思ひます。逆に云ふと「(非)科学的」などと云ふ言葉さえ使はなければ、さうさうは切り捨てる事のできない意見だと思ひます。
「思ひます」「思ひます」ぼくはさう「思はない」。
「『理想の(正しい)假名遣ひ』と云ふものを見付ける事はできないだらう」「(何か天下り的な判断を含まず)実証的研究の成果だけで正書法を作る事の限界」と松永氏は「切りすてる(さう言つて議論をやめてしま」つてゐるだけである。それはまさに「非科学的だ」。

>うるさい爺には因縁をつけられ
「因縁」でしかないのなら「因縁」をつけるのはやめるべきだ。語るに落ちた、といふか、自分のやつてゐる事は「因縁」でしかないことは自覺してゐたわけだ。 削除

2009/4/30(木) 午前 8:59 [ 佐藤 俊 ]

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>野嵜さんは緻密な議論が苦手なやうですが、私が「執拗に」申し上げてゐるのは、ここで「科学的」なんて言はないはうが良い、と云ふ事です。(定義が間違つているし、矛盾してゐるから。)

野嵜氏の科学の定義のどこが間違っていて、どこが矛盾しているの具体的に指摘していただければ幸いです。
あと
爺氏が「「歴史的假名遣の探究においては、ここが何う云ふ風に反證可能性を持たない、非科學的な主張を含んでゐる」と、具體的に指摘しない」のは何故ですか?
無知ですみません、よろしくお願いします。 削除

2009/4/30(木) 午後 1:12 [ うに ]

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佐藤さん、おひさしぶり。でも、ないか。でも、たつた数日でも、ゑらい取り乱しやうで、なんだか、パニックになつた時の野嵜さんみたいです。

「そんなことをいひだしたら、間違ひを恐れてだれもなにもいへなくなつてしまふ。」……そうそう、だから、「良く知らないと言つてものを聞く」のくらい勘弁してくださいよ。

「そもそも『よく知らない事を言つて間違へてしま』つてゐるのは爺氏なのだけど。」……そこでやめてしまはないで、どこが間違つてゐるのか言つてくれねば、何とかの遠吠え。

「虚仮威し」に「「反證可能性」など「虚仮威し」でしかない」と「論理的欠陥」にもとづいて「馬鹿呼ばわり」。……よく話が見えませんが、批判してゐるおつもりなら、もう少し落ち着いたらいかがですか?私が「論理的欠陥」にもとづいて「虚仮威しする人」を「馬鹿呼ばわり」してゐるつて?あははは、(半分)当り!論理的欠陥は突いてゐます。それはさすがにお分りなんですね(良かった)。でも馬鹿呼ばわりなんかしてませんよ。 削除

2009/4/30(木) 午後 1:52 [ ]

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「『批判が可能であり、訂正が可能である』ことと『反證可能性を持つてゐる』ことはなんら矛盾しない。むしろ『批判が可能であり、訂正が可能である』ことによつて『反證可能性』は強化されるのではないか。」……御意。矛盾しないです。全く関係ないから、矛盾のしやうがない。でも、関係ないから、強化のしやうも無い。従ってまた、野嵜さんの件の文章も論理的でない。

「『実証的研究』によつて『科学』は形作られるのではないか。であれば、この『置き換へ』には何の意味もない。ただのことば遊びだ。」……とお考へならば、あなたはこれまでの議論に全く付ひて来れてゐない。学問 ⊃ 実証的学問 ⊃ 科学。ここで科学を他と区別するのが「反証主義」です。で、くどいですが、これを間違つて持ち出したのは野嵜さんです。ちなみに、私はこれら優劣を論つてはゐません。対象が違い、使へる方法論が異ると云ふだけの事。

「『思ひます』『思ひます』ぼくはさう『思はない』。」……さうですか。まあ上のやうな稚拙な議論をする人がどう思はれやうと私にはあまり興味が有りませんが。 削除

2009/4/30(木) 午後 1:55 [ ]

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「『(何か天下り的な判断を含まず)実証的研究の成果だけで正書法を作る事の限界』と松永氏は『切りすてる(さう言つて議論をやめてしま』つてゐるだけである。それはまさに『非科学的だ』。」……さう言い切つてしまはれては、私の拙い解釈が間違つてゐたら松永氏に申し訣無いが、いずれにせよ、松永氏に議論をやめさせたのは、正假名派でせう。しかも、まさしく自分達を「科学的」、相手を「非科学的」だと言つて。云ふなれば「(非)科学的」は、あなたがた正假名派にとつて正に「鬼門」のやうに思へます。解釈・定義が「普通」「共通」ではないし、それが問答無用の錦の御旗になつてゐる。何より、あらゆる「批判」にさう「過剰反応」したら、御自分達の立場を弱めるだけだと思ふのですが。私が思ふに、素より反論する事は可能で(だから「正当な批判」と云へるのですが)、単に「かういう正書法が作れている」と云へば良い。それが無理なら、「今は思ふやうなものはできてないが、○○を基にしてかういふ筋道でできる、と思つている」でも良いではないですか。それが真つ当な「議論」だと思ひますよ。 削除

2009/4/30(木) 午後 2:10 [ ]

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「『因縁』でしかないのなら『因縁』をつけるのはやめるべきだ。語るに落ちた、といふか、自分のやつてゐる事は『因縁』でしかないことは自覺してゐたわけだ。」……成程。これは爺、一本まゐりました。やつと揚げ足を取れましたね、佐藤さん。しかし謙遜・自己卑下の類いで、因縁でしかない、とは実は思つてゐないのですよ。その前に「うるさい爺に」と言つてますし。なあんて弁解は聞き苦しいですね。相手を見て法を説け、とも云ひますし。はい、これは言ひ間違ひでした。すみません。言ひ直します。……省くとすれば、「科学的」などと云ふ、論理について厳格な爺に定義や論理の誤りを指摘され、後の方で……と訂正します。(でも、これちよつと恥づかしい。) 削除

2009/4/30(木) 午後 2:13 [ ]

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うにさん、今晩は。はじめまして。

前半については、繰り返しになりますが、

「けれども、批判が可能であり、訂正が可能であるのは、歴史的假名遣が科學的だからである。」
「科學的であるものは、科學的である限り、反證可能性を持つてゐる。」
とやつてしまふと、はつきり「間違ひ」です。「反証可能性」は「仮説が反証可能な形であるかどうか」といふ事で、「「批判」や「訂正」が可能であるかどうか」等と云ふ事とは違うから、です。

あと、後半について私が具体的に云へないのは、その辺り(假名遣ひの探求)について私が殆ど何も知らないからです。ただ、反証可能な仮説のみを積み上げて、假名遣ひ(の理論)が成り立つてゐる等と云ふ事はないだらう、とは思つてゐます。 削除

2009/4/30(木) 午後 3:14 [ ]

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お答えいただきありがとうございます。
要するに爺氏は野嵜氏が「批判」や「訂正」が可能であるから歴史的假名遣は科學的である」と主張されているとお考えになっているわけですね(違いましたらご指摘ください)。

>反証可能な仮説のみを積み上げて、假名遣ひ(の理論)が成り立つてゐる等と云ふ事はないだらう、とは思つてゐます。

仮に反証不可能な仮説があるならば、それを取り除いて「科学的」にやればいいのではないでしょうか? 削除

2009/4/30(木) 午後 7:19 [ うに ]

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>「『批判が可能であり、訂正が可能である』ことと『反證可能性を持つてゐる』ことはなんら矛盾しない。むしろ『批判が可能であり、訂正が可能である』ことによつて『反證可能性』は強化されるのではないか。」……御意。矛盾しないです。全く関係ないから、矛盾のしやうがない。でも、関係ないから、強化のしやうも無い。従ってまた、野嵜さんの件の文章も論理的でない。

關係があるのに關係がないと「思ひます」とやられたら、それこそ反論のしやうがないですね。關係があるんですから關係があるんです。

私はポパーの本、讀んでゐますよ。それだけではない、ポパー以外の本も讀んでゐるんです。だから、科學とは何か、は解つてゐます。ポパー一本槍の爺氏とは違ふ。

2009/4/30(木) 午後 10:07 [ nozakitakehide ]

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>「けれども、批判が可能であり、訂正が可能であるのは、歴史的假名遣が科學的だからである。」
「科學的であるものは、科學的である限り、反證可能性を持つてゐる。」
>とやつてしまふと、はつきり「間違ひ」です。「反証可能性」は「仮説が反証可能な形であるかどうか」といふ事で、「「批判」や「訂正」が可能であるかどうか」等と云ふ事とは違うから、です。

間違ひではありません。正しいです。
批判や訂正をするのは假説の檢證をする事です。假説の檢證が可能なのは假説が反證可能だからです。

全部繋がつてゐます。それを爺氏は、役人のやうに、「違ふ」「違ふ」と言つて因縁を附けてゐるのです。

そこまで何で言葉だか形式だかを嚴密にしなければならないんですか。概念的に何も間違つてゐないでせう。

2009/4/30(木) 午後 10:13 [ nozakitakehide ]

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「反證不可能」なものは、批判も訂正も出來ないでせう。常識的に考へれば、解る事ではないですか。何か爺氏には、私とは異る常識があるやうですが。

爺氏は殊さら「違ふ」「違ふ」と言つて「違ふ事にしたい」やうですが、それは同じだと考へねばなりません。そして、世間の人が、爺氏と同じやうに「因縁を附けて來る」かも知れないとしても、それは因縁を附ける人間が間違つてゐるのであり、その間違ひを認める事は出來ません。

しかし、ポパーに拘る必要はないんですよ。そこまで「嚴密」に言ふのは、ポパーが思想家で、抽象的に考へてゐるからです。常識的に考へて、科學的な態度は、批判なり訂正なりが出來ると云ふ事だし、突詰めて考へれば反證可能性のやうな事を言ふ事になると云ふだけです。それらの事實を私は並べて述べたに過ぎません。

2009/4/30(木) 午後 10:16 [ nozakitakehide ]

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それにしても、「我々」が「パニック」になるところで、爺氏は殊さら「餘裕綽綽」と云つた態度をとつて見せるんですね。

どつちも同じ事でせう。爺氏は、ただ、自分に餘裕があるところを見せて、優位を見せ附けようとしてゐるに過ぎません。やめて下さい。あなたのさう云ふ態度がむかつくんですよ。
さう云ふ、人をむかつかせる爺氏或は松永氏のやうな態度――さう云ふ態度をとる事が一般に許されるのならば、私の態度なんか可愛いものでせう。文句を言はれる筋合ではありませんね。あなたこそ、態度が惡い。松永氏も態度が非常に惡い。喜六郎なんか最う非道い。ところが、さう云ふ非道い態度をとる人々が、私の態度を「惡い」と何時も言ふんです。訣がわかりませんね。

2009/4/30(木) 午後 10:20 [ nozakitakehide ]

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と言ふか。

>けれども、歴史的假名遣は、再三の訂正が行はれた。それを「アンチ歴史的仮名遣い」の人々は「歴史的仮名遣いの欠陥」と解釋し、非難する。けれども、批判が可能であり、訂正が可能であるのは、歴史的假名遣が科學的だからである。
>
>科學的であるものは、科學的である限り、反證可能性を持つてゐる。「現代仮名遣」は反證可能性を持たない。最初に述べたやうに「正書法だから正しい」と「定められてゐる」からである。

>「反証可能性」は「仮説が反証可能な形であるかどうか」といふ事で、「「批判」や「訂正」が可能であるかどうか」等と云ふ事とは違うから、です。

私の言つてゐる論理と全然關係のない論理をでつち上げて爺氏は私を罵つてゐるとしか「思へない」。

爺さん、あなたは「科學的なら、批判や訂正は不可能でなければならない」と主張したいですか。さうではないですね。

2009/4/30(木) 午後 10:23 [ nozakitakehide ]

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「歴史的假名遣は、科學だから反證可能性を持つてゐるので、よつて批判や訂正が可能である」

――どうやら爺氏は、私がさう云ふ「論理」で物を言つてゐると思ひ込んでゐるらしい。ところが、私の文章を虚心坦懐に讀めば、そんな事を言つてゐないのは誰にだつて解る筈だ。

解らないのは私の事を爺氏が兔に角馬鹿と云ふ事にしなければゐられないからで、なぜ私を馬鹿と云ふ事にしなければならないかと言へば――爺氏は自分の優位を誇示したいのだ。

でなければ、佐藤氏や私が「パニック」に陷るだの何だのと極附け、「餘裕がある=優位に立つてゐる」と云ふ事を示すパフォーマンスを爺氏がとり續けてゐる理由が無い。

2009/4/30(木) 午後 10:28 [ nozakitakehide ]

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もつと常識的に考へてよと言ひたい。

歴史的假名遣は學問的な檢討の對象になる。
「現代仮名遣」はならない。

それだけの事を言つてゐるんだから。

長い文章を書いてゐるから、幾らでもつけこめる――「つけこんでやれ!」と、爺氏はさう思つて「因縁」をつけてきたんだらうけれども、何でそんな意地の惡い事をするんだらう。喜六郎にしても松永氏にしても、意地の惡い人間である事は明かだが、爺氏も恐ろしく意地が惡い。ところが、爺氏にしても喜六郎にしても、快活に振舞ふ事で、自分は「意地が惡くない」人間だとアピールしてゐる。さう云ふパフォーマンスで人を騙さうとするのは良くない事だが――喜六郎も爺氏も「天然」の氣がある。例のアレ氏もさう。みんな「天然」なんだよ。なんでもつと意識的にならうとしないんだらう。不思議でならない。だから自分の事を省みる・反省する事がみんな出來ないんだ。

2009/4/30(木) 午後 10:32 [ nozakitakehide ]

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「要するに……」……御意。

「仮に反証不可能な仮説があるならば、それを取り除いて『科学的』にやればいいのではないでしょうか?」……御意。できると思ひます。ただ「反証主義」によると、史的唯物論はおろか、進化論や古生物学まで「科学ではない」とされます。未に定められない字音假名遣ひが有る事等から、現在までの「歴史的假名遣ひの研究」が「科学」でないのは自明として、それをお仰るやうな手法で「科学」にしようすれば、どれくらゐの既存の成果が残るでせうか。私はそんな試みは無謀といふか無駄だと思ひます。特に歴史的な対象を扱ふ学問は、「反証主義」の観点からはなかなか「科学」にしてもらへないやうです。でも、私は、たとへ「科学」と呼んでもらへなくても、そんな事は大した事ではなくて、進化論は現在までの学問の成果として最高のものの一つだと思つてゐます。 削除

2009/4/30(木) 午後 10:43 [ ]

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史的唯物論或はマルクス主義は「宗教」だと言はれてゐますね。科學ではないです。

歴史的假名遣は科學的に「正しくない」とされる可能性はあります。
が、「現代仮名遣」はそれがあり得ない。

だから「現代仮名遣」はマルクス主義なんかと同じだと言つてゐる訣です。それだけの事です。それを「科學として實際に檢證したら」何う斯うと言出すのは、それこそをかしい。

しかし、字音假名遣があるから「反證可能性がない」とは……唖然。呆れて物も言へないとはこの事だ。
確定出來ない字音假名遣「も」ある、と「認める」のは、科學的態度でせう。歴史學だつてわからない事は幾らでもありますが、科學です。わからない事があるから即座に「科学でないのは自明です」つて、今までの爺氏の發言、やつぱり無視していいやうです。

あー歴史學は「科学にしてもらへない」と、そんな事言つてゐるんだ。ダメだろ。

――しかも、字音假名遣は重視しない、と云ふのが「正かな派」の態度であると何度も言つてゐる筈なんですけれども、ねえ。

2009/4/30(木) 午後 10:53 [ nozakitakehide ]

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http://www7b.biglobe.ne.jp/~bokujin/ronbun/ronbun010.htm

進化論にしても、科學的方法で研究されてゐると言ふ話ですねえ。何うも、その邊、爺氏の解釋が妙に偏狹である感じが。

2009/4/30(木) 午後 10:59 [ nozakitakehide ]

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ちなみに、シュペングラーにしてもマルクスにしても、科學的とは到底言へない訣ですが、しかしさうした主張も、「一面の眞理」と云ふものを持ちます。言換へると、さうした主張が言出されたのにはそれなりの理由がある。

何より、さうした主張が言出された、と云ふ事は歴史上の事實でして、さうした事實を認める事は意味があります。もちろん、自然科學としては全然間違つてゐる。けれども、思想としては存在してゐる。

さうした思想を歴史の流れの中に位置づけて、意義を解釋する思想史と云ふものは、やつぱり「ある」訣です。誤つたものであつても誤り方には又一つの必然性は考へられるのであり、さうした部分を檢討する事にも意味があつて、學問として成立する。

物の見方によつて、似たやうなものでも科學になつたりならなかつたりする。世間で話題の「水伝」にしても、それ自體科學的でないのは明ですが、しかしさうした科學的でないものを恰も科學のやうに「信じてしまふ」態度について、分析する事には科學性があり得ます。

2009/4/30(木) 午後 11:08 [ nozakitakehide ]

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かなづかひについて、さう云ふ「一面の眞理」が「ある」と私は言ひたいのではなく、寧ろ多くのかなづかひの研究は科學的研究であると言ひたいのですが――一方で、「反證可能性」とは無關係の研究もかなづかひの研究ではあります。それは事實で、さういつたものに關して批判なり非難なりが「ある」事も承知してゐる上、さうした非難が科學的な研究に對しても浴びせられるとしたら、それはやりきれないと。

國學院系の「非科學的」なかなづかひの研究がある事實を、福田氏は『私の國語教室』で指摘してゐて、それは百も承知ですし、その「一面の眞理」性を私は福田氏とともに尊重するのですが、一往、自分の立場としてはさうした態度とは一線を劃しておきたいと。

2009/4/30(木) 午後 11:17 [ nozakitakehide ]

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「明治天皇は暗殺されていた」でも「織田信長は女だつた」でも假説としては「あり得る」し、それを檢證する態度として科學的な態度は「あり得る」訣です。

けれども、「明治天皇が暗殺されていたと考えると全て説明できます。これは事実です。私の考えに反対する事はできません」とか言出したら最うそれはトンデモになる訣ですが、さう云ふ「正しさ」の確信はあり得ないからです。

だから、實は、「何を言ふか」が問題なのではなく、言ふ態度に問題があるだけなんですが、そこでマナーだの何だのと言出すとまた話がをかしくなる。「掲示板荒し」とか隨分言はれたものです。

2009/5/1(金) 午前 0:17 [ nozakitakehide ]

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一方で、さうした態度とまるで正反對の態度を押出し、正しいとも何うとも言はず、ひたすら「共感」とか「嫌悪感」とか「個人的な感想」を「述べる」、と云ふやり方が出てくる。これもまた困つた態度ですが、これは最初から「非科學性」を賣りにしてゐるから非常に厄介です。何しろ非科學的である事を自覺してゐるのだから反省のしやうがない。

けれども、反省の機縁がない事はそれ自體として間違つた態度である訣です。その點で「正しい」と言張る非科學的な態度と何も變らない。

「現代仮名遣」になると、そもそも「正しいものとして国民は黙って従いなさい」と言つて定められたものになつてしまふ。それは最初から「正しい」のであつて、「本当に正しいのか」「正しくないとしたらどのやうな指摘をすればいいのか」と云ふ疑問を呈する餘地すらありません。が、それが問題である訣です。

2009/5/1(金) 午前 0:21 [ nozakitakehide ]

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どうでもいいけど、織田信長は女だつたつて、ネタだつたんだけどなー。

2009/5/1(金) 午前 0:26 [ nozakitakehide ]

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野嵜さん、ご機嫌が直って良かつたです。私は御人好しなので、同じ言葉を聞くのでも、泣き叫んだり、僻んだりしてゐるより、ご機嫌で話してくれたほうが嬉しい。で、これまで何回も、取り乱すな、とか狼狽へるな、とか失礼な事を言つてしまひましたが、そんな事は必要なくて、放つてをいても、ご機嫌は直つたやうですね。佐藤さんのパニックも「揚げ足を取り返し」たりしないで、放つてをけば良かつたのでせう。

「關係があるのに關係がないと「思ひます」とやられたら、それこそ反論のしやうがないですね。關係があるんですから關係があるんです。」……私はここでは「思ひます」とは言つてないですが。また、二度言い切つても、より確かなやうには聞こへませんよ。(下記参照) 削除

2009/5/1(金) 午前 6:39 [ ]

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「間違ひではありません。正しいです。」……さうですか、でも
「批判や訂正をするのは假説の檢證をする事です。」……それは違ふでせう。例えば「エーテル仮説」を「矛盾している」と言ふのが「批判」で、そう言つても牢屋に入らなくて良い、と云ふ事が「批判可能」で、一方、マイケルソンとモーレイがやつた実験が「検証」(この場合は反証した訣ですが)です。また、このやうな実験が考え出せると云ふ事が「検証可能である事」です。全然違ひますね。
「假説の檢證が可能なのは假説が反證可能だからです。」……これも違ふ。反証可能の形になつてゐなくても、検証はできる仮説はいくらでも有る。と云ふか、一般に仮説を「反証可能な形」にする方が難しい。 削除

2009/5/1(金) 午前 6:44 [ ]

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「そこまで何で言葉だか形式だかを嚴密にしなければならないんですか。概念的に何も間違つてゐないでせう。」……あらま、野嵜さんが言ひますか、それを。「疑似科学批判としての……」がタイトルなんだから、疑似科学と科学を峻別しよう、と云ふのがこのスレッドにおける野嵜さんの意図ではないのですか。科学と自称する疑似科学を科学ときちんと分けるのは、なかなか大変な事ですよ。きっとあちら側も、「概念的に何も間違つてないでせう」と思つてゐますし。なかなか「常識」だけでは、科学論はやれません。で、野嵜さんが、ここで、「反証主義」「反証可能性」を持ち出したのは目的には合つてますが、さうする事で、言葉や議論を正確にする必要が出て来たのでせうね。

しかし、「主敵」は「擬似科学」ではないし、そもそも「科学的でないですけど、それが何か」と言つてゐる訣で、それを「非科学的だ」と批判するのもなんと云ふか見当違ひと云ふか筋違いと云ふか。

だから、私は「反証可能性」も「科学」もここで使ふのはやめた方が良い、と申し上げてゐるのです。 削除

2009/5/1(金) 午前 6:50 [ ]

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>例えば「エーテル仮説」を「矛盾している」と言ふのが「批判」で、そう言つても牢屋に入らなくて良い、と云ふ事が「批判可能」で、一方、マイケルソンとモーレイがやつた実験が「検証」(この場合は反証した訣ですが)です。また、このやうな実験が考え出せると云ふ事が「検証可能である事」です。全然違ひますね。

もしかして、「批判」と云ふ言葉を「政治的に批判する」とか云ふ意味だと爺氏は思つてゐます?

呆れましたね。「批判」と「檢證」とを、私はそんな風に區別してゐませんよ。

最う判りました。爺氏は、私と用語が違ふだけです。私の用語を爺氏が勝手に爺氏の用語と「同じだ」と極附けてゐるから、私の言つてゐる事が爺氏には「矛盾にみえてしまつた」だけです。


爺氏には、他人の用語を飜譯して解釋する、と云ふ基本的な能力が缺けてゐただけでした。答は簡單でした。
話にならないのは、爺氏に基本的なコミュニケーション能力がなかつたからです。

もう爺氏には絡んで貰ひたくありません――私が言つてゐる事を爺氏が爺氏の自分勝手な用語で極附けて解釋して呉れる限りは。

2009/5/1(金) 午前 7:06 [ nozakitakehide ]

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爺氏は、「檢證が可能である」とは「科學的に檢證が可能である」事を言ひ、「批判が可能である」とは「政治的・社会的に批判が可能である」事を言ふ、と、自分の頭の中で定義してゐます。

ところが、私は、そんな定義をしてゐません。批判とは檢證の事です。そんなの當り前の話だと思つてゐました。學問的に批判するとは檢證する事に決つてゐますから。

カントのなんとか批判を、爺氏は「政治的に批判する事」だと一概に極附けて非難するんでせうねえ。

何で爺氏が頑なに私の事を罵倒してゐるのか、やつと理解しましたよ。爺氏は、爺氏の用語が、私の用語と違ふ事實を、認識してゐなかつたのです。認識して下さい。それで全部解決します。最う解りましたよね。爺氏は私に反論する理由がありません。私が言つてゐる「批判」とは爺氏が言つてゐる「檢證」と同義です。

殊さら用語に拘つても、仕方がないでせう。それに、そもそも爺氏の用語こそが間違つてゐるのです。私の用語が正しい。爺氏は間違つてゐる。その「間違つた思ひ込み」に基いて、爺氏は私の言つてゐる事を「矛盾だ」と「判斷した」に過ぎないのです。

2009/5/1(金) 午前 7:12 [ nozakitakehide ]

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或は、爺氏は「根據ナシに否定する」=「批判する」だと思つてゐるのですか。阿呆ですか。「根據を提示して否定する」=「批判する」に決つてゐます。「矛盾してゐる」と「批判する」なら、根據を擧げて批判する事に決つてゐます。が、それは即座に檢證です。根據を擧げてゐるんだから檢證に決つてゐます。

また、實驗にしても、「水伝」の「實驗」は、檢證ではありませんね。單純な話ではないんです。

爺氏は、そこら邊が全然解つてゐない。

2009/5/1(金) 午前 7:17 [ nozakitakehide ]

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ただ言葉を弄んで――しかも、そこで「批判」と云ふ語を、とんでもなく輕く見て、馬鹿にして、それで人の言つてゐる事を歪曲したのです。
なんでそんなに「批判」と云ふ事を馬鹿にしますか。批判は學問的にするものに決つてゐますし、それは檢證でなければならないんです。私は前からさう言つてゐる。ところがそれが爺氏にはわからない。「非難」「罵倒」と「批判」とを、爺氏は全く區別してゐないんです。ところが私は嚴密に區別してゐる。檢證こそが批判である。決つてゐるではないですか。

彼我の用語の違ひを、爺氏はわからないで、一方的に私を罵倒して、貶めようとした。が、それは私の用語を罵倒して、貶めようとしたのです。言葉を馬鹿にしてゐるのです。それが今判つた。
許せない事です。

2009/5/1(金) 午前 7:18 [ nozakitakehide ]

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>さうした「現代仮名遣」を批判して、我々正かな派は繰返し批判を行つてゐる。
そこでは、「現代仮名遣」を批判するのみならず、歴史的假名遣批判も當然ながら行つてゐる。その過程で、「歴史的假名遣は明治政府の創作である」とする非難に遭遇する事になつた。

私は斯う書いた。ところが、爺氏はこの文章を、誤讀してゐるに違ひないのだ。
「批判」と「非難」とを、私は何時も嚴密に區別して用ゐてゐる。「矛盾してゐる」と言ふのでも、感情的に「非難する」のと、論理的に・根據を擧げて「批判する」のとでは全然違ふ。だから違ふ用語で言つてゐる。

ところがさう云ふ私の配慮を、爺氏は認識すらしてゐない。爺氏は自分の觀念で「批判」と云ふ語の意味を極附けて、その自分の極附けを、私の用語に適用して、私の言つてゐる言葉の意味を解釋してしまつた。

こんな迷惑な話はありません。

2009/5/1(金) 午前 7:23 [ nozakitakehide ]

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他人の言葉を解釋する時は、他人の用語と自分の用語とが違ふのでないか、と細心の注意を拂つて讀む必要があります。爺氏にその邊の注意をしてゐる形跡はありません。皆無です。不用意に、私の用語を私流でなく爺氏流に解釋して、それで私の發言を誤讀し、それで爺氏は私を非難してゐる。けれども爺氏のは批判ではありませんね。非難です。だから檢證にもなつてゐません。それを爺氏は當り前のやうな顔をして威張つてやつてゐる。それが腹立たしい。

爺さん、あなたのやつてゐるやうな「身勝手な解釋」と云ふ行爲は、迷惑なんですよ。やめて下さい。


しかし、爺氏のほかにも、私の言つてゐる事を根本的に誤讀してゐる人は、多いんだらうな。さう云ふ頭の固い人には話が通じないから、説得しても甲斐がない。全く以て空しい話です。

2009/5/1(金) 午前 7:24 [ nozakitakehide ]

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野嵜さん、ますますご機嫌ですね。御同慶の至りです。

「もしかして、『批判』と云ふ言葉を『政治的に批判する』とか云ふ意味だと爺氏は思つてゐます?」……思つてません。科学的仮説への批判は当然「科学的批判」であり、そうする事はもまた当然「科学的な行為」です。挙げた例だつて、「エーテル仮説は矛盾していると言ふ」となつてゐる。これをどう考へたら、「政治的な批判」になるんですか?

但し、科学的批判が「できない理由」「受け入れられない理由」については、外部的になる事が多いでせう。大昔から現代まで、科学的批判をしたら、牢屋に入れられた(ガリレオ)とか、火炙りにされた(ブルーノ)とか、学会ボスに睨まれた(私の友人)とか。いずれの場合も、批判そのものは政治的ではありませんが、その批判を禁じたい側が、政治的・宗教的に介入してくるのです。あなた方の現代假名遣ひへの「科学的」批判も、「政治的」に無視されてゐるのですよね? 削除

2009/5/1(金) 午前 10:00 [ ]

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で、早とちりして、呆れてみせたり、鬼の首を取つたかのやうに舞ひ上つてないで、科学にをいて「批判(可能性)や訂正(可能性)と検証(可能性)が同じ事だ」と言ふ具体的な実例をお聞かせ下さい。 削除

2009/5/1(金) 午前 10:04 [ ]

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意味がさつぱりわからない。

>「批判(可能性)や訂正(可能性)と検証(可能性)が同じ事だ」と言ふ具体的な実例をお聞かせ下さい。

少なくとも、あなたは「違ふ」事を示してゐないです。

誰がどう見ても同じ物を「違ふ」のであると言つてゐるのはあなたですよ。あなたが先に証明する義務があります。

証明に対してなら反論しますが、爺氏の非科学的な「違ふ」といふ極付けには反論できません。


しかし。

>ちなみに、この文自体は「然程」間違つてはゐないのですよ。その前の文章と繋るから、をかしい、と言つてゐる。

私は「繋らない」と言つてゐます。それで反論は完了してゐますし、爺氏の主張は論破されてゐるのですが、あなたはなにをしつこく絡んでゐるのですか。

2009/5/1(金) 午後 5:54 [ nozakitakehide ]

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と言ふか、爺氏は、自分がさつぱりわけのわからない事を言つてゐて、それでこちらが混乱してゐる事実を、認識してゐますか。

>で、早とちりして、呆れてみせたり、鬼の首を取つたかのやうに舞ひ上つてないで、

あなたこそ、その言葉に当てはまりますね。あなたは何を舞ひ上つてゐるのですか。
爺氏には私を非難する理由がないと、私は証明してみせました。何でそれなのにいい気になつてあなたは私にからんでゐるのですか。

あなたは、科学的科学的と言つてゐますが、あなたの態度は非科学的です。だから私はあなたの言葉を信用しません。いい加減ふざけるのはやめて下さい。

2009/5/1(金) 午後 5:57 [ nozakitakehide ]

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科学に於いて、アインシュタインの宇宙物理学の論争でも邪馬台国の論争でも、批判と反論そして訂正が繰返されてゐるでせう。それが学説の検証でないとしたら、何が検証なんですか。

私には、爺氏が「検証」をどのやうに定義してゐるのか、具体的にどのやうな行為が「検証」なのか、全く想像もつきませんね。

2009/5/1(金) 午後 6:01 [ nozakitakehide ]

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>「もしかして、『批判』と云ふ言葉を『政治的に批判する』とか云ふ意味だと爺氏は思つてゐます?」……思つてません。

嘘ですね。あなたはかう言つてゐます。

>「エーテル仮説」を「矛盾している」と言ふのが「批判」で、そう言つても牢屋に入らなくて良い、と云ふ事が「批判可能」で、一方、マイケルソンとモーレイがやつた実験が「検証」(この場合は反証した訣ですが)です。

あなたは「牢屋」と言ひました。政治に左右されるものが「批判」であるとあなたは言つたのです。あなたの「批判」なる用語が政治と関係のある用語である事は明かです。もし関係がないのなら、あなたは「牢屋」と言はなかつた筈です。
そして、政治的な「批判」と区別して、「検証」とあなたは言つてゐるんです。

2009/5/1(金) 午後 6:13 [ nozakitakehide ]

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しかも、そこで「矛盾」を示す事は「検証」ではなく「政治的な批判」だとあなたは言つてゐると、文章を素直に読む限りでは理解せざるを得ない。それが理解できないと私は指摘したのです。ところが、爺さんは何も説明しない。「わかるはずだ」と独り決めして、自分が訳の分からない説明の仕方をしてゐる事に気付きもしない。爺氏は、コミュニケーションをとる気がないんです。

でも、何となくわかつて来ましたよ。爺さんは「検証」と「実験」とを完全に同義に使つてゐるんです。だから「論理を弄ぶ」事は一切科学ではないと、さう言つてゐるんです。
ところがそれがをかしい。爺氏の主張は「道具で実験できなければ科学ではない」といふものですが、そんなバカな話はない。と言ふより、ポパーはそんな事を言つてゐない。

2009/5/1(金) 午後 6:14 [ nozakitakehide ]

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あーわかつた。
Wikipediaに書いてあるな。

>ある仮説が反証可能性を持つとは、その仮説が何らかの実験や観測によって反証される可能性があることを意味する。

だから、批判とかを「理論的な矛盾を指摘する事」と思ひ込んだ爺さんは、私が「批判」と言つたのを「非科学的」だと非難したわけだ。

でもね、私が「批判」と言つた時、問題にしてゐるのはかなづかひであるわけだ。かなづかひなる仮説については、批判するとしたら、具体的な書き方や現実的な書き方が理論に合つてゐない、といつた批判の仕方になる——そこで「矛盾だ」と言ったら、それは現実の書き方を観測した結果、理論と矛盾してゐる、と言つてゐるわけだ。問題なく科学的だ。何が問題なのだらう。

理論としての整合性がどうのかうのではなく、理論としてのかなづかひが語の実態をどこまで反映してゐるかを「問題にしなければならない」と私は言つてゐるわけだ。それを爺氏は「論理的に一貫してゐるか」どうかのレヴェルで論じたらいいと余計なお節介を言つてくれたと。

2009/5/1(金) 午後 6:28 [ nozakitakehide ]

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>自らを反証する論理を命題が内蔵しないという場合はあるわけで、このような命題に基づく理論とその支持者が自らに対する反定立の存在を無視ないしアドホックに回避するところではその一連の理論体系が実質的に反証不可能となり、そこに大きな危険があるのだとポパーは指摘した。

>科学の進歩は、或る理論にたいする肯定的な事例が蓄積してこれを反証不可能たらしめてゆくところで起こるのではなく、否定的な事例が反証した或る理論を別の新しい理論がとって代えるところで起こる、というのがポパーの科学観の背景的な見解としてある。

「現代仮名遣」の場合、「反証」の可能性はゼロだ。具体的に語の形を挙げて批判しても、「だが正しい書き方としてこう定義されたのだから従へばいい」としか「反論」は返ってこない。

歴史的かなづかひの場合、反証はあり得るので、たとへば「さうらう」か「さふらう」か、のやうな具体的な語について、従来の理論は具体的な文献なり何なりによつて覆され得る。

2009/5/1(金) 午後 6:32 [ nozakitakehide ]

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あるいは、「現代仮名遣」が「音韻に基づく」といふ「理論」を採用してゐるのに対して、助詞の「は」があると実例を挙げても、「現代仮名遣」は自身が「正書法」であるとする「理論」を持ち出して来る。

一方で、歴史的かなづかひに対しては、語に従ふ、といふ理論に対して、具体的に「用ひる」とされてゐるのは文献および語源から「用ゐる」であるのだから誤である、といつた反証をする事が可能であるし、その結果、歴史的かなづかひは訂正が実施される。さうした訂正は、依然として仮説的に提示される物で、再び反証が現れる可能性がある。

2009/5/1(金) 午後 6:39 [ nozakitakehide ]

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人文科学の科学性といふ事について、爺氏は相当懐疑の目を向けてゐるけれども、しかし——人文科学、殊に文学では、観測対象は文献なんだよ。小説でも詩でも、実は観測の方法がある。主観的な文章ですらも、読取り方を主観で極付けられるものでない事は、訓練を経てゐない人にはわかりづらい事だけれども、わからなければならない。

もちろんポパーには人文科学までカヴァするつもりはなかつただらうけれども、その辺は拘る必要がないと思つてゐる。
例へば、論語の訓古注釈は科学以前だが、清朝以来の文献学は科学に接近してゐると言つていいと思ふ。

2009/5/1(金) 午後 6:54 [ nozakitakehide ]

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しかし爺氏の指摘の仕方は、何うも爺氏が「よくわかつてゐない」らしき事を示してゐるやうに思へてならないんだが。

爺氏は、自分が言ふ「批判」とは「論理の内部矛盾を指摘する事」だと説明すれば解つたのだ。なのに「牢屋」が何うの斯うのと言出したから訣が解らなくなつた。

一方で「檢證」「檢證」と言張り、「實驗」と言つて「觀測」については一言も觸れなかつた。

そして、何うもさうした用語を爺氏は弄んでゐたやうに思はれる。ポパーは抽象的に理論の一貫性を求めてもダメと言つてゐるだけなんで、抽象的な論理を檢證するのに具體的な事實を必要とすると言つてゐる。ところが、さう云ふ仕組を理解しないで、爺氏は私が「批判」と「檢證」と云ふ「言葉を使つた」と言つて、抽象的に非難を始めた。

2009/5/1(金) 午後 8:31 [ nozakitakehide ]

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しかし、そもそも爺氏は、用語を表面的に解釋しないで、私の言はんとしてゐる事を適切に理解しなければならなかつたのだ。當り前過ぎるほどに當り前の話だ。さうすれば、「批判」でも何でも、ポパーの言つてゐる事に沿ふやうに解釋する事が出來る。ところが、意地になつて爺氏は、ポパーの定義に反するやうに私の言葉を、用語の意味を不適切に解釋する事によつて、歪曲し、間違つたものに見せかけようと努力し續けた。

けれども、そんな事をして何になるんですか。本當に、訣が解らない。

爺氏のやうに、私の言ふ事を故意にポパーから遠ざけるやうに遠ざけるやうに解釈して(私の言つてゐる事がポパーと無關係に見えるとしたら、さう見ようとした爺氏が惡い)、「野嵜はをかしい」と極附ける――さう云ふ意地の惡いだけの讀み方をして人を罵倒して樂しむ人間が餘りにも多過ぎる。そんな事をして何になるんだらう。私の疑問に、納得できる答をしてくれたアンチは一人もゐない。

2009/5/1(金) 午後 8:36 [ nozakitakehide ]

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話を最初に戻す。

>科学、似非科学のくくりで假名遣ひを論じる事自体にそもそも無理が有ると思ひますよ。これがどなたの発明か存じませんが、松原先生の「ご先祖様の流儀」の方が断然しつくり来ると思ひます。何より価値中立を旨とするのが科学なのに、「正義」云々を持ち込んだ時点で自己矛盾でせう。

「正義」と言出したのは爺氏であつて、私ではない。私はこの記事で、正義と言つてゐない。正かなづかひとは言つたし、正しさを求める態度とも言つたが、それは正義とは何の關係もない。
爺氏は、どこから「正義」と云ふ語を持つて來たのか。

2009/5/1(金) 午後 8:44 [ nozakitakehide ]

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野嵜さん、せっかく上機嫌だつたのに、また何だか狼狽え気味ですね。

失礼ながら、あなたに「反証可能性」なんて事は理解できないだらうと思ひ始めてゐましたが、でもお望みならば、議論におつきあひしますよ。と言ふか、あなたの「反論」の後半で論じる事になつてゐますね。

でも、まず、前半の「批判(可能性)と検証(可能性)が同じ事だ」の検討を済ませませう。それを実例で示して下さい。辞書には当然ながら違ふ語義が書いてある(「○○可能性」は両方とも私の辞書には無いやうですが)。科学の世界でも私が例示したやうに全然違ふものだ。(あなたはそれが理解できないか、わざと誤解してゐるやうですが、今それは問はない。少なくとも「牢屋に入らなくてよい」と「マイケルソン・モーレーのやつたやうな実験が計画できる」が全く違ふ事である事くらいは解りますよね。)それでも「同じだ」単なる「俺ルールではない」と仰るなら、同じだつた例を挙げてみて下さい。 削除

2009/5/1(金) 午後 8:45 [ ]

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>それに狼狽へないで下さい。なんだか不安になりましたか?野嵜さんの反応は分りやすいですね。あと、非難されている、と思ふのは(何度でも云ひますが)被害妄想です。私はまだ批判さへしていません。

ここで爺氏は、「批判」をする、と豫告してゐるのですが――だから爺氏は私の發言の中に「矛盾がある」と指摘してゐると言ふ訣ですか。

成る程、爺氏が科學的でない態度をとる爲の伏線があつた訣だ。

2009/5/1(金) 午後 8:49 [ nozakitakehide ]

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言はずもがな、かも知れませんが、今現在「科学かどうか」を議論している「正字正假名」でどうしたかうしたと言ふ話ではなく、誰もが「科学だ」と納得できる分野でお願ひしますね。 削除

2009/5/1(金) 午後 8:54 [ ]

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讀み返してゐたけれども最う良いや。

爺氏が人文科學について無知である時點で、話にならない事はよーく解つた。爺氏は、人文科學を理解できないから認められない、と、相對性理論は理解できないから認められない、と言ふやうに言つてゐる。これでは話にならないよ。

もちろん、さう言ふと、トンデモの人がまともな人に言ふのと同じだと、爺氏は言返してくるんだらうが、實際、爺氏が人文科學の事を非科學的なものと定義して話をしてゐるんだから話にならない。

――さう云ふ爺氏のやうな誤つた認識・誤つた理解を打破しなければならないと俺は言つてゐるんだよ。だからその誤を自覺してゐない爺氏とは話が噛合はないのも當然。

2009/5/1(金) 午後 8:58 [ nozakitakehide ]

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> 言はずもがな、かも知れませんが、今現在「科学かどうか」を議論している「正字正假名」でどうしたかうしたと言ふ話ではなく、誰もが「科学だ」と納得できる分野でお願ひしますね。

「今現在「科学かどうか」を議論している「正字正假名」で」つて何だと思つたが、句點が拔けてゐるのか?
何を狼狽してゐるんだ爺さんよ。

2009/5/1(金) 午後 8:59 [ nozakitakehide ]

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それに、俺が話を逸らしてゐるとでも勘違ひしたのか。馬鹿か。馬鹿かと俺が言ふと「狼狽してゐる」事にしてしまつて爺は笑ひ飛ばすが、本當に爺は馬鹿なんだから仕方がない。

俺は科學の話をしてゐるだらうが。何處を讀めば科學以外の話になるんだ。さうやつて抽象的に話を進めて、自分に都合の良い方向に結論が出るやう誘導しようとする爺は――實は似非科學の信者なんだろ。そろそろ自白したら何うだ。

2009/5/1(金) 午後 9:01 [ nozakitakehide ]

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>辞書には当然ながら違ふ語義が書いてある(「○○可能性」は両方とも私の辞書には無いやうですが)。

「辞書」の定義に拘つて讀むなと何度言へば解るんだ。お前の頭の中には腦味噌入つてゐるのか。

これだからエンジニアなんて駄目なんだよ。頭が固くて何うしやうもない。エンジニアでも、江洲さんみたいな人の方が珍しいんだ。
人文科學の方法を解つてゐる人なら、「辞書には書いてある」けれども「書き手の用語は辭書の定義とは常に微妙に違ふものである」事實を知つてゐるし、だからこそ文脈に沿つてその文章における用語の意味を解釋する事を知つてゐる。ところが爺は知らない。無知だからだ。大學受驗で、現代文をとらなかつただらう。あの程度の事でも結構文章を正しく讀む訓練になるものだ。

2009/5/1(金) 午後 9:05 [ nozakitakehide ]

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>でも、まず、前半の「批判(可能性)と検証(可能性)が同じ事だ」の検討を済ませませう。それを実例で示して下さい。辞書には当然ながら違ふ語義が書いてある(「○○可能性」は両方とも私の辞書には無いやうですが)。科学の世界でも私が例示したやうに全然違ふものだ。(あなたはそれが理解できないか、わざと誤解してゐるやうですが、今それは問はない。少なくとも「牢屋に入らなくてよい」と「マイケルソン・モーレーのやつたやうな実験が計画できる」が全く違ふ事である事くらいは解りますよね。)それでも「同じだ」単なる「俺ルールではない」と仰るなら、同じだつた例を挙げてみて下さい。

何を言つてゐるのか説明不足で全く理解出來ない。

2009/5/1(金) 午後 9:10 [ nozakitakehide ]

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「前半」が判らない。
「批判(可能性)と検証(可能性)が同じ事だ」が判らない。
爺の要求する「実例」とは、どのやうなものなのか、判らない。
「マイケルソン・モーレーのやつたやうな実験が計画できる」がどこから涌いた文言なのか解らない。

何が何だかさつぱり解らない。

2009/5/1(金) 午後 9:13 [ nozakitakehide ]

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なぜ爺氏が、私の意圖する「批判」「檢證」と云ふ用語を、私の意圖するやうに理解しようとしないのか解らない。

爺氏が、「辭書の定義」で解釋しようとする理由が解らない。

爺氏が、「科學の世界」の用語の意味と、私の用語の意味が違ふ事を、絶對に認めようとしない理由が解らない。

言葉が記號的なものである以上、私の用語と、科學の世界の一般的な用語とが、それぞれの「世界」の中で異つて用ゐられてゐる事はあり得る事だ。が、ならば、その異る言葉を適切に飜譯して、讀替へて、正しく意圖を理解しようとする事は、當り前だ。それが爺には解らない。解らうとしない。解らない態度を貫き通す事こそが正義だと爺は信じてゐる。
それはコミュニケーションを拒絶する態度だ。

2009/5/1(金) 午後 9:17 [ nozakitakehide ]

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爺の態度は、自分が日本人だからと言つて、英語で喋つてゐる人間の言ふ事を、日本語として解釋して解釋できないからたはごとだ、と極附けて嘲笑する態度と變らない。

2009/5/1(金) 午後 9:18 [ nozakitakehide ]

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>> 言はずもがな、かも知れませんが、今現在「科学かどうか」を議論している「正字正假名」でどうしたかうしたと言ふ話ではなく、誰もが「科学だ」と納得できる分野でお願ひしますね。

「何」が「科学かどうか」を議論してゐるのか。その「何」を、私は假名遣ひの事だと解釋した。それ以外には解釋しやうがないからだ。ところが、爺氏は、假名遣の話をするな、と言出した。爺氏は、何を要求してゐるのか。

何が何だかさつぱり解らない。

かうやつて訣のわからない事を言つてゐる爺は、こちらが困惑するのを見て、嬉しさうに「狼狽しないで下さい」等と言つてゐるのだ。


爺は、爺自身がをかしい事を言つてゐるのに、なぜ氣附けないのだらう。そして、こちらが必死になつて爺の言つてゐる事を理解しようとしてゐる努力を、なぜ嘲笑ふのだらう。解り難くて何うしやうもない爺の言葉に、こんなにこちらは附合つてゐるのだ。喜六郎だつたら、一レスで笑ひ飛ばして、以降は洟も引掛けない事だらう。ふざけるのも大概にして貰ひたい。爺が訣のわからない事を執拗に言ひ續けてゐるので、こちらは頭に來てゐるのだ。

2009/5/1(金) 午後 9:24 [ nozakitakehide ]

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爺は、「科学かどうか」と言つて、何を問題にしてゐるのか。「Xは科学である」或は「Xは科学でない」と爺は主張してゐる筈だが、そのXは何か。爺の言葉は缺落が多過ぎてこちらには理解し難い。言葉を吝嗇らないで、もつと澤山書いてほしい。

無闇に文章を短くするのは、理解し辛くする。長く書けよ。


その癖、爺は御機嫌だの何だのと、全く無駄な煽りは長々と書く。さう云ふ煽りは一切要らない。煽らないで長く書け。叮嚀に書け。「叮嚀に」とは「叮嚀語で」ではなく「禮儀正しく」でもなく、「詳しく」「詳細に」の謂だ。さう云ふ定義は辭書にはないとか餘計な事は言ふな。文章の流れから個別の語の意味を讀取る當り前の努力をしろ。

2009/5/1(金) 午後 9:29 [ nozakitakehide ]

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何で短く書くんだらう。

喜六郎も爺も、短く書く事でごまかしをやつてゐる。長く書く方が誠實な態度であるのは、解り切つた事だらう。短く書くのは荒しと同じだ。

2009/5/1(金) 午後 9:30 [ nozakitakehide ]

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文章が長いのは讀み辛いと爺は言ふかも知れないが、良く讀めば解る。詳しく書いてあればはつきり解る。

短いと、ぱつと讀めるが、レッテル貼り・極附けに陷り勝ちだし、言葉足らずで讀手が正しく理解出來ない事になる。

短い文章はコミュニケートを拒絶するものだ。相手に良く解らせようとすれば、必然的に文章は長くなるが、それはコミュニケーションをとらうと努力してゐる證據だ。

2009/5/1(金) 午後 9:33 [ nozakitakehide ]

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野沢さんのご希望に沿つて、長くなるのを厭わないでやつてみます。

「爺氏は、どこから「正義」と云ふ語を持つて來たのか。」……持ってきたのが、どこからだったか忘れましたが、野嵜さんが持ち出したのはここです。
「人文科學は、價値觀に基いた價値判斷を考へるものであり、そこで重視されるのは公正である事だけです。價値中立なんて事はあり得ません。正義を問題にしない事こそ、人文科學では誤です。」

「ここで爺氏は、「批判」をする、と豫告してゐるのですが――だから爺氏は私の發言の中に「矛盾がある」と指摘してゐると言ふ訣ですか。」……はいさうです。予告の上、「矛盾してゐる」と批判してゐます。で、如何して
「成る程、爺氏が科學的でない態度をとる爲の伏線があつた訣だ。」という結論になるのですか?「野嵜さんを批判する」事自体が「科学的でない」のでせうか。 削除

2009/5/3(日) 午前 3:24 [ ]

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「もちろん、さう言ふと、トンデモの人がまともな人に言ふのと同じだと、爺氏は言返してくるんだらうが、實際、爺氏が人文科學の事を非科學的なものと定義して話をしてゐるんだから話にならない。」……あはは、この比喩は秀逸ですね。でも、そんな「定義」はしてゐませんよ。詳しく論じたり、否定したりする程知らないと言つてるじやないですか。しかし、その後、野嵜さんのお話(上の価値云々)を聞いてゐると「人文科学はちよつとな」と思ひ始めました。あれ、本当に本当ですか?

「――さう云ふ爺氏のやうな誤つた認識・誤つた理解を打破しなければならないと俺は言つてゐるんだよ。だからその誤を自覺してゐない爺氏とは話が噛合はないのも當然。」……打破しなければならない、と言つていながら、「噛合はないのは当然」と諦めてはいけません。なんとか頑張つて下さい。 削除

2009/5/3(日) 午前 3:26 [ ]

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「今現在「科学かどうか」を議論している「正字正假名」で」つて何だと思つたが、句點が拔けてゐるのか?
何を狼狽してゐるんだ爺さんよ。」……いえ、句点は抜けてませんよ。後でちやんと解釈できてゐるではないですか。何を狼狽してゐるんですか、野嵜さん。しかし、まあ、悪文ではありますね。でも、野嵜さんの「エンジニアでも、江洲さんみたいな人の方が珍しいんだ。」と良い勝負ではないでせうか。

「それに、俺が話を逸らしてゐるとでも勘違ひしたのか。馬鹿か。馬鹿かと俺が言ふと「狼狽してゐる」事にしてしまつて爺は笑ひ飛ばすが、本當に爺は馬鹿なんだから仕方がない。」……はいはい、そうかも知れません。でも、野嵜さんがこんな風に取り乱すと、なんか不安なのかな、と。ひよつとして、野嵜さんご自分でも「話を逸らしてゐるのかな」と思つてませんか? 削除

2009/5/3(日) 午前 3:29 [ ]

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「俺は科學の話をしてゐるだらうが。何處を讀めば科學以外の話になるんだ。さうやつて抽象的に話を進めて、自分に都合の良い方向に結論が出るやう誘導しようとする爺は――實は似非科學の信者なんだろ。そろそろ自白したら何うだ。」……いや、科学の話をしてをられる(おつもりの)やうですが、いつもながら、をかしい論理がかなり飛躍するので。なんだか、ここも、「どこかへ誘導されるのかな」と不安になつたやうですね。

「『辞書』の定義に拘つて讀むなと何度言へば解るんだ。お前の頭の中には腦味噌入つてゐるのか。」……いや、これは本当に笑ひました。野嵜さんの比喩やタンカは歯切れが良い。でも、歯切れが良い奴は、どこかから借りてきてゐるやうな気もする。「國語を舐めるな」も格好良いけど、これはどうも福田さんのですね。で、このタンカも凄く「決つて」ゐるので、どこかの英語の授業で先生が怒つて言つたのでせうか?ひよつとして、野嵜さん御自身がこう叱られたのでせうか。 削除

2009/5/3(日) 午前 3:31 [ ]

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「これだからエンジニアなんて駄目なんだよ。頭が固くて何うしやうもない。エンジニアでも、江洲さんみたいな人の方が珍しいんだ。」……ほうら、江洲さん、「エンジニア」なんて蔑称でせう。でも、野嵜さん、今度も江洲さんがあなたに賛成してくれるかどうか、確認した方が良いのではないですか?S/W や H/W の開発をされてゐて、日々厳密な「検証」やテストに心を砕いてゐる方が、「「批判」と「検証」が同じだ」なんて事を仰るとは思はれない。

「人文科學の方法を解つてゐる人なら、「辞書には書いてある」けれども「書き手の用語は辭書の定義とは常に微妙に違ふものである」事實を知つてゐるし、だからこそ文脈に沿つてその文章における用語の意味を解釋する事を知つてゐる。」……なる程「微妙に」ねえ。でも、野嵜さんは始めから辞書を無視せよと言はんばかりの勢ひですからねえ。そもそも、縦横無尽に飛び跳ねる野嵜さんの文章に「文脈」なんてあるんですか?少くともそれ(文脈)を意識はしてゐますか? 削除

2009/5/3(日) 午前 3:42 [ ]

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「ところが爺は知らない。無知だからだ。大學受驗で、現代文をとらなかつただらう。あの程度の事でも結構文章を正しく讀む訓練になるものだ。」……残念ながら、私は理系でも五教科が必修だつたものですから、その忖度は外れてゐます。でも、教科書のまともな文章を相手に「あの程度の訓練」をしても、野嵜さんのユニークな文章を読み熟すのは無理のやうです。ちなみに、その「上から目線」(野嵜用語?)は、なんか別の不安の表れなんでせうか。なんか学歴コンプレックス持つてます?つまらんですよ、そんなもの。

「何を言つてゐるのか説明不足で全く理解出來ない」「何が何だかさつぱり解らない。」……真剣に理解しようと努力しましたか?でも、後で言及されてゐるところを見ると、少しは解つたのですよね。なのに「さつぱり解らない」と言つてしまつたら進歩がないですよ。と言ふか逃げ口上に聞こえる。

「なぜ爺氏が、私の意圖する「批判」「檢證」と云ふ用語を、私の意圖するやうに理解しようとしないのか解らない。」……それあ、辞書と全く違つていたら、私のやうな「凡人」にはなかなか理解できないでせうよ。 削除

2009/5/3(日) 午前 3:45 [ ]

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「爺氏が、「辭書の定義」で解釋しようとする理由が解らない。」……それあ、あなたに常識がないからでせう。解釈が違ふのかも知れない、と思つたら、普通は辞書にあたる処から始めますつて。

「爺氏が、「科學の世界」の用語の意味と、私の用語の意味が違ふ事を、絶對に認めようとしない理由が解らない。」……それあ、あなたのより、科学の世界の言葉を信用してゐるからですよ。あたりまへでせう。

「言葉が記號的なものである以上、私の用語と、科學の世界の一般的な用語とが、それぞれの「世界」の中で異つて用ゐられてゐる事はあり得る事だ。」……御意。でもあなたは、「俺は科學の話をしてゐるだらうが。何處を讀めば科學以外の話になるんだ。」と息巻いてゐましたよ。科学の話をするのに、「私の用語」に拘つていては、それあ解つてくれないでせうね。 削除

2009/5/3(日) 午前 3:48 [ ]

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「が、ならば、その異る言葉を適切に飜譯して、讀替へて、正しく意圖を理解しようとする事は、當り前だ。それが爺には解らない。解らうとしない。解らない態度を貫き通す事こそが正義だと爺は信じてゐる。
それはコミュニケーションを拒絶する態度だ。」……解らない事を解らない、と言ふのは科学的・哲学的・常識的に推奨される態度でせう。しかし、私は「あなたの用語や議論が解らない」と言つてゐるのではなくて、「あなたの議論は間違つてゐる」と言つてゐる。コミュニケーションを求めてゐるのですよ。 削除

2009/5/3(日) 午前 3:51 [ ]

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「爺は、「科学かどうか」と言つて、何を問題にしてゐるのか。「Xは科学である」或は「Xは科学でない」と爺は主張してゐる筈だが、そのXは何か。爺の言葉は缺落が多過ぎてこちらには理解し難い。言葉を吝嗇らないで、もつと澤山書いてほしい。」……それは言葉が足りないのではなくて、野嵜さんが抽象的議論を理解できないから。大して抽象的でもないでせうに。「XXX は科学的である」なんて言つてみても、XXX がしつかり科学の成果に基いていなければ、虚仮威しにもならない。で、XXX に何を当て嵌めてもこれは言へる、と言つてる訣です。創造説、霊魂の存在、テレパシーの存在。実際にこれらが「科学的である」と言ふ人が居ますが、御本人達以外は誰も感心しない。野嵜さんが、「歴史的假名遣ひは科学的である」と言つてみても、それだけでは、誰も感心してくれないでせう。くらゐの事を簡潔に言はうとしたのでした。 削除

2009/5/3(日) 午前 3:53 [ ]

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で、とめどない誤解と「さっぱりわからん」を避けるために、「丁寧」に付け加へると、今は、上の「惹句としての『科学的』なる言葉」ではなく、「歴史的假名遣ひは、批判可能(= 反証可能)だから、科学である」を議論してゐる。私はそれを間違つてゐると言つている。もっと正確に言ふと「そんなことする価値はないから、科学にするのは止めませう」と言つている。

といふことで、無闇に文章を「長く」しようとして、野嵜さんの文章に付き合つてみたが、時に面白い事もあるけど、ちつとも議論が発展しない。(そもそも、野嵜さん、「文章が長すぎて、「荒し」だ」と言はれているやうですが、「短かすぎるのは「荒し」だ」つてどこかで言はれた事ありますか?) 削除

2009/5/3(日) 午前 4:06 [ ]

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で、とりあへずの論点は、「「批判可能である事」は「反証可能性がある事(仮説が「反証可能の形に書かれてある事」)とは違う」かどうか、ですね。で、「抽象的」が苦手な野嵜さんのために、具体的な例(「エーテル仮説」)を挙げてあげたら、まったく解らん、と言ふ。(しかし、「実験だけで、観測に触れてないぞ」といふ揚げ足とりはしてみる。一つの例だから、どちらかになるのは当り前。有名な一般相対論の検証の話は、「観測」して検証していますが、そちらも参考にして下さい。あ、こちらは馬鹿馬鹿しいのから、まつとうなのまで「批判」が色々有るみたいだから、もっと参考になるかも)で、野嵜さんは、(俺の定義では)批判と反証は同じ事だ、と言いはる。そんな事を言い張つても、辞書はおろか、「科学だ」と言ひたいその科学と用語が違ふんだから、野嵜さんの方が無茶です。敢て、「科学」をつけたいのなら、「歴史的假名遣ひは、(俺)批判可能(= (俺)反証可能)だから、(俺)科学である」とするしかないでせう。(俺)を(野)に換へても良いかも知れません。 削除

2009/5/3(日) 午前 4:08 [ ]

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むしろ、その無茶な「批判可能 = 反証可能」を諦めて、歴史的假名遣ひの研究が、反証主義に即している事を証明するべきでせうか。でも、それはできさうもない。で、もっと可能性がありさうなのは、うのさんの仰るやうに、「反証主義に即するやうに、現在の仮説(とその成果)を制限していく事」でせうか。その結果、どれくらいの成果が残るか、非常に心許ないと私は思ひますが。

うーむ、このぐにやぐにやした書き方は疲れる。野嵜さん、こつちの方が良いですか? 削除

2009/5/3(日) 午前 4:16 [ ]

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これから出かけるので少しだけ。

g氏の「批判」も「檢證」も「科學」ですらも、根本の定義がをかしい。或は、適用範圍が歪だ。そもそも科學も「眞理が存在する」といふ價値判斷の上に成立してゐるものだらう。ポパーの議論はそれを嚴密にする爲の手段に過ぎない。といふか、ここでポパーを出す意味がない。

歴史的假名遣ひは、語源研究や古典研究といつた科學的な研究の成果に基づいてゐる。野嵜氏の文章を讀めば容易に理解できる内容が、何故氏には理解できないのか。といふより、難癖つけたいだけなのだらう。優秀なエンジニアは、顧客の要望を的確に把握できるものだから。 削除

2009/5/3(日) 午後 5:13 [ 江洲 ]

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>で、野嵜さんは、(俺の定義では)批判と反証は同じ事だ、と言いはる。そんな事を言い張つても、辞書はおろか、「科学だ」と言ひたいその科学と用語が違ふんだから、野嵜さんの方が無茶です。

私の用語に附合ひ、私の用語を「科學の擁護」だか「爺の用語」だかに適切に飜譯すれば、爺氏は「わかる」筈です。それを爺は、意地になつて飜譯しようとしないし、解らうとしないでゐる。だから爺は解らない。が、それは爺がコミュニケートをとる氣が無いからです。

だつて、用語が違ふ事は當り前でせう。それに用語が違つたから何だと言ふのですか。用語が指示す概念が問題なだけです。ところが爺は用語に拘つて概念のレヴェルで考へようとしない。抽象的な思考をしないんです。

2009/5/3(日) 午後 5:45 [ nozakitakehide ]

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>言はずもがな、かも知れませんが、今現在「科学かどうか」を議論している「正字正假名」でどうしたかうしたと言ふ話ではなく、誰もが「科学だ」と納得できる分野でお願ひしますね。

あーやつと解つた。でも正かなが「科學か何うか」を議論してゐるから「正かな以外」の話をしろつて何。正かなの話をしなければならないのは當り前だと思つてゐた。かなづかひについて科學的な檢證がなされてゐる實例が擧げられれば、「絶對にかなづかひでは科學的な檢證はされてゐない」と言つてゐる爺の主張は否定される訣だよ。それで話は十分。

そんなのは判り切つた話だから、爺が「正かな以外」を要求して來るとはをかしな話だと思つて勘違ひした。

2009/5/3(日) 午後 5:49 [ nozakitakehide ]

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と言ふか。

>むしろ、その無茶な「批判可能 = 反証可能」を諦めて、歴史的假名遣ひの研究が、反証主義に即している事を証明するべきでせうか。

と今、爺が要求してゐる事に對して、こちらは應へた訣だよ。ところが、それを爺は「誰もが「科学だ」と納得できる分野でお願ひしますね」と言つて却下した訣だ。

斯う云ふ訣のわからない事をやられると困る。

2009/5/3(日) 午後 5:51 [ nozakitakehide ]

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批判と言つたら、相手の假説の主張に對して、具體的な反證を擧げたり、それが出來ないから當座「眞實」として認めたり、と云つた事をするのが批判だらう。

「あなたの言つてゐる理論の中には矛盾があります」と言ふのが「批判」で、「あなたの言つてゐる理論と、現實との間には矛盾があります」と言ふのが「反證」だ、と爺は言つてゐる訣だが、さう云ふ「嚴密」な分け方をする事は意味がない。

人文科學と云ふ文脈で言ふなら、一つの文獻の内部での矛盾は、文獻と云ふ觀察對象をもとに具體的に論ずる事になる。
それは理論を抽出して矛盾を指摘するものではなく、觀察に基づいて反證を示す行爲だ。

が、そもそも言語學或は國語學の場合、小説や評論を讀むのと違つて、言語と云ふ觀察對象があり、それを體系化して理論化する、と云ふ方法をとる。これは文學や歴史よりも、明かに自然科學に近い。
ただ、觀察の方法が、宇宙の何かを觀察するとかいつた事と違ひ、人間の意志に基づいて行はれる言語活動を觀察する、と云ふ事になるから、「人間の意志」の部分がある事を意識してかからないと話がをかしくなる、と云ふ違ひがある。

2009/5/3(日) 午後 6:04 [ nozakitakehide ]

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岩波国語辞典第三版に據れば。

批判 物事のよしあしなどについて評価・判定すること。――的 (否定的に)批判する態度・立場にある様子。

検証 実際に調べて証拠立てること。(イ)仮説を実証すること。(ロ)[法律]裁判官などが、証拠資料となる事物・場所を直接調べる行為。

2009/5/3(日) 午後 6:06 [ nozakitakehide ]

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批判と検証とは慥かに指されてゐるものが違ふけれども――ここで辭書は、批判の「方法」については何も觸れてゐない。

で、檢證の作業を經て、物事の評價をするのが批判である筈だし、であるべきだと、俺は言ひたいし、言つてゐる訣だ。一方で、檢證の目的は、假説のよしあしを判定する事だ。
批判と檢證とは不可分なんだよ。

爺は「抽象的に理論を弄ぶ事」を「批判」と定義してゐる。一方で、「具體的な物に當る」事を「檢證」と言つて、分けて考へてゐる。
その分け方はをかしい。辭書にもそんな事は書かれてゐない。少くとも、岩波国語辞典第三版には書かれてゐない。

批判は價値判斷する事だし、檢證は價値判斷の爲の手段である。兩者は一體運用されて意味がある。それを分けて考へる事が出來ると爺が思ふのは、抽象論でしかないんだよ。具體的な反證が出て來ると何うしやうも無くなつてしまふ。

2009/5/3(日) 午後 6:14 [ nozakitakehide ]

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と言ふか、かなづかひの研究が「眞性科學」であり得ないと爺が言ひたいのなら、爺はその證據を提出すれば良いだけではないですか。

爺は、「かなづかひ研究は科學的な研究である」と云ふ假説に對し、なぜ具體的な「反證」を持出さず、抽象的な「批判」を繰返してゐるのですか。「知らないから」とか言はれて威張られても困りますね。知らないなら默つてゐるのが「科學的」な態度と云ふものではないですか。あーさう云ふのは「科學」ではないですか。豫め豫防線を張つてゐるんですね。しかし、さう云ふ粘られ方をするから非科學的な態度は困ると。

2009/5/3(日) 午後 6:18 [ nozakitakehide ]

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と言ふか爺定義の「批判」にもなつてゐない。こちらの「科學」と云ふ用語に爺は「執拗に疑問を呈する」以上の事をしてゐない。それはやくざが因縁を附けてゐるやうなものですよ。

科學が解つてゐると爺が思つてゐるのならそれでよろしい、なら早く「かなづかひ研究は科學」説に對する具體的な反證を示して下さいよ。それで話は終るでせう。何をぐだぐだ「御機嫌」が何う斯うと餘計な茶々を入れて遊んでゐるんですか。

2009/5/3(日) 午後 6:22 [ nozakitakehide ]

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で、こちらは橋本進吉のかなづかひ研究があると言つてゐるんですが、さう云ふ積極的な證據の提出をしても、それだけで立證できるものでない事は承知してゐます。が、だからと言つて爺のやうに何時までも粘るのはをかしいですよ。科學の假面を被つて見ても、あなたのやうなやり方では、こちらの發言を妨碍するのが目的だと見られても仕方がない。喜六郎と一緒です。

2009/5/3(日) 午後 6:24 [ nozakitakehide ]

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江洲さん、

>[歴史的假名遣ひは、語源研究や古典研究といつた科學的な研究の成果に基づいてゐる。野嵜氏の文章を讀めば容易に理解できる内容が、何故氏には理解できないのか。といふより、難癖つけたいだけなのだらう。優秀なエンジニアは、顧客の要望を的確に把握できるものだから。]……どうして、そう大雑把な議論になるのでせうか。もし「難癖つけたいだけ」なら、「いい加減な根拠で、『科学的』なんて言ふな」に尽きる。でも、それでは科学的批判ではないし、説得力もない。で、できるだけ一貫した主張をし、それを擁護しようとしてゐる。でも、そうは言つても感情論は抜き難いものがありますから、ちょっと違ふ形で……

江洲さんは、野嵜さんが「歴史的假名遣ひは科学だ」と言ふ事で、歴史的假名遣ひを擁護し称揚していると考えています。で、爺が、そうではない、と言って難癖を付けてゐる、と。 削除

2009/5/4(月) 午前 9:18 [ ]

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しかし、これは、本当に擁護してゐる事になるでせうか。科学的という言葉には独自の歴史と背景が有つて、現在ではかなり明確な定義が有る。方法論の要件として確立してゐる。(反証可能性もその一つ。)これをこのまま無理に、全然違ふ分野の假名遣ひ研究に当て嵌めるには無理が有る。で、有効にその方法を使ふためには、多少なりとも弄らないといけない。さうすれば、それは科学ではなく擬似科学だ。人文科学と言つても良いし、社会科学と言つても良いが、とにかく科学であるとは言えない。それを敢えて、科学と言えば、科学の側からは詐称だと言はれる(野嵜さんの主張は「反証主義」を示唆してゐる)。一方、従来の假名遣ひの研究者からは、自身の方法論を否定している、見られる。何より、語源研究、古典研究、は、自らを「科学」とは称してゐません。そんな事は必要ないし、また有害だと考えるでせう。それらの分野の研究者に、もしくは假名遣ひの研究者に「科学的であること」なんて言つたら、逆に「國語研究を舐めるな」と叱られさうです。これでは、却って野嵜さんの言いぶんは、歴史的假名遣ひを貶めている、となりませんか? 削除

2009/5/4(月) 午前 9:21 [ ]

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さうですよ、野嵜さん、その書き方の方が短くできるし、説得力もあります。(私の「御機嫌ですね」とか「取り乱すな」に効果が有つたと思ひたい。←これは「煽り」ではありません。)

「批判と検証とは慥かに指されてゐるものが違ふけれども――ここで辭書は、批判の「方法」については何も觸れてゐない。」……御意。で、くどいやうですが、我々の目標は、「批判が可能である事」=「反証可能である事(= 仮説が反証可能な形に書ける事」)」に行きつく事ですからね。でも、そこに行くにはそれらの「方法」を吟味しないといけない。おっしゃる通りです。でも、「科学の話」である事もお忘れなく。 削除

2009/5/4(月) 午前 9:51 [ ]

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「批判は價値判斷する事だし、檢證は價値判斷の爲の手段である。兩者は一體運用されて意味がある。それを分けて考へる事が出來ると爺が思ふのは、抽象論でしかないんだよ。具體的な反證が出て來ると何うしやうも無くなつてしまふ。」……せっかく、一歩進んだのに、なんだか元の木阿弥の感があります。「反証主義」を離れても、野嵜さんが言ふ「科学的」に、ずつと違和感があつたのは、ここに根本原因が有つたやうですね。「科学」の世界では、それは間違つています。陳腐な例ですが、「世界の破滅を狙うマッドサイエンティストも、結核の撲滅を願う薬学の研究者も、使う生物学や化学(とその方法論)は同じ」と言ふ事があります(引用は正確でないかも知れない)。要は早急な(政治的・思想的・宗教的・経済的)価値判断を一旦は控へて、生物学・化学(といふ、それぞれ一つの科学)の内在的な論理・方法論に従つて研究をすすめる事でしか、成果は上らない、と言ふ事ですね。 削除

2009/5/4(月) 午前 9:55 [ ]

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言ひ換えれば、と言ふか敢へて「価値」と言ふ言葉を使ふならば、科学における「価値」とは、論理的に無矛盾である事、とか、より少数の前提から、より広い範囲の観測結果・実験結果を説明できる事、とかを越えてゐない。で、(野嵜さんの定義によつても、実際の科学の世界においても)「科学的」批判とは、(自分―批判する側―の価値観によるのではなくて、)批判される側の論理・方法論の矛盾・不整合を衝くものでなくてはならない。

その前提を認めるならば、「批判(する事)は價値判斷(して、誤りを指摘する)事だし、檢證(すると言ふ事)は價値判斷(をする)爲の(一つの)手段である。」は論理的に妥当だと言えます。(でも、これからでも、批判 = 検証 でない、のは明らかですよね。)しかし、「批判可能だから、反証可能であり、科学的」には、まだ近付いてもゐない。 削除

2009/5/4(月) 午前 9:57 [ ]

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そもそも、「批判可能である」もしくは「批判が可能でない」とはどう言ふ事なのでせうか。「(対象の)論理の矛盾を指摘する(= 批判する)」が「可能でない」とは、「(ガリレオはそうつぶやいたらしいが)そうできない」事なのか、「その批判を出版できない(公表できない)」事なのか、「相手がその批判を検討、もしくは納得して修正する可能性が無い」事なのか、はたまた「相手に、批判に足る論理や方法論が無い」事なのか。科学(史)では、普通二番目で、もっと言ふと「お金が無いから」、「あまりに下らなくて出版社に拒否されたから」等と言ふ事ではなく、外部的な(科学の論理とは無関係の)圧力が有るから」公表できない、事を指す事が多いようです。(「プトレマイオスの宇宙観は、17 世紀になつても批判できなかった(批判したら本当に『牢屋に入れられた』)」等。)さて、野嵜さんが、「現代假名遣ひは批判可能でない」「歴史的假名遣ひは批判可能である」と言ふときの「批判可能である」とはどのような意味ですか? 削除

2009/5/4(月) 午前 10:03 [ ]

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>[と言ふか、かなづかひの研究が「眞性科學」であり得ないと爺が言ひたいのなら、爺はその證據を提出すれば良いだけではないですか。]……私にはそれだけの知識が無い、と初めから断つている。しかし、野嵜さんの「件の文章」が論理的に間違つてゐる、と「科学的」に批判してゐる。もつと言ふなら、「假名遣ひの研究」は「真性科学」にできるかも知れないが、敢えそうする事は、無駄で無謀な事だと言つている。(こちらは、多分に「憶測」で「科学的批判」ではない。) 削除

2009/5/4(月) 午前 10:05 [ ]

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>[爺は、「かなづかひ研究は科學的な研究である」と云ふ假説に對し、なぜ具體的な「反證」を持出さず、抽象的な「批判」を繰返してゐるのですか。「知らないから」とか言はれて威張られても困りますね。知らないなら默つてゐるのが「科學的」な態度と云ふものではないですか。あーさう云ふのは「科學」ではないですか。豫め豫防線を張つてゐるんですね。しかし、さう云ふ粘られ方をするから非科學的な態度は困ると。]……繰替えしになりますが「かなづかひ研究は科學的な研究である」を(とりあえずは)論じでゐるのではないですよ。野嵜さんの「歴史的假名遣ひ研究は、批判可能である(= 反証可能である)から、科学的である」を批判している。「予防線を張る」とか「粘る」とかの憶測を持ち出さないで、「科学的」に論じませう。それに「予防線を張る」(= 「議論の前提とスコープを明確にしておく」)や「粘る」(= 「曖昧さを許さず、徹底的に議論する」)は、科学的態度であるとも言へますね。 削除

2009/5/4(月) 午前 10:08 [ ]

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「解らない事には口を出すな」との仰せについては、そのとほり。従つて、假名遣ひの詳細に口を出してはゐない。しかし、僭越ながら、「科学論」についてはどうやら私の方が知識も経験も有りそうだ。なので、あなたの主張「歴史的假名遣ひ研究は、批判可能である(= 反証可能である)から科学的である」をかなり自信を持つて批判してゐる。よく知らない事に迂闊に口を出してしまつて往生してゐるのは野嵜さんの方だと思ふ。しかし、このあたりはかの「馬鹿の壁」も間違へてゐて、かつ 400 万部も売れてゐるらしい。しかも、さして批判もされてないやうだ。お仲間は 何百万人も居るに違ひない。なので、野嵜さんが間違へても、あまり恥ぢる事はない。さきの主張は「誤りだった」「不正確だった」と認めれば済む事。その上でなほ、「(歴史的)假名遣ひは科学的であるべき」と信ずるならば、先達の成果や方法論を「反証可能な形」に書き直せば良い。私はその意義を疑ふものであるが、野嵜さんがやる、と言ふのを止めはしないし、批判もしない。 削除

2009/5/4(月) 午前 10:11 [ ]

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>野嵜さんの「歴史的假名遣ひ研究は、批判可能である(= 反証可能である)から、科学的である」を批判している。

元の木阿彌と言ひたいのはこつちだよ。だつて、爺は批判してゐないもの。爺の論理が全く解らないんだから。

爺は、「一般の用語と違ふ」「一般の考へ方と違ふ」と繰返してゐるけれども、それは批判ではない。

長く書いて呉れるのは良いけれども、結局爺の論理が全く解らないんだから、話にならない。長く書いてくれれば讀取れるかと思つて要求したけれども、結局爺自身、何を以て野嵜の批判をしてゐるんだか、解つてゐないんだ。ただ、野嵜の言つてゐる事が一般的でない、と、それだけを繰返し言つてゐる。

ところが、その一般的な用語・考へ方に、野嵜の言つてゐる事を飜譯して理解すれば、問題は解消するんだ。頭をわざと固くして、爺は意固地になつて野嵜の發言を拒絶してゐるんだよ。

2009/5/4(月) 午後 4:14 [ nozakitakehide ]

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私が間違へてゐると爺は言ふけれども、私の言つてゐる事を理解しようとしないから、爺の目には「間違へてゐるやうに見える」だけだ。爺は、私の語彙を一般的な語彙に飜譯して理解する試みを、今まで一度もしてゐない。もしきちんと、私の言つてゐる事の内容を讀取つてゐれば、それがきちんとした内容になつてゐる事は解る筈だ。

多分、エンジニアだか何だか知らないが、爺は、或思想と他の思想とで據つてゐる用語や論理展開の際の範疇に違ひがある事を知らないし、或思想に據つてゐる人が他の思想を見る時は語彙の違ひに注目して適切に飜譯すべき事を知らないんだ。

俺を非難する人が何時も爺と同じやうな誤解と誤讀の仕方をして呉れてゐたから解る。頭が固いから俺の言つてゐる事を讀取りたくないだけなんだよ。

2009/5/4(月) 午後 4:19 [ nozakitakehide ]

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既に決着はついてゐるんだがな。

>科学、似非科学のくくりで假名遣ひを論じる事自体にそもそも無理が有ると思ひますよ。

>「科学」と云ふからには、やはりここはもう少し厳密に「仮説の提唱とその検証」かつ、「その仮説は反証可能な形でなければならない」とすべきだと思ひます。

>真性の「科学」とは、私が略述した方法論を厳しく守る学問分野とでも考えて下さい。

>人文科學の領域においても、ちやんと反證可能性だの何だのの原則は當嵌ります。が、それは自然科學の純客觀の方法とは異ります。

これで爺の批判は木つ端微塵になつてゐるのに、爺は自分の批判が依然として有效だと思ひ込み續けてゐる。その後はぐだぐだぐだぐだ用語に拘つて「一般的でない」と因縁を附け續けてゐる。話にならない。

2009/5/4(月) 午後 4:32 [ nozakitakehide ]

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ちなみに「科學的な假説は反證の方法を明示した形で發表される事が必要である」なんて訣はなく、「反證の方法が豫想されるやうな假説」であるならば問題ありません。檢證する側で適切な反證の方法を見出せば良いだけだからです。
反證の方法が決して見出せない説は科學的でない、それだけの事です。

天動説が、「聖書に書いてあるから」と云ふ理由だけで主張されるなら反證可能性はない訣で、科學ではないです。
が、「全ての天體は地球を中心に囘つてゐるとして説明が出來る」と主張されるなら、ガリレオの「でも木星の周りをまはつてゐる天體があつたよ」と云ふ報告が反證になります。

2009/5/4(月) 午後 4:34 [ nozakitakehide ]

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ところがそれに對してローマ教會が「神が正しいと定めたのだから、天動説が正しい」としてガリレオを異端と認定したら、再びこの時の天動説は科學ではないものである。

2009/5/4(月) 午後 4:41 [ nozakitakehide ]

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と言ふか。

>繰替えしになりますが「かなづかひ研究は科學的な研究である」を(とりあえずは)論じでゐるのではないですよ。野嵜さんの「歴史的假名遣ひ研究は、批判可能である(= 反証可能である)から、科学的である」を批判している。

・「かなづかひ研究は科學的な研究である」
・「歴史的假名遣ひ研究は、批判可能である(= 反証可能である)から、科学的である」

これがさつぱり解らない。

爺は、
・「かなづかひ研究は科學的な研究である」
・「歴史的假名遣ひ研究は、科学的である」
が「違ふ」と言つてゐる。けれども、私には同じにしか見えない。何が違ふのか、さつぱり解らないのだ。

爺は何を言ひたいんですか。長く書いて呉れるのは有難いですが、結局爺の論理が讀取れない。長くても短くてもいいから、爺の論理を爺以外の人間にも解るやうに書いてほしい。

2009/5/4(月) 午後 4:45 [ nozakitakehide ]

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もしかして、「批判可能である = 反証可能である」と云ふ部分が、爺には氣に入らないんですか。

既にここの問題は解決しましたが。

しかし、爺の言ふ事は非論理的で、さつぱりわかりません。

「歴史的假名遣ひ研究は、批判可能である(= 反証可能である)から、科学的である」は、適切な野嵜の主張の要約・言換へではない。
論理的には、「批判可能な研究は科學である」「或種の假名遣ひ研究は、批判可能な研究である」「或種の假名遣研究は科學である」と表現出來る。

2009/5/4(月) 午後 4:52 [ nozakitakehide ]

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これだと爺は反論する餘地がない。
けれども爺は反論してゐる。
と云ふ事は、やつぱり「批判可能である = 反証可能である」に拘つてゐるのだらうけれども、野嵜の發言において「批判可能である = 反証可能である」と考へれば全て辻褄が逢ふのだから、問題にする必要はない。

2009/5/4(月) 午後 4:55 [ nozakitakehide ]

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少くとも、私が言つてゐる「批判」の中に「檢證」の作業が必須の要素として要請されてゐるのだから、一々嚴密に「批判可能である」「反証可能である」とを區別して非難する必要はない。

「科学の世界では」と爺は言ふが、そつちの世界の「一般的な用語では」と言つてゐるに過ぎない。別に用語が正確に一致するか何うかで、内容の眞僞の判定をする事はない。それは寧ろ非科學的な態度だ。爺は、非科學的な「形式主義」の立場から物を言つてゐるに過ぎない。

さうだよ、爺のやうな「形式主義」の攻撃には、反論不可能なんだよ。さう云ふ攻撃のされ方をされたら困るんだよ。

2009/5/4(月) 午後 4:59 [ nozakitakehide ]

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>科学的という言葉には独自の歴史と背景が有つて、現在ではかなり明確な定義が有る。方法論の要件として確立してゐる。(反証可能性もその一つ。)これをこのまま無理に、全然違ふ分野の假名遣ひ研究に当て嵌めるには無理が有る。で、有効にその方法を使ふためには、多少なりとも弄らないといけない。さうすれば、それは科学ではなく擬似科学だ。

さうならない。それは勝手に野嵜氏が述べてゐる科學を、g氏獨自定義の「科學」と看做してゐる爲の誤謬に過ぎない。氏が聲高に叫ぶ「反證可能性」も、社會科學はそれを滿さないと氏が思ひ込んでゐるだけでしかない。といふか、氏の「科學」では、宇宙論の最先端も語れなくなる。

むしろ、何の根據もなく(g氏が擧げた根據は野嵜氏に否定濟み)科學ではないと言ひはるあたり、自分の結論ありきで推論をやらかす輩、つまりは似非科學支持者の態度であつて、エンジニアの態度ではない。 削除

2009/5/4(月) 午後 5:44 [ 江洲 ]

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残念ながら、それは違ふと思ふよ、江洲さん。

Hawking は、「宇宙論の先端を語るために、一般相対論と量子力学の融合が要る、そのためには、反証主義が必須である」と力説してゐる。私も反証主義が無ければ、最新の素粒子論も宇宙論も語れない、と思ふ。さうやって、科学は自覚的に方法論を研いでゐる。人文学にも自ら恃む方法論が有るだらう。それなのに、どちらもよく知らない野嵜さんが「假名遣ひ研究は科学的であるべき」などと宣ふ。それは僭越である。と私は思ふ。 削除

2009/5/4(月) 午後 9:10 [ ]

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>[反證の方法が決して見出せない説は科學的でない、それだけの事です。]……それだけの事でせうが、では「反証可能」であるためには、仮説はどうでなければならない、と言ふ方は解ってゐますか?その仮説は少くとも「法則」でなければならないし、かつ、「何らかの方法で検証できる結果」を「予測」できなければならない。言い換へれば、「今ある現象」を説明できるだけではだめで、新たな観測結果・実験結果を予測できないといけない、と言ふ事です。(それが検証にかかる形であるべき事は言ふまでもない。)

今ある假名遣ひ研究の学説のうち、どれだけのものが、このやうな形に記述する事ができるでせうか。 削除

2009/5/4(月) 午後 9:59 [ ]

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>[私が間違へてゐると爺は言ふけれども、私の言つてゐる事を理解しようとしないから、爺の目には「間違へてゐるやうに見える」だけだ。爺は、私の語彙を一般的な語彙に飜譯して理解する試みを、今まで一度もしてゐない。もしきちんと、私の言つてゐる事の内容を讀取つてゐれば、それがきちんとした内容になつてゐる事は解る筈だ。]……さうは読み取れないから、批判してゐる。それを腑分けして考へようとしてゐる。あなたの言つてゐる事は、「俺に言ふ事を何も言はずに肯定してくれ」と同じだ。

>[もしかして、「批判可能である = 反証可能である」と云ふ部分が、爺には氣に入らないんですか。

既にここの問題は解決しましたが。]……いえ、してないですね。今の課題は簡単じやないですか。「批判可能」がどう言ふ事か、どういふつもりで言つたのか、答へるだけでせう。 削除

2009/5/4(月) 午後 10:18 [ ]

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>[論理的には、「批判可能な研究は科學である」「或種の假名遣ひ研究は、批判可能な研究である」「或種の假名遣研究は科學である」と表現出來る。]……なる程、ご本人が言ふのだから、間違ひない、と言ひたいところですが、「検証可能」はどこへ言つたのでせうか。また、「或種」から外れる研究は、どうされるおつもりですか?それにこれだと、ますます「批判可能」が重要になつてくる。きちんと議論しませう。 削除

2009/5/4(月) 午後 10:26 [ ]

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>[人文科學の領域においても、ちやんと反證可能性だの何だのの原則は當嵌ります。が、それは自然科學の純客觀の方法とは異ります。]……それをきちんと説明してもらはねば、木っ端微塵にはなりませんよ。あなたは、無いものを有ると言ひがちだし。 削除

2009/5/4(月) 午後 10:31 [ ]

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>言い換へれば、「今ある現象」を説明できるだけではだめで、新たな観測結果・実験結果を予測できないといけない、と言ふ事です。

あー「新たな観測結果・実験結果を予測できないといけない」と、それが爺は言ひたいんだ。今まで一言も言つてゐないけれども。

さう云ふ意味では、かなづかひは「科學」ではないや。それは爺の言ふやうな「科學」でないだけだけれども。

でも今さら觀測とか豫測とか言出されても、さう云ふ羂のはり方は卑怯だよ。

2009/5/4(月) 午後 10:53 [ nozakitakehide ]

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しかし、何うだらう――既存の文獻やら何やらから假名遣の體系を假説として設定する、それに基づいて過去の文獻に或語なら或語はかう云ふ形で出現する筈だと豫測する事は、あり得る筈だし、具體的な新しい文獻を見出す事でその豫測が合つてゐるかゐないかは檢證されると云ふ事にならないか。

一方で、てにをはの類、連語における清音の濁音化の傾向、といつたものは、假説として提示されたものが、現實の人間の心理と云ふものを觀察した時、語意識があると觀測されるものでないか。

さう云つた心理について爺は絶對に認めない立場か何うか知らない。フロイトの心理學は科學でないと言つてゐるが、現代の心理學を一般に科學でないと見る立場は爺の立場と一致するか何うか。

2009/5/4(月) 午後 11:02 [ nozakitakehide ]

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人文科學において、人間の心理に關する觀察がある點が、自然科學と異る點だ――が、爺はそれを認めるか認めないか、それが私には解らない。

私としては、それを「認める」立場だが、「認める」ならば自然科學とは異るにしても人文科學にも「觀察」「觀測」が成立つ事となり、爺の非難は不當な非難として排除される。

一方、そこで爺が徹底的に人間の心理の存在と云ふ現實を排除して、それ以外の「純客觀」の領域でのみ「觀測」を「可能」とすると云ふ立場であるならば――しかしそれでは爺は「嚴格主義」或は「教條主義」に入り込んでしまつてゐるのでないか。

2009/5/4(月) 午後 11:08 [ nozakitakehide ]

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かなづかひの研究に就いて。「さふらう」か「さうらう」かについて橋本進吉は論じて、音便であるから「さうらう」の方が正しいだらうと述べた。(假説)

そして、實際の文獻においても「さうらう」かそれに連なる形の語が出現する筈である。(豫測)

これに對して、古代の文獻が出て「さふらう」が原型である事實が出てきたら、「さうらう」説は否定される。(反證可能性)

一往、この程度の事は言へる訣だが、これは爺によれば科學の話と無關係の事らしい。

2009/5/4(月) 午後 11:14 [ nozakitakehide ]

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ただし、言語は人間が使ふものだから、文獻のみに頼るべきだと極附ける理由はない。
現實の人間の感覺も根據として利用される必要がある。
さうした人間の觀察を爺は觀察と認めないか何うか。

規範として假名遣の意識がある點など、人間の思考や行動にはバイアスがかかるが、さうした不安定性があるにしても、言語それ自體は或程度定量的に扱へる研究對象であり、その研究は(方法によつて)科學として認められる。言語學の一分野として表記の研究はあり得るし、その中でかなづかひの研究もあり得る。

2009/5/4(月) 午後 11:19 [ nozakitakehide ]

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一方で美學や文學は、科學として認める必要はない。人文科學と藝術とは別。爺は言語學も藝術の仲間だと言つてゐるが、言語學は人文科學に認めていいと思ふ。

また、かなづかひについて、爺が言ふやうに「御先祖さまの流儀」式の發想で認めるのは、結局松永の所謂「旧かな」の趣味を全部等しく認めるべき事となる。それは受容れられない。定家假名遣から契冲假名遣へと展開して來たかなづかひの研究を認める時、そこに科學性と云ふ觀點を認める事は絶對に必要だ。

2009/5/4(月) 午後 11:23 [ nozakitakehide ]

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言語學における音聲學のやうなジャンルは科學として認められてゐる筈。

だが、話し言葉の領域の研究が科學として認められるなら、書き言葉の領域の研究もまた科學として認められる。


ところで、爺は一方的に・頭ごなしに人の言ふ事を否定する論法を使つてゐるが、それは批判の仕方としてよいものですか。
積極的に肯定的に見たにもかかはらず・相手の言ひ分を聞いてその言つてゐる事に一貫性を見出さうと努力したにもかかはらず、それでも「何うしても否定せざるを得ない」と結論を下さざるを得ない、と云ふのならば説得力がありますが、爺のはさうではない。ならば爺のは批判としてダメなんでないですか。

2009/5/4(月) 午後 11:28 [ nozakitakehide ]

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>あなたは、無いものを有ると言ひがちだし。

これは何ですか。そんな偏見で人を見ないで下さい。私が何時そんな事を言ひましたか。言つた事がないでせう。

2009/5/4(月) 午後 11:30 [ nozakitakehide ]

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むしろ、今みたいに、爺こそ、人が言つてゐない事を恰も言つたかのやうに極附け、一方、言つた事を言つてゐないと云ふ事にしてしまつて、それで人の發言を正反對の意味にひつくり返して「理解」し、その誤解に基いて人の主張を否定してゐるではないですか。

爺は、人の發言を非難する前に、自分の發言を反省したら何うですか。

2009/5/4(月) 午後 11:32 [ nozakitakehide ]

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何時も斯うだ。私は「言つてゐない」事を「言つた」事にされ、或は「言つた」事を「言つてゐない」事にされて、それで「野嵜はをかしい」と極附けられる。

極附けてゐる方は「自分の解釋は絶對だ」と信じ込んでゐるから、絶對に反省しない。私の言ふ事に附き合へばいいのに、それをやらうとしない。コミュニケーションを拒絶してゐるんだ。なのに、私が「彼らの用語」で語らないから「コミュニケーションを拒絶してゐる」と云ふ事にされる。

本當に「わかつてゐない」のは誰だらう。俺ではない。爺や松永、喜六郎といつた連中の方だ。彼らは俺の言葉を理解しないで、表面的な「用語」だけで判斷しようとしてゐる。
これでは何を言つても無駄だ。理窟を言つても理窟を理解しようとしないで「用語」で責立ててくるんだから。

2009/5/4(月) 午後 11:35 [ nozakitakehide ]

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定家のかなづかひ研究は、爺によれば非科學的研究であり、また契沖による定家假名遣批判は爺に據れば非科學的研究であつた。即ち、爺は、定家假名遣も契冲假名遣も、價値として全く同じであり、選ぶとしたらそれは趣味である、と言ひたい訣である。

が、私には、さうは思はれない。定家の假説的かなづかひに對して、契沖は古典の文獻を利用して反證を擧げて批判してゐるのであり、それは完全でないにしても科學的な態度であつたと言つて良い。

さうした批判の態度があつたからこそ、定家の假名遣は補正されて契沖の假名遣となつたものだと認める事が出來る。

その契沖の假名遣を歴史的假名遣として採用したのが明治政府であつたが、歴史的假名遣にはそれ自體として假説としての性質があり、橋本進吉等によつて原典に據る反證に基づいた批判と補正・訂正が行はれてゐる。

2009/5/5(火) 午前 0:18 [ nozakitakehide ]

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>[でも今さら觀測とか豫測とか言出されても、さう云ふ羂のはり方は卑怯だよ。]……そんな事はないでせう。ご自身で Wikipedia の記述を持ち出してゐたではないですか。あれを解りやすく言へばかう言ふ事です。しかしまあ、これを知らずに、「科学的なるものは……反証可能性を持つてゐる」と書いたのですか?おまけに、「人文科学にも、反証可能性に当るものは有る」とも。 削除

2009/5/5(火) 午前 0:20 [ ]

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好い加減にしろよ。觀測については説明しただらうが。説明したのに何うして理解できないんだよ。

なんで喜六郎も爺も、俺が「知らない」事にしてしまつて、それで俺の發言を全否定して、俺に發言させまいとするんだらう。

俺の言はんとしてゐる事を汲取つて、建設的に議論を進めようとすれば良いだらう。なんで一方的に否定して好い氣になつてゐるんだよ。

2009/5/5(火) 午前 0:24 [ nozakitakehide ]

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實際、かなづかひの研究に反證可能性があつて科學的研究である事は事實なんだよ。全部解つて言つてゐるんだよ。それを「知らなかったんですか」とか言つて揶揄して俺を怒らせて――爺はそれで面白がつてゐるんだらう。違ふか。

2009/5/5(火) 午前 0:26 [ nozakitakehide ]

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ふざけるなよ。言語學は科學ではあり得ない、絶對にあり得ない、人文科學は存在しない、と爺は言ひたいのか。

なら最初からさう言へよ。「人文科學は存在しない」――しかしそれはただ單に立場が違ふだけだ。實際、實驗によらないでも實證が可能だと云ふ立場はあるし、さう云ふ人間が人文科學と言つてゐるんだ。

ただ單に爺は「人文科學を科學と認めない」立場であり、俺は「人文科學を科學と認める」立場であるだけだ。WikipediaならWikipediaでもいい。人文科學を「實驗による實證が出來ないから科學でない」とする立場と「實驗以外の實證が出來るから科學と認める」とする立場とがある事實が載つてゐる。

2009/5/5(火) 午前 0:29 [ nozakitakehide ]

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立場が違ふだけならば、俺の「人文科學は科學」と云ふ主張を爺が全否定する事はできない。ところが爺の野郎は、それが「できる」と信じ込んでゐる。だから、爺は「信者」なんだよ。

立場が違ふなら違ふと云ふ事實があるだけだ。なら「さう云ふ立場もあるんですね」と、何の揶揄も嘲笑も交へず、冷靜に言はなければならない。ところが爺はそれが絶對に言へない。冷靜になれない。意地になつて「人文科學は科學でないと野嵜に認めさせねばならない」と言つて執拗に粘り續けてゐる。迷惑だからやめろよ。しつこい。

2009/5/5(火) 午前 0:33 [ nozakitakehide ]

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しかし、「實驗」に拘つて「檢證」と云ふ事をひたすら狹く狹く解釋して行く爺のやり方は、それこそ科學を貧弱にするだけでせうね。

2009/5/5(火) 午前 0:39 [ nozakitakehide ]

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ある假説を批判、反證しようと試みるならば、その假説で用いられてゐる文言、用語を読み取り、内容を理解する必要がある。その際、用語の定義が辞書と違ふからその假説が間違ひだ、といふことにはならない。言葉はその時によつて、指し示すものが違ふからだ。その用語が何を表すかを正確に分析し、文脈を把握することではじめて批判も反證も可能である。「辭書に載つてない」「この言葉をおれはそんな意味では使はない」なんてことをいふのは批判でも反證でもない。
爺氏は「正かなづかひ」そして「人文科學」について「よく知らない」と言ふ。しかしそれらを「科學ではない」と主張してゐる。なぜ「よく知らない」ものを「科學」かどうか判断できるのだらう。「よく知らない」ものに文句を付けるのは「いちやもん」「言ひ掛かり」であり、それは「非科學的」である。 削除

2009/5/5(火) 午前 0:42 [ 佐藤 俊 ]

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>そうそう、だから、「良く知らないと言つてものを聞く」のくらい勘弁してくださいよ。
ぼくはそのあとに「「無知」をいひわけにしたり、いなほつたりするのは間違ひである。「過ち」を認めない、「反省」しないことだからだ。」と書いたが、爺氏はいなほつてゐる。「良く知らないと言つてものを聞く」? 爺氏がしてゐるのは「良く知らないと言ひながらいなほつて揚げ足を取る」だ。
第一、「良く知らない」といつてゐる人間のいふことを信用できるはずがない。
そもそも「科學」を連呼する爺氏が「科學」をほんたうに理解してゐるか疑はしい。相手の意見を全く聞かず、自分の意見は寸分も疑はない。まさに「非科學的」な言動しかしてゐないからだ。
「科學」を「理解してゐる」と豪語するならば、「科學的」であつてほしいものだ。 削除

2009/5/5(火) 午前 0:45 [ 佐藤 俊 ]

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あと。

>ちなみに、「仮説は反証可能の形に表現するべし」は「科学の方法論」として重要なのですから、「(科学ではなく)規範である」と自ら称するものに対して、「反証可能性」が全く無いから(科学的でない、間違っている、不当だ)と云ふのは、そもそも筋違ひ、ですね(規範には仮説は無いでせうし)。

「規範」が「規範だから」と言つて自己の正當性を主張することそれ自體がトートロジーでをかしい。だから科學的に批判でも檢證でも出來る假名遣ひの方が良いものだと私は言つてゐる。これは福田恆存も指摘した事だ。

それに對して、爺は「規範」と言つてゐるものは最う「正しい」と認めてしまつて良い、と言つてゐる。さう云ふ爺のやうな態度が根本的に間違つてゐると俺なんかは言つてゐる訣だ。

「現代仮名遣」は、「規範」だから「科學に據る批判」なり「檢證」なりは「筋違ひ」と云ふ事にして批判や檢證を囘避してゐる。さう云ふやり方が通用してゐるからこそ、「現代仮名遣」はそもそも疑はれもしない。だが、それが問題なのだと福田氏も俺も指摘してゐる。

2009/5/5(火) 午前 0:46 [ nozakitakehide ]

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ところが、さう云ふ指摘に對して、爺は、用語が拙い、理解が拙い、と文句ばつかり言つて、ねちねちねちねち絡み續けてゐる。けれども、そこで爺は專ら「科學」の定義それ自體に拘つてしまつて、實際にかなづかひ研究が科學的研究の名に價するか否かを實證的に判定する試みを、少くとも爺自身は放棄してしまつてゐる。

爺の「議論」は、事實上、議論の引伸ばし工作で、結果として「現代仮名遣」を擁護する事になつてしまふ。
しかし、トートロジーだの何だのに矢鱈拘る爺は、「現代仮名遣」が「現代仮名遣は正しいものだから正しいのである」と言つてゐる事それ自體ををかしいと思はないのか。「筋違ひ」だから何とも言ひません、等と平氣で言ふ邊、爺は何うも「正しいものは正しいのである」式の言ひ方を好んでゐるのでないかと思ふ。

2009/5/5(火) 午前 0:51 [ nozakitakehide ]

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おまけ。

>さう云へば、佐藤さんと野嵜さんには、憲法の存在理由云々に関して、「国民主権」を取るのか「天皇主権」か、と云ふ質問をしてゐたと思ひますが、こちらについては如何ですか?

大日本帝國憲法は「天皇主權」だと言つてゐて、それは變更不可能だと規定してゐた。當然、憲法を改正しても、國體の變更は不可能である筈。
だから日本は未來永劫「天皇主權」と云ふ事になる。

2009/5/5(火) 午前 0:59 [ nozakitakehide ]

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現行憲法には「第一條」に「天皇は、日本國の象徴であり日本國民統合の象徴であつて、この地位は、主權の存する日本國民の総意に基く。」とあつて、「主權は國民にある」と「規定されてゐる」と普通讀む。けれども、「天皇は象徴である」と言つてゐるのを我々は何とでも解釋出來る。
個別の國民に主權はあるけれども、それらを統合して「象徴的」には「天皇が主權を持つ」ものであると規定されてゐると、解釋出來なくもない。

正直、この邊の現行憲法の曖昧さは、大日本帝國憲法の曖昧さと大差ないと思ふ。けれども、その曖昧さを利用して、大日本帝國憲法と現行憲法との間に整合性を「作る」努力をする必要はないと思ふ。

2009/5/5(火) 午前 1:08 [ nozakitakehide ]

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g氏が本當には科學を理解してゐないと「私は思ふ」。やはり氏にとつての「科學」は他人攻撃の方法に過ぎないのだらう。

氏からホーキング博士の名前が出たから人間原理の話題を出す。現在の宇宙は或る物理定數によつて成り立つてゐるが、これらの定數は絶妙な値であり、これを外れると人類が進化する程に宇宙の壽命が持たない。まるで人類が宇宙を觀測する爲に設定されてゐるやうにも思へる。

これを説明する爲に人間原理が持ち出されてゐるのだが、その實檢も檢證も直接的には不可能だ。何故なら檢證の爲に人類の手でビッグバンを起こす必要があるから。傍證を固めて推論する以外に手はない。つまるところ、最先端の宇宙論を語るのにg氏獨自の「反證主義」では不可能だ。反證が大事だと述べたホーキング博士が、人間原理に對してどのやうな立場か。言葉を引用したのだから當然知つてゐると思ふが、g氏はどう應へるのだらう。

あと科學の歴史を見れば分ることだけど、相對性理論の成り立ちを參照して「反證可能性」といふ考へは産れてゐる。それ以前に科學はなかつたかといふと、そんなことはないわけで。 削除

2009/5/5(火) 午後 11:07 [ 江洲 ]

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>[しかし、「實驗」に拘つて「檢證」と云ふ事をひたすら狹く狹く解釋して行く爺のやり方は、それこそ科學を貧弱にするだけでせうね。]……さうですか。議論を厳密に正確にやる方が、発展する分野もあると思ひますよ。何より「反証主義」は、ある仮説を科学的と言へるかどうか、に関する議論なので、いくらや厳密にやっても、ある学問分野の成果を貧弱にする事はない。むしろ、科学を前に進める事に貢献してゐる。しかし、「向いてない」ところへ無理に反証主義を持ち込んだら、それを貧弱なものにするのは間違ひないところだらう。それを野嵜さんはやらうとしてゐる。

と言ふか、野嵜さんの言つている事は、間違つてゐると言ふより支離滅裂なんですよ。「科学的なるものは……反証可能性を持つている」とやる。これはてつきり「反証主義」的科学かな、と思へば、そうではない、人文科学だ、と言ふ。では、そう「読み替え」てみやう。すると「批判可能であるから人文科学」といふ事になる。 削除

2009/5/6(水) 午前 3:35 [ ]

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やつぱりそれでも、「批判可能」が絡むと「人文科学」つて何だ?と言ふ疑問が浮ぶが、今それは措くとして、どうもそれは「実証的」(アプリオリな前提によらず、事実に基いた判断を行なう。仮説の定立とその検証を繰替へす事で「真理」に近付く(爺定義))に近いやうだ。だとすれば、更に「翻訳」して「歴史的假名遣ひは実証的学問に基いている」と至極妥当な主張になる。「假名遣ひは実証的学問に基くべきである事」とか、「現代仮名遣いは実証的学問に基いていない(からケシカラン)」とか、素晴しく真つ当な議論になるだらう。しかし、人文科学に拘ると(元の翻訳に無理があるから)無理が出てくる。「現代假名遣ひは自らを規範だとして批判・議論に応じないのは、擬似(人文)科学的である(からケシカラン)」は筋違いだし(規範はそもそも人文科学ではない)、「假名遣ひは人文科学的であるべし」は、どうあるべし、なのかわからない。そもそも、假名遣ひの研究なのか、規範としての假名遣ひなのか、が曖昧だが、研究だとして、それを今のままで良いのか、変へないといけないのか、どちらなのだらう。 削除

2009/5/6(水) 午前 3:41 [ ]

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もつと言ふなら、「科学的」を持ち出して、現代假名遣ひ批判に安直に「箔」をつけようとしてゐるだけのやうに見えるし、また、「歴史的假名遣ひに明文化された規範が無い」事を糊塗しようとしているやうにも見える。こんな処で「科学」を持ち出す「筋違ひ」で時間を費す暇が有るならば、一般のユーザ(爺を含む)が、容易に学べて、かつ日々参照できる、規範を作ってくれた方が有難い。

上の議論は素より論理的ではない。避けようと心掛けてゐる「相手の意図の忖度」も含んでゐる。しかし、野嵜さんは「論理的」で厳密な議論を理解できないのか避けたいのか、とにかく、堂々巡りになりがちだし、厳格主義だ、などと言ふので、敢へて、グニャグニャした説明を試みた。 削除

2009/5/6(水) 午前 3:45 [ ]

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さて、どうも私への批判を読んでゐると、皆さんどうも「反証可能性」をあまり理解していないやうなので、少し自明だらうと思ふ事も含めて説明させて頂く。

まず、「反証可能」は、ある仮説の「形式」に関する事であつて、「反証主義」はそれに基いて、科学である、とか、ない、と言ふ事。つまり、「その仮説は反証可能でないから、科学的ではない」と「言ふ」のが「反証主義」。

次に、「反証可能なのに反証されてゐない」事が重要である、と言ふ事。(反証されてしまったら、「正しい学説ではない」のは当然の事です。)

さらに、反証主義が適用できるのは「実験」ができる分野だけに限らない。(さうでなければ、史的唯物論やユングの分析心理学を論じる事はできない。)

しかし、反証可能性を云々して意味があるのは、仮説が演繹を含む場合で、それが「現象の記述」の場合には、さほど意味はない。 削除

2009/5/6(水) 午前 3:50 [ ]

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で、ありきたりの例ですが、「全てのスワンは白い」で以上の事を説明すると、
「全てのスワンは白い」は反証可能である。(白くないスワンを見つければ良い)
で、これは反証された仮説である。(黒いスワンが見付かったから。)
で、今の仮説は「全てのスワンは白いか黒い」で、これも反証可能である。
しかし、「緑色のスワンが世界のどこかに居る」は反証可能ではない。
一方、「緑色のスワンは世界のどこにも居ない」は反証可能である。
で、あきらかに、「全てのスワンは白いか黒い」の方が良い仮説である(「○色のスワンが……」をいくつ並べても、学説とは言えないだらう)。反証可能でなければ、まちがひなく「とんでも」であるが、反証可能であつても、良い学説とは限らない。要は、このレベルでは、仮説のよしあしについて、反証可能性は決定的な要因ではない。それは、これらがほぼ観察結果を伸べてゐるだけ、だから。 削除

2009/5/6(水) 午前 3:53 [ ]

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一方、仮説が「前提条件とそれからの演繹」を含むようになると、話は違ってくる。演繹結果を外部の観察、観測、実験結果と較べる事が「実証」する事になる。で、その実証方法が複雑で、間接的になってくると、何をもって「その仮説が実証された」かを言ふ事が難しくなってくる。
例へば、純正(絶対静止)エーテル仮説は反証されてしまつた訣ですが、それを「エーテルは絶対静止系にではなく、観測系に対して静止している、もしくは観測系(地球表面)では引き摺られてゐる」(いいわけエーテル仮説)とすれば、とりあえず、絶対静止系が観測できなかった事実を説明できる。実証されたと言へる。他の観測結果も同様で、エーテルの動き方を巧妙にすれば、いくらでも「言い逃れ」ができる。また「反証可能である」と言う例も作れる。これに対し、もっとはっきり「反証可能である」と言ふ基準を作るなら、それは「反証可能な予測をしてみろ」と言ふ事になる。後付けの説明ではこれはできないでせうから、「いいわけ」でない事の明確な基準でせう。で、「いいわけエーテル説」は科学的でない、と捨てられた。 削除

2009/5/6(水) 午前 3:58 [ ]

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「患者も嘘を言ふ事がある」なんてのは「いいわけ」だ(それじゃあ、反証不可能だ)と、分析心理学も科学的でない、とされ、「そうでない固体発生を B 型とする」とやったヘッケルの反復説(「固体発生は系統発生を繰り返す」)も、反証不可能(どんな固体発生でも、A か B には属する)で、科学的でないとされる。

で、何となく、反証主義は、確固とした哲学であるが、仮説が科学的かどうかを言ふ「だけ」のもので、反証可能性を云々する事が意味があるか如何かは、その学問固有の対象やその方法論による、と言ふ事は解つていただけたかと思ひます。換言すると、「科学的でない」と言はれても、「それがどうした」と胸を張れる分野はいくらでも有つて、假名遣ひ研究もその一つである、と。また、科学であると自称する「擬似科学」を、「いやそれは科学ではない」と言ふ時に最も威力を発揮するだらう事も想像が付く。なので、「擬似科学批判としての」なんてタイトルは「反証主義」が続けば、まさにどこかの論文のタイトルにそのままなってゐさうな気がするくらゐです。 削除

2009/5/6(水) 午前 4:04 [ ]

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で、野嵜さんが提示してくれた、橋本博士の説に「無理矢理」「反証可能性」を適用してみると、

まず、橋本博士の仮説は既に反証されていゐるのだから、今有効な仮説は、「候は『そうらう』である」としなくてはならない。で、さらに反証するには「それよりさらの古代の文献に『さうらう』が出て来れば良い」。これは、確かに反証可能な仮説で、元の仮説を書き直す事によつて、さうできた、と言ふ事ですね。でも、私の疑問は、その次に来る。「候は『そうらう』である」は、何ら演繹的な要素を含んでゐないから、反証可能性にあまり意味はない。言ひ変えると、反証可能な予測を組み立てるのが難しい。もつと言ふなら、「同じ検証結果に至るが、反証不可能な」仮説がそもそも無いか、作れない。敢へて「演繹」を導入するなら、「候は、音便でないから、『さうらう』である」とでもすべきでせうが、それに対して、「候は、○○であるから、『さうらう』である」が有り、それを反証不可能であるとして退ける、などと言ふ例が思ひつかない。(苦労して思ひついても、あまり意味が無ささうである。) 削除

2009/5/6(水) 午前 4:08 [ ]

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繰替へしになりますが、かう言っても、橋本博士の仕事がつまらない、価値がない、とは決して思っていません。その研究と言ふか研究分野に「科学的」を持ち込む事に意味が無いと言ってゐる。「科学的」を「人文科学的」と変へても無意味である事は変はらないと思ふ。 削除

2009/5/6(水) 午前 4:10 [ ]

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すみません、4:08 分のコメントの中で、後二つの「さうらう」は「そうらう」の間違いでした。

>[氏からホーキング博士の名前が出たから人間原理の話題を出す。現在の宇宙は或る物理定數によつて成り立つてゐるが、これらの定數は絶妙な値であり、これを外れると人類が進化する程に宇宙の壽命が持たない。まるで人類が宇宙を觀測する爲に設定されてゐるやうにも思へる。]……私が科学を本当には理解していないのはそのとおりですが、あなたの思ってゐる理由からではなさそうです。Hawking が、ここで、人間原理を持ち出したのは、「何故世界はかうなつているのか」と言ふ素人の疑問に答へるため、であつて、Hawking は科学はそのやうな疑問に答へない、と言ってゐる。しかし、因果律をビッグバンの直後まで伸ばしてゐって、その疑問に或る程度は答えられる事を目指すのをやめてはいけない、とは言っている。 削除

2009/5/6(水) 午前 5:14 [ ]

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これは、「彼のビッグバンの議論が、特異点に近付きすぎてゐて意味がない」という批判に対して、「そこでも物理の法則は成り立つはずのものだ」、という彼の立場を擁護してゐる面もある。要は、Hawking さんは、筋金入りの(反証主義)科学主義者と言ふ事ですね。最近では、そもそも、ビッグバンは特異点ですらなかった、と言ってるらしい……これは私の理解を越えてゐる……

>[あと科學の歴史を見れば分ることだけど、相對性理論の成り立ちを參照して「反證可能性」といふ考へは産れてゐる。それ以前に科學はなかつたかといふと、そんなことはないわけで。]……おっしゃる通り。私が出してゐる例も、そのあたりの話ですね。で、その後の一般相対論の成功と量子力学の成功でもって反証主義は裏打ちされて、今や、ほぼ自明で共通の認識となつている。なので、相対論以前の科学とそれ以後では、科学と言った場合の認識が違ふのはあたり前。今「科学」と言って反証主義を含意しないのであれば、「19 世紀の科学」と言ふべきでせう。 削除

2009/5/6(水) 午前 5:21 [ ]

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「現代仮名遣い」自體は「規範」であつて、「科學」ではない。しかし「現代仮名遣い」があたかも科學的であるかのような主張がしばしばなされる。
・「現代日本語は『現代仮名遣い』でなければ表記できない。また『歴史的かなづかひ』は文語文でなければ使用できない」
・「『現代仮名遣い』は60年使用されてをりすでに定着してゐる」
・「もともとかなづかひは表音的なものであり、表音主義に基づく『現代仮名遣い』は正しい」
「科學」でないものを「科學」で説明することは「疑似科學」である。

「歴史的かなづかひ」は科學的な研究の對象たり得る。よつて「歴史的かなづかひ」は「科學」である。 削除

2009/5/6(水) 午前 11:03 [ 佐藤 俊 ]

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上記の主張に「科學的」な批判は可能である。
・「現代日本語は『現代仮名遣い』でなければ表記できない。また『歴史的かなづかひ』は文語文でなければ使用できない」
←国語改革以前すでに歴史的かなづかひで口語文が表記されてゐた。
・「『現代仮名遣い』は60年使用されてをりすでに定着してゐる」
←かうして「現代仮名遣い」を誤りとして使用しない人も少なくない。
・「もともとかなづかひは表音的なものであり、表音主義に基づく『現代仮名遣い』は正しい」
←當初はさうであつた。しかしその後は「表意主義」であり、表音主義にもどることは無かつた。
しかし批判が可能であるからといつて、そもそも「科學」ではない「現代仮名遣い」が「科學」であるといふことにはならない。「現代仮名遣い」があたかも科學的であるかのような主張は「疑似科學」でしかない。 削除

2009/5/6(水) 午前 11:11 [ 佐藤 俊 ]

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佐藤さん、依然として、ちっとも議論に付いてこれてないですね。
>[「科學」でないものを「科學」で説明することは「疑似科學」である。]……それは違ふ。科学とは違ふ方法論を使って、(とんでもない結論を引出し、)科学と自称するのが「疑似科学」。また、科学でないもの(規範)を、科学的でない、とか科学的であれ、といふのは「擬似科学」以前の筋違ひ。

>[「歴史的かなづかひ」は科學的な研究の對象たり得る。よつて「歴史的かなづかひ」は「科學」である。]……その「科学」とは何か、を問うてゐる。野嵜さんや佐藤さんの「科学」は、平成の世で普通に言ふ科学ではない、そこまでは明確になつた。で、野嵜氏さんは「人文科学」だ、とも言ってゐる。それは何か、実証的学問とどう違ふのか?(「批判可能である事」「正義を扱ふ事」を必須の要件とするらしい。擬似科学でなければ良いが。) 削除

2009/5/6(水) 午後 9:32 [ ]

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>[大日本帝國憲法は「天皇主權」だと言つてゐて、それは變更不可能だと規定してゐた。當然、憲法を改正しても、國體の變更は不可能である筈。だから日本は未來永劫「天皇主權」と云ふ事になる。]……成程。野嵜さん自身も「ずっと天皇主権であるべき」と信じてゐる、と。ところで、それでは「正当性を取り戻すために、一旦帝國憲法に復帰して、それをすぐさま民主主義的なものに改正すれば良い」と言ふのは詐欺だ。 削除

2009/5/6(水) 午後 9:35 [ ]

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まだ絡んで來やがるのかこの馬鹿。

>議論を厳密に正確にやる方が、発展する分野もあると思ひますよ。

「用語を厳格にする」事と「議論を嚴密かつ正確にやる」事とは違ふ。それが爺には解つてゐない。

>と言ふか、野嵜さんの言つている事は、間違つてゐると言ふより支離滅裂なんですよ。

支離滅裂ではない。爺が勝手にややこしく讀んでゐるだけだ。

>だとすれば、更に「翻訳」して「歴史的假名遣ひは実証的学問に基いている」と至極妥当な主張になる。

妥當な主張なら絡むなよ。

>「假名遣ひは実証的学問に基くべきである事」とか、「現代仮名遣いは実証的学問に基いていない(からケシカラン)」とか、素晴しく真つ当な議論になるだらう。

なら絡むなよ。

2009/5/7(木) 午前 0:54 [ nozakitakehide ]

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>「現代假名遣ひは自らを規範だとして批判・議論に応じないのは、擬似(人文)科学的である(からケシカラン)」は筋違いだし(規範はそもそも人文科学ではない)、「假名遣ひは人文科学的であるべし」は、どうあるべし、なのかわからない。

爺の言つてゐる事がさつぱり解らない。假名遣研究は人文科學と云ふ科學の一部門に屬する研究だし、その研究成果が具體的な假名遣ひである訣だが、さうした科學的な假名遣を規範にするのを良い事だと看做す價値觀があるのは良い事だらう。
それを「筋違ひ」と言ふスローガンで斬つて捨てる爺の感性だか價値觀だかはをかしい。

2009/5/7(木) 午前 0:55 [ nozakitakehide ]

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>もつと言ふなら、「科学的」を持ち出して、現代假名遣ひ批判に安直に「箔」をつけようとしてゐるだけのやうに見えるし、また、「歴史的假名遣ひに明文化された規範が無い」事を糊塗しようとしているやうにも見える。

「箔」と云ふスローガンで以下略。科學的な研究に基いて正しい假名遣は追究されて來たし、その過程における成果として契沖の假名遣と云ふものがあつて、それが歴史的假名遣と云ふ規範として明治政府に採用された。歴史的假名遣は何度も修正されてゐるけれども、科學的な研究に基いて修正されてゐるのだし、さうした修正がなされるのは良い事だ。
さうした修正を受附けないし、受附けない事を當り前だと言つてゐる「現代仮名遣」の制定者の態度は、非科學的で、をかしい。

2009/5/7(木) 午前 0:55 [ nozakitakehide ]

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>まず、「反証可能」は、ある仮説の「形式」に関する事であつて、「反証主義」はそれに基いて、科学である、とか、ない、と言ふ事。つまり、「その仮説は反証可能でないから、科学的ではない」と「言ふ」のが「反証主義」。

それは議論上必要な形式であつて、形式は内容を反映したものである事が必須と云ふ事を理解してゐなければならない。
トンデモな人々も形式的に尤もらしく「反證可能」のやうな言ひ方をする。が、内容が反證可能でないからトンデモはトンデモ。

>次に、「反証可能なのに反証されてゐない」事が重要である、と言ふ事。(反証されてしまったら、「正しい学説ではない」のは当然の事です。)

さうした場合に、普通の科學者は單純に學説全體を抛棄するのでなく、學説に修正を加へる事で妥當性を確保する。

2009/5/7(木) 午前 1:13 [ nozakitakehide ]

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>しかし、反証可能性を云々して意味があるのは、仮説が演繹を含む場合で、それが「現象の記述」の場合には、さほど意味はない。

意味がない事はない。

>これは、確かに反証可能な仮説で、元の仮説を書き直す事によつて、さうできた、と言ふ事ですね。でも、私の疑問は、その次に来る。「候は『そうらう』である」は、何ら演繹的な要素を含んでゐないから、反証可能性にあまり意味はない。言ひ変えると、反証可能な予測を組み立てるのが難しい。

ようやく爺の言ひたい事が解つて來た。演繹に據つてまだ起きてゐない事象について豫言し、それを觀測して豫言に使はれた理論の精度が高いか何うかを確かめる――さう云ふやり方をする事が反證主義の科學だ、と、さう言ひたい訣だ。

2009/5/7(木) 午前 1:13 [ nozakitakehide ]

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ところで「さうらう」か「さふらう」かの話を持出して説明したけれども、私としては、さうした語彙に關する研究だけが假名遣の研究だとは思つてゐない――と言ふより、實は、指摘した事例が不適切であつたと思つてゐる。
假名遣研究と言つてゐるけれども、詞と辭のうち辭の假名遣ひこそが重要であると云ふ意見であるのだから、私としては辭に關する研究=てにをはと用言の活用に關する研究が重要であると思つてゐる。

だから富士谷成章や鈴木朖の文法研究もまた假名遣ひ研究の先驅として認めるし、或は明治以降の國文法の研究も假名遣ひ研究として重視する立場をとる。

さう云ふ觀點から言つてゐる積りだつたのだが、爺は「假名遣研究」を極めて限定的に考へてゐた樣で、それで話に齟齬が出たのだと思ふ。勿論、斯う云ふ私の説明を爺は「言逃れ理論」だと言ふのだらうけれども、念頭に置いてゐたものがそもそも違ふ事實があるだけだ。

2009/5/7(木) 午前 1:32 [ nozakitakehide ]

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たうとう「人文科學は疑似科學」といひだしたか。
なら「疑似科學」でしかない「正かな」をなぜ使ふのだらうか。 削除

2009/5/7(木) 午前 1:37 [ 佐藤 俊 ]

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http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/kudohiro/gakusi.html

ウェブの文章だが、「教科書(の改訂原稿)」なのださうだし、一般的な内容だと思ふ。これらの日本語研究は日本語の語それ自體についての研究であり、大體かなづかひに關係するものとして考へていいと思ふ。
基本的には實證主義的な研究であり、科學志向の研究であつたと言つて良いと思つてゐる。

明治政府に採用された歴史的假名遣は、江戸時代以前の日本語研究の成果として「あつた」のだし、明治以後の研究の成果を反映して「修正された」。

2009/5/7(木) 午前 1:45 [ nozakitakehide ]

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>科学とは違ふ方法論を使って、(とんでもない結論を引出し、)科学と自称するのが「疑似科学」。また、科学でないもの(規範)を、科学的でない、とか科学的であれ、といふのは「擬似科学」以前の筋違ひ。

事實として「科學的でない」ものをありのまゝに「科學的でない」と指摘する事を、爺は「筋違ひ」だと言つてゐるが、これは何なのだらう。「科學的でない」ものを「科學的だ」と指摘すれば爺は滿足するのだらうか。さうではあるまい。

あー「科學でない」ものを「科學的でない」と言つたのが惡いと言ふのか。
しかし、規範は科學の成果であるべきだらう。

規範と言つても、假名遣ひは、何もないところに「これが正しいのであるぞ」と神の聲でルールを決めるのではない。既に暗默の裡にルールが存在するところで、そのルールを明示化し、規範として改めて認識させるのだから、ルールを明示化するのに適切な方法を用ゐなければならない。その方法が科學的な方法でなくていいと、何うして爺は言ふのだらうか。

2009/5/7(木) 午前 1:51 [ nozakitakehide ]

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>さう云ふ觀點から言つてゐる積りだつたのだが、爺は「假名遣研究」を極めて限定的に考へてゐた樣で、それで話に齟齬が出たのだと思ふ。勿論、斯う云ふ私の説明を爺は「言逃れ理論」だと言ふのだらうけれども、念頭に置いてゐたものがそもそも違ふ事實があるだけだ。
「人文科學」についても「假名遣研究」についても爺氏は自分で「良く知らない」といつてゐる。にもかかはらずそれらを「疑似科學」だと言ふ。
結局、爺氏にとつて自分が「良く知つてゐる」ものが「正しい」のであり、「良く知らない」ものは「間違ひ」なのでせう。
それはまさに「疑似科學」、「トンデモ」なのですが。 削除

2009/5/7(木) 午前 1:51 [ 佐藤 俊 ]

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>……その「科学」とは何か、を問うてゐる。野嵜さんや佐藤さんの「科学」は、平成の世で普通に言ふ科学ではない、そこまでは明確になつた。

明確になつて等ゐない。多分、爺は、爺の考へる「爺の理論に不都合な形態の學問」を野嵜や佐藤氏が主張してゐると極附けてゐる。

>で、野嵜氏さんは「人文科学」だ、とも言ってゐる。それは何か、実証的学問とどう違ふのか?(「批判可能である事」「正義を扱ふ事」を必須の要件とするらしい。擬似科学でなければ良いが。)

http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/kudohiro/gakusi.html

これらの研究を爺は非實證的で非科學的だ、と何うして言ふのだらうか。

そもそも、「正義を扱ふ事」と云ふのは人文科學「全て」で必須の要件だとは誰も言つてゐない。「正義を扱ふ事」は人文科學の「部分」としてあり得る、と言つてゐるだけだ。
爺は故意に「すべて」と「ある」とを取違へて、野嵜に不利になるやうに「野嵜の理論」を歪曲してゐる。ところが、歪曲しなければ、私の言つてゐる事は、一般的に諒解されてゐる事と、違はないのだ。

2009/5/7(木) 午前 1:55 [ nozakitakehide ]

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>佐藤さん、依然として、ちっとも議論に付いてこれてないですね。
「議論」? 爺氏がしてゐるのは「説教」ではないのか。
「お前らは何もかも間違つてゐる、おれのいふことは全て正しいのだから、黙つて從へ」と。
そんなものに「付いて」はいけない。 削除

2009/5/7(木) 午前 1:57 [ 佐藤 俊 ]

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>成程。野嵜さん自身も「ずっと天皇主権であるべき」と信じてゐる、と。ところで、それでは「正当性を取り戻すために、一旦帝國憲法に復帰して、それをすぐさま民主主義的なものに改正すれば良い」と言ふのは詐欺だ。

また「詐欺」とスローガンを言つてゐる。爺は必ず斯う云ふ極附けで話を進める。

「野嵜アンチ」は必ず斯う云ふ話の進め方をするから困る。それでゐて、用語だけは尤もらしいから、自分で自分の事を「絶對に正しい事を言つてゐるんだ」と思ひ込んでしまふ。

爺の言つてゐる事は、その場その場では正しい。けれども、言つてゐる事を組合せると、全體として何を言つてゐるんだかさつぱり解らなくなる。

2009/5/7(木) 午前 1:59 [ nozakitakehide ]

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結局のところ、「野嵜が言つてゐる假名遣研究」とは何か、について、爺が具體的にどのやうなものか、把握してゐないのが、爺が言掛かりをつける最大の理由となつてゐる。

爺には、
http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/kudohiro/gakusi.html
に載せられてゐる研究が實際どのやうに「非科學的」であるかを論じて貰ひたい。

と言ふか、爺の「理論」に對して、こちらは具體的な「反證」を持出して否定してゐるんだよ。苦笑。

2009/5/7(木) 午前 2:00 [ nozakitakehide ]

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と言ふか。爺無知杉。

>成程。野嵜さん自身も「ずっと天皇主権であるべき」と信じてゐる、と。ところで、それでは「正当性を取り戻すために、一旦帝國憲法に復帰して、それをすぐさま民主主義的なものに改正すれば良い」と言ふのは詐欺だ。

「天皇主權」と云ふ形式は維持する必要がある。その上で、實質的に・内容的に「民主主義的なもの」にする事は十分可能だし、十分運用でカヴァ出來る。

が、形式と内容と云ふ事を爺は多分良く解つてゐないと思ふ。科學の定義とか言つてゐるけれども、古典的な論理學については何うも爺は無知であるやうな氣がする。言葉を操作する事で議論が進められると思つてゐるし。言葉の指示す内容こそが重要、と云ふ事を爺は解つてゐない。言葉が解らないとどんどんどんどん爺は勝手に臆測を擴げる。さうやつて相手の言つてゐる事を歪曲して、それで「論破した! 俺大勝利!」とかやつても何の意味もないのに、それが爺には解らない。

2009/5/7(木) 午前 2:04 [ nozakitakehide ]

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>[と言ふか、爺の「理論」に對して、こちらは具體的な「反證」を持出して否定してゐるんだよ。苦笑。 ]……さうなんですか。私は野嵜さんに「(俺)科学」を定義してみて欲しい、と言ってるんですがね。(そうでなくては、「科学的」だ「非科学的」だと言ってみても始まらんでせう。もっと言ふなら「科学的なんて言葉をここで持ち出すな」と。)。でも、野嵜さんに「抽象的」は無理だから、具体的な例を挙げて頂けるのは大歓迎。で、読んでみましたが、やはり、日本の國語学はそれなりの歴史を持ってゐる。さすが、です。でも、工藤氏がこれだけ広く学説をカバーしてゐても、科学と自称してゐる、もしくは工藤氏が科学と思ってゐるのは「認知科学」くらいのもののやうです。私も全く同意できます。新(珍?)説なのは、野嵜説の方のやうなので、これはやはり「俺科学」を定義するところから始めて頂かねば。苦笑してゐる場合ではないと思ひますよ。 削除

2009/5/7(木) 午後 10:49 [ ]

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>[「天皇主權」と云ふ形式は維持する必要がある。その上で、實質的に・内容的に「民主主義的なもの」にする事は十分可能だし、十分運用でカヴァ出來る。]……無知杉な爺でも、大正デモクラシー以降の歴史が、これが幻想であり得る事を示してゐる、事くらゐは知ってゐる。

>[言葉の指示す内容こそが重要、と云ふ事を爺は解つてゐない。言葉が解らないとどんどんどんどん爺は勝手に臆測を擴げる。さうやつて相手の言つてゐる事を歪曲して、それで「論破した! 俺大勝利!」とかやつても何の意味もないのに、それが爺には解らない。]……あはは、「俺大勝利!」って風に思ふ事あるんですか、野嵜さん。それに「俺の言ふ事を翻訳して解つてくれよ」等と言ふ人が「歪曲して」などと非難してはゐけません。しかし、野嵜さんのためには言葉が足りなかつたのは確かで、「正統性を確保するために、一旦復帰しなさい」と言ひながら、「正統性を保ちながら、そこから出て行く事はできませんよ」と言はなかったのは「詐欺」だ、と。 削除

2009/5/7(木) 午後 10:55 [ ]

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>でも、工藤氏がこれだけ広く学説をカバーしてゐても、科学と自称してゐる、もしくは工藤氏が科学と思ってゐるのは「認知科学」くらいのもののやうです。
それはさうでせう。自然科學と人文科學とは違ひます。けれども、人文科學は科學です。そして工藤氏は、國語學が實證的な方向に進んできた事をはつきり書いてゐます。そして、さう云ふ「自分に不利な事」には故意に氣附かないやうにしてゐるのが爺なのです。

>無知杉な爺でも、大正デモクラシー以降の歴史が、これが幻想であり得る事を示してゐる、事くらゐは知ってゐる。
幻想だと「解釋する」事が一般的である事を知つてゐる、の誤。そして、その解釋こそが誤。

2009/5/8(金) 午後 7:44 [ nozakitakehide ]

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>それに「俺の言ふ事を翻訳して解つてくれよ」等と言ふ人が「歪曲して」などと非難してはゐけません。

×ゐけません
○いけません

しかし、なぜ行けないのだらうか。いいに決つてゐる。なぜなら、人は一般に、相手の言はんとしてゐる事=意圖を正しく理解してから、批判しなければならないからだ。これは全ての人の義務であり、私が希望するもしないもない。

爺はその、全ての人が守らなければならない義務を破つて、平然と私の言つてゐる事を歪曲してゐるから、許されない。これは「野嵜が許さない」と云ふのではなく、「議論する人間なら許されない」と云ふ事。議論をする時に、相手の言はんとしてゐる事を正確に讀取るのは義務で、自分に都合良く歪曲して解釋し、その歪曲した内容を論破して「勝つた」かのやうに見せかけるのは誤だし――寧ろ「負け」を意味する。

2009/5/8(金) 午後 7:48 [ nozakitakehide ]

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そもそも、工藤氏が何う解釋してゐるかは關係ない。工藤氏が纏めた歴史に掲載されてゐる個別の研究が科學的か何うかを問題にしなければならないし、その爲には爺は直接一次資料に當たつて檢討しなければならない。

私は明かに國語學は實證的な=科學的な學問だと思ふ。

2009/5/8(金) 午後 7:50 [ nozakitakehide ]

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そして、「現代仮名遣」が、さうした實證的な國語學の成果に基いたものでない事、よつて非科學的なものである事は、明かだと思ふ。

――一方、爺は、「現代仮名遣」のやうな規範と呼ばれるものは、決して科學的な・學問的な成果であつてはならず、寧ろ非科學的で非合理的なものでなければならない、と主張してゐるが、その根據を明かにしてゐない。
或は、そんな事は主張してゐないと言ふかも知れないが、それなら爺は何を主張したいのか。

私を非難する人が、自分では何一つ積極的な主張をしないで、ただただ人の揚げ足を取つて喜んでゐるだけである事を、私は經驗的に知つてゐる。爺は、何を積極的に主張しようとしてゐるのか。

2009/5/8(金) 午後 7:54 [ nozakitakehide ]

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しかし、工藤氏は明かに國語學が實證的な學問だと認識してゐる筈だ。それを何うして爺は「工藤氏は國語學が科學でないと思つてゐる」と判斷したのか。

私にはさつぱり解らない。

あー、「実証的」と「反証可能性」とは兩立しないと、爺は言つてゐるのか。

何が何だかさつぱり解らない。

2009/5/8(金) 午後 7:58 [ nozakitakehide ]

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ところで、爺は何うもWikipediaの記述を持つて來て説明をしてゐるやうだけれども、Wikipediaくらゐ讀んでゐるよ。ただ、爺は言葉を弄ぶ事にしか興味がないみたいだ。用語が正確か何うかだけに興味があつて、論理が正しいか何うかには全く興味がないらしい。なぜなら、爺は私が言つてゐる事の論理を考へないで、用語だけを氣にして問題にしてゐるからだ。

けれども、人が言つた事の言葉尻を捉へて相手を凹まさうとするのは、揚げ足取りと言ふのではないか。なぜ爺は揚げ足取りをしてゐるのか。
あなたが私に絡むのは、何が目的ですか。

2009/5/8(金) 午後 8:01 [ nozakitakehide ]

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私は自分が大體正しい事を言つてゐると思つてゐる。科學に就いて、假説を提示する事、その假説に反證可能性がある事が大事であると、知つてゐる。その程度の常識を述べたら、爺は「本當に知つてゐるのか」と頻りに絡んで來る。

「人文科學は常識的に科學と言へない」と爺は執拗に言つて來る。だが、人文科學は常識的に科學であり――或は、それが認められない人でも、人文科學の中でも國語學はより自然科學に近い客觀性のある内容を持つてゐると認めざるを得ない筈。

そして、爺は、國語學の知識がない、と自分で認めてゐる。なのに「國語學は科學ではない」と爺は斷定するのだ。なぜ知らない事について、爺は斷定的に言ふ事が出來るのだらう。

爺は「野嵜が説明しないのが惡い」と執拗に言つてゐる。けれども、内容も知らないでひたすら自分に都合の良い結論に拘り續けてゐる爺の方が惡いに決つてゐるではないか。

2009/5/8(金) 午後 8:08 [ nozakitakehide ]

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なのに爺は反省しない。私が具體的に國語學が科學である證據を提出しても、ひたすら「國語學が科學である筈がない」と言ひ續けてゐる。

爺の頑な態度が、私にはさつぱり解らない。なぜ國語學の事を調べようとしないで、ひたすら「説明しろ」「説明しろ」と私に要求するのだらうか。問題は私の理窟では無いのに。
檢證すべきは(←斯うした用語が爺には氣に入らないのだらう)具體的な國語學の内容なのだから、爺は國語學の事を少し調べてから物を言ふべきだ。

2009/5/8(金) 午後 8:08 [ nozakitakehide ]

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爺は、自分の信ずる定義に基く科學に、國語學が適合するか何うかを檢討すれば良い。それを私に要求するのは、それこそ筋違ひだ。

爺が科學的な態度と云ふものを知つてゐるのなら、「國語學は科學的である」とする私の假説に、具體的に國語學の何う云ふところが非科學的であると反證を示して否定にかかればいい。

解釋を示して呉れても俺は納得しないよ。具體的な反論を示して呉れ。こちらは、具體的に、實證的な國語學の研究があつた、と言つてゐる。工藤氏は、
>公開討議の精神から次第に実証性を増していくが、契沖、荷田春満、賀茂真淵等に至って、記紀万葉を中心とする「古代精神」を志向する学問「国学」が成立する。
と書いてゐる。國語研究は實證的であると工藤氏は書いてゐる。この點、爺の解釋は全く認められない。

2009/5/8(金) 午後 8:14 [ nozakitakehide ]

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>しかし、野嵜さんのためには言葉が足りなかつたのは確かで、「正統性を確保するために、一旦復帰しなさい」と言ひながら、「正統性を保ちながら、そこから出て行く事はできませんよ」と言はなかったのは「詐欺」だ、と。

爺の言つてゐる事が全く解らない。「どこ」に復歸するのか。「そこ」とは「どこ」か。爺は一人で解つてゐる積りらしいが、私は爺でないから解らない。飜譯して解れ、と爺は言ひたいかも知れないが、こちらが飜譯出來るほどの十分な内容のある言葉を爺は發してゐない。

私が言つてゐる事の理解を端から拒否しておきながら、爺は獨り善がりの言葉を平氣で發してゐる。これは爺が、私(野嵜)とコミュニケートする努力を全くしてゐない事を意味する。

長く書いて呉れれば理解できる事もあらうかと思つて爺には長く書いて呉れと要求したけれども、無駄口ばかりが増えて肝腎な事は依然としてさつぱり解らないまゝだ。爺には何が重要な事で何が何うでも良い事かが解つてゐないらしい。斯う云ふ人とは話がし辛い。

2009/5/8(金) 午後 8:18 [ nozakitakehide ]

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と言ふか、爺は科學と云ふ事を言ひながら、結局はドグマ的な物の考へ方をしてゐる。さう云ふ人と議論する事は困難で、だから私と爺との間に議論が成立たない。
今の人は結構ドグマティックに物を言ひ勝ちで、喜六郎なんかは最う思ひ込みに基いて何でも極附けでやつつけてゐるが、爺も科學とは何かと云ふ事に就いて激しい思ひ込みに陷つてゐるやうに思はれる。

コントに據れば、科學とは、數學、天文學、物理學、化學、生物學、社會學の六分野であると云ふ。これは「常識的」な判斷だが、爺の發想もこの「常識的」な判斷から出ないでゐるだけのやうに思はれる。

2009/5/8(金) 午後 8:23 [ nozakitakehide ]

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けれども、科學的か何うかは實證的か何うかで判定される、と云ふ立場からすれば、一般に人文科學に分類される研究であつても、科學的の領域に含まれると判定する事はあり得る。そこにコントの實證主義の入り込む餘地は全くないし、その他の「常識的」な價値判斷の入り込む餘地も全くない。

工藤氏ははつきり國語研究が實證的だと言つてゐるし、ならば國語研究は科學的だ。

2009/5/8(金) 午後 8:26 [ nozakitakehide ]

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>[と書いてゐる。國語研究は實證的であると工藤氏は書いてゐる。この點、爺の解釋は全く認められない。]……「爺の解釈」とは何でせうか。私は反証主義に照らせば、歴史的假名遣ひ研究は科学的ではないと言った。(野嵜さんの「反証可能性」に引っ張られて、「無理矢理」やつたのだが。)國語学の研究者も自らの学問分野が科学ではない、と思ってをられるらしい。(その「科学」は反証主義を意識してゐないであらうが。)一方、私は終始「歴史的假名遣ひは実証的学問の成果に基いている」は至極妥当だと言ってゐる。また、工藤氏も、國語学は実証的であった、と仰ってゐるらしい。つまり、無知杉爺の「狭すぎる」意見も、国語学(史)を専門とされる氏の、極めて常識的で一般的な判断も、言葉遣ひにおいては殆ど同じと言ふ事である。なので、野嵜さんは、自ら定義する事もできない「科学的」を用ゐる事はやめて、「実証的」を使ふべきである。 削除

2009/5/8(金) 午後 10:48 [ ]

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實證的な事は科學的です。話はこれで終りです。

科学的方法 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%91%E5%AD%A6%E7%9A%84%E6%96%B9%E6%B3%95

かなづかひ研究・國語の研究は、發展するに伴ひ、科學的な方法により近附いてきました。

それに對して、爺は「かなづかひ研究では實驗するのか」と疑問を呈してゐるのですが、さう云ふ疑問を呈する事自體が解つてゐないのです。
殊に、實驗と云ふ事を爺は極端に狹い意味で捉へてゐて、最早ドグマ的の域に達してゐるのですが、だからこそ力強く爺は自分の主張を出來る。

しかし、反證可能性と云ふ事は、單純に、「何うとでも解釋出來る爲に反證が不可能」と云ふ事が駄目、と云ふ程度の事に過ぎません。

2009/5/9(土) 午前 1:19 [ nozakitakehide ]

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答へてゐない事があつたので一往。

>國語改革後の「正書法」は何度か改訂されて、つひには目安となつてしまひ、また、かねてから批判されてきた(きずな → きづな)なんかは「許容」されてしまひました。「変へない」とか「批判を容れない」といふ批判は当らないやうに思ひますが、如何ですか?

基本原則が變らないのだから、「現代かなづかい」と「現代仮名遣」とは本質的に何も變つてゐません。

「きづな」が「許容」されるやうになつたと言つても、「許容」とは所詮「正しくは無いが認める」と云ふ事でしかありません。
「きずな」が「本則」であり「現代仮名遣」としては基本的にこれだけが「本當は正しい」と云ふ事になる訣です。しかし、「きずな」を「本則」とし、「正しい」とする事こそが問題です。

語の形に基づいて「きづな」のやうな書き方が一般に「正しい」と云ふ事にならなければ、「現代仮名遣」の基本原則が見直された事にはなりません。

2009/5/9(土) 午前 1:29 [ nozakitakehide ]

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批判に對して、場當り的に「批判をかはす」目的で「許容」のやうなものを附け加へるのは、「批判に應へた」事ではありません。

「現代仮名遣」は「大體現代語音に基く」と云ふ「原理」に基いてゐます。この「原理」それ自體に對する批判を「現代仮名遣」の側は一切受附けませんし、本質的な批判・科學的な批判を受附けない爲に「これは正書法だ」と改革の當事者が言出して自己正當化をはかつた、と云ふ歴史的な經緯があります。しかし、そもそも「大體」と云ふのが「原理」に存在する事がそれ自體として問題です。

2009/5/9(土) 午前 1:34 [ nozakitakehide ]

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理論としてそもそも整合性のないものは認められない訣で、その時點で「現代仮名遣」なるものは科學性のかけらもない訣ですが、さう云ふものを改革の當事者が政治的なやり方で國民に押附けた事、それを「正書法」と言つて正當化した事、それに對して國民がさつぱり拒絶反應を示さなかつた事が問題である訣です。

科學的なやり方でより正しいと思はれるものを見出さうとし、その結果を尊重する、と云ふ人の態度が必要なのに、日本人にはさうした態度がさつぱりない、と云ふ事、これが問題である訣です。

2009/5/9(土) 午前 1:40 [ nozakitakehide ]

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と言ふか、假説を檢證する爲に、實驗として、ニュートリノを觀測するのも、言葉の使はれ方を觀察するのも、似たやうなものです。

さう云つた意味で、天文學や宇宙物理學と言語學との距離は、天文學や宇宙物理學と文學との距離よりも、ずつと近い。

が、文學だつて、或程度は科學的な實證的方法を利用するのであり、即ち「正確に文章を讀取る」ところから始まるのであり、さう云ふ意味では決して徹底的に非科學的と云ふ事にはならない。

爺は、人文科學は非科學的なもので、だから文章を解釋するのも恣意的でいいと思つてゐて、それで私の言ふ事を爺にとつて都合良く歪曲するのも許されると信じてゐるから、堂々と私の言ふ事を歪曲して、それを否定してゐる訣だが、それは間違だ。
或は、爺が私の言つてゐる事の本當の意味を根據に基いて正しく讀取つてゐると言ふのなら、爺は既に人文科學にも實證性・科學性を見出してゐるのであり、ならばかなづかひ研究に實證性・科學性を見出す事は十分可能な筈。

2009/5/9(土) 午前 2:09 [ nozakitakehide ]

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或は、爺は、實證性と反證可能性は相反するものであり、兩立し得ないと主張したいのだらうか。

が、科學的な研究方法と言つたら、論理的・實證的であるべきものだし、反證可能性があると客觀的に認められる筈のものだ。さうしたものは全て共存するし、並存してゐなければならない。

そしてかなづかひ研究及びそれを包含する國語の研究は、發展の過程において實證性を備へるやうになつてをり、また假説の立論に際しては常に反證可能性が認められる訣で(でなければ議論が成立たず、實證的だと工藤氏だつて言はない)、十分科學的な研究だと言へる。

2009/5/9(土) 午前 2:13 [ nozakitakehide ]

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話を最初に戻す。

爺は最初、勘違ひして私を罵り始めた。そしてその勘違ひを爺は勘違ひと解つてゐない。だから、私が言ふ事全てを爺は「をかしいもの」と看做して否定し續けてゐる。それだけの事に過ぎない。

爺は、「誰かが受容れる受容れないは反證可能性とは關係ない」、野嵜が「現代仮名遣は反證を受容れない」と言つてゐるのは出たら目だ、と非難し始めた。
爺は、「現代仮名遣」の「制定者」が「批判を受容れない」のを野嵜が怒つてゐる、と讀んだ訣だ。が、これは誤讀だ。

私は、「現代仮名遣」の定義が「反證可能性を缺いてゐる」と言つてゐる。

2009/5/9(土) 午前 2:36 [ nozakitakehide ]

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そして、さう云ふ非科學的で何うにも論理的には正當化出來ない「現代仮名遣」を何とかして正當化する爲に改革の當事者が「正書法」の概念を持出した事を、問題視して持出した。
ところが、その「改革の當事者」と云ふ具體的な「誰か」が出て來たので、爺は喜んで飛び附いた訣だ。「誰か」=「改革の當事者」がゐるからには、その「誰か」が「批判を受附けない」と「言つた」事を野嵜は「反證可能性がない」事だと「解釋した」ものと爺は極附け、猛攻撃を開始したのだ。

が、それが根本的に間違ひ。私は、人が問題だから反證可能性がない、等とは言つてゐない。「現代仮名遣」は理論からして問題だ、と言つてゐる。

2009/5/9(土) 午前 2:36 [ nozakitakehide ]

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その邊、福田恆存の『私の國語教室』を讀んでゐれば、解る筈だ。

國語改革の當事者は、「現代かなづかい」を「正しいという事にする」爲に理論を構築したが、その理論は餘りに杜撰で、多くの人から散々にやつつけられた。この時點で「現代かなづかい」の誤を認めるのならば改革は科學精神に基いて行はれたと言ふ事が出來る。けれども土岐善麿國語審議會會長は「正書法」の概念を持出せば「説明できる」として誤を認めず、寧ろ誤を「決り」「規範」と言張つて押切る態度をとつた。それを多くの國民が認めてゐるが、その「認める」ところに國民の科學を重視しない價値觀のもろさがある。
一方、福田氏は、國語改革の當事者が、表音主義と現實主義の相反する二つの理窟を巧みに使ひ分け、反論を受ける度に受流す態度を取つてゐて、自分がそれにひつかかつた事を認めてゐる。けれども、さうした「幾らでも言逃れ出來る」理論的な曖昧さが「現代かなづかい」にはある。さうした「現代かなづかい」の理論的な問題は、結局のところ、反證可能性を缺くと云ふ根本的な問題であると、私は指摘してゐる。

2009/5/9(土) 午前 2:50 [ nozakitakehide ]

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――けれども、「幾らでも言逃れ出來ると云ふ理論的曖昧さの問題」と、「曖昧な理論を利用して言逃れする論者の問題」とは、紙の裏表のやうなもので、實は一體であつて、「爺」のやうに嚴密に區別するのは、理窟を言ふ爲の理窟を言つてゐるのであり、實質的には意味がない。

2009/5/9(土) 午前 2:52 [ nozakitakehide ]

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>松永氏は、「『理想の(正しい)假名遣ひ』と云ふものを見付ける事はできないだらう、少くともとりあへずの正書法をそればかりで揃へる事はできない」と仰つているのだと思ひます。云ひ換へれば、(何か天下り的な判断を含まず)実証的研究の成果だけで正書法を作る事の限界を示唆しておられる訣です。これは十分(実証的)検討に値する真つ当な議論であつて、「非科学的だ」と切り捨てる事はできない、と思ひます。

これについて。
爺の言つてゐる事は――「大統一理論」なるものを見附けるのは困難であらう、少くとも取敢ずの宇宙論を實證的に成立させるのは困難だ、實證的研究の成果だけで宇宙論を構築する事の限界を示してゐる、これは實證的檢討に値する科學的な議論であつて、非科學的だとして切捨てる事は出來ない――と云ふ理窟と變らない。

が、それは私には受容れられない考へ方だ。

松永氏の「旧かな趣味は認める」式の言ひ方は、アインシュタインの相對性理論を否定し、ニュートンの理論に固執するのを「徹底している」と言張るのと同じで、トンデモと言つて良い。

2009/5/9(土) 午前 3:00 [ nozakitakehide ]

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そして爺は、さうしたトンデモ理論を「無視出來ない」と言つてゐる。

2009/5/9(土) 午前 3:02 [ nozakitakehide ]

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爺さんへ。
まだごく一部の書き込みを読んだだけですが、理路整然とした
文章に感心しました。野崎氏が議論が不得手であることがよく
わかります。一読者として。 削除

2009/5/9(土) 午後 3:36 [ takagi ]

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野嵜さん、せめて比喩くらゐは、誰にでも解るやうに書いて下さい。(トンデモであるかどうかさへすぐには解らなかった。)

しかし、「実証的」を「科学的」に置き換へてみると
――「大統一理論」なるものを見附けるのは困難であらう、少くとも取敢ずの宇宙論を(實證的→)科学的に成立させるのは困難だ、(實證的→)科学的研究の成果だけで宇宙論を構築する事の限界を示してゐる、これは(實證的→)科学的檢討に値する科學的な議論であつて、非科學的だとして切捨てる事は出來ない――
となります。これは、至極真つ当な議論です。実際に、さういふ意見は根強く存在してゐて、これに対し Hawking はこのやうな意見を切り捨てず、「しかし、反証主義に徹する事で「統一理論」は組み立てられる筈だ」といふ議論を展開してゐる。

元の比喩は野嵜さんに受け容れられないものだったのですが、二つの形容詞を置き換へるだけで、トンデモ議論が、本にそのまま出て来そうな筋の通つた議論になる。やはりこの「実証的=科学的」は間違ってゐやうですね。 削除

2009/5/10(日) 午前 3:15 [ ]

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takagi さん、はじめまして。よろしくお願ひします。なんか、元気が出て来ました。 削除

2009/5/10(日) 午前 3:25 [ ]

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なるほど、ホーキングに倣つて――反證主義に撤する事でかなづかひの理論は組立てられる筈だ、と云ふ議論を展開する事にしませう。と言ふより、私がさう言つたのを爺は執拗に攻撃してゐるんです。をかしな話ではないですか。

國語の研究は、實證的であると同時に反證主義に基づいてゐるのであり、ならば科學的です。
「現代かなづかい」はさうした科學の成果に基かず、或はさうした科學的な態度をとる研究者から散々非難されました。さうした非難をかはす目的で、「規範」は「正書法」であり「正しいものは正しい」と云ふ理論にならない「理論」を後から言出して「現代かなづかい」は自己正當化をはかるやうになりました。けれども、それはをかしいでせう。誰が何う見てもをかしいのですが、爺はをかしくないと言ふ。をかしいです。

2009/5/10(日) 午後 6:35 [ nozakitakehide ]

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一見理路整然とした「理論」に見えるものでも、そこにドグマ的な態度が入り込んでゐる場合、それは「トンデモ科學」になつてしまつてゐる事がある。それでは困るから反證主義が言出された訣です。爺は、さうした知識は持つてゐる。けれども、その知識を自分の主張に適用する事ができないし、自分の態度を律する事にも使へない。ただ他人を攻撃する武器として理窟を言つてゐるだけなんです。
ところが、takagiのやうな、野嵜を貶めて喜ぶ事を目的にした人が、何も考へず、ただ「野嵜をやつつけてゐる身方である」と云ふ發想から、何も考へずに、をかしな態度をとつてゐる爺を禮讚して見せてゐる。人を貶す爲に理窟を蔑ろにする――これが日本では當り前のやうに行はれるんですが、一番困るんです。

2009/5/10(日) 午後 6:36 [ nozakitakehide ]

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爺は私の言つてゐる事に何も答へてゐない。譬喩が何うの斯うのと言つてゐるが、私の核心的な爺批判に、爺は答へようとしない。

爺は勘違ひに基づいて私を非難したんだらう、と指摘したのだが、それを爺は無視してゐる。
こちらの指摘が圖星だつたのに、爺は自分の誤を認めるのが嫌だから、話を逸らしたのだらう。

爺は、野嵜が「反證可能性」を「論者が反論を受附ける事」と言つてゐると思ひ込んで、野嵜批判を開始したものの、さうではないと判明した今になつても、批判を執拗に續けてゐる。要は、「野嵜は間違つてゐるに決つてゐる」と云ふアンチのドグマ思考に陷つてゐるから――と言ふより、爺はアンチの連中の一人なんだらう。兔に角「野嵜は馬鹿」と云ふ結論に持つて行かなければ氣が濟まない異常な連中だ。takagiがその一人である事は明かだ。そのtakagiの言葉を見て喜んでゐるのだから爺もその連中の仲間なのは明かだ。

2009/5/10(日) 午後 6:44 [ nozakitakehide ]

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國語學が科學なのは當り前なのに、「野嵜がさう主張してゐる」から「誤と云ふ事にしてしまへ」と、さうアンチ連中は思つて攻撃を始めた訣だ。何時だつて野嵜攻撃はこのパターンだ。

このアンチの考へ方は完全にドグマ化されてゐて、反論を受附けない。さう云ふ「理論」だから、非科學的もいいところだが、しかし、だからこそ、連中は「野嵜は非科學的と云ふ事にしなければならない」と「信じてしまふ」。アンチ野嵜――に限らず、アンチ思考の連中は、をかしいんだよ。「野嵜を悔しがらせる」事だけを「アンチ野嵜」の人間は考へてゐる。だから自分の言動が目茶苦茶でも、アンチは氣にしない。ひたすら野嵜攻撃を續けて、自分の態度を反省しないし、そもそも自分の態度を反省する理由は無いと信じてしまつてゐる。

2009/5/10(日) 午後 6:49 [ nozakitakehide ]

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しかし、さうした主觀的な態度をとつてゐると世間にばれたら不利になると知つてゐるから、アンチの人間は如何にも自分が客觀的であるかのやうに裝ふ。takagiが「一読者として」と言ひ訣するのはその爲だし、爺が理窟を言つて見せるのもその爲だ。

takagiは論外だが、爺の理窟は、それ自體としては議論に價する。しかし、その理窟を適用する爺の態度がをかしい事が問題で、それゆゑに爺はアンチだと私は判定せざるを得ない。爺は、野嵜の發言の内容を一方的に極附けてをかしなものに見せかけようと繰返してゐるし、さう云ふ自分のをかしな態度ををかしいと思はない。ならば爺の理論を論ずる理由はない――爺の態度こそが問題にされねばならない。ところが爺にはそれが絶對に解らない。アンチにとつて、自分の態度を棚に上げるのは常套手段であり、當り前の事だと心から信じてしまつてゐるからだ。

2009/5/10(日) 午後 6:55 [ nozakitakehide ]

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アンチは、自分が正しい事を言へば、野嵜の言つてゐる事は即座に誤と極附けて良いと信じてゐる。

が、その「即座に」極附ける態度がをかしいとこちらは指摘してゐる。しかし、アンチは、自分が「即座に」極附けて何がをかしいのかと不思議に思ふ。アンチの理論では、「敵である人間は常に間違へてゐる」からだ。喜六郎と云ふアンチが、この傳で「敵である野嵜は常に間違へてゐる」と極附け、野嵜攻撃を繰返してゐる。

だが、「正しい理窟を言ふ」事は、その人が他人の正邪を「極附ける權利」を持つ事では無い。

正しい理窟は正しく對象に適用されて正しく解釋するのに使はれなければ正しい結論に結び附かない。

2009/5/10(日) 午後 7:02 [ nozakitakehide ]

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爺は、大變正しい理窟を言つてゐる。けれども、その理窟に基づいて、對象である野嵜の發言を解釋し、價値判斷するところで誤を繰返してゐる。その「解釋」「價値判斷」の主體は爺であり、だから爺の態度が問題になる訣だが、爺は自分の態度だから反省する理由がないとして野嵜の指摘を全て却下し、ひたすら「野嵜は問題」と言ひ續けてゐる。喜六郎らと同じ態度を取つてゐる訣だ。だが、爺の判斷の仕方はをかしいのであり、ならば爺が「野嵜はをかしい」と結論を言ふのはをかしいのである。

2009/5/10(日) 午後 7:02 [ nozakitakehide ]

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正しい理窟を言ふ事と、その正しい理窟を正しく運用する事とは別の話。爺は、正しい理窟を言つてゐるが、野嵜の發言を解釋し價値判斷する爲にその理窟を正しくない方法で適用してゐる。

そもそも、爺は野嵜の發言を正しくない仕方で解釋してをかしな内容に歪曲してをり、その時點で爺には野嵜批判をする權利を持たない。或は、爺のしてゐるのは「野嵜の言つてゐるのに表面的には良く似てゐるが、野嵜とは無關係で爺にとつては大變好都合であるをかしな主張」に對する攻撃である。

喜六郎にしてもその他のアンチにしてもさうだが、尤もらしく「正しい事」を言ふに過ぎない。彼等はただ、野嵜が「正しい事」を「言つてゐないかのやうに見せかける」だけである。

2009/5/10(日) 午後 7:12 [ nozakitakehide ]

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彼らは、野嵜の發言を正しく解釋しない。喜六郎が野嵜の發言を正しく解釋した事は一度もない。ただ、攻撃し易い内容に曲解した後に、その「歪曲されたをかしな主張」を攻撃して論破するだけである。ところがその自分がした歪曲によつて發生した「をかしな主張」ではなく「野嵜の主張」を「論破したのだ」と喜六郎らアンチは常に宣傳するのである。

「解釋の仕方」「判定の仕方」と云ふ論者の態度もまた問題である訣だが、アンチは何時でも自分の態度のをかしさを問題にしないし、問題にされると「人格攻撃だ」と極附ける。けれども、それが人格攻撃になる訣がない。

2009/5/10(日) 午後 7:12 [ nozakitakehide ]

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爺にしても、「正しい理窟」を言ひながら、「正しくない態度」であるがゆゑに、野嵜批判として説得力を缺くと言つて良い。

勿論、「野嵜自身」が「野嵜批判」を評價するから、アンチは「野嵜は自分自身に都合の良い事を言ふ」と極附ける訣だが、なら「アンチはアンチにとつて都合の良い事を言ふ」と言はれればアンチは反省しなければならない。ところがアンチは絶對に反省しない。

けれども、「被告」であり「辯護側」である私が自己辯護するのは當り前だし、それに對して「檢察側」である爺は、「正しい理窟」とともに、その理窟を「正しく適用する態度」を示さなければならない。爺に限らない、アンチもさうだ。だが、爺は自分が惡いとは言はず、野嵜が自分の言葉で語つてゐる事が問題だ、と執拗に言ふ。けれども、さう云ふ攻撃の仕方はないだらう。ところが爺は「ある」と本氣で言ふのだ。これは、爺が本當は、學問的な方法を知らない、と云ふ事を決定的に證明してゐる。

2009/5/10(日) 午後 7:16 [ nozakitakehide ]

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喜六郎にしてもさうだが、「相手の文章を自分に都合良く歪曲して解釋する」のを「當り前」だと思つてゐる人が多過ぎる。さう云ふ人が大抵、正しい知識だけはそれなりに持つてゐるのだ。だからこそ問題なので、彼らに「自分は正しい知識を持つてゐるのだから、他人を無條件で攻撃する權利を持つ」と勘違ひさせる原因となつてゐる。

けれども、知識を運用する正しい方法を知らなければ、知識が正しくても何の意味もない。喜六郎にしても爺にしても、自分の「他人の發言を解釋する」態度、「他人の發言を評價する」態度がをかしくないか何うか、反省する必要がある。

2009/5/10(日) 午後 7:20 [ nozakitakehide ]

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野嵜さん、少くとも「馬鹿呼ばわり」が無くなって、真摯な議論になってきた事は認めます。でも、
>[國語の研究は、實證的であると同時に反證主義に基づいてゐるのであり、ならば科學的です。]……これは酷いでせう。いつも「爺は正しく理解しやうとしない」とか言って非難しますが、その野嵜さんは、私の言ってきた事を一度でも真面目に理解しやうとした事がありますか?

國語の研究は、今後科学に近付く事はあっても、少くとも現在は反証主義で言ふ科学ではない。ましてや、假名遣ひの研究は、さらにそれから遠いでせう。実証的研究は、反証主義と相反するものではないが、実証的研究だからと言って、必ずしも反証主義でいう科学ではない。

一番ストレートだと思って、恥を忍んでやった「反証主義の無理矢理適用」が、却って誤解を生んだのでせうか?「無理矢理」と言ったのは、レベルの違う話に適用しようとしてゐるから、であり、また、その結論も、「適用不可」であった。そもそも、仮説を演繹可能な法則の形で書いてあるのでなければ、適用しても意味が無い。 削除

2009/5/11(月) 午前 6:50 [ ]

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言語学で言ふならば、文法研究が最も「体系的」な理解を目指すものであらうが、伝統的な文法研究は科学とは言へない。ある文が正しいかどうか、が言へるだけだから。最新の分野である、変形生成文法と認知言語学を比較するならば、前者が、文法的な文を生成できる、事を目指すことから、より科学に近い、と言へる。(「法則の演繹」に近く、反証可能な予測ができる。しかし、「これは文法的でない」と言ふ決め手が、結局は「人の判断」である事が問題になる)。ただ、どちらが優れてゐるか(たとえば、自然言語理解への応用に近いか)はまだ言へない、と思ふ。要は、言語学は全体としてはまだ科学ではない。

とすれば、最近までの國語研究は科学ではないし、さらに、「○○は××と綴る」といった仮説の「リスト」を作る事を目指し、「より古い文献で見付かる事」が究極の「検証」になる「假名遣ひ研究」が、科学である、とはとても言へない。 削除

2009/5/11(月) 午前 6:53 [ ]

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私は「進化論」が反証主義に照らして科学ではない、と書いたが、これは間違ってゐた。Popper さん自身が、後年これを認めたらしい。Dawkins さんがかつて「先カンブリア紀の地層に、カバの化石が見付かったら、これは十分反証になる。進化論は反証可能だ。(引用は不正確かも)」と言ってゐて、私もさう思っていた。しかし Popper さんが、進化論を科学である、としたのは、これを認めたのではなく、どうも、「工業暗化」が「予測の検証」に当ると思ったかららしい。なんだか頑固な人だ、と思ったが、今はそれが問題ではなく、重要なのは、いずれの方法にせよ、反証されたら、「種は共通の祖先から自然選択によって進化した」と言ふ仮説全体を捨てなくてはならない、と言ふ事。先の、假名遣ひ研究の場合は、より古い文書で「反証」が見つかっても、そのリスト全体を捨てる必要は無いだらう。科学かどうかの試金石としての「反証可能性」がどういふものか、これから推察がつかないでせうか。 削除

2009/5/11(月) 午前 6:57 [ ]

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反證可能な假説について、まづ確認しておきます。

假説が命題で示され、それを否定する命題が存在
し、その否定の命題に沿つた事實があるか何うか觀測や實驗ができる――反證可能性があるとは、その程度の事を意味するに過ぎません。

「明日、太陽は東から昇る」と云ふ命題に對し、「明日、太陽が東から昇らない」と云ふ否定の命題を設定し得ますし、それが起きるか何うかを觀測する事が可能です。この時、「太陽は東から昇る」と云ふ命題は、反證可能性がある假説だと言へる訣です。

2009/5/11(月) 午後 9:05 [ nozakitakehide ]

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命題の形で示せる事が必須である訣で、「全ての生物は共通の祖先Xから進化した」と云ふ全稱命題の假説に對し、「或生物はXから進化してゐない」と云ふ否定の命題が設定出來るやうに思はれる。

一方で、「全ての進化は自然撰擇である」と云ふ命題に對して、「或進化は自然選擇でない」と云ふ否定の命題が考へられる。

2009/5/11(月) 午後 9:07 [ nozakitakehide ]

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が、ポパーに據れば、「ダーウィニズムは検証可能な科学理論ではなく、形而上学研究プログラムである」。一方、「自然淘汰がある程度検証可能である」とは認める。

http://transact.seesaa.net/article/20950421.html

ここで注意したいのは、ポパーは「ダーウィニズム(Darwinism)」と云ふ解釋の「方法論」を問題にしてゐる事だ。ダーウィニズムは、「全ての生物は共通の祖先Xから進化した」と云ふ假説ではなく、「全ての生物が共通の祖先Xから進化したものと解釋する」ドグマである。
そのドグマの例證として「進化は自然選擇・自然淘汰である」と云ふ假説が提示されるが、これについては或程度、檢證が可能だとポパーは認めた。

この邊、ポパーは、頑固と言ふより、寧ろ可なり融通をきかせてゐるのであつて、ドグマ的な主張の中でも科學的な學説として扱へる命題を見出せる、とポパーは述べてゐると見ていい。

2009/5/11(月) 午後 9:16 [ nozakitakehide ]

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ポパーは、「イズムとしての進化論(Darwinism)」と「進化論の中における自然淘汰説と云ふ學説」とを區別してゐるだけです。

要は、ドグマ・イズムの類と、科學とを、ポパーは區別しようとしたと。

2009/5/11(月) 午後 9:24 [ nozakitakehide ]

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觀測や實驗と云ふ事を爺は嚴密かつ形式的に考へ過ぎてゐます。ポパーは、さうした「區別の方法」については、もつと柔軟に考へてゐたと思はれます。
ニーチェの「權力への意志」、マルクスの「階級鬪爭」は、ドグマであり、イズムである訣ですが、さうしたものをポパーは科學と認めない――反證可能性と云ふ言ひ方をして、その具體的な實現方法に實驗とか觀測とかを擧げたにしても、結局のところ、積極的な正しさ許りを言ふ態度に對して、ポパーはアンチテーゼを提出したに過ぎません。が、ニーチェやマルクスのドグマやイズムは從來の價値觀に対するアンチテーゼであつた事に注意する必要があります。即ち、キリスト教の價値觀に對して人間中心主義をニーチェやマルクスは唱へた。それにポパーは反對して、人間の外部に基準を置く價値觀を提唱して人々に反省を促した訣です。その意圖を我々は認識しなければならない。

2009/5/11(月) 午後 9:31 [ nozakitakehide ]

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さう考へると、反證可能性と云ふ事も、ポパーの意圖としては、「神によつて説明する」「神ではないが、何等かの信ずべき教義を創作して、それによつて説明する」と云ふ從來の態度を否定するのが狙ひだつた訣です。

コントの實證主義は、人間内部の理性なるものに信頼をおいた訣ですが、それは結局理性信仰に行つてしまひました。
ポパーとしては、信仰に基いた價値判斷は科學でない、と言ひたかつた訣で、さうなると結局、人間内部の理性も信用できなくなつた訣です。そこで人間の外部に存在する事實を用ゐて檢證する事を言ふ事になる。それで反證可能性の説を主張する事になる訣ですが、その主張自體は科學でなく、人間の態度に關するもので、結局は價値觀・ドグマ・イズムの領域に入ります。

2009/5/11(月) 午後 9:37 [ nozakitakehide ]

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さう云つたポパーの意圖や、反證可能性と云ふものの性質から考へれば、「觀測や實驗、或は理論に基く豫言を利用した反證が可能である自然科學」を科學と言ふのみならず、ドグマやイズムの類に據らないでより客觀的な方法で檢證を行ふ學問は一般に科學的であると言つた事が適切であると思はれます。

2009/5/11(月) 午後 9:43 [ nozakitakehide ]

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そして私は「ブログ」本文で斯う述べました。
>「現代仮名遣」は非科學的なのであるが、それに比べれば正かなづかひは遙かに科學的である。勿論、その科學とは、人文科學であるが、人文科學だから全て非論理的で良いと云ふ話にはならない、人文科學にも人文科學なりの方法論があるのであり、論理がある。正かなづかひは一つの観念であるが、人文科學の方法によつて十分檢討が可能である。「現代仮名遣」は、絶對的に、批判が不可能である。
ポパーが自然淘汰説を或程度科學的だと言つたけれども、私も正かなづかひは或程度科學的だと言つてゐるに過ぎない訣です。これは程度問題の話で・比較の話で、私だつて別にかなづかひの研究は完全に科學である等とはそもそも言つてゐない。その點で爺は勘違ひをしてゐる。

2009/5/11(月) 午後 9:46 [ nozakitakehide ]

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ドグマやイズムの類に據らないでより客觀的な方法で檢證を行ふ學問は一般に科學的であると言つた事が適切であると思はれます。

ドグマやイズムの類に據らないでより客觀的な方法で檢證を行ふ學問は一般に科學的であると言つた方が適切であると思はれます。

2009/5/11(月) 午後 9:48 [ nozakitakehide ]

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と言ふか、「自然選択が進化の原動力であると見なす立場」が狹義の「ダーウィニズム」であるが、飽くまで「狹義のダーウィニズム」でしかない。「自然選択」説で説明がつかなくなつても、「総合説」や「ネオダーウィニズム」によつて意味が擴張され、「ダーウィニズム」は主張され續けてゐる。
それは、場當り的な説明の無限の追加であるが、さうした説明の仕方で意味が擴張され續けてゐるのだから、「ダーウィニズム」はドグマであつて假説ではないと云ふ事になる。(ダーウィニズム - Wikipedia)

けれども、「厳しい自然環境が、生物に無目的に起きる変異(突然変異)を選別し、進化に方向性を与える」のだと云ふ自然選択の説それ自體は(自然選択説 - Wikipedia)、檢討が可能であり、假説として認める事が出來る。

2009/5/12(火) 午前 3:30 [ nozakitakehide ]

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と言ふか。

>「種は共通の祖先から自然選択によって進化した」

この文章は眞か僞かを判定する命題として不備があつて、「種は共通の祖先から進化した」「種は自然選択によって進化した」の二つの命題が絡み合つてゐる。
だから、論者がどちらに注目するかで話が變つてしまひ、互ひに話が全然噛合はなくなる。

この邊、爺は物の言ひ方に無頓着な面があるやうに思はれる。

2009/5/12(火) 午前 3:53 [ nozakitakehide ]

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が、さうした無頓着さは「ダーウィニズム」の論者に屡々見られる事だ。

ポパーにしてもその邊のややこしい話に頭を痛めてゐる訣だ。

・ダーウィンの「自然選択」説そのものは、部分的に檢證できさうだが、全體としては成立ちさうにない。
・「種は共通の祖先から進化した」と云ふ部分についてはよく檢證されてゐる。

2009/5/12(火) 午前 4:03 [ nozakitakehide ]

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が、「ダーウィンの「自然選択」説そのもの」について、ポパーは否定し過ぎたと反省してゐる。
それは「殆どトートロジー」だと述べ、檢證不可能であらうと言つたが、言過ぎだとポパーは後に認めたと。

これについて、爺は「どうも、「工業暗化」が「予測の検証」に当ると思ったかららしい。」と解釋してゐるが、さうではないと思ふ。寧ろ、さうした觀測を通してでは檢證が困難だらうとポパーは思つてゐる筈。言過ぎを反省してゐるのには、何うも自然選択説に説得力がありすぎる點が理由になつてゐるらしい。

2009/5/12(火) 午前 4:10 [ nozakitakehide ]

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……けれども、爺の言ひたい事は、その「反證可能性」と云ふ事ではなかつた。順に讀んできて、檢討して來たのだが、最後に爺の結論を見て、氣附いた。

>重要なのは、いずれの方法にせよ、反証されたら、「種は共通の祖先から自然選択によって進化した」と言ふ仮説全体を捨てなくてはならない、と言ふ事。

>先の、假名遣ひ研究の場合は、より古い文書で「反証」が見つかっても、そのリスト全体を捨てる必要は無いだらう。科学かどうかの試金石としての「反証可能性」がどういふものか、これから推察がつかないでせうか。

何うも、爺は「かなづかひの研究」と「進化論」とは同レヴェルの學説だと思つてゐるらしい。

2009/5/12(火) 午前 4:13 [ nozakitakehide ]

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かなづかひの研究は、假説ではない。當り前の話だ。
しかし、では、生物學は、假説だらうか。勿論假説ではない。當り前だ。

これらは、何れも、何の問題もない事だ。我々は、こんな事を問題視する必要がない。なぜなら、ジャンルだからだ。

生物學の中で、個別の研究として、ダーウィニズムがある。そのダーウィニズムは假説か否か、反證可能か否か、それは問題になり得る。
一方、「かなづかひの研究と云ふ學問」の中で、個別の研究がある。それらについて、假説か否か、反證可能か否か、それは問題になり得る。

爺は、假名遣に關する研究において假説がある、と云ふ事を私が言つてゐるとは認められず、私が「假名遣ひ全體と云ふ假説」を主張してゐると捉へた訣だ。もちろん、私は「現代仮名遣」に「反證可能性がない」と言つたけれども、「現代仮名遣なる假説」とは言つてゐない。

2009/5/12(火) 午前 4:21 [ nozakitakehide ]

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けれども、誰が何う考へても、「歴史的假名遣は○○である」と私は主張しない。それを爺は「してゐる」と極附けて、攻撃した。勘違ひだ。

勿論、「歴史的假名遣は語を書記す決りである」とは言ふし、それを主張するけれども、私が「歴史的假名遣は科學的なものだ」と言つた時、その事は私の念頭にはなかつた。

助詞なら助詞、助動詞なら助動詞の研究があるし、それらの研究は科學的だと言ふ事が出來る。さう私は言つてゐるに過ぎない。

さうした個別の研究を積重ねて、總體として假名遣と云ふものがある訣だが、個別の語があつてそれらの總體として言語があるのだから、何の不思議もない話だ。

2009/5/12(火) 午前 4:27 [ nozakitakehide ]

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問題は、その個別の研究が、歴史的假名遣を認める場合には成立つのであり、「現代仮名遣」を支持する場合には成立ち得ない、と云ふ事だ。

自分の外部に客體としての言葉の存在を認めるならば、觀察が可能であり、研究が可能である。さうした研究は、個別の語において行はれるが、それらの研究の成果の總體として歴史的假名遣が結果として成立する。
一方、「現代仮名遣」の場合、書き方は定義されてゐるのであり、客觀的な現象として觀察する事は出來ない。そこでは、定義された理論を再び述べるトートロジーが存在可能なだけである。

2009/5/12(火) 午前 4:31 [ nozakitakehide ]

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ただ、「歴史的假名遣が成立する以前」であつても、我々には規範意識があり、表記を行ふ際にも規範があると云ふ漠然とした意識に基く事になる。
だから、研究對象が純然たる客體として容易に觀察・觀測可能とはならないのであるが、その點を考慮して觀察を行ひ、研究を行ふのが人文科學の方法と云ふ事になる。人文科學と言ひ、正しさの意識が介在すると言つても、その程度の事にすぎない。或程度、主觀に基いて「情報的なノイズ」を除去する必要が出てくるが、そこに恣意性を見て「觀察として成立たない」とまで言ふのは、それこそ言過ぎだらう。困難があつても、全く不可能とまでは言ふべきでない。

宣長の係り結びの研究にしても、恣意的な解釋、或はドグマ的な説明はないのであり、客觀的な材料から推論して理論を構築し、現實の文獻に當つて檢證を行ふ、と云ふ方法が取られてゐると言つて良い。それは自然科學ほど純然たる客觀性は持たないにしても、十分科學的だと言ふ事が出來ないか。

2009/5/12(火) 午前 4:39 [ nozakitakehide ]

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その他、五十音圖における「お」と「を」の位置附け等、客觀性のある研究は幾らでも見出せる。それらの研究を積上げて、かなづかひ研究と云ふ物が總體としてあり、それらを綜合的に見て科學的だと言ふ事は十分可能だと思ふ。

2009/5/12(火) 午前 4:41 [ nozakitakehide ]

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あと、爺は、規範文法を念頭に置いて喋つてゐるらしいが、私は記述文法を念頭に置いて喋つてゐる。

>現代の言語学は規範的ではなく記述的であり、実際に使われる言語を調べて法則性を見出す科学である。これを記述文法と呼ぶ。(規範文法 - Wikipedia)

「歴史的かなづかひ」は規範だが、規範として定められる以前の段階で、科學的に研究が行はれてきた事は言ふまでもない。

2009/5/12(火) 午前 5:10 [ nozakitakehide ]

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福田恆存が『私の國語教室』で指摘してゐます。

>契沖の規範的絶對主義から出た「語義の標識としての假名遣觀」は、一見歴史的かなづかひ論の典型、ないしは據りどころと見えませうが、實はその反對で、契沖もまた表音主義者と同樣に、觀念と現實とは一致せねばならぬといふ現實密着の觀念に捉はれてゐたのであり……。
>……。
>とにかく、歴史的かなづかひの原則も内容も、決して契沖につながるものではなく、やはり橋本博士が指摘したやうに、定家において初めて豫感されたものであり、そこにおいては決して絶對主義的な規範の強制が無かつたことに注目せねばなりません。定家はただ發音と文字との差といふ事實を初めて意識的に取上げたといふだけのことです。

2009/5/12(火) 午前 5:14 [ nozakitakehide ]

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規範文法として歴史的假名遣が成立した、とする爺の立場、或はその他の反歴史的假名遣派の人々の立場がある訣ですが、それは自分逹に都合良く假名遣ひ研究を歪曲したものであります。

日本における實際の假名遣ひ研究は、或は文法の研究は、規範としての假名遣の研究でも、規範としての文法の研究でもなく、事實としての假名遣ひや文法の研究であつたと見る事が出來ます。

2009/5/12(火) 午前 5:17 [ nozakitakehide ]

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違ふ。以上の検討には訂正が要る。

「かなづかひにおける語の書き分けは」——「発音による」でも「意味による」でも、ドグマであり、学説にならない、が、「語それ自身による」だとトートロジーになる。けれども、その時は、「語」それ自身の本当の姿を明かにする事がそれ自体としてかなづかひの研究である事になる。

詰り、歴史的仮名遣の場合には、かなづかひそれ自体について学説として何かを言ふ必要はない。個別の語について、それぞれ語の形について仮説を設定すればいいし、その仮説について実証的に作業をすればそれで科学的な研究といふ事になる。

2009/5/12(火) 午前 9:22 [ nozakitakehide ]

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と言ふか、非常に尤もな一般論や常識を爺には言はれてゐるんだが、さういふ非難のされ方をされるのが一番頭に来る。さうした事を俺が「知らない」と爺には文句を言はれてゐるんだが、知つてゐるんだよ。

問題は、さうした一般論と、個別の問題である俺の主張との関連を示す事なのだが、爺は例を沢山挙げて「わかれよ」「わかるでしょ」「わからないの」と責立てるばかりで、一言でぱつと説明しない。或は、一般論を漠然と述べて説明したつもりでゐる。その一般論と、俺の主張との関連を説明してほしいんだよ。

2009/5/12(火) 午後 1:15 [ nozakitakehide ]

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爺には「わかれ」「悟れ」と散々言はれて、それで必死になつて考へると、的外れだの何だのと悪口を浴びせられる。しかも、爺には何時までもこちらの言はんとしてゐる事を理解して貰へない。何か非常にアンフェアな事をされてゐる気がするのだが、爺は自分がちやんとした態度をとつてゐるつもりなんだらうと思ふ。

2009/5/12(火) 午後 1:25 [ nozakitakehide ]

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http://englishweblog.net/mt/archives/000136.html

2009/5/12(火) 午後 7:27 [ nozakitakehide ]

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以下轉載。

規範文法と科学文法

英語学の文法研究に大きく2つがあるようです.
・規範文法 (prescriptive grammar)
⇒「正しい」文法を定めると同時に、そこから外れた「間違った」文法を禁止する。
・記述文法 (descriptive grammar)
⇒言語事実は観察されるがままに記述し、分析すべきであるとする。

英文法は,上記のおおむね上位概念である2つの概念,すなわち,art(技)としての文法とscienceとしての文法として捉えるのがいいようです.Murrayの「英文法」(18世紀)の流れを組む言語運用を目標としている規範文法はartであり,一方,科学文法はscienceであり,現象の観察,法則化を行う.

2009/5/12(火) 午後 7:28 [ nozakitakehide ]

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(文法)
1.art : 規範文法-実用文法
⇒言葉を正しく書いたり話したりするための技術
2.science : 科学文法-普遍文法-理論文法-記述文法-説明文法
⇒言語の法則を見つけるための科学

文法が,ネイティブ的な概念を示すには,分類,分析だけでは良くなく,総合的で原理的な法則が大切ということ.要するに,scineceに裏づけられたartが必要ということになり,artに加えて,統合的で原理的な説明も求められるのだろう.「ここでは、"s"が付きます。」,「この時制はこの形態になります。」だけでなくて,「現在完了時制は、過去の時点で始まった事が、現在までつながりを持っていることを示す。」などの説明が,その概念を把握させると思う.
実用英語の習得にも,科学文法に裏づけられた規範文法が必要になり,比較言語学,語源学,形態論,統語論,音声学は、裏付けのために役立てられる.scineceに裏づけられたartの感覚を,子供が言語を学ぶように経験的に知るのが本来自然なのだろう.

以上轉載。

2009/5/12(火) 午後 7:29 [ nozakitakehide ]

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English Weblog 英語ブログ: 規範文法と科学文法
http://englishweblog.net/mt/archives/000136.html
は現在アクセス不可。Googleのキャッシュから轉載。

2009/5/12(火) 午後 7:30 [ nozakitakehide ]

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>[ポパーが自然淘汰説を或程度科學的だと言つたけれども、私も正かなづかひは或程度科學的だと言つてゐるに過ぎない訣です。これは程度問題の話で・比較の話で、私だつて別にかなづかひの研究は完全に科學である等とはそもそも言つてゐない。その點で爺は勘違ひをしてゐる。]……私の大事な「進化論」と差し違える事を狙ふのは少々厚かましいと思ふが:-) まあ良いでせう。そもそも、Popper さんの心変りを知らなかった私が迂闊。(と云ふか、Dawkins さんや、Gould さんの云ふ事(つまり、「進化論は反証可能で科学である」)の方が正しいと信じてゐましたから。)ともあれ、「正かなづかひが『或程度』科学的だ(つまり、反証主義に照らして『科学的』ではない)」と認めて頂けるなら私は満足ですし、また、(野嵜さんがお望みならば)そこから議論も初まらうと云ふものです。 削除

2009/5/13(水) 午後 9:58 [ ]

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>[爺には「わかれ」「悟れ」と散々言はれて、それで必死になつて考へると、的外れだの何だのと悪口を浴びせられる。しかも、爺には何時までもこちらの言はんとしてゐる事を理解して貰へない。何か非常にアンフェアな事をされてゐる気がするのだが、爺は自分がちやんとした態度をとつてゐるつもりなんだらうと思ふ。]……うーむ、それは一方的な見方、かも知れませんよ。野嵜さんはよく「自分が被害者」のやうに言ひますが、爺は野嵜さんの仰る事を理解するのに、どんなに苦労した事か、と言ひたい。(以下説教調になるかも知れませんが、ご容赦。)

以下は、用語の定義をしっかり定めよう、文脈を考えよう、と云ふ話ですが、でも、その前に、二つ三つくらいの文を意味が通るやうにした方が良い、と思ひます。私がずっと批判してきた箇所もさうですし、これは、佐藤さんの文章だったと思ひますが、 削除

2009/5/13(水) 午後 10:01 [ ]

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>[「歴史的かなづかひ」は科學的な研究の對象たり得る。よつて「歴史的かなづかひ」は「科學」である。]……考へてみれば(考へなくても)これは目を剥くやうな暴論ですね。例へば、道端の石塊は「科学的研究の対象」になり得ますが、石塊が「科学」でせうか。

佐藤さんに限らず、野嵜さんにも、かう云ふ文章が結構有ります。

さて、本題。 削除

2009/5/13(水) 午後 10:04 [ ]

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「科学的」と一口に言っても色々な定義・解釈が有る事は爺も認めます。以下、爺の恣意的分類。

1) 会話レベルの「科学的」: 「あなたの言ってる事は『科学的』でない」と言ふ時、色々な意味が有り得る;「論理的でない」「政治的だ(権柄づくだ)」「非常識だ」「前提条件を広げすぎてゐる」等など。私も普段の会話ではどの意味でも使ふやうな気がする。

2) 野嵜さん独自の「科学的」: 批判可能かどうかが決め手。

3) 「近代」科学・人文科学: 基本的に観察結果から帰納法により、より一般的な法則を見出す事を狙う。仮説は、全称命題「全てのスワンは……」。博物学や、遺伝子の発見以前の生物学など。全称命題は反証可能である事が多い。また、帰納法は誤りを含む事が多く、それを避けるために自覚的に方法論化したのが、「実証論」。ケプラーまでの天文学。 削除

2009/5/13(水) 午後 10:07 [ ]

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4) 「現代」科学: 法則を発見する時には、帰納法を使う事もあるが、法則を演繹する事に本質が有る。法則の形は、典型的には「一群の定義と方程式」であるが、それに限らない。演繹法は、一般的に誤りを含まない(三段論法を正しく使ふ事は困難ではない。)しかし、法則から、現象の説明への筋道が長く複雑になると、種々の誤りが入り込む(堂々巡り、アドホックな言い訣、トートロジー)。ここで反証主義が有効になる。反証主義は、仮説が科学的であるかどうかに関する哲学であり、反証不可能な仮説を含む科学を疑似科学である、とする。ニュートン以降の天文学、物理学。

これはまあ仮のもの、と思って下さい。で、本文の中から、「科学(的)」を拾ひ出して、爺の「一見しての解釈」を書きますと……
>[「擬似科学批判」としての正かな派の立場]……これは「擬似科学云々」だから、4)。
>[それに對して、歴史的假名遣は、科學的である。]……う、いきなり。これは解らん。が、話の流れからは 4) だらう。 削除

2009/5/13(水) 午後 10:12 [ ]

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>[けれども、批判が可能であり、訂正が可能であるのは、歴史的假名遣が科學的だからである。]……これも解らんが、きっと 2)だらう。***(A)
>[科學的であるものは、科學的である限り、反證可能性を持つてゐる。]……「反証可能性」とくれば勿論 4) ***(B)
>[「現代仮名遣」は反證可能性を持たない。最初に述べたやうに「正書法だから正しい」と「定められてゐる」からである。]……これも、4) か?でも、2) かも知れない。***(C)
>[アインシュタインの宇宙物理學にしても、量子力學にしても、常識とは懸離れてゐるが、それだけを理由に誤と極附ける事は出來ない。]……「科学」は出てこないが、ここは当然 4) だらう。
>[そして、實際、正かなづかひは科學的なのである。]……よくわからんが、これはまあ、説明が有るのだらう。
>[「現代仮名遣」は非科學的なのであるが、それに比べれば正かなづかひは遙かに科學的である。]……あらま、相変らずよくわからんが、この場合は、3) かな? 削除

2009/5/13(水) 午後 10:14 [ ]

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>[勿論、その科學とは、人文科學であるが、人文科學だから全て非論理的で良いと云ふ話にはならない、人文科學にも人文科學なりの方法論があるのであり、論理がある。]……「論理」かあ、じゃあこれは、1)。 でも、人文科学は 3) だよなあ。
>[正かなづかひは一つの観念であるが、人文科學の方法によつて十分檢討が可能である。「現代仮名遣」は、絶對的に、批判が不可能である。]……ふーむ、これは 3)と 2) ?
>[科學的な立場を非難する人々は――國語以外の領域では案外常識的であるものである。しかし、國語となると途端に非科學的で、自己中心的な、勝手な態度を、さう云つた人々も平氣でとり始める。]……「非常識」が出た、ということで 1)?
>[好い加減で・非科學的な方法で、國語を弄る事を認め]……1) か 3)?
>[擬似科學批判を憎惡する、「トンデモの人」]…… 4) ですな。 削除

2009/5/13(水) 午後 10:19 [ ]

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>「トンデモ」の人でも自分は十分科學的で論理的だと]……1) か?
>「擬似科學」だと簡單に斷じて安心してしまつてゐるのである。……「擬似科学」で 4)
> 正かな派の主張は、假名遣ひが科學的であるべき事、そして國語を舐めるなと云ふ事の、二つである。……うーむ。1) から 4) のどれなんでせうか。

言葉の定義・解釈がこれだけ揺れてしまふと、これは理解しろ、と云ふ方が無理でせう。で、なんとか矛盾の「核」を捜して、(A) と (B) がそれではないか、と思った訣です。((C) から攻めるべきだったかも知れない。)しかし、今仰ってゐる事に沿って、(B) を引っ込めて、「4) ではない」事を認めても、依然、文章全体の論旨が定まらない事に変りはない。 削除

2009/5/13(水) 午後 10:21 [ ]

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特に、野嵜さんが最後に引いた
>[「現代仮名遣」は非科學的なのであるが、それに比べれば正かなづかひは遙かに科學的である。勿論、その科學とは、人文科學であるが、人文科學だから全て非論理的で良いと云ふ話にはならない、人文科學にも人文科學なりの方法論があるのであり、論理がある。正かなづかひは一つの観念であるが、人文科學の方法によつて十分檢討が可能である。「現代仮名遣」は、絶對的に、批判が不可能である。]
の箇所だけを取っても、といふか、ここは特に酷くて、「科学」と「人文科学」「論理」「批判可能」「観念」が入り乱れて殆んど理解不可能です。

ここはやはり、「科学的」をすっぱり諦めて、この文章全体を書き直すに如くはない、と思ひます。 削除

2009/5/13(水) 午後 10:25 [ ]

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他に較べても、このスレッド?の文章が特に混乱してゐて、説得力が無いのは、要は「科学(論)」をよくお解りでないから、でせう。前に、「Wikipedia で読んで、解った気になってゐる」と爺を褒めてゐましたが(野嵜さんなら「罵る」と云ふところか?)、まさに Wikipedia を読んだだけでは、理解できるとは限らないですね。良い通俗的入門書を通読される事をお勧めします。「良い」と云ふところは重要で、いい加減な本、Wikipedia 程度の内容の本はいくらでもありますから。でも、Hawking なら確かだし、Dawkins や Gould、Pinker もお勧め、です。何より、彼らの本は明解でよく解ります。(少なくとも、解ったやうな気になれます。) 削除

2009/5/13(水) 午後 10:27 [ ]

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その上で考えて頂きたいのは、進化論と野嵜さんの仰る「歴史的假名遣ひ」の違ひ、です。進化論のこのたった一行で書ける仮説は、百年以上の間、批判や検証に耐えてきた。曾野綾子さんの「人間の目が進化でできたとは思へない」等と云ふ素朴(アホ)なのから、「中間の種が見付からない事が多い」「遺伝子プールができる事を説明できない」等のちょっと手強いのに至るまで。しかし、本当に重要なのは、批判する方も、それに反論する方も、何が旗印かについては疑問が無かった事。Popper さんに何と云はれようと、これは科学的議論であったと私は思ふ。しかるに「歴史的假名遣ひ」に、それに対応する仮説はありますか?それを巡って全ての議論が行われると言ふ仮説はどれですか?その仮説と規範はどれくらい緊密に結びついてゐますか? 削除

2009/5/13(水) 午後 11:13 [ ]

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結局爺は、難しく考へ過ぎてゐるらしい。

日本の國語研究は――全て例外なしに反證可能性を意識した完全な科學であつた、等と云ふ事はあり得ない訣だが(江戸時代以前の人は科學なんて事自體知らない)、しかしやはり爺に何と言はれようと科學的議論であつたと私は思ふ。

かなづかひとはかなの遣ひ分けの規則であるが、その背景となる樣々な國語の研究は、結局のところ科學的な研究となつてゐたと言へる――逆に爺に聞きたいのだけれども、國語の研究において、具體的にどれがどのやうに非科學的な研究であつたのか。

2009/5/14(木) 午前 3:22 [ nozakitakehide ]

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實際、國語の研究は基本的に實證的なものであり、全て反證可能性のある假設の提示とその檢證を經てゐる。勿論、人文科學だから、自然科學とは違ふが、基本的には同じ。爺は知らないから安易に疑つて見せるのだが、勉強して下さい。

その上で、私の説明には少しもぶれがない事を御理解いただきたい。
1だ2だ3だと言つてゐるけれども、そこまで嚴密に分けて考へてゐるのは、爺が無理して分けて考へてゐるのだし、そもそも私の「科學的」が「2」であると云ふ極附けに固執してゐるのがをかしい。

反證可能性と何の關係もない「批判可能」と云ふ事を私が言つてゐる事にしないと爺の議論が成立しないと云ふ事なのだらうが、さうやつて「議論を成立させる爲に人の言つてゐる事を歪曲する」のは如何なものか。

2009/5/14(木) 午前 3:27 [ nozakitakehide ]

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そもそも爺の定義する「科學的」或は「反證可能性」は、飛んでもなく偏狹なもので、私には認め難い。

私にしてみれば、「反證可能」とは精々「ドグマ的でない説明である」と云つた程度の事だが、それはポパーの意圖を正確に汲取つたものだと思ふ。それに對し、爺は「觀測」「實驗」といつた言葉に拘つて「嚴密」な解釋を試みるのだが、實際のポパーの考へは、さう云ふものではないだらう。

また「批判」と云ふ語についても、辭書的な意味(?)に拘つて爺は私の言つてゐる事を執拗に歪曲し續けてゐるのだが、私にしてみれば普通に言葉を使つただけで、そこに一切「反證可能性がない」なんて事を爺のやうに考へたりはしてもゐない。

2009/5/14(木) 午前 3:32 [ nozakitakehide ]

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さらに言ふならば、「近代科學」「現代科學」と爺が言つてゐるのは異常で――なぜなら「反證可能性があるかどうか」は、「近代」か「現代」か、或は論者の意識が何うかとは何の關係もない事だからだ。
假説は、内容的に檢證可能で、客觀性を具へてゐるならば、(ポパー的に)科學である――そして、その科學は人文科學だらうが自然科學だらうが別に構はない。もちろん、自然科學と比べて人文科學は人間に關するものだから主觀の存在を考慮に入れる必要はあるが、大體定量化して處理できるならばそれは科學のうちに入れて良いと常識的にされてゐる(フロイトの心理學はドグマ的なものであり、ポパーの所謂科學とは區別される。けれども、一般の心理學は、人文科學であるが、科學である)。

2009/5/14(木) 午前 3:40 [ nozakitakehide ]

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ところで、「心理學」のやうに一聯の研究を纏めて一つの學問として呼稱する事實に就いて――結局樣々な個別の研究を纏めて言ふ時には、それを纏めて言ふだけの理由がある。

それは、科學以前の態度に由來し、Wikipediaでも指摘されてゐるけれども、「共通のドグマを志向しているため」だ(心理学 - Wikipedia)。

「かなづかひの研究」にしても「國語の研究」にしても、結局のところさうした主觀的・意圖的な纏め方による呼稱である訣で、その點、「非科學的」と言はれても仕方がない。

けれども、それを爺が執拗に言立てて、「野嵜の言ふ事はわけがわからない」のやうに極附けてゐるのは、ちよつとをかしい。それなら――「心理學」に限らず、ありとあらゆる學問が非科學的研究を含む訣で、科學と言へる學問はこの世に存在しなくなつてしまふ(疑ひ出したら切りがない)。

2009/5/14(木) 午前 3:46 [ nozakitakehide ]

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>[「現代仮名遣」は非科學的なのであるが、それに比べれば正かなづかひは遙かに科學的である。勿論、その科學とは、人文科學であるが、人文科學だから全て非論理的で良いと云ふ話にはならない、人文科學にも人文科學なりの方法論があるのであり、論理がある。正かなづかひは一つの観念であるが、人文科學の方法によつて十分檢討が可能である。「現代仮名遣」は、絶對的に、批判が不可能である。]

これについて、爺は「「科学」と「人文科学」「論理」「批判可能」「観念」が入り乱れて殆んど理解不可能」だと非難してゐるが、何處が入亂れてゐると云ふのか、私にはさつぱり解らない。

2009/5/14(木) 午前 3:49 [ nozakitakehide ]

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「科學」と「人文科學」は「全然違ふ」と爺は考へてゐるが、私にしてみれば「相對的な違ひがあるに過ぎない」。

「論理」「非論理」にしても、別に難しい事は何もない。「批判」にしてもさうだ。「ドグマ的で非科學的」「客觀的で科學的」と分けて考へれば、簡單に話は理解できよう。それを爺は「できない事にしなければならない」から、何時までも「できない」事にして、「嚴密」に語の「違ひ」を言立てて、をかしいをかしいと文句を言つてゐる。

さう云ふ融通のきかない考へ方をしてしまふのは、はつきり言つてしまへば爺の頭が惡いと云ふ事だが、もつと融通をきかせて考へれば良いだらう。

2009/5/14(木) 午前 3:52 [ nozakitakehide ]

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爺が變な風に文章を讀取らうとしてゐる事は、「科學的であるものは、科學的である限り、反證可能性を持つてゐる。」を、レトリックだと思はず、「嚴密な論理」だと爺が思ひ込んでゐる事を見れば明かだ。そして、「嚴密な論理」に「なる」やうにと、爺は無理やりレトリックの文章を論理の文章として讀まうとした。けれども、「反證可能性」を私が基準にしてゐるのは明かで、ならばさう云ふ意圖で私の文章を解釋すれば良いだけの話だ。個別の文章を個別に讀解かうとする爺の態度こそが問題だ。

2009/5/14(木) 午前 3:58 [ nozakitakehide ]

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爺が變な風に解釋し續けるので、私も途中で混亂して、訣のわからない事を言つたけれども、結局のところ、爺の解釋が私の意圖を無視したものである事が原因で、だから私は「そんな事言つてゐない」と執拗に言はざるを得なかつた。

人が言はうとしてゐない事を、「しかし私はかう解釋する」と爺は執拗に言ひ續け、その勝手な讀み方に固執してゐる。
だから私は爺がをかしいとはつきり言つてゐるのだが、爺にはそれがわからない。爺は、自分が習つた通りに私が(本當に、文字通り、一言一句、完全にテキスト通りに)言つてゐないと滿足しない。

「科學的であるものは、科學的である限り、反證可能性を持つてゐる。」と云ふ私の文章を、「反證可能性」と云ふ事の重要性を強調したものだ、と常識的に讀まないで、爺は何か理窟を私が言つてゐるものと思ひ込んだ。そして、その理窟はをかしい、と執拗に指摘した。
それは誤讀であり――しかし、誤讀なのに、爺は當り前のやうな顔をして、私を罵り、嘲つた。
もちろん、間違ひを指摘して呉れるのは有難い事だが、爺のやうな因縁のつけ方をされるのは、迷惑な事でしかない。

2009/5/14(木) 午前 4:01 [ nozakitakehide ]

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「現代仮名遣」がドグマ的な「規範」である事を私は言つてゐるのであり、それに比較して歴史的假名遣は科學の成果である事を言つてゐる。

さうした比較がこの文章の目的である訣だが、さうした文脈を爺は絶對的に無視する。文脈を無視して個別の文章をそれぞれ讀解かうとするのは、明かに誤讀だ。
さうした誤讀を「する」人間が「ゐる」事は、成る程、爺の存在を見れば判るが、だからと言つて、別に文章を訂正しなければならないとは、私は思はない。誤讀する方が惡いに決つてゐるからだ。

2009/5/14(木) 午前 4:04 [ nozakitakehide ]

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何うも、爺は「現代仮名遣」が規範なら、歴史的かなづかひも規範である、同じ規範である、規範なのだから仕方がない、規範に科學はあり得ない、規範規範規範――と、さう言ひたいらしいやうに見える。

が、歴史的假名遣が國語の研究の上に成立つてゐるものである事は明かだ。それを私は言ひたいのであつて、それを讀取り損ねてゐる爺は誤讀してゐると言はざるを得ない。

爺は、個別の文章に拘り過ぎる。文章を全體として讀めないし、讀まない(←斯う云ふ書き方をすると、爺は當り前のやうに「をかしい」と言出すのだが、少しもをかしくない。それを「をかしい」と言ふ爺に文章を讀む能力が無いだけである)。

2009/5/14(木) 午前 4:08 [ nozakitakehide ]

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>そして、實際、正かなづかひは科學的なのである。「現代仮名遣」は非科學的なのであるが、それに比べれば正かなづかひは遙かに科學的である。勿論、その科學とは、人文科學であるが、人文科學だから全て非論理的で良いと云ふ話にはならない、人文科學にも人文科學なりの方法論があるのであり、論理がある。正かなづかひは一つの観念であるが、人文科學の方法によつて十分檢討が可能である。「現代仮名遣」は、絶對的に、批判が不可能である。

これにしても、爺は「理解不能」と罵るが、常識的に讀めば、誰でも理解できる筈だ。

要は、正かなづかひは、國語學と云ふ人文科學の適正な方法によつて、明かにされるもので、それに對して「現代仮名遣」はドグマティックなものである、と言つてゐるに過ぎない。

それを爺はねちつこく因縁を附けて、「わからない」と極附けた。けれども、解らないのは爺が惡い讀み方をするからだ。

2009/5/14(木) 午前 4:13 [ nozakitakehide ]

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正かなづかひは記述文法に、「現代仮名遣」は規範文法に比較される――と、さう云ふ簡單な事でしかないのだが、爺にはそれが解らないし、どうも解りたくないらしい。

意地でも爺は人文科學を非科學的な・反證主義と無關係のものにしたいらしいが、それこそ偏見だと言つて良い。
もし反證可能性のないドグマが續々と言出されるやうな「學問」であつたとしたら、國文學なる學問のジャンルは認められ得たであらうか。爺は國語學史が恰もキリスト教等の神學論爭の歴史と同じであるかのやうに言つてゐるが、さうした神學論爭的な論爭は國語研究史上では寧ろ例外であつたと言つた方がいい。それは既に福田恆存の發言を引いて述べた事だ。

2009/5/14(木) 午前 4:19 [ nozakitakehide ]

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定家假名遣對契沖の假名遣の論爭で、「どちらの書き方をした方が良い書き方であるか」と云ふ議論がなされた事實があるとしても、定家派と契沖派の爭ひが假名遣研究の全てであつたと言ふ事は出來ない。

最終的に歴史的かなづかひ・復古かなづかひとして一つに括られるにしても――さうした論爭の外部にゐた人々の個別の研究に、客觀的に見て正しいかなづかひを決定する科學的な作業が見られる事を、私は指摘したい。

2009/5/14(木) 午前 4:22 [ nozakitakehide ]

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日本語に於ける五十音圖の成立にしても、規範として何う云ふ説明が良いか、の爲と言ふよりは、より客觀的に日本語の音韻を表すにはどう云ふ説明が良いか、と云ふ觀點から研究が行はれたと言ふ事が出來る。

案外五十音圖の成立は遲くて、原形は平安時代に大體出來てゐたが、「お」と「を」の位置附けが確定したのは江戸時代になる(慥か契沖も間違へてゐた)。

2009/5/14(木) 午前 4:36 [ nozakitakehide ]

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宣長から富士谷成章や鈴木朖を經て本居春庭或は東條義門邊で、語の分類とともに、活用形の分類が出來て來る。
これら國語研究の動機に、作歌の際の規範確立があつた事は否定しないが、何う云ふ書き方が、「美しいか」ではなく、「正しいか」を明かにする爲に、研究者が本來的な國語の姿を實證的に探究した事は認められて良い。規範を定めるにしても、それ以前の研究は科學的に行はれたと言ふ事が出來る。

日本の研究は、秘傳として傳へられ勝ちだつたから、餘り派手な議論もなかつた。けれども、語の分類と活用形については、研究が傳へられる過程で、既存の研究(假説として捉へられる)に對して實際の日本語の觀察から誤のある事を指摘する事(檢證)が行はれ、結果として後の研究者が新しい説を構築し直してゐる。

2009/5/14(木) 午前 4:47 [ nozakitakehide ]

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>しかるに「歴史的假名遣ひ」に、それに対応する仮説はありますか?それを巡って全ての議論が行われると言ふ仮説はどれですか?その仮説と規範はどれくらい緊密に結びついてゐますか?

かなづかひ研究は、學問のジャンルだから、假説として言ふ必要は無いと指摘した。生物學なる學問のジャンルに對應する假説はない。それと同じ。しかし、生物學は科學に屬する。同じく、かなづかひ研究も科學に屬する。

生物學の中で、個別の研究が存在する。
かなづかひ研究の中で、個別の研究が存在する。

進化論は、生物學の個別的な研究である。

進化論と云ふ學説と、假名遣研究と云ふジャンルとは、次元が異り、單純に比較して良いものではない。

2009/5/14(木) 午前 5:06 [ nozakitakehide ]

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しかし、何でこんなに爺はややこしく考へ過ぎるのだらう。もつと大雜把でいいのに。

爺は、科學大好き・反證可能性大好きのマニアだから、細かい用語に拘りに拘り拔いて「議論」してゐるんだらうけれども、そんな話を俺はしてゐないんだよ。

爺は、T.S.エリオットが
「藝術が科學の状態に近づくということは、この個性滅却の過程でいわれるのだ。そこで、私は細くひきのばした白金の一片を酸素と無水亜硫酸のはいった容器にいれるときに起きる反応を考えて貰いたい。この類推によって示唆が得られるだろう」(「伝統と個人の才能」)
と書いたのを、字義通りに解釋しようとして、「見当はずれ」である、どころか、「理解できない」とまで言つて貶し、「書き直せ」と要求し始めるのでないかと思ふ。

2009/5/14(木) 午前 5:13 [ nozakitakehide ]

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上のエリオットの文章を引張つて來るのに利用したのだけれども。

http://tourikadan.sakura.ne.jp/tetugaku/eliot7.htm

>私に云わせるならば、藝術の「個性滅却」というのは、藝術が科學の状態に近づくということでは全くありません。科學は最初から科学者の個性とは関係がないという意味で、「没個性」的です。科學では、「感受の主体」は問題にならないが、
>藝術作品では、まさしく、作者や鑑賞者の「主体性」が問題となるのです。客体の持つ「類的普遍性」ではなく、客体的な類種の違いを越えた「主体的な普遍性」こそが、藝術作品の持ちうる普遍性です。単なる好悪の表明ではなく普遍性を目指す藝術作品の批評といえども科学者がやるように第三者(傍観者)として藝術作品に関わることはありえません。

云々。

2009/5/14(木) 午前 5:20 [ nozakitakehide ]

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私にしてみれば、個人的な事を書いて、個人を超越した事を表現する、さう云ふ方法論をとるのが詩である、と云ふ事になるのだが。「表現」と云ふ事が問題になると、この文章の筆者は指摘してゐるのだらう。

けれども、自然科學の研究者が客觀的なものを客觀的に示すのと、人文科學の藝術家が主觀的なものを主觀的に表現する事について、私は違ひを言立てる必要を認めない。

結局のところ、江洲さんの指摘された通り、「眞理を追求すること」と「眞理を表現すること」とで、自然科學と人文科學とは同じであると言へます。

そして、自然科學と人文科學とを區別するのも、單なる分類であるに過ぎません。

2009/5/14(木) 午前 5:27 [ nozakitakehide ]

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ところで。いろいろ書いたので改めて指摘します。

>「科学」と云ふからには、やはりここはもう少し厳密に「仮説の提唱とその検証」かつ、「その仮説は反証可能な形でなければならない」とすべきだと思ひます。

かう述べた爺が、1、2、3、4、と科學を分類したんですね。これは大變な問題ですね。話に一貫性がないですよね。如何。

斯うした爺の一貫性のない態度によつて、私は隨分非道い目に遭つてゐるやうな氣がします。如何。

2009/5/14(木) 午前 5:32 [ nozakitakehide ]

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そして。

>4) 「現代」科学: 法則を発見する時には、帰納法を使う事もあるが、法則を演繹する事に本質が有る。法則の形は、典型的には「一群の定義と方程式」であるが、それに限らない。演繹法は、一般的に誤りを含まない(三段論法を正しく使ふ事は困難ではない。)しかし、法則から、現象の説明への筋道が長く複雑になると、種々の誤りが入り込む(堂々巡り、アドホックな言い訣、トートロジー)。ここで反証主義が有効になる。反証主義は、仮説が科学的であるかどうかに関する哲学であり、反証不可能な仮説を含む科学を疑似科学である、とする。ニュートン以降の天文学、物理学。

定義なのか議論なのか、さつぱり解らない。と言ふか、「ここで反証主義が有効になる。」は、定義ではない。
斯うした曖昧さがあるから、爺の言ふ事は屡々をかしくなつてゐる。ところが、爺は獨り合點して、自分では解つてゐる積りでゐる。

2009/5/14(木) 午前 5:47 [ nozakitakehide ]

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1.常識的な科學、2.野嵜が獨り合點してゐる科學、3.實證主義における科學、4.反證主義における科學――と、こんな風にただ分類だけすれば一發で解るが、爺はその分類の中で議論をおつ始める。さうすると、分類それ自體が怪しくなる。

2009/5/14(木) 午前 5:48 [ nozakitakehide ]

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さらに、實證主義それ自體の問題點に就いても爺は目を瞑つてゐる。

その結果として、かなづかひ研究を含む言語學の研究を、一切合財、全て「自然科學ではない」と言つて、科學から排除してゐる。

が、助詞・助動詞など、個別の語について、その文法的その他××論的(統語論とか、よく知らない)なの定義と、實際の文獻に現れる頻度や形態を、比較・檢討して、分析する事は、可能である筈だし、さう云ふ處理を行へるならば、既存の學説も「嚴密」な意味での檢證の對象となつて來るのであり、言語學は科學の領分に入れる事が可能となる。

2009/5/14(木) 午前 5:59 [ nozakitakehide ]

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が、常識的に考へて、言語の研究は檢證可能の科學だらう。文學の研究と言語の研究とは違ふんだし。

形態素だの何だのにしても、統計的な調査の對象だし、さうなると最う定量化に基いた科學の域に入る。

意味論もトンデモでない科學だらうし、音韻論だつて科學だらう。ならば書き言葉の研究も科學になる。

詩や小説を讀んで、何處に感動するか、とか言ふ研究をしても、それは科學にならない。そんな事は判り切つた話だ。が、藝術と言語學とは別物だらう。爺は意地でも言語學は藝術だと言張る積りらしいが(さうでせう? 違ふ?)、雰圍氣だけ見ても全然別物。それをあゝだ斯うだと理窟を附けて「言語學は科學ではあり得ない」と爺は言つてゐるが、それは偏狹に過ぎる。

實際のところ、私がどれだけ國語研究の紹介をしても、爺は「それらは反證テストが行はれ得るものと認められない」と言張つてゐる。が、さう云ふ「認められない」と「言張る」行爲が「反證主義者」としての爺の限界を示してゐると言ふ事もできる。

2009/5/14(木) 午前 6:05 [ nozakitakehide ]

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即ち、「反證可能性」が「あるかどうか」を「認める」「認めない」と云ふ主觀的な態度が爺には見出せる訣で、そこに爺の態度の偏狹さや陰濕さを見出す事は十分可能だ。

「だつてそれは野嵜さんが形式的に正しい言ひ方でかなづかひの假説を提示しないんだから、しようがないでせう」と爺は言ふ訣だけれども、「野嵜が今ここで言つて見せた」か何うかでこの世の眞理が決定されてしまふなんて事はあり得ない。私の證言が「ある」「ない」を、爺が大問題であるかのやうに言ふのはをかしい。

さらに、爺が「無理」をして私の言つてゐる事を「解釋」して見せてゐる事も、爺が私の言つてゐる事を歪曲してゐる證據である。

2009/5/14(木) 午前 6:10 [ nozakitakehide ]

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あと、爺は、「反證主義に基いた科學のみを認める」のか、「反證可能性のある全ての假説を科學として認める」のか――それが曖昧だつたりする。

2009/5/14(木) 午前 6:11 [ nozakitakehide ]

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なほ、言語の研究については、言語それ自體を記述するに當り、當然の事ながら、言語の論理性・一貫性と共に、非論理性・非一貫性に就いても檢討する必要があり、言語全體を通して存在する論理のやうなものを假説的にも設定する事は不可能だと言へるし、そのやうなものは設定しないのが正しい態度だと言へる。

が、言語を構成する各要素について、それぞれ嚴密に檢討を加へる事は可能であるとともに必要であり、個別の問題において實證的=科學的な檢討は十分可能であると言へる。

2009/5/14(木) 午前 7:51 [ nozakitakehide ]

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さう云つた意味では「言語は法則的な部分と法則的でない部分が存在する」といつた言ひ方で言語全體を把握する事が出來る――が、論理的にはナンセンスであり、定義として使へない。假説として言ふ事も出來ない。

が、部分的な法則性については檢討が可能であり、また非法則的な部分に就いてもそれを他の部分から區別して論ずる事が可能である。言語研究においては、さうした研究の仕方は普通である。

兔に角、科學が「法則のみによつて成立してゐるもの」のみを對象とするものでない以上、法則によつて一貫してゐる訣ではない言語もまた、實證的な科學による研究材料となる。そもそも、言語の法則と云ふものが一見して明白でないからと言つて、單純に言語は一切非法則的であると極附けるのも危險ではある。

爺は、言語は絶對に科學では扱へない、言語は科學の對象たり得ない、と考へてゐるらしいが、さう云ふ態度は科學論として餘りに偏狹であると私は考へる。

2009/5/14(木) 午前 8:03 [ nozakitakehide ]

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書き言葉の研究であるかなづかひ研究において、爺は「嚴密」な意味で「實驗」「觀察」が一切不可能だとしてゐるが、必ずしも自然科学的な「實驗」「觀察」が必要である訣ではない。
定量化・再現性等については、代替する論があるならば、科學的な方法論の對象として認めるとされてゐる。

また、言語に於ては、個別的な議論が必要となる事が多いが、言語がさう云ふ性質のものである以上、事實をありのまゝに受容れるには避けられない事で、その爲により廣範圍で適用可能な一般的假説が存在しない事は問題にならない。個別の研究の範圍で、適用可能な領域を限定した假説を設定する方法は、言語學では正當なやり方だと言ふ事が出來る。

2009/5/14(木) 午前 8:09 [ nozakitakehide ]

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自然科學でも、「現代」科學でない、「近代」以前の科學も、便宜上、自然科學の中に入れて考へるのが一般的である。さもないと、ニュートン力學を自然科學として認めない事になつてしまふ。

それは、自然科學が科學的方法を適用し易いからで、ニュートン力學について考へる時も、科學的方法を容易に適用する事が出來る。

が、科學的方法が適用できるのは、自然科學に限定されない。

(科学 - Wikipedia)

人文科學の領域に屬する事柄でも、科學的方法を適用する事が可能である場合はあり、言語學は科學的方法を利用可能である。

明かに「近代」以前である平安〜江戸期の國語研究についても、私は科學的方法の適用を可能と見るのだし、人文科學の領域に含めて考へるのだし、科學的な研究であると見ていいと判斷するのである。

2009/5/14(木) 午前 8:15 [ nozakitakehide ]

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http://d.hatena.ne.jp/ziom/20090514/p1

以下轉載。

ただ、たまにこのやうに仮名遣ひについて語源談義ができるのはまだ幸せなはうで、現代仮名遣ひの言ひ合ひなんて、「そのとうりです」といふ書き込みに「『そのとおり』だろ」と突っ込みが入っても、「私は『そ・の・と・う・り』と発音してるから、このままでいいんです。」といふ寒いやり取りになる。もちろんアカデミックゼロ。それを正す側も学校で習ったからといふ以上の説明はできない。仮名遣ひの拠り所が個人の発音だったり、学校で習ったからといふ次元ではお寒い限りだ。

2009/5/14(木) 午後 5:14 [ nozakitakehide ]

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>[逆に爺に聞きたいのだけれども、國語の研究において、具體的にどれがどのやうに非科學的な研究であつたのか。]……その「科学的」が明確でないで、答へられる筈が無い。私が國語学に無知なのは措くにしても。

>[實際、國語の研究は基本的に實證的なものであり、全て反證可能性のある假設の提示とその檢證を經てゐる。勿論、人文科學だから、自然科學とは違ふが、基本的には同じ。爺は知らないから安易に疑つて見せるのだが、勉強して下さい。]……私はそもそも「國語」の研究がこれまでが如何で、如何あるべきだ、とかを一切主張してゐない。爺にそんな事はできないし、やらうとも思はない。しかし、國語学の仮説の全てが反証主義に照らして科学的か(反証可能であるか)、と問
われると、多分そんな事は無いだろうと思ふ。現代言語学の趨勢から推してそう思ふ。(まあ、安易と言はれればさうかも知れない。)また、國語学史の著者も、それぞれの学説が「科学的」である、とは言ってないやうだ。だとすれば、野嵜さんが自らの新説を証明する必要が有る。 削除

2009/5/15(金) 午前 11:55 [ ]

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と、延々と循環論が続くのであるが、堂々巡りの原因はその「勿論、人文科學だから、自然科學とは違ふが、基本的には同じ」のあたりに有るのだらう。それ(違ひ)が、おぼろげならがらでも、どういふものか示して頂けなければ、議論は進まないし、野嵜さんのスローガン「疑似科学批判としての……」とか「假名遣ひは科学的であるべし」も無意味になる。

いや、定義してみせてゐるではないか、と仰るかも知れませんが、それは、爺の定義や一般的な定義とは違ふと言ってゐるだけで、「こうである」と云ふ定義にはなってゐない。

何か、定義をしてみせられない理由が有るのなら、せめて「歴史的假名遣ひ」が基礎を置くといふ國語学の「仮説」を幾つか挙げてみて頂けませんか? 削除

2009/5/15(金) 午前 11:57 [ ]

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野嵜さんも引いてゐるやうに、
福田氏>[とにかく、歴史的かなづかひの原則も内容も、決して契沖につながるものではなく、やはり橋本博士が指摘したやうに、定家において初めて豫感されたものであり、そこにおいては決して絶對主義的な規範の強制が無かつたことに注目せねばなりません。定家はただ發音と文字との差といふ事實を初めて意識的に取上げたといふだけのことです。]……とありますが、この橋本博士の指摘といふのが、その仮説なんでせうか?もしさうなら、それを教えて下さい。 削除

2009/5/15(金) 午後 0:00 [ ]

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だーかーらー。

國語學の研究を知らない人には説明できないよ。勉強して來てから説教でも何でもして下さい。好い加減迷惑です。

なんで人の發言の中から具體的な例つぽいものを適當に見附け出さうとするんですか。何うして私の發言の中だけに私の言ひたい事が全部入つてゐる筈だと爺は思つてゐるんですか。

私は素人だし、だから詳しく説明できませんよ。だつて、どれをセレクトして例として提示すれば爺が「納得するか」なんて、解らないから。爺を「納得させられればいい」んでせう。それは無理だよ。

だけれども、爺が理解できないからと言つて、私の言つてゐる事が間違ひだとは言ふ事が出來ない。

2009/5/15(金) 午後 7:32 [ nozakitakehide ]

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あと、ウェブで一般的でない、奇妙な引用の仕方と、その引用に對するコメントの附け方も、やめて下さい。何で變な書き方をするんですか。爺さん、あなたはウェブの素人ではないですか。

2009/5/15(金) 午後 7:34 [ nozakitakehide ]

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爺が「かなづかひは規範である。だから科學である訣がない」と言つたので、私は「定家が、規範としてでなく、事實として、かなづかひを研究テーマとして取上げた」と云ふ事を橋本博士が指摘した、と述べたました。

2009/5/15(金) 午後 7:41 [ nozakitakehide ]

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それを爺は「假説」として讀取つたのですが、爺の日本語の能力を疑ひます。なぜそんな風に、自分の期待する事だけを私に要求するのですか。

2009/5/15(金) 午後 7:41 [ nozakitakehide ]

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それを爺は「假説」として讀取つたのですが、爺の日本語の能力を疑ひます。なぜそんな風に、自分の期待する事だけを私に要求するのですか。

何うして爺は、自分で調べる事をしないで、自分の信じてゐる事を一方的に並べ立てて、私を説伏しようとしてゐるのですか。
私は爺に反論する爲に、隨分調べものでも何でもしてゐます。それに對して、爺は自分の信ずる、何ですか、「反証主義」だか何だかを捲し立て、それに適合するやう――と言ふより、その爺が滿足するやう、私が「言ふ」事を要求してゐます。
けれども、それはをかしいでせう。なぜなら、爺は、讀取る義務があるからです。爺は、私を批判しようとしてゐるのですから、私が言つた事を、適切に理解する義務があります。ところが、爺は、意地になつて、自分流の言ひ方で私に語らせようとしてゐる。私はだから苛々してゐるんです。

2009/5/15(金) 午後 7:42 [ nozakitakehide ]

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私は十分、正しい事を言つてゐます。後は調べて、適切に理解すれば、解ります。誰だつて解る。それを爺は「わからないー」「わからないー」と言つてごねてゐる。迷惑です。好い加減アク禁にしたい所ですが、Yahoo!のサーヴィスではそれがなぜか出來ないので、何時までも爺は居座つて、因縁を附け續けてゐる。やくざです。迷惑です。

2009/5/15(金) 午後 7:42 [ nozakitakehide ]

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>あと、爺は、「反證主義に基いた科學のみを認める」のか、「反證可能性のある全ての假説を科學として認める」のか――それが曖昧だつたりする。

なんで爺はこの私の質問に答へないんだらう。何か答へられない理由があるんではないですか。

2009/5/15(金) 午後 7:43 [ nozakitakehide ]

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>しかし、國語学の仮説の全てが反証主義に照らして科学的か(反証可能であるか)、と問われると、多分そんな事は無いだろうと思ふ。現代言語学の趨勢から推してそう思ふ。(まあ、安易と言はれればさうかも知れない。)

安易です。

先に調べてから物を言つて下さい。

また「反証主義に照らして」は意味がない。主義も何も關係なく、反證可能な假説であれば、その假説は科學的なものだから。

科學的でないとしたら、國語學の研究の大半はドグマ的だ、と爺は主張してゐるのですか。
ならば、そのドグマが何う云ふものか、を爺には指摘していただきたいものです。

2009/5/15(金) 午後 7:49 [ nozakitakehide ]

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ダーウィンの進化論においては「自然淘汰」、ニーチェの「心理學」においては「權力への意志」、マルクスの唯物史觀においては「階級鬪爭」がドグマとして存在します。

さうしたドグマによつてありとあらゆる事象を説明する方法を、ポパーは非科學的として排除する爲に、檢證可能な假説を必要とした訣です。

さうしたドグマを、かなづかひ研究は持つてゐません。

2009/5/15(金) 午後 7:54 [ nozakitakehide ]

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ところで。

>せめて「歴史的假名遣ひ」が基礎を置くといふ國語学の「仮説」を幾つか挙げてみて頂けませんか?

かなづかひ研究はジャンルであると申し上げました。その研究ジャンルに對して、「何を基礎に置いてゐるのか」と爺は聞いてゐる訣ですが、これはかなづかひ研究のドグマを聞いてやらうとしてゐるのに外なりません。が、そんなものはない。ないものはない。その「ないもの」を言はせようと爺はしてゐる訣ですが、私を困らせるのが目的ですね。

2009/5/15(金) 午後 7:58 [ nozakitakehide ]

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宇宙が基礎を置く學問上の「假説」なんてものはありません。宇宙の個別の原理やら何やらについて、假説に基づいた研究があり得るだけです。さうした研究を積上げて、宇宙全體の像を浮彫りにしようと云ふのが宇宙に關する學問でせうが、さう云ふ「學問全體が基礎を置く假説」なんてものはあり得ません。

けれども、宇宙を構成する物質の原理といつたものについては、物によつては科學的に檢討出來る。一方、超弦理論のやうな、檢證不可能である可能性が高く、「嚴密」には科學として認められない、さういつた研究もある。が、それでも、宇宙に關する科學的な研究と云ふものは「ある」訣です。

2009/5/15(金) 午後 8:03 [ nozakitakehide ]

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表音主義においては「文字は音に仕へる」べきである。
契沖の「語義の標識としての假名遣觀」においては「文字は語義に仕へる」べきである。

これらは、「べきである」ものであり、ドグマです。よつて科學的な假説ではない。

これに對して、福田氏は、或は大野晉は、「文字は語に仕へる」ものである、と言つてゐます。強ひて言ふならば、歴史的かなづかひの基礎にある假説として、これが擧げられるでせう。

2009/5/15(金) 午後 8:13 [ nozakitakehide ]

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が、實際には、この假説は、前にも述べた通り、單純に科學的な假説と言ふ事が出來ない。
それは寧ろ、ドグマティックな表音主義や契沖の「假名遣觀」の立場を離れた、「文字は音に仕へる」説、「文字は語義に仕へる」説に對する反證として機能する筈のものだからです。

2009/5/15(金) 午後 8:18 [ nozakitakehide ]

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日本語で「進化論」と言ひますが、「生物は進化する」と云ふのは、實はドグマであり、科學的な假説ではありません。或事象について「これは進化である」と言つた時、決定的な反證があり得ないからです。

これに對して「或生物が或生物に變化した時、DNAが變化してゐる」と言ふのなら、科學的假説です。

「進化」「退化」となると價値判斷です。何をもつて「進んだ」「退いた」と言ふか、判斷する基準を定めるのは、最早科學ではありません。

2009/5/15(金) 午後 8:22 [ nozakitakehide ]

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斯うした價値觀の問題が入り込んで來ると、科學的な假説も、途端にドグマに變貌します。ポパーがその邊を意識してゐたか何うかは知りませんが、案外反證主義者の人でもその邊の事を意識してゐないやうに思ひます。

が、逆に言へば、價値觀を排除する事で、ドグマを科學的な假説として再生させる事は、あり得ます。

「文字は音に仕へるのが良いのだから、表記はより表音的にすべきなのである」と云ふのはドグマであり、このドグマに基づいて假名遣を改變しようと言ふのが「表音主義」である訣ですが、良い惡いは別として「文字は音に仕へる」ものと豫想されると言つたならば、それは科學的假説になる。もちろん、即座に反證が出て來る訣ですが、それ自體としては科學的ではある。

2009/5/15(金) 午後 8:29 [ nozakitakehide ]

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音でないならば意味――と云ふ事で、契沖が「文字は語義に仕へる」ものであると言つた訣ですが、しかし契沖は規範意識を強調して「文字は語義に仕へるのが良いのだから、語義に基づいて假名遣を決定すべきである」と主張し、最終的に復古假名遣を定めようとした。斯うなると、爺が指摘するやうに、歴史的かなづかひは規範であつて、科學ではない、と云ふ事になり兼ねない。が、實際には、或は理念的には、「文字は語義に仕へる」と云ふ假説に基いた研究が事前にあつて、その成果を規範に轉用する結果があつた訣です。

契沖の「誤」は、科學的研究の成果を、即座に規範としてしまはうとしたところにある。が、その結果の部分を強調して、事前の研究までも非科學的と極附けてしまつては、行き過ぎです。

2009/5/15(金) 午後 8:35 [ nozakitakehide ]

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實際のところ、「正しい表記」「正しい言葉」を求める時、ありのまゝの「事實」を探究する科學的姿勢と、觀念的な「事實」を理想として認め、改めて亂れた現實を規制する規範として採用しようとする態度とが、常に混在します。

これは、事象の背後にある法則が、自然科學の領域では絶對的な支配力を持つのに對し、人文科學の領域では相對的な力しか持たない事に由來します。

人文科學における法則は、人間が「無意識的或は意識的に從ふ」事によつて實現します。それを、爺のやうに單純に「主觀的」と斷ずるか、私のやうに「或程度客觀性を持つ」と認めるか――そこに人文科學を科學のうちに入れない・入れるの決定的な態度の違ひを生ずる理由があります。

2009/5/15(金) 午後 8:41 [ nozakitakehide ]

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言語學における國語研究・かなづかひ研究の位置附けは、生物學における分類學の位置に近いと言へます(進化論を宛てるのは不適切)。

單に「分類する」だけなら「嚴密」には科學の仲間には入れて貰へないらしいですし、現代の生物學における分類學も微妙ですが――しかしその中での基礎研究が科學的なものとなつてゐるのは事實です。

>もっとも、手段ないし途中経過がいつの間にか目的になってしまう例もなくはない。トビムシの研究家である吉井良三は生態学的研究を目指し、そのために先ず分類に手をつけ、結局これが一生の仕事になった旨を述べている。ササラダニの研究家である青木淳一もやや似たことを述べた。

(分類学 - Wikipedia)

2009/5/15(金) 午後 8:49 [ nozakitakehide ]

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トビムシでもササラダニでも、Wikipediaに擧がつてゐるから例として簡單に引張つて來られますが、漠然と「分類學の研究の爲の基礎研究を擧げよ」と言はれても、簡單に例示するのは、少くとも門外漢の人間には困難でせう。況してやその内容を具體的に説明するのは。

爺が私に要求してゐるのも、さうした困難な事です。そこまで説明する必要はないと思ひます。しかし、國語の研究と云ふものは昔から隨分澤山あるのだし、橋本進吉のやうな名前は擧げられてゐるのだから、後は調べてみればいい訣です。それを爺は自分では「やらない」と言張つてゐる。ちよつとをかしいです。

2009/5/15(金) 午後 8:52 [ nozakitakehide ]

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> 言語學における國語研究・かなづかひ研究の位置附けは、生物學における分類學の位置に近いと言へます(進化論を宛てるのは不適切)。

了解。(しかし、「科学的」を議論するならば、仮説である進化論の方が適切だと思いますが、それはまあ措くとして。)

> 單に「分類する」だけなら「嚴密」には科學の仲間には入れて貰へないらしいですし、現代の生物學における分類學も微妙ですが――しかしその中での基礎研究が科學的なものとなつてゐるのは事實です。

「分類する事」は、それだけでは科学であるとも、そうでないとも云へない。それが純粋に記載的な学問である間は「生物学」よりむしろ博物学と呼ばれていただらうし、確かにそこでは、科学ではなかった。しかし現在では、例えば恐竜類の分類は、毎年定説が入れ替はると云はれる程活発な学問分野で、その仮説は科学的である。反証可能な形になってゐて実際反証されてしまふ事が多い。 削除

2009/5/17(日) 午前 4:27 [ ]

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なので、
> 漠然と「分類學の研究の爲の基礎研究を擧げよ」と言はれても、
などといふ比喩で何が仰りたいのか解らない。分類学が科学かどうかは、それ自身の対象と仮説のあり方で決まるのであって、それを支える「研究」が科学的かどうかには関係ない。

一方、歴史的假名遣ひは規範だらうから、それが「科学的」かどうかは、それが基礎を置く「国語学」、もっと厳密に云へばその仮説、が「科学的」かどうかに依る。すなわち、反証可能な形に書かれてゐて、かつ反証されてゐない事が重要。(戦後の國語研究は、橋本博士の学説の見直しから始まったやうなので、それらがまだ反証されていない最新の仮説である保証は無い。)そのやうな仮説が提示(例示でも良い)できないのであれば、歴史的假名遣ひが「科学的」かどうか議論する事もできない。むしろ「科学的でない」と見做すべきだらう。 削除

2009/5/17(日) 午前 4:29 [ ]

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爺が理解できるかどうかはこの際問題ではない。仮説を作った人は、勿論國語学の仮説として発表してゐるのであって、假名遣ひは意識してゐないかも知れない。なので、そのやうな仮説が假名遣ひに適用できるはず、とした野嵜さんが、それを提示する必要が有る。何より、それらが、「科学的」であると思ってゐるのは野嵜さんだけのやうだから、やはり野嵜さんしか選ぶ事はできないだらう。

以上は「反証主義」に沿った「科学的」を前提にした議論であるが、もっと一般的な「科学的」でも成り立つだらうし、「人文科学的」でも言える事だと思ふ。大まかにでも「定義」から始めませう。と云ふか、「科学的」の定義、と言った「抽象論」より、具体的な学説から始めた方が話が早いやうな気もします。 削除

2009/5/17(日) 午前 4:40 [ ]

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>分類学が科学かどうかは、それ自身の対象と仮説のあり方で決まるのであって、それを支える「研究」が科学的かどうかには関係ない。

ならば「分類学」それ自體の假説なるものを提示して下さい。

>すなわち、反証可能な形に書かれてゐて、かつ反証されてゐない事が重要。

反證可能であればそれは科學的であるのであつて、反證されてゐるかゐないかは關係ない。

>そのやうな仮説が提示(例示でも良い)できないのであれば、歴史的假名遣ひが「科学的」かどうか議論する事もできない。

私が例示・提示する必要は無い。暇もないのに一々説明する爲の調査なんてやつてゐられない。
爺が勝手に調べれば良い事だ。私には説明する義務がない。

>仮説を作った人は、勿論國語学の仮説として発表してゐるのであって、假名遣ひは意識してゐないかも知れない。なので、そのやうな仮説が假名遣ひに適用できるはず、とした野嵜さんが、それを提示する必要が有る。

私が提示する・しないは、「議論の爲」に「必要」だと爺は言ふ訣だが、話を進めたければ爺が勝手に調べて話を進めれば良い。

2009/5/17(日) 午後 5:05 [ nozakitakehide ]

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>何より、それらが、「科学的」であると思ってゐるのは野嵜さんだけのやうだから、やはり野嵜さんしか選ぶ事はできないだらう。

私が「思つてゐる」かゐないかは關係ない。事實として國語學は科學だし、その成果として歴史的假名遣ひが存在してゐる。

江戸自體以前に、反證主義の學問は存在しなかつたし、一々反證可能な形で假説が表現された事は無い。だが、だからといつて、それらが反證可能性を持たない假説だつたとは言へないし、議論が成立してゐた以上、客觀的で實證的な學説であつたと言ふ事が出來る。具體的にどれがどうと説明してゐる暇が無いからしないが、今忙しいから私は説明できないに過ぎない。忙しいからであつて、「提示出來ない」のではない。調べればどの學説も實證的な内容になつてゐる。それは爺が調査すれば解るから私は説明しない。私が説明する・しないと、事實が何うである、と云ふ事とは無關係だから、私が説明しない事を以て爺は「私は野嵜を論破した! ガハハ」等と威張る事は出來ない。調べれば解る。

2009/5/17(日) 午後 5:09 [ nozakitakehide ]

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それから。

>あと、爺は、「反證主義に基いた科學のみを認める」のか、「反證可能性のある全ての假説を科學として認める」のか――それが曖昧だつたりする。

なんで爺はこの私の質問に答へないんですか。

と言ふか、何時の間にか、爺の「科學の定義」は、「反證可能性がある」→「反證主義」→「反證可能性があり、かつ反證されてゐない」と段々變化してゐますが、斯う云ふ態度の變化に爺は自分自身、氣附いてゐないのでないですか。

何うも爺は、自分の解釋の仕方を、どんどん自分に都合良く、變化させてゐますね。これは明かに非科學的ですよ。なのに爺は自分が科學的の立場を取つてゐるものと信じてゐる。怪しいですね。實に怪しい。

ガハハとか笑つてゐるのも、爺がトンデモさんだからではないですか。しつこいのもトンデモさんの特徴。爺は何處から電波を受信して、私に何時までも何時までも執拗に絡んで來るんですか。しつこいですよ。なぜそんなにしつこいんですか。そんなにやりたければ喜六郎のところにでも行けば良いでせう。御仲間が幾らでも喜んであなたに賛成して呉れますよ。

2009/5/17(日) 午後 5:14 [ nozakitakehide ]

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まだ續いてゐたんだ。g氏の理解力の無さは異常ですね。

g氏、ホーキング氏が人間原理がどのやうに成立したかを考へずに贊同してゐるみたいだけど、そもそも人間原理といふのは具體的な假説とか立てたのではなく「かう考へた方が妥當だよね」と發想の轉換をしただけの代物なのですよ。完全な「反證」をする爲には觀測者の存在を許さない領域での觀測が必要で、それ故に「人間原理は科學とは言へない」といふ科學者もゐるくらゐです。

何故にポパーが科學の基準を「反證可能性」に基づくべきだと考へたのか。簡單に言へば相對性理論に關する議論が既存の論理學から外れた過程を經てゐたからです。その爲、相對性理論のやうな議論を科學の範疇に留めるには新たな基準が必要だつたのです。そこで「反證」を持ち出したのですね。 削除

2009/5/17(日) 午後 10:54 [ 江洲 ]

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ところが反證可能性だけでは科學かどうかは判別できません。似非科學に熱心な論者なら常識として知つてゐるべきです。實際、最近の似非科學は反證しようがない事項について言及するものが多く、反證可能性を固守するだけではどんな馬鹿げた似非科學でも否定も肯定もできないといふ事態になります。宇宙論のデザイン説とかが好例。

似非科學か科學か、判別する基準は反證可能性より手前の段階で濟む話です。g氏の用語だと19世紀の科學で十分なのです。ポパーを持ち出すのは現代思想といふ遊びの範疇なら有意義かもしれませんが、そんなもの實際に役立たないから無視して構はない代物です。 削除

2009/5/17(日) 午後 10:55 [ 江洲 ]

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といふかですね、科學の基礎には論理學や數學があるのですが、これらは直接的に證明できないものであるのですが、g氏はどうやつて正しいと思つてゐるのだらう。

そして科學なんて工學にとつては道具の一つに過ぎないわけで、その適用範圍を見極められない氏は正しい道具の使ひ方を知らないといへます。道具すら正しく使ひこなせない「エンジニア」といふのは、氏が無能以外の何者でもない證明になるでせう。 削除

2009/5/17(日) 午後 10:56 [ 江洲 ]

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野嵜さん>あと、爺は、「反證主義に基いた科學のみを認める」のか、「反證可能性のある全ての假説を科學として認める」のか――それが曖昧だつたりする。
なんで爺はこの私の質問に答へないんですか。

って、質問の意味が良く解りませんが、認める、といふのは、私が価値を認める、と言ふ意味ですか?それが、どうして貴方が具体的な例を挙げられない事と関係するのか解りませんが、敢へて言ふなら、

反証主義に照らせば○○は科学である、もしくは、科学ではない、とは言へる。

ただ、それだけで、○○に価値が有るとも無いとも言へない。

と、ずーっと言ってるじゃないですか。

で歴史的假名遣ひは、どんな意味で科学なんですか? 削除

2009/5/20(水) 午後 2:02 [ ]

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野嵜さん> 私が説明する・しないと、事實が何うである、と云ふ事とは無關係だから、私が説明しない事を以て爺は「私は野嵜を論破した! ガハハ」等と威張る事は出來ない。調べれば解る。
だから威張ってませんて。情け無いと思ってゐるだけで。結局野嵜さんは「歴史的假名遣ひは科学的である」といふ新説を持ち出しながら、その「科学的」が何であるかを定義できず、その「科学的」の所以である国語学の仮説も示す事ができない、って事ですね。忙しくて? ガハハハ。

なんだか、「歴史的假名遣ひの規範は有る」と言った時の議論と似て来ましたね。

それにしても、假名遣ひがどうかう言ふ前に、野嵜さんの論法が「科学的」以前ですね。御自分の仰ってゐる事を証明はおろか説明もできず、「調べれば解る」って? 削除

2009/5/20(水) 午後 2:07 [ ]

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江洲さん>まだ續いてゐたんだ。g氏の理解力の無さは異常ですね。

そうですか?私は野嵜さんがのらくら言ひ逃れをするからだと思ってますけどね。(言ふに事欠いて「暇が無い」とか。)それはともかく、江洲さんの理解力にも若干問題がありさうですね。例へば……

江洲さん> 完全な「反證」をする爲には觀測者の存在を許さない領域での觀測が必要で、それ故に「人間原理は科學とは言へない」といふ科學者もゐるくらゐです。

私も人間原理は科学ではないと思ってゐますよ。もっと言ふなら、Hawking は「何故この世界はかうなっているのか?」といふ「科学には答へられない問題」に答へてみせるのにそれを持ち出しただけで、当然彼もそれ(人間原理)が科学とは考えていないでせう。どこをどう読んだら、あなたのやうな理解になるんですか? 削除

2009/5/20(水) 午後 2:08 [ ]

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江洲さん> 實際、最近の似非科學は反證しようがない事項について言及するものが多く、反證可能性を固守するだけではどんな馬鹿げた似非科學でも否定も肯定もできないといふ事態になります。宇宙論のデザイン説とかが好例。

ですから、「反証しやうがない事項について言及する」とか「否定も肯定もできない」なら「反証可能ではない」と言ふ事。だから、きっぱり「トンデモ」――と言ふやうに、ちゃんと切れ味良く使へますね。なので、

江洲さん> ポパーを持ち出すのは現代思想といふ遊びの範疇なら有意義かもしれませんが、そんなもの實際に役立たないから無視して構はない代物です。

は頓珍漢。あなたが使へないからと言って「無視して構はない」訣がない。 削除

2009/5/20(水) 午後 3:21 [ ]

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江洲さん> といふかですね、科學の基礎には論理學や數學があるのですが、これらは直接的に證明できないものであるのですが、g氏はどうやつて正しいと思つてゐるのだらう。

江洲さん、これご自身で解って言ってますか?「論理学や数学は「直接的」に証明できないもの」?「どうやって正しいと思ふ」?あなたが論理学や数学の「いろは」さへ解ってない上に、抽象的な議論が苦手なのが良く解ります。が、敢へて質問の意図を推測して答へるなら「公理主義」ですかね。江洲さんは「公理主義」って解りますか? 削除

2009/5/20(水) 午後 3:22 [ ]

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江洲さん> そして科學なんて工學にとつては道具の一つに過ぎないわけで、その適用範圍を見極められない氏は正しい道具の使ひ方を知らないといへます。道具すら正しく使ひこなせない「エンジニア」といふのは、氏が無能以外の何者でもない證明になるでせう。

あはは、「きめ台詞」を狙ったのなら、もうちょっと良く考えて書きませう。貴方の(まちがった)議論で、爺が適用範囲を間違へてゐるとされたのは「反証主義」であって、「科学」ではなかった筈。自称「エンジニア」の爺が道具として使ふのは工学だから、「反証主義」の使ひ方を間違へたって仕事をするには差し支へない。増してや、爺は「反証主義」を正しく適用してゐる。なので、あなたのせっかくの「きめ台詞」は徹頭徹尾頓珍漢。

爺の「エンジニア」としての能力はまあ大した事ないだらうから、それを心配して下さるのは有難いのですが、江洲さんご自身は大丈夫なんでせうか。こんな調子で「設計仕様書」を書いてゐた日には、さぞかし色々言はれるでせうね、上司やお客様に。 削除

2009/5/20(水) 午後 3:29 [ ]

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爺さん>おかしな連中に囲まれて心細くなっているでしょうが、
あなたがまともであることはよくわかります。以上。 削除

2009/5/20(水) 午後 10:40 [ takagi ]

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人樣のブログに乘り込んできて「おかしな連中」とは。
どうぞどうぞ、お引き取りください。 削除

2009/5/21(木) 午前 0:48 [ 佐藤 俊 ]

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前に聞いたが、返答がないので爺氏にもう1度聞く。
なぜ科學的「でない」正かなを使ふのか。 削除

2009/5/21(木) 午前 0:56 [ 佐藤 俊 ]

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独立行政法人 国立国語研究所:日本語科学
http://www.kokken.go.jp/kanko/kagaku/

國語学は國も認める「科學」といふわけだ。わらひ。 削除

2009/5/21(木) 午後 10:15 [ 佐藤 俊 ]

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「囲まれている」わけぢやなく、好きこのんで飛び込んできてゐるのだから心配する必要はあるまい。
つふかこんな「おかしな連中」に延々かかづらってゐるのははたして「まとも」なのだらうか。 削除

2009/5/22(金) 午後 10:30 [ 佐藤 俊 ]

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まだ忙しいんで反論も何もまだ。爺氏は私が「反論出來ない」ものと解釋してゐるけれども「反論してゐない」だけに過ぎない。「言ふに事缺いて」とか惡意で解釋してゐるけれども――まあ、爺氏の解釋は何時も此れです。惡意で意地惡く解釋しながら、私は客觀的です、と言張るあれ。

>だから威張ってませんて。
嘘ですね。
>あはは
ほら。

>で歴史的假名遣ひは、どんな意味で科学なんですか?

>科學的であるものは、科學的である限り、反證可能性を持つてゐる。

と言ふか、「反証主義に照らせば○○は科学である、もしくは、科学ではない、とは言へる。」と爺氏は言ひますが、理解出來ません。主義に照らすつて何ですか。

あー、「反證可能性がある事を原理とする主義を認めるならば」とか云ふ意味ですか。要するに、態度の問題ですか。客觀的な意味で科學なるものは存在しないと。

こんな風に反論してゐる暇なんて今はないんだけどなー。

2009/5/23(土) 午前 4:01 [ nozakitakehide ]

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ちなみに反證主義の立場の人でも、それ以前の科學も科學と認めてゐますよ>爺氏。

そして私は大體反證主義を認める立場です。だから
>科學的であるものは、科學的である限り、反證可能性を持つてゐる。
と言つてゐる訣ではないですか。

と言ふか、爺氏は、反證主義とか反證可能性とかの用語を弄んでゐるだけでせう。爺氏は、用語を正確に使用して、表現する事を要求してゐるんです。
けれども、問題は用語ではないでせう。用語の意味を捉へて、内容的に正しい事を言ふのだけが必要なのです。それが爺氏には全く理解出來ない――爺氏自身が「用語を理解する」と云ふ事を出來てゐないからです。だから爺氏の説明もぐちやぐちやで理解不能であつたりする訣です。理解出來るやうに説明してから、威張つて下さい。

私の方では、はつきり「ドグマで説明する」のは非科學的、「事實に基いて白黒附ける」のが科學的、と言つてゐます。ポパーが反證の事を言つたのも、さう云ふ意味に他なりません。形式的に何う斯うする、と云ふのは、技術論です。ところが爺氏は、意味を理解しないで、只管技術を行使せよ、と主張する。無意味です。

2009/5/23(土) 午前 4:08 [ nozakitakehide ]

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takagiなる人は、何一つ議論に關係のある事を言つてゐませんから、歴然たる荒しです。さう云ふ荒し氣質の人だからこそ、私の事が氣に入らないんでせう。或は、takagiのやうな荒しが「おかし」いのは火を見るよりも明かな事で、さう云ふ「おかし」な人から罵られるのは、寧ろこちらが「まとも」である證據です。

もしtakagiなる人がまともな人であるのならば――いやいや、まともな人ならば、爺なる一論者の「心細さ」を心配して見せる訣がない。客觀的に議論に參加して、ポパーの説なり反證主義なり、科學の定義についてなり、國語研究についてなり、具體的で或は理論的な、建設的な、批判的な、内容のある發言をしてゐた事でせう。

2009/5/23(土) 午前 4:17 [ nozakitakehide ]

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喜六郎にしてもさうですが、論者の性質・人格をもつぱら問題にして、議論の内容には一切觸れない、或は惡意で以て一方的な解釋をして惡口を言ふ、さう云ふ態度を平氣でとる人が、「自分はまともである」と本氣で信じてゐるのです。一體何なのでせうか。喜六郎もtakagiも、絶對に答へませんが、それこそ何故ですかね。爺氏は何う思はれますか。自分の事を「心配」して呉れたからtakagiなる人物は「まとも」だと言ひますか。

2009/5/23(土) 午前 4:17 [ nozakitakehide ]

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何うでも良いですけど、爺氏ほど暇ではないので、前にした話は半分以上忘れてゐますよ。爺氏は私が全部議論の内容を覺えてゐて、ちらと言及されれば即座にぱつと思ひ出せるものと思つて好い加減な言ひ方をしてゐるやうですが、

>なんだか、「歴史的假名遣ひの規範は有る」と言った時の議論と似て来ましたね。

なんて言はれてもさつぱり。

2009/5/23(土) 午前 4:21 [ nozakitakehide ]

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>だから威張ってませんて。情け無いと思ってゐるだけで。結局野嵜さんは「歴史的假名遣ひは科学的である」といふ新説を持ち出しながら、その「科学的」が何であるかを定義できず、その「科学的」の所以である国語学の仮説も示す事ができない、って事ですね。忙しくて? ガハハハ。

それにしても、なんで「ガハハハ。」が「情け無いと思ってゐるだけで」「威張って」ない事になるんですか。誰が何う見ても威張つて笑つてゐるんでせう。あなたの解釋は異常ですが、さう云ふ異常な解釋をするあなたがするポパーの解釋も異常だと思はれても仕方がないのではないですか。

まあ、異常な人間である爺氏は、自分が異常だと自覺しないし、異常だと事實を言はれても解らないんでせうが。

2009/5/23(土) 午前 4:26 [ nozakitakehide ]

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しかし、なんで「ガハハ」と「ウェブ上で笑つて見せる」へんなパフォーマンスを、當り前のやうに出來るんですか。

「情けないから」とか言ふのは理由になりません。「情けないからウェブ上でパフォーマンスをする」と云ふ理窟はあり得ません。なぜさう云ふパフォーマンスをするのですか。

takagi氏も、なぜ「ガハハ」と書込んでゐる爺氏の事を「まとも」だと言へるのですか。説明して下さい。

勿論、爺氏もtakagi氏も、説明しない。説明できる訣がない。爺は「ガハハ」と言つて見せるのを當り前だと信じてゐるし、takagi氏も「野嵜の敵はまともである」と言ふのを當り前だと信じてゐる。どちらの人も、ドグマティックな思考に陷つてゐるんだよ。

兔に角、ウェブでをかしな人は、笑ふ。「ガハハ」でもwwwwでも、なぜか笑ふ。異樣としか言ひやうがないのだが、自分逹はまともだと信じてゐるからこの種の手合は話が出來ない。

2009/5/23(土) 午前 4:28 [ nozakitakehide ]

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佐藤さん、お久しぶり。
佐藤さん> 前に聞いたが、返答がないので爺氏にもう1度聞く。
なぜ科學的「でない」正かなを使ふのか。

これは「爺は「正假名が科学的でない」と思ってゐるなら、何故それを使ふのか」と
いふ質問と理解しましたが、これで正しいですか?

あまり的を射た質問だとは思へませんが、根強い誤解を解くには良い機会だとも思ひますので、……

そもそも私が歴史的假名遣ひを使ってみようと思ったのは、(岩波の旧?全集で)芥川龍之介の「或る日の大内蔵助」他の短編小説を読んだ時の感激が忘れられず、いつかは自分も……と。当然ながら、「科学的」かどうかなんて思ひもしなかった。(なので、今皆さんが「正假名は科学的である」を証明しそこねても、ユーザが一人減る訣ではないので、ご安心を。) 削除

2009/5/24(日) 午前 4:44 [ ]

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で、私がをかしいのではないか、と思ってゐるのは、野嵜さんや佐藤さんは、どんな分野でも「科学的」である事が自動的に価値ある事だ思ひ込み、その結果それに固執してゐるように見える事(この質問が好例ですね)。しかも「科学的」である所以を示せないでゐる。なので、どうしても、それが説得的な議論であるとは思へない。言ひ換へれば、却って御自身の立場を弱めてゐるのでは?(もっと言ふなら、他の正假名派の人達に苦々しく思はれてゐるのでは?)と。 削除

2009/5/24(日) 午前 4:48 [ ]

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佐藤さん> 独立行政法人 国立国語研究所:日本語科学
http://www.kokken.go.jp/kanko/kagaku/

國語学は國も認める「科學」といふわけだ。わらひ。

なる程、雑誌の名前に「科学」とついてゐるから、國語の仮説は全部科学だと。それだと "Scientific American" といふ雑誌が有るから、米国人は皆「科学的」なんだ。"Christian Science Monitor" ってのもありましたね。(Christian は皆科学的か?)

と言ふ冗談は措いても、今私がお尋ねしてゐるのは、「歴史的假名遣ひ」が「科学的」である所以、すなわちそれが基く「科学的」な國語学の仮説なのですが。

他に何も根拠を示せない中で、お國が「科学」と認めてくれたら「わらっ」てしまふくらい嬉しいですか?でも、それなら何故、佐藤さんはお國がお墨付きをくれてゐる「現代假名遣」を使はないのでせうか。 削除

2009/5/24(日) 午前 4:50 [ ]

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佐藤さん> 「囲まれている」わけぢやなく、好きこのんで飛び込んできてゐるのだから心配する必要はあるまい。
つふかこんな「おかしな連中」に延々かかづらってゐるのははたして「まとも」なのだらうか。
あはは、そうそう。心配などころか、包囲されてゐる、なんてちっとも思へないから、大丈夫ですよ、Takagi さん。ただ、議論が進まないといふか、ちっとも皆さんの理解が進まないのには、ちょっとめげてゐますが。

さうですね、少々まともではないかも。でも、どうして皆さんも延々と付き合ってくれてゐるんですか? 削除

2009/5/24(日) 午前 4:52 [ ]

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野嵜さん> それにしても、なんで「ガハハハ。」が「情け無いと思ってゐるだけで」「威張って」ない事になるんですか。誰が何う見ても威張つて笑つてゐるんでせう。あなたの解釋は異常ですが、さう云ふ異常な解釋をするあなたがするポパーの解釋も異常だと思はれても仕方がないのではないですか。

あはは、野嵜さんは、文章をきちんと理解するといふ事が、とことん苦手なんですね。で、自分の「気持」が何より大事、と。

「私(野嵜さん)が説明しない事」を爺は「情ない」と言ったのでした。で、爺が笑ったのは「忙しくて」といふ月並な言ひ訣の方で、それも野嵜さんの「私は野嵜を論破した! ガハハ」を引用して。(あ、すみません「ハ」が一つ多かったですね。)で、笑ってゐるだけで「威張って」はゐませんよ。(さう読めませんか?)

まあ、そんな事より、私は「反証主義」や「反証可能性」を云々してゐるのであって、ポパーさんがどう言った、なんてあまり興味は有りません。(どちらかと言ふと、あまり彼の言ふ事は信用してゐない。例へば彼の「微小作用点仮説」は戯言だと思ってゐる。) 削除

2009/5/24(日) 午前 4:54 [ ]

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なに我が物顔をしてゐる。ここはいつから爺のブログになつたんだ。
つふかtakagiのやうな「愉快犯」に乘つかつてゐる時點で爺も愉快犯決定。

爺にとつて「科學」は、ただノザキを揶揄するネタでしかないといふわけだ。自分にとつて価値があるわけでもないものをこれだけ延々論ふのは爺が愉快犯であるからに他ならない。
江洲さんのいふとほり、爺にしてみれば「SKK」も「憲法」も「正かな」も、他人を嘲笑する道具でしかない。

「アク禁」にできないなら、今後爺のコメントは削除してしまふしかないのではないでせうか。
まさか削除もできない? 削除

2009/5/24(日) 午前 9:34 [ 佐藤 俊 ]

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佐藤さん>なに我が物顔をしてゐる。ここはいつから爺のブログになつたんだ。
つふかtakagiのやうな「愉快犯」に乘つかつてゐる時點で爺も愉快犯決定。

なんだか、佐藤さん> 、野嵜さん> 、と引用を分けるのが無意味に思へる程、佐藤さんって野嵜さんに反応が似てきましたね。それはさうと、二度しか発言してゐない Takagi さんを「愉快犯」と決めつけるのはどうしてなんですか?

あと、私のどういふところが、Takagi さんに「乗っかってゐる」んですか?なんだか、全く意味不明の文章ですね。(「(この)文章の読み方」を教えて下さい。)

でも、コメントの分量が 1/4 にも満たたない爺に「なに我が物顔してゐる」と言ったのでは、なんだか佐藤さんが「圧倒されている」「破綻してゐる」と思ってゐるのが良くわかりますよ。そんな事は言はない方が得策なのではないでせうか。 削除

2009/5/24(日) 午後 3:03 [ ]

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佐藤さん> 爺にとつて「科學」は、ただノザキを揶揄するネタでしかないといふわけだ。自分にとつて価値があるわけでもないものをこれだけ延々論ふのは爺が愉快犯であるからに他ならない。
江洲さんのいふとほり、爺にしてみれば「SKK」も「憲法」も「正かな」も、他人を嘲笑する道具でしかない。

あらま、「ノザキ」ですか。佐藤さんは野嵜さんの先輩ですか?それとも野嵜さんご本人?

まあ、それはどうでも良いですが「爺にとっては科学はノザキ揶揄の道具にすぎない」の方は聞き捨てならないですね。私にとっては、科学も SKK も憲法も正假名もとても価値のあるもので、それらを礼賛・信奉してゐると言っても良いくらゐ。だから、「素人に毛が生えたやうな輩」が論ったり貶めたりするのには我慢できない。少々下卑た言い方ですが、そういう輩には「科学を、憲法を、SKK を、正假名を舐めるな」と言いたいくらゐのものです。(「國語を舐めるな」と言ふ程には、國語学を知らないのが残念ですが。) 削除

2009/5/24(日) 午後 3:04 [ ]

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だから、ノザキ=佐藤さんが、揶揄されてゐる、とお考へなら、それは心得違ひと言ふもの。爺は真剣に批判してゐるつもりで、生半可なところで引き下がる気はない。

佐藤さん>「アク禁」にできないなら、今後爺のコメントは削除してしまふしかないのではないでせうか。まさか削除もできない?

よく解らない文章ですが、後の方の「削除」は、元記事から一切合切削除してしまふ、といふ意味でせうか。だとすると、それは良い考へかも知れない、と爺も思ひます。むしろその方が、世のため人のため、といふものでせう。いや、もっと言ふなら、このブログ全体を無くしてしまった方が良いかも。 削除

2009/5/24(日) 午後 3:06 [ ]

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あはは、ガハハ、と笑ふのは眞劍である證據だとか。

國語學が科學でないと爺は主張する訣ですが、では何ですか。

國文法の規則に據れば、用言は活用する訣ですが、さう云ふ法則性がある事を言ふのは何なのですか。規範ですか。規範が先に存在するから、言語があるのですか。爺はさう言ひたいのですか。

「つめ」+「つく」なら、その合成された語の語形は「つま『づ』く」である――これは事實の指摘です。

ところが。現代に於ては「つめ」+「つく」と云ふ『語意識』が既に消滅しているから「つまずく」と書く――と言ふのは、極附けです。「語意識」は反證できないからです。「現代仮名遣い」の説明の仕方はこれです。

ところで、今の日本語の「文法」が、屡々この規範であるところの「現代仮名遣い」に「もとづいている」のですが、爺は何う思ひますか――變な話ではないですか。

「現代仮名遣い」のみならず國文法或は國語研究は「科學でない」――だから「現代仮名遣い」に基いた「日本語の文法」の「研究」は「あり得る」と爺は主張したいらしいですが。

2009/5/28(木) 午前 7:13 [ nozakitakehide ]

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それから、佐藤さんと野嵜とは、別人です。言つてゐる事が同じだから「同一人物である」とは、無茶な論理です。

爺は、この種の攻撃が得意ですが――なるほど、ポパーが嫌ひなのも頷けます。

ところで、國語學の知識がないのに爺は何うして「國語は科學でないのである」と斷定出來るのですか。私が仕事の締切間際で忙しくてここをほつたらかしてゐた間に、あなたは勉強しましたか。ガハハと笑つてゐる暇があつたら、具體的な議論を始めてゐたら良かつたのでないですか。

それとも、爺が具體的に國語研究の調査を始められない理由が、何か「ある」のですか。實際に國語研究を調べると、爺に不利になるから、とか。

2009/5/28(木) 午前 7:17 [ nozakitakehide ]

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野嵜さん、

付き合って下さるのは有難いですが、いつまでたっても堂々巡り
ですね。

まず、野嵜さんと佐藤さんは別人である由。私は「言ってゐる事
が同じである」とも「同一人物である」とも言ってないと思ひま
すが、そう「推定」した事がお気に触ったなら訂正します。(し
かしこれを「攻撃」と取りますか。)

お二人は仰る事が良く似てゐるが、同一人物であるとは断定でき
ない。

また、色々と私の意図を忖度したり、言ってる事を要約したりし
てくれてゐますが、悉く外れてゐのは、わざとですか?それとも
本当にそう理解してゐる?あと、私が国語学をどう思ってゐるか、
なぜ勉強を始めないのか、をえらく気にされてゐるやうですが、
それは今論点ではないでせう。現下の問題は野嵜さんの「歴史的
假名遣ひは科学的である」です。 削除

2009/5/28(木) 午後 1:12 [ ]

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繰り返しになりますが……

野嵜さんは「歴史的假名遣ひは科学的である」と主張され
てゐて、その理由が、「規範としての歴史的假名遣ひが、国語学
の科学的な成果に基いてゐるから」である、と。(「反論可能だ
から」ではないですよね、まさか。)で、私は「野嵜さんが示し
た例は、反証主義に照らすなら科学的とは言えない」と思ふし、
國語学史の専門家も現在までの国語学が(どういう意味でも)科
学的であるとは言ってないやうだ。言はば野嵜さんは、新説を唱
えてゐる訣だから、それを説明する必要が有ると思ふ。(残念な
がら、野嵜さんの直前のコメントは「科学的」である事の説明に
はなってない。――そもそも「反証できないからです」の使ひ方
もをかしいですし。) 削除

2009/5/28(木) 午後 1:17 [ ]

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説明と言っても、そんなに大した事を期待してゐる訣ではなくて、
規範の基になっている仮説を幾つか挙げて頂き、それが、どうい
う意味で科学的であると仰ってゐるのか、を示して頂ければ十分
なのですが。(「反証主義」云々は、野嵜さんが「反証可能性」
を持ち出したから論じただけで、それに沿ふものでなければ「科
学的」ではない、とは言ってない。)

野嵜さんの口振りだと、そんな事(國語は科学的)は自明だと思っ
ていらっしゃるやうでしたので、例をふたつみっつ挙げるなど朝
飯前だと想像してゐましたが、そうではないのですか?ひょっと
して、これから探すのでせうか。 削除

2009/5/28(木) 午後 1:18 [ ]

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ちなみに、この間、ちょっと勉強しました。相変わらず橋本博士
の著書は手に入らないのですが、手許にあった「私の國語教室」
と「岩波古語辞典(の解説)」を読み直してみました。しかし、
読んでみて「『規範としての歴史的假名遣ひ』の多くの部分が、
科学的はおろか、実証的な仮説・学説に基いてゐる」なんて事は
有りさうも無いと思へてきました。(例へば、福田さんは「私は
歴史的かなづかひを、その原則を、さういふ融通無碍のものと解
釈してをります。」(p.77)と言はざるを得なかった。)なので、
野嵜さんが、これからそのやうな(科学的な)仮説を探すのであ
れば、期待する方が無理かな、と思へてしまひます。 削除

2009/5/28(木) 午後 1:19 [ ]

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しかし、初学者の爺としては、「規範」がどんなものなのか、の
方が気になります。野嵜さんの「理念としての規範」は、どんな
ものになる予定でせうか。
・「字音語假名遣ひは重要視しない」さうですが、規範の中には
含まれない?
・現状で「疑ひが残る」ものについては、敢えて一つを選んで示
す?それとも異説も示す?
・送り假名は規定しない?
・並字・小字の扱ひはどうなりますか?促音の「っ」だけは許す?
・小字を許す擬音語等は表で示す事になりますか?
・数字はどう書くべきでせうか。漢数字を前提にして F-15 は F
十五と書くべき?位取りは?二千九年とすべきか、二○○九年
とすべきか。(元号を用ゐないとして、ですが。) 削除

2009/5/28(木) 午後 1:23 [ ]

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>また、色々と私の意図を忖度したり、言ってる事を要約したりしてくれてゐますが、悉く外れてゐのは、わざとですか?それとも本当にそう理解してゐる?
もし「外れてゐ」るとしたら、それはあなたの表現が惡いからだと思ひます。

>あと、私が国語学をどう思ってゐるか、なぜ勉強を始めないのか、をえらく気にされてゐるやうですが、それは今論点ではないでせう。
「なぜしないの?」は「してください」の婉曲的な表現だと普通の人なら理解出來るでせう。


>野嵜さんは「歴史的假名遣ひは科学的である」と主張されてゐて、その理由が、「規範としての歴史的假名遣ひが、国語学の科学的な成果に基いてゐるから」である、と。(「反論可能だから」ではないですよね、まさか。)
爺は「國語學の科學的な成果に基いてゐるから、規範としての歴史的假名遣は科學的である」と要約してゐますが、なぜ私の意圖と違つた形に要約してゐるのでせうか。「わざとですか?それとも本当にそう理解してゐる?」

2009/5/28(木) 午後 7:36 [ nozakitakehide ]

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>(「反論可能だから」ではないですよね、まさか。)〜――そもそも「反証できないからです」の使ひ方もをかしいですし。)
レポートの書き方の基礎の基礎ですが、誰かの文章を讀んで纏める時に、ランダムに「言はれてゐる事」「書かれてゐる事」を拾ひ上げ、間の論理を拔かして適當に繋ぎ合はせては行けない、と云ふのがあります。要約するなら、その人の主張を理解して、論理を再構成して、辻褄の合つた・一貫した主張に直して述べなければなりません。その基礎的な事が、爺は出來ないやうです。

「現代かなづかい」については、樣々な批判が浴びせられ、それらを封じ込める爲に國字改革の當事者は「正書法」と言ひました。福田氏がそれについて「をかしい」と指摘したのですが、爺は「改革派はをかしくない。福田氏こそをかしい」と言つてゐます。私には爺の方がをかしいと思はれます。

2009/5/28(木) 午後 7:53 [ nozakitakehide ]

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>説明と言っても、そんなに大した事を期待してゐる訣ではなくて、規範の基になっている仮説を幾つか挙げて頂き、それが、どういう意味で科学的であると仰ってゐるのか、を示して頂ければ十分なのですが。

簡單に「假説を擧げよ」と言つて呉れるが、そんなに簡單なものではないからこちらも正確な事を言ふ爲に準備が必要だと言つてゐる訣です。そして準備してゐる暇がないくらゐ忙しいから「忙しい」と事實を述べたら、爺は邪推して「言ふに事缺いて」と侮辱する事を言つたのだけれども、さう云ふ無意味な罵倒をする事で、議論が進展すると爺が思つてゐるのなら、爺は荒し以外の何ものでもありません。

2009/5/28(木) 午後 7:53 [ nozakitakehide ]

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>ちなみに、この間、ちょっと勉強しました。相変わらず橋本博士の著書は手に入らないのですが、手許にあった「私の國語教室」と「岩波古語辞典(の解説)」を読み直してみました。
それは「勉強」のうちに入りません。何うも本の探し方が判らないのでないかと思はれますが、橋本博士の本ならば、縣立レヴェルの圖書館、或は大學の圖書館に行けば、取敢ず讀める事は讀めると思ひます。

また、
http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/kudohiro/gakusi.html
を示しましたけれども、本居宣長、富士谷成章、鈴木朖、本居春庭、東条義門邊は、參照しておく必要があります。

2009/5/28(木) 午後 8:02 [ nozakitakehide ]

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けれども、その邊の事については、時枝誠記が『日本ニ於ル言語觀念ノ發達及言語研究ノ目的ト其ノ方法(明治以前)』で簡單に纏めてゐます。當方、それを讀返す積りでゐたのですが、本の山に埋れて見附からない。忙しいから探してゐる餘裕が無く、だからさう言つた積りが、爺には「言ふに事缺いて」とか罵倒されるし云々。
http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/TOKIEDA/Nihonniokeru.html

時枝博士の「言語過程説」はソシュールが「科學」に拘つて限定した「言語學」に對するアンチなので、ドグマティックな面があります。が、だからと言つて、時枝博士の論文が全て非科學的であると言ふ事は出來ません。
と言ふより、讀み方・解釋の仕方によつて、同じ主張でも、人によつて「科學的」「非科學的」と正反對の評價になる事がある、と云ふだけです。

2009/5/28(木) 午後 8:04 [ nozakitakehide ]

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>しかし、初学者の爺としては、「規範」がどんなものなのか、の方が気になります。野嵜さんの「理念としての規範」は、どんなものになる予定でせうか。
ここで爺が幾つかの「問題」を提示してゐるけれども、その邊の事は全て「融通無碍のもの」と云つた言ひ方で處理してしまつて構はないと思ひます。要は、本質でないのだから適當で良い。

2009/5/28(木) 午後 8:12 [ nozakitakehide ]

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>(例へば、福田さんは「私は歴史的かなづかひを、その原則を、さういふ融通無碍のものと解釈してをります。」(p.77)と言はざるを得なかった。)
この邊は爺の誤讀だと思ひます。
福田氏が「言はざるを得なかった」と爺は否定的に解釋してゐますが、福田氏は直後に「なるほどその規範性はきびしい。が、その現實適應性は甚だ豐かであります。」と述べてゐるのであり、肯定的に言つてゐます。

と言ふか、表記とその讀み方との關係を論じて、音便の場合には表記も表音文字を利用するやうになるが、さう云ふものだ、それは自然な事だ、と福田氏は述べたに過ぎません。

爺が引いた「融通無碍」云々の發言は、かなづかひの原則全體を福田氏が否定的或は悲觀的に評したものではなく、逆に肯定的・樂觀的に言つたものです。その根柢には、福田氏が、表語主義の立場をとり、ありのまゝの語の形を闡明して來た過去の國語研究に對する信頼を持つてゐる事があると言へます。

2009/5/28(木) 午後 8:19 [ nozakitakehide ]

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音便についての檢討に續いて、福田氏は『私の國語教室』で、「野鳥の聲の録音を聽いた」時の話をして、「うぐひす」「ほととぎす」「かけす」はすぐに判つたが「こるり」「あをげら」「あかげら」「めぼそ」「きびたき」は、聽いただけでは判らなかつた――語として認識出來なかつた、と云ふ話をしてゐます。ここから福田氏は、音ではなく語を人は認識する事を述べてゐるのですが、其處で「あをげら」「あかげら」から共通する「げら」を取出し、「けら」に還元して「語の一貫性を認め」る事を言つてゐます。

2009/5/28(木) 午後 8:25 [ nozakitakehide ]

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そこから福田氏は、大野晉博士の『上代假名遣の研究』に言及し、大野氏が「日本書紀」の頃の人々の間に「音韻としての清濁の差の意識」があつたかなかつたかを論じてゐる事に觸れてゐます。福田氏は、同書で大野氏が「音韻と表記とが必ずしも一致しない」事實を指摘してゐる事を述べてゐるのですが、一方で、日本語の語形として清濁が重要であるか否かは研究の對象となり得る事が解ります。

これに對して「つまずく」と云ふ書き方を「正しい」と定める「現代仮名遣」が、規範であるにしても、語形の研究とは何の關係もないものである事は理解出來るでせう。

2009/5/28(木) 午後 8:32 [ nozakitakehide ]

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爺が「理念としての規範」とは何かと頻りに言つてゐますが、私の考へる「理念としての假名遣ひ」と言つてもそんなに大して難しいものではありません。
福田氏も大體同じ事を述べてゐますが、私流の言ひ方で表現すると、日本語を構成する語を詞と辭とに分類した時、假名遣として重要なのは、詞の假名遣ではなく、寧ろ辭の假名遣であります。

辭とは、普通助詞と助動詞と言つてゐるのですが――山田文法等助動詞を認めない立場・學説もあり、用言の活用語尾と助動詞とを殊さら區別しないで辭の中に入れてしまつて、考へていいと私は思ひます。

2009/5/28(木) 午後 8:49 [ nozakitakehide ]

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本居宣長、富士谷成章、鈴木朖、本居春庭、東条義門といつた人々の、用言の活用に關する研究に私は注目してゐます。爺にはその邊の「勉強」をして貰つてから書込んでいただきたいと希望します。

特に未然形の處理で、語形を基礎とした文法の場合、非常に單純な表現となるのですが、下につく語「ず」「む」によつて上の用言が活用するけれども、それが「未然形」と云ふものである、とする「假説」は、「ず」が「ない」に「む」が「う」等に取つて代られた現代語においても通用すると云ふ點で、結構強力です。「書く」の未然形は、「書かず(書かない)「書かむ(書かう)」を見れば判る通り、「書か」です。

2009/5/28(木) 午後 9:08 [ nozakitakehide ]

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「現代仮名遣」だと「う」が附く時には「書こう」になり、その時には未然形が「書こ」となると説明される訣ですが、同じ未然形の中で變化が生ずるとするのは無理があります。
動詞の活用だとまだ良いものの、「高い」のやうな形容詞になると「高く」が「高う」になつた時、「たこう」とする「現代仮名遣」だと、語幹が變化すると云ふ異常事態になると福田氏は指摘してゐます。

が、語形の面から見ると、「高う」は「たかう」であります。「書かう」「たかうございます」の類は、語形として「さうである」訣ですが、それをそのまゝ認めて、體系化したのが、活用の研究であつたと言へます。

2009/5/28(木) 午後 9:08 [ nozakitakehide ]

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もちろん、斯うした説明は「古典的な國文法」(古典文法と云ふ意味ではない)の説明であり、現代の言語學はさらに進んでゐます。が、何れにしても、活用と云ふ文法的な存在は、抽象的な理論化が可能な部分であり、樣々な法則化の試みが繰返されてゐる部分であります。
その過程で、日本語なら日本語の性質と云ふものが追究されてゐるのであり、語と語との膠着の仕方が法則として認識されてゐる――が、理論的な膠着の仕方が提案された時、常に現實に使用される言語に照らして檢討が行はれます。

國學における初期の活用研究においても、提案された活用の仕方に現實の語が合致しないものがあり、それは「變格活用」と名附けられてゐます。

2009/5/28(木) 午後 9:20 [ nozakitakehide ]

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> もし「外れてゐ」るとしたら、それはあなたの表現が惡いからだと思ひます。

あはは、成程。野嵜さんの文章が誤解されるのは、爺他が文章の読み方を知らないからで、野嵜さんが誤解するのは、爺の文章が悪いから、ですね。(いや失礼。でも、これを「あはは」で始めないのは、努力を要する。)

>「なぜしないの?」は「してください」の婉曲的な表現だと普通の人なら理解出來るでせう。

歴史的假名遣ひを使ってみよう、といふ初学者に、(五十年前の)國語学の勉強をせよ、といふのは「普通」ではないと思ひますが。

> 爺は「國語學の科學的な成果に基いてゐるから、規範としての歴史的假名遣は科學的である」と要約してゐますが、なぜ私の意圖と違つた形に要約してゐるのでせうか。「わざとですか?それとも本当にそう理解してゐる?」

ええ、本当にそう理解してますけど、違ふのでせうか。いや、これは本当に重要な事なので、違ってゐるなら訂正して頂けないでせうか。 削除

2009/5/29(金) 午後 10:26 [ ]

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> 要約するなら、その人の主張を理解して、論理を再構成して、辻褄の合つた・一貫した主張に直して述べなければなりません。その基礎的な事が、爺は出來ないやうです。

ふーむ、これはしたり。しかし、元の文章に一貫性が無ければ、なかなか一貫した要約はできないでせうね。

> 「現代かなづかい」については、樣々な批判が浴びせられ、それらを封じ込める爲に國字改革の當事者は「正書法」と言ひました。福田氏がそれについて「をかしい」と指摘したのですが、爺は「改革派はをかしくない。福田氏こそをかしい」と言つてゐます。私には爺の方がをかしいと思はれます

あらま、どうしてさういう要約になるんですか?よく理解して、一貫した要約にすべきだと思ひますよ。 削除

2009/5/29(金) 午後 10:30 [ ]

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> 爺は邪推して「言ふに事缺いて」と侮辱する事を言つたのだけれども、さう云ふ無意味な罵倒をする事で、議論が進展すると爺が思つてゐるのなら、爺は荒し以外の何ものでもありません。

さうなんですか?それは失礼しました。あんなに自信たっぷりだったので、すぐに出て来るだらう、と思ったのでした。でも、まあ、これは撤回して謝ります。申し訣ありませんでした。で、気長に待つ事にします。

それにしても、「あはは」や「言ふに事欠いて」にそんなに傷付くとは、野嵜さんの言語感覚て、繊細なんですね。でも、確かに無意味な罵倒を無くするのは良い事です。野嵜さんが御自分が書く際にも繊細になって頂けたら有難いと思ひます。 削除

2009/5/29(金) 午後 10:44 [ ]

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> また、
http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/kudohiro/gakusi.html
を示しましたけれども、本居宣長、富士谷成章、鈴木朖、本居春庭、東条義門邊は、參照しておく必要があります。

成程、野嵜さんは全部読破しておられるんだ。でも、前の業績を全部理解してゐないと論評できない、と言ふのは、それが「科学的でない」と言ふ事も示唆してゐるやうな……

> けれども、その邊の事については、時枝誠記が『日本ニ於ル言語觀念ノ發達及言語研究ノ目的ト其ノ方法(明治以前)』で簡單に纏めてゐます。……中略……とか罵倒されるし云々。

いや、それは申し訣なかったですね。でも、50 年以上も前の業績をひっくり返さないと、適切な例が出て来ないのですか?時枝博士は「科学的」なんて念頭になかったと思ひますが、そのあたりを探してゐて大丈夫でせうか。 削除

2009/5/29(金) 午後 10:45 [ ]

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> 時枝博士の「言語過程説」はソシュールが「科學」に拘つて限定した「言語學」に對するアンチなので、ドグマティックな面があります。が、だからと言つて、時枝博士の論文が全て非科學的であると言ふ事は出來ません。
と言ふより、讀み方・解釋の仕方によつて、同じ主張でも、人によつて「科學的」「非科學的」と正反對の評價になる事がある、と云ふだけです。

さうですか、では尚更、「科学的」の定義が重要と言ふ事ですね。「反証可能性の有無」はともかく、「ドグマチック」なところが有ったのでは、さすがに「科学的」とは言へないでせうから。

> ここで爺が幾つかの「問題」を提示してゐるけれども、その邊の事は全て「融通無碍のもの」と云つた言ひ方で處理してしまつて構はないと思ひます。要は、本質でないのだから適當で良い。

あらま、そうなんですか。そんな事はどうでも良い、規範に含める事必要ない、と。では、ますますどんな事が規範の構成要素になるのか興味が湧いて来ました。是非、その片鱗なりとも教へて下さい。 削除

2009/5/29(金) 午後 10:46 [ ]

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> 爺が引いた「融通無碍」云々の發言は、かなづかひの原則全體を福田氏が否定的或は悲觀的に評したものではなく、逆に肯定的・樂觀的に言つたものです。その根柢には、福田氏が、表語主義の立場をとり、ありのまゝの語の形を闡明して來た過去の國語研究に對する信頼を持つてゐる事があると言へます。

さうなんですか。でも、それだと、規範を作らう、といふ一派とは議論にならないですね。ひとつには、現代仮名の「表音主義といふ原則」の不徹底を批判してゐるのに、我方が融通無碍では、ちょっとまづからう、云々。もうひとつには、融通無碍な原則から、どうやって規範を作る事ができるのか。 削除

2009/5/29(金) 午後 10:48 [ ]

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> 音便についての檢討に續いて、福田氏は『私の國語教室』で、「野鳥の聲の録音を聽いた」時の話をして、……中略……ここから福田氏は、音ではなく語を人は認識する事を述べてゐるのですが、其處で「あをげら」「あかげら」から共通する「げら」を取出し、「けら」に還元して「語の一貫性を認め」る事を言つてゐます。

これは、野嵜さんの誤読ではないでせうか?さうではなくて、「語を単位として聞きとらうとしている」事の例だと思ひますが。で、読む場合も、「語」を探し易くすべきだ、と。

> そこから福田氏は、大野晉博士の『上代假名遣の研究』に言及し、……中略……福田氏は、同書で大野氏が「音韻と表記とが必ずしも一致しない」事實を指摘してゐる事を述べてゐるのですが、一方で、日本語の語形として清濁が重要であるか否かは研究の對象となり得る事が解ります。

成程。でも、「一方で……」以下の野嵜さんの解釈はユニークすぎるやうな気がします。「清濁が重要であるか否か」が研究の対象になる、とはどういふ意味ですか。 削除

2009/5/29(金) 午後 10:52 [ ]

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> これに對して「つまずく」と云ふ書き方を「正しい」と定める「現代仮名遣」が、規範であるにしても、語形の研究とは何の關係もないものである事は理解出來るでせう

「清濁が重要であるかが研究の対象となり得る」といふのと、無理につなげようとしてゐるやうですが、それは無理筋でせう。 削除

2009/5/29(金) 午後 10:54 [ ]

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> 爺が「理念としての規範」とは何かと頻りに言つてゐますが、私の考へる「理念としての假名遣ひ」と言つてもそんなに大して難しいものではありません。福田氏も大體同じ事を述べてゐますが、私流の言ひ方で表現すると、日本語を構成する語を詞と辭とに分類した時、假名遣として重要なのは、詞の假名遣ではなく、寧ろ辭の假名遣であります。

成程、野嵜さんの「理念としての假名遣ひ」は、活用に関する事にしか係らない、と。

でも、それでは、普通に歴史的假名遣ひで文章を書かうとする時、「何が正しいのかを知るために参照する」という用途には使へませんよね。それを規範と言ふには、ちょっと無理が有りませんか?

何より、首尾よく現代假名遣を論破した暁に、それに代はる「歴史的假名遣ひの規範」を(例へば)省令として出す気は無い、と言ふ事ですか?それじゃあ「いろいろ良さげな事を言ってるけど、政権担当能力はどうなの?」って言はれさうな気がする。

くどいやうですが、本当にさう考へて良いのですか? 削除

2009/5/29(金) 午後 10:55 [ ]

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> 本居宣長、富士谷成章、鈴木朖、本居春庭、東条義門といつた人々の、用言の活用に關する研究に私は注目してゐます。爺にはその邊の「勉強」をして貰つてから書込んでいただきたいと希望します。

成程、野嵜さんはこれらを全部読破して、その上で「國語学が科学的である」と結論付け、また、全部読破してゐないと、ある仮説が「科学的である」かどうかを論じる事ができない、と。ならば、やっぱり、あなたには「科学論」は無理だと思ひますよ。「緻密な議論」以前に、センスが乏しいやうな……

> 動詞の活用だとまだ良いものの、「高い」のやうな形容詞になると「高く」が「高う」になつた時、「たこう」とする「現代仮名遣」だと、語幹が變化すると云ふ異常事態になると福田氏は指摘してゐます。

成程。でも、語幹が変化するのは、別に現代假名遣に限った事ではないでせう。(「来る」「する」等。) 削除

2009/5/29(金) 午後 10:58 [ ]

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> 成程。でも、語幹が変化するのは、別に現代假名遣に限った事ではないでせう。(「来る」「する」等。)

いや、「来る」「する」には語幹はありません。あるのは活用語尾だけです。 削除

2009/5/30(土) 午前 1:41 [ ziom ]

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Ziom さん、ご指摘ありがとうございます。

ただ、福田氏も語幹が変化する例だと思ってをられるやうですし (p.91)、私もそのやうに習った覚えがあります。とはいふものの、50年前と40年前ですからね、私も記憶が曖昧です。その後変ったのか、はたまた、福田氏や爺の記憶が初めから間違ってゐるのか、ご教示頂ければ幸甚です。 削除

2009/5/30(土) 午後 1:37 [ ]

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>爺は真剣に批判してゐるつもりで、生半可なところで引き下がる気はない。
嘘である。でなければ自己欺瞞だ。「真剣」な人間が取り澄まして「あはは」の「ガハハ」のいふはずがない。
「正かなは科学ではない」「SKKは最高の日本語入力システムだ」「日本国憲法は正当である」…結局、爺のいつてることは野嵜さんの主張をまぜ返してゐるだけだ。そしてふたことめには「バニクつてる」の「情け無い」のと一々勘に觸ることをいふ。

どうせ爺は、また取り澄まして「なにを怒つてるんですか?」と聞くのだらう。人を怒らせてゐるのは誰だ。だから「愉快犯」だといつてるんだ。

>私にとっては、科学も SKK も憲法も正假名もとても価値のあるもので、それらを礼賛・信奉してゐると言っても良いくらゐ。
だつたら「(五十年前の)國語学の勉強」ぐらゐしろ。 削除

2009/5/30(土) 午後 10:44 [ 佐藤 俊 ]

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しかし「50年前の成果しかない」といつても、50年前にかなづかひの歴史は「現代仮名遣い」によつてぶつた切られてしまつてゐる。歴史が途絶えてゐるのだから研究も途絶えてゐて當然だ。 削除

2009/5/30(土) 午後 11:09 [ 佐藤 俊 ]

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喜六郎が「福田恆存の名前を利用して嫌がらせを働くインターネットストーカー」であるのと同樣、爺も「正かなを利用して嫌がらせを働く愉快犯」でしかない。 削除

2009/5/30(土) 午後 11:11 [ 佐藤 俊 ]

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> >爺は真剣に批判してゐるつもりで、生半可なところで引き下がる気はない。
> 嘘である。でなければ自己欺瞞だ。「真剣」な人間が取り澄まして「あはは」の「ガハハ」のいふはずがない。

爺は「真剣」に「批判」してゐるつもりですが、例へば、あなたの相手を「真剣」にやってる訣ではないのですよ。

> 結局、爺のいつてることは野嵜さんの主張をまぜ返してゐるだけだ。そしてふたことめには「バニクつてる」の「情け無い」のと一々勘に觸ることをいふ。

真面目に批判してゐるのに、例へば「まぜ返してゐるだけ」といふ感情的な反応が返ってきたら、それは「パニックってる」「情け無い」と言ふしかないでせう。どうして、まともな反論ができないのですか? 削除

2009/5/31(日) 午前 4:51 [ ]

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> だつたら「(五十年前の)國語学の勉強」ぐらゐしろ。

はいはい、これは恐れ入ります。参考までに佐藤さんの精進の一部なりとも教へて頂けませんか。(お読みになった本や論文の著者とタイトルだけでも結構です。)

しかし、爺にはあまり必要が感じられないのですよ。そもそも、歴史的假名遣ひでものを書くのにそんな勉強は要らないだらうし、爺が「歴史的假名遣ひが科学的である」と主張してゐる訣でもないから、やっぱりそんな勉強は要らないと思ふ。

勿論、佐藤さんがそれに入れ揚げるのを止めたりはしませんが、老婆心ながら、佐藤さんはまだ将来の有る身なんだから、もっと役に立つ勉強もされると良いと思ひます。例へば、高校数学の「論理」のあたりは、佐藤さんの書かれる文章の明晰さを各段に改善するのではないでせうか。 削除

2009/5/31(日) 午前 4:53 [ ]

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> しかし「50年前の成果しかない」といつても、50年前にかなづかひの歴史は「現代仮名遣い」によつてぶつた切られてしまつてゐる。歴史が途絶えてゐるのだから研究も途絶えてゐて當然だ。

「50年前の成果しかない」なんて、どなたが仰ってゐるんですか?研究は途絶えてゐるんですか?もし本当にさうお考へならば、その旨を野嵜さんにアドバイスしてあげるべきだと思ひます。

> 喜六郎が「福田恆存の名前を利用して嫌がらせを働くインターネットストーカー」であるのと同樣、爺も「正かなを利用して嫌がらせを働く愉快犯」でしかない

あはは、爺もたうとう「愉快犯」に定まった訣だ。さう呼ばれるのは初めてなので、嬉しいやうな怖いやうな……。でも「正假名を利用して嫌がらせを働く」ってどうやればいいんですか?

なにより、「愉快犯に被害を被ってゐる」なんて言ふと、なんだか佐藤さんが「相当困ってゐる」、「論破されてぐうの音も出ない」やうに聞こへますよ。 削除

2009/5/31(日) 午前 4:56 [ ]

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別に正かなで書くのに國語史研究なんて不要ですよ。ところが、今の議論のテーマは「正かなで書くのに國語史研究は必要であるか否か」ではないのです。爺は、話のテーマを見失つてゐます。自分で議論を仕掛けておいて、議論のテーマを忘れてゐるやうでは、困ります。

爺は、私の「歴史的假名遣は科學的である。科學的であるとは反證可能性がある事である」と云ふ發言を非難してゐるのです。そして今の議論は、歴史的假名遣の基礎となつてゐる國語研究が、科學的か否か、なのです。
だから爺は、具體的に國語研究について調べた上で、それが(野嵜の定義するやうな意味で)科學的か否かを判斷する義務があるのです。

2009/5/31(日) 午後 4:16 [ nozakitakehide ]

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> 爺は「國語學の科學的な成果に基いてゐるから、規範としての歴史的假名遣は科學的である」と要約してゐますが、

私は「規範として明治政府が定めた歴史的假名遣」以前の、その歴史的假名遣の基となつてゐる「研究成果の假名遣」が科學的だと言つてゐるのです。

そして、科學的な假名遣を規範として採用したから、明治政府の態度も科學的だと言ふ訣です。

2009/5/31(日) 午後 4:19 [ nozakitakehide ]

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福田氏の主張も、爺は完全に誤讀してゐます。

表音主義と云ふドグマティックな立場からは、部分的な表語主義を採用する不徹底は、許されません。
それに對して、表語主義ならば――實は「主義」なんてものではないのであつて、そこでは、ありのまゝの言語を受容れるだけです、理論・ドグマに從つて一貫性を設定する必要はありません。現實に存在する語の形に從つて、「融通無碍」になる訣です。それだけの話です。

「表語主義」は、現實主義だから、「發音通りに記録する」のでも「意味によつて徹底的に遣ひ分ける」のでもない。表意文字の表意性や表音文字の表意性を活用するが、表音文字の表音性も利用する――その程度の融通をきかせる事は、何の問題もない。福田さんはさう言つてゐるに過ぎません。

それで何うして「話が出來なくなる」のか。

2009/5/31(日) 午後 4:26 [ nozakitakehide ]

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時枝さんの卒業論文は、裏を取るのに便利だから參照したかつただけです(爺は、へんな風に人の意圖を讀取る癖がありますね、惡い癖です。それをやるのはドグマ的な研究者です)。また、この時點で、時枝さんは實證的な研究の仕方をしてゐるのであり、その後の「言語過程説」の立場をまだ取つてゐません。と言ふより、「言語過程説」で説明する、と云ふやり方をしてゐません。

詞と辭とが日本語には「ある」訣ですが、「てふてふ」のやうな假名遣ひ、或は字音假名遣は詞の假名遣です。從來は、詞の假名遣に許り注目して「難しい」だの何だのと非難が浴びせられて來たのですが、福田さんも指摘してゐる通り、寧ろ辭の假名遣ひこそが重要です。
辭とは、「動詞の活用」の事ではなく、助詞と助動詞、そして動詞の活用語尾の事です(但し、「動詞の活用語尾」を辭の中に含める考へ方は、私の私見ですが、全く無根據な事ではありません)。

2009/5/31(日) 午後 4:31 [ nozakitakehide ]

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「あをげら」「あかげら」の話は、

>「語を単位として聞きとらうとしている」事の例

で「も」ある訣ですが、それ「だけ」である訣ではありません。だから誤讀ではありません。

また、爺は私の解釋を「ユニーク」のやうに評してゐますが、さうした評は、何か意味があるのですか。ユニークだらうが何だらうが、正しければ問題がありません。ただ「ユニーク」だからと言つて、それだけで爺は「俺、完全に野嵜を否定した! やつた! 勝つた!」と思つてゐるやうですが、そんな判斷は、普通の腦味噌を持つた人には、出來ません。

他にも「説明して見ろ」「全部讀破したんだな」のやうな言ひ方をしてゐますが――しかしそれを言ふなら、あなたが先に自分の知識や理解の正しさを示しておく必要がありますよ。今のあなたは、ただのバカが言掛かりをつけてゐるだけにしか見えません。

2009/5/31(日) 午後 4:36 [ nozakitakehide ]

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それにしても、センスが何うの斯うのと言はれては、仕方がありませんね。「センスが惡い」と極附けられたのでは、反論出來ませんから。

爺と云ふ人は、非常にドグマ的に物事を解釋する癖のある人で、かう云ふ人相手には、精密な議論が出來ません。
爺當人は、「野嵜が精密な議論をしろと言つてゐるのだから、野嵜に精密な議論を要求してゐるだけだ」と言つてゐるのです。一方、爺自身は「精密な議論等、無意味である」と云ふ立場を取つてゐるので、自分では好い加減な言ひ方で相手をやり込める事に集中できる訣です。

爺自身は、自分の立場を守つてやつてゐる訣ですし、私にも「自分の立場を守れ」と要求してゐる訣です。が、斯うなると、その立場の取り方が、議論における有利・不利を決定する事になる訣で――そこで「議論に勝つ」だけの爲に爺が自分の立場を選んでゐるとしたら、私としては爺の態度に對する嫌惡感を表明する以外、抵抗の方法がありません。

2009/5/31(日) 午後 4:41 [ nozakitakehide ]

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>喜六郎が「福田恆存の名前を利用して嫌がらせを働くインターネットストーカー」であるのと同樣、爺も「正かなを利用して嫌がらせを働く愉快犯」でしかない。

私にも、爺や喜六郎の「立場の選び方」が、「愉快犯」としての自分を正當化するだけの爲のものであるやうにしか見えないんですよ。

で、國語改革の當事者の人が「現代かなづかい」を「正書法」だと言つたのも、やつぱり、「議論を囘避して自分のやつた事を正當化する」爲だつたんですよ。

爺・喜六郎或は國語改革の當事者の「立場」は、全て、「敵」の反論を「嘲笑ふ」だけで封殺し得てしまふとする「立場」であり、その點で共通してゐます。

2009/5/31(日) 午後 4:49 [ nozakitakehide ]

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が、議論を拒絶し、ドグマ的に「自分の言つてゐる事は自分が正しいと言つてゐるのだから正しい」と極附ける態度は、客觀的にその物事の眞僞を判定する態度とは、異ります。爺や喜六郎、或は國語改革の當事者は、「正しい」と云ふ事は「自分で決められる」と云ふ立場をとつてゐるのであり、それは私にはとても受容れられない價値觀であるのです。

私としては、何だかんだ言ひながら、それらの表現を通して、單に「客觀的に物事の眞僞を判斷する」事の重要性を言つたに過ぎません。自分の外部に判斷の基準を置くべきだと言つた訣です。

ところが爺はそこで嚴密な用語の議論を吹つ掛けた。しかし、この手の「嚴密」な議論を吹つ掛けるやり方も、この手の「愉快犯」的種族の人々の常套手段です。何時だつて私を攻撃する連中は、斯うです。話が解らないのです。

私は下らない瑣末な議論を強要されて、迷惑したんです。

2009/5/31(日) 午後 4:52 [ nozakitakehide ]

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> 爺は、私の「歴史的假名遣は科學的である。科學的であるとは反證可能性がある事である」と云ふ發言を非難してゐるのです。そして今の議論は、歴史的假名遣の基礎となつてゐる國語研究が、科學的か否か、なのです。

微妙にづれてゐるやうに思ひます。繰り返しになりますが、

(1)「歴史的假名遣ひは科学的である」はスローガンとしてはともかく、議論・検討の対象としてはおおざっぱすぎる。假名遣ひは、究極的には「きまり」「規範」「正書法」の類いであって、そもそも科学的ではあり得ない。従って、敢へて言ふなら「歴史的假名遣ひは科学的な仮説に基いてゐる」とすべきである。

(2)仮説が科学的であるとは、その仮説に反証可能性が有る事である。

(3)大事なのは、假名遣ひのそれぞれの「きまり」が、特定の科学的仮説に基いてゐる事。(国語学全体として(もしくはその歴史全体が)「科学的」かどうかは論じられないし、今は意味が無い。)

ここまでは合意してゐただけると思ひます。で、 削除

2009/6/1(月) 午前 2:07 [ ]

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> だから爺は、具體的に國語研究について調べた上で、それが(野嵜の定義するやうな意味で)科學的か否かを判斷する義務があるのです。

爺にそんな「義務」はないでせう。何度も申し上げてゐるやうに、新説を持ち出してゐるのは野嵜さんなので、その「(野嵜の定義するやうな意味での)科学的」をまず明らかにして、「きまり」の基礎になっている仮説を挙げて、それが科学的である事を説明する義務は野嵜さんに有ります。

何て言ふと堅苦しいですが、要は、どうして野嵜さんが「歴史的假名遣ひは科学的である」と思ふやうになったのか、その時その「科学的」(もしくは「反証可能性」)とはどういふつもりだったのか、を爺にも解るやうに説明して下さい、と言ってゐるだけなんですが。勿論、後になって精密化した方の説明でも歓迎です。 削除

2009/6/1(月) 午前 2:08 [ ]

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> 私は「規範として明治政府が定めた歴史的假名遣」以前の、その歴史的假名遣の基となつてゐる「研究成果の假名遣」が科學的だと言つてゐるのです。

成程、「それ以降現代に至る國語学の成果」は今問題ではない、と。佐藤さんが「50年前までで假名遣ひ研究は途絶えてゐる」と仰ったのは当ってゐたのですね。野嵜さんは、それどころか、100年以上前の研究成果が「科学的」かどうかを論じようとされてゐる訣ですか。それだと、「科学的」を定義するのが大変でせうが、でも「科学的仮説」がどのやうなものになるのか益々興味が湧いて来ました。

> 福田氏の主張も、爺は完全に誤讀してゐます。

さうですか。同意はできませんが、誤読はしてないと思ひますよ。 削除

2009/6/1(月) 午前 2:09 [ ]

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> 表音主義と云ふドグマティックな立場からは、部分的な表語主義を採用する不徹底は、許されません。それに對して、表語主義ならば――實は「主義」なんてものではないのであつて、そこでは、ありのまゝの言語を受容れるだけです、理論・ドグマに從つて一貫性を設定する必要はありません。現實に存在する語の形に從つて、「融通無碍」になる訣です。それだけの話です。

それではお話にならないでせう。野嵜さんの論法と言ふかスタイルは、自己中心的と言ふか、一方的になりがちですね。(爺は読み方を知らない vs. 爺の書く文章は悪文だ;「あはは」と笑うのは無礼だ vs. ご自分は「苦笑」「わらひ」とやって憚らない、云々。)

表音主義に不徹底は許されないが、表語主義(「語に沿ひて」)は融通無碍で有って良い、と言って野嵜さん以外の誰が納得しますか?「それだけの話」である訣がない。

さすがに福田氏は「それだけの話」とは言はず、歴史的假名遣ひは二元論、現代假名遣は一元論と規定した上で 削除

2009/6/1(月) 午前 2:13 [ ]

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> また、爺は私の解釋を「ユニーク」のやうに評してゐますが、さうした評は、何か意味があるのですか。ユニークだらうが何だらうが、正しければ問題がありません。ただ「ユニーク」だからと言つて、それだけで爺は「俺、完全に野嵜を否定した! やつた!勝つた!」と思つてゐるやうですが、そんな判斷は、普通の腦味噌を持つた人には、出來ません。

あはは、だから、さう言ふ言い方は、普段から野嵜さんが「俺、完全に爺を否定した!やった!勝った!」と思ってゐると受け取られますよ、と。もしくはさう思ってみたいと願ってゐるだけなのかも知れませんが。何より「人の意図を悪くとるな」と野嵜さんが爺にしきりに言ふ事と矛盾してますよね。

「ユニーク」に別段の意味は有りません。「『清濁が重要であるか否か』が研究の対象になり得る」は悪文ですね、の婉曲表現だと考へ下さい。で、これ、どういふ意味なんですか? 削除

2009/6/1(月) 午前 2:15 [ ]

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「言ふに事欠いて」とか「ユニーク」程度の事に逆上する繊細さはある意味で好ましい事かも知れませんが、あなたの場合は、「こんなに腹が立つのは、言はれている事が半ば当ってゐるからか」と一度内省してみてはいかがですか?

> 他にも「説明して見ろ」「全部讀破したんだな」のやうな言ひ方をしてゐますが――しかしそれを言ふなら、あなたが先に自分の知識や理解の正しさを示しておく必要がありますよ。今のあなたは、ただのバカが言掛かりをつけてゐるだけにしか見えません。

ほうら、また自己中心的、一方的な物言ひになってゐる。爺がよく知らない、その本を入手する手段も無い、と初めから言ってる事に対して、どうして「知識や理解の正しさ」を示しておく必要が有るのでせうか。何より、「バカ呼ばはり」が出ると、野嵜さんが御自身で「(部分的に)読んではみたが説明できる程には理解できなかったかも」と不安になってるのが良く解りますよ。

と繰り返しアドバイスしても野嵜さん達は「聞く耳持たぬ」やうですので、もっと卒直に言ふなら、爺もこのような子供っぽい言い分や議論には少々飽きてきたので、端折っていただけると有難い。 削除

2009/6/1(月) 午前 2:18 [ ]

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> 爺と云ふ人は、非常にドグマ的に物事を解釋する癖のある人で、かう云ふ人相手には、精密な議論が出來ません。
爺當人は、「野嵜が精密な議論をしろと言つてゐるのだから、野嵜に精密な議論を要求してゐるだけだ」と言つてゐるのです。一方、爺自身は「精密な議論等、無意味である」と云ふ立場を取つてゐるので、自分では好い加減な言ひ方で相手をやり込める事に集中できる訣です。

それは野嵜さんの「ドグマ」と「精密」の定義によれば、ではないですか?精密な議論をしやうとすれば、前提や用語の定義をきちんとしようとするのは当り前です。それをドグマテックと言ふのは当らない。第一「精密な議論等、無意味である」なんて思ってゐませんよ。「人の意図を悪く取る」のは止めませう。 削除

2009/6/1(月) 午前 2:19 [ ]

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> 爺自身は、自分の立場を守つてやつてゐる訣ですし、私にも「自分の立場を守れ」と要求してゐる訣です。が、斯うなると、その立場の取り方が、議論における有利・不利を決定する事になる訣で――そこで「議論に勝つ」だけの爲に爺が自分の立場を選んでゐるとしたら、私としては爺の態度に對する嫌惡感を表明する以外、抵抗の方法がありません。

「抵抗」って、爺は侵略でもしているのでせうか。それよりも、この場合、お互いの「立場」って何ですか?ひょっとして、「歴史的假名遣ひは科学的である」vs.「ここで『科学的』なんて持ち出すな」て事ですか?後者は爺の「意見」であって、選びとった「立場」ではないですし、もしそれに「抵抗」できないのであれば、前者は根拠が薄弱な議論だった、という事ですね。 削除

2009/6/1(月) 午前 2:20 [ ]

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> 爺・喜六郎或は國語改革の當事者の「立場」は、全て、「敵」の反論を「嘲笑ふ」だけで封殺し得てしまふとする「立場」であり、その點で共通してゐます。

それは僭越と言ふものです。爺が笑ってゐるのは、野嵜さんのこのような(喜六郎氏や爺と國語改革の当事者達をひとからげにするやうな)稚拙な議論です。改革反対論者の議論は真剣かつ真摯なものです。しかも、それを改革の当事者達は笑ったりしてゐない。ちっとも共通してゐないでせう。 削除

2009/6/1(月) 午前 2:21 [ ]

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> が、議論を拒絶し、ドグマ的に「自分の言つてゐる事は自分が正しいと言つてゐるのだから正しい」と極附ける態度は、客觀的にその物事の眞僞を判定する態度とは、異ります。爺や喜六郎、或は國語改革の當事者は、「正しい」と云ふ事は「自分で決められる」と云ふ立場をとつてゐるのであり、それは私にはとても受容れられない價値觀であるのです。

少くとも爺は「正しいかどうかを自分で決められる」とは思ってゐません。そんな事を言っても相手を納得させられないだろうといふ事は明白ですしね。なので、野嵜さんがそれを受け入れならないのと同様、爺にも受け入れられないのですよ。

> 私としては、何だかんだ言ひながら、それらの表現を通して、單に「客觀的に物事の眞僞を判斷する」事の重要性を言つたに過ぎません。自分の外部に判斷の基準を置くべきだと言つた訣です。

了解。「『疑似科学批判』としての……」とか「假名遣ひが科学的であるべきこと」等は一種のレトリックで、然程確固とした根拠は無かった、と言ふ事ですね。 削除

2009/6/1(月) 午前 2:22 [ ]

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> ところが爺はそこで嚴密な用語の議論を吹つ掛けた。しかし、この手の「嚴密」な議論を吹つ掛けるやり方も、この手の「愉快犯」的種族の人々の常套手段です。何時だつて私を攻撃する連中は、斯うです。話が解らないのです。

この「何でも人の所為にする」というのも野嵜さんの特徴の一つですね。御自分が厳密な議論をしてゐるかのように見せかける(「反証可能性」)から、そういう議論(「反証主義」)を呼び込んでゐるのでは?という事は措いても、さういふ「厳密論者」を「追い払ふ」のは簡単ですよ。用語の定義の違ひを説明してやれば済む。

> 私は下らない瑣末な議論を強要されて、迷惑したんです。

それはすみませんでした。私としてももう言ふ事はありません。誤解を招くレトリックを一掃する意味でこのスレッドを全部消してしまふのが良いと思ひますが、それが無理なら、野嵜さんが今後「科学的」をもう少し注意深く使って頂ければ爺はそれで満足です。(一切使はないのが最善、とは思ひますが。) 削除

2009/6/1(月) 午前 3:06 [ ]

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レトリックと言つても、私の言つてゐる事に間違ひはありません。爺が勝手な解釋をして、誤讀や惡意の歪曲を重ねて、「野嵜が間違つてゐる」と極附けてゐるだけです。

それに、私はきちんと説明しました。それを爺が勝手に解釋して、無價値と極附けたに過ぎません。けれども、その爺の判定は、根據のないもので、無意味です。
私は反論しましたし、それに爺は反論しなかつた――さう云ふ事實が殘つただけです。

「野嵜を論破したぜガハハ」と思ひたければ、結構です。それで滿足して立去つて下さい。迷惑です。喜六郎なら「掲示板荒し」と極附けて嘲笑するところです。もつとも、喜六郎は、私の「ブログ」が荒らされるなら、さう云ふ荒しは「良い荒し」だと言ふでせう。喜六郎のところに行けば、爺は歡迎されると思ひます。類は友を呼ぶ。

私は別に嘲笑しません。迷惑をかけられて嫌な思ひをして、それで尚、相手を嘲笑できるほど、センスがをかしくありません。

2009/6/1(月) 午後 7:59 [ nozakitakehide ]

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喜六郎にしてもさうですが、こちらが反論しても「野嵜は反論せず、相手を『馬鹿』と罵つただけだつた」と極附けて、さう宣傳する事で「勝つた」氣になる人が――殊に「アンチ野嵜」の人には非常に多い。これは何う云ふ事なのでせうか。

要するに、「アンチ野嵜」は非科學的だ、と云ふ事です。思ひ込みが激しく、その思ひ込みに基づいて全てを解釋するし、反論を聞入れない――さうやつて、私の反論を聞入れない事で、彼等は「勝つ」。
しかし、さう云ふ「勝ち方」をするパフォーマンスに、何の意味もありません。

さて、私の豫言は大變よく當るのですが――爺はまだまだ執拗に絡んで來ると思ひます。そこで爺は、國語研究について自分では何も調べようとせず、「野嵜さん、説明して下さい」を何遍でも繰返す事でせう。實に横着な人です。

2009/6/1(月) 午後 8:08 [ nozakitakehide ]

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しかも、その横着を正當化する「論理」を爺は持つてゐて、威張つてそれを振りかざす――だから「彼等」は困り者なのですが、それが「彼等」には絶對に解らない。だから「彼等」は粘着と化すのです。

迷惑な話ですが、「彼等」は他人が迷惑に思はうが、自分は「絶對に正しい」と信じてゐます。「彼等」の「教義」は「絶對に正しい」からです。
「彼等」は、自分の信ずる「絶對に正しい教義」に從つて、相手を裁斷し、斷罪する――それでいい、と本氣で信じてゐるのです。こちらが反論しても、「彼等」には絶對に通じない。彼等にしてみれば、その「教義」を「形式的に守つてゐる事」が重要なのであり、少しでもその「教義」にそぐはない事を言つてゐる人間は、××××で、徹底的に痛めつけ、侮辱し、性根を叩き直さねばならない存在に見えてゐる。

2009/6/1(月) 午後 8:12 [ nozakitakehide ]

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――斯う云ふドグマティックな思想に染まつた人間は、本當に困つた存在です。
ところが、さう云ふ「彼等」=粘着にしてみれば、自分に敵對する人間こそが「困つた存在」に見えてしまつてゐるのです。

斯う云ふ粘着とは話になりませんが、今のウェブでは、斯うした全く話にならない人間が、他人に絡んで大きな顏をできるシステムが構築されてしまつてゐます。

システムが惡いのではなく、本質的には人間が惡い訣ですが、しかし人間を何うにかしようとしても、無理です。
非科學的でドグマティックな人間も、科學的で論理的・客觀的な風を裝ふ事が出來、他人を欺すのみならず、自分をも欺いて、平氣で粘着化してゐられます。斯うした自己欺瞞を解く事は、容易ではありません。

2009/6/1(月) 午後 8:16 [ nozakitakehide ]

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爺と云ふ人は、私が斯う言つてゐるのに、理解する氣がありません。

>私は「規範として明治政府が定めた歴史的假名遣」以前の、その歴史的假名遣の基となつてゐる「研究成果の假名遣」が科學的だと言つてゐるのです。

爺は、斯う執拗に言張るんです。

>假名遣ひは、究極的には「きまり」「規範」「正書法」の類いであって、そもそも科学的ではあり得ない。

私が何度「爺は私の言つてゐる事を歪曲してゐる」と指摘しても、爺は相變らず、自分の信ずる事を演説し續ける。

話になりません。

爺は、結局のところ、「かなづかひは規範以外にはあり得ないから、科學的だと主張する野嵜の言つてゐる事は間違ひに決つてゐる。野嵜の反論は聞入れる必要なーし。みんな野嵜の言ふ事を無視しませう。ガハハ」と言つてゐるのです。

話になりません。

2009/6/1(月) 午後 8:20 [ nozakitakehide ]

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「研究成果して語形を判明させる事」と「その語形を規範として採用する事」とは違ひますし、研究成果と規範とは別物ですが、爺はそれらを混同します。その混同を爺は「混同ではない」と言張つてゐるのですが、その根據を何一つ説明してゐません。

爺のさう云ふ主張こそ「ユニーク」なもので、ならば爺には説明する義務があります。

ところが、爺は「當り前の事」と言つて説明しません。

それがドグマティックな態度である事は言ふまでもありませんが、爺は自分がドグマ的な態度に陷つてゐる事を自覺出來ません。「常識」とかその他のレッテル貼りをするんでせうが、要するに「説明も反論も出來ないドグマ」に爺は固執してゐるのです。

2009/6/1(月) 午後 8:24 [ nozakitakehide ]

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既に述べた通り、江戸時代に活用の研究が行はれた事は事實ですし、その時點で大體、研究の成果が出てゐます。が、それはさう云ふ事實があるだけなのです。別に何の問題もない。ニュートン力學がニュートンの頃に大體成立してゐて何の問題もないのと同じです。

2009/6/1(月) 午後 8:26 [ nozakitakehide ]

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整理しておきますね。

・爺は、野嵜が、例へば(←これが重要)活用の研究を念頭に置いてゐる事に氣附いてゐなかつた。
・爺は、「語形の研究の成果」と「語形の研究の成果を正しい書き方と認めて採用した規範」とを、區別してゐなかつた。

これらの問題を爺は解消しなければなりません。でなければ、爺が何んなに私に文句を言つたところで、「見當違ひの文句を附けてゐた」事にしかなりません。

2009/6/1(月) 午後 8:33 [ nozakitakehide ]

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あと。話を蒸返しますが、反證可能性について。

>これに対して、いかなる実験や観測によっても反証されない構造を持つ仮説を反証不可能な仮説と呼ぶ。(反証可能性 - Wikipedia)

爺は「觀測」「實驗」を問題にしてゐますが、實は「假説の構造」こそが問題です。

2009/6/1(月) 午後 8:40 [ nozakitakehide ]

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ポパーについて。ポパーが「進化論を認めた」と爺は解釋してゐますが、それは間違ひ。ポパーは「進化論の有用性を認めた」だけです。

2009/6/1(月) 午後 8:46 [ nozakitakehide ]

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何れにしても、爺と云ふ人が、ポパーの文章を讀み損ねた事、國語研究について無知である事、野嵜が何を念頭に喋つてゐるかを獨り決めしてゐた事は、指摘しておいていいでせう。

それでゐて、爺は「ガハハ」「あはは」と書いてゐるのです。

2009/6/1(月) 午後 8:50 [ nozakitakehide ]

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「礼賛・信奉」してゐるものが批判、否定されれば普通は「パニクる」。自分が信じてゐることが間違つてゐたのかと不安になるからだ。そこでたとへ「情け無く」見えやうが、自分が正しいことを証明しようとする。
それはまさに野嵜さんがしてゐることだ。

一方、爺がどんなに批判されようが「あはは」の「ガハハ」の平然としてゐられるのは、爺にとつて「科学も SKK も憲法も正假名も」實は「礼賛・信奉」などしてゐない「どーでもいいこと」、ただ「他人を貶す爲」の道具でしかないからだ。
「心にもない」ことで「パニク」つたり「情け無く」なる必要など無い。

「礼賛・信奉」してゐるからといつて「正しい」とは限らないし、「心にもない」ことであつても「間違ひ」ではない。しかし、「科学の専門家」を自認しながらまるで科學的でない爺の言動は「信ずる」に値しない。

>なので、今皆さんが「正假名は科学的である」を証明しそこねても、ユーザが一人減る訣ではないので、ご安心を。
「正かな」を「他人を貶す爲」の道具としかしないユーザならば減つてくれて結構。つーか最初出てきたときには正かななんか使つてなかつたではないか 削除

2009/6/2(火) 午前 2:11 [ 佐藤 俊 ]

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佐藤さんが野嵜さんを擁護しようとしてゐる気持はようくわかりますが、それなら、もう少し良く考えてから書い方がよくないですか?これだと、逆効果ですよ。

> 「礼賛・信奉」してゐるものが批判、否定されれば普通は「パニクる」。自分が信じてゐることが間違つてゐたのかと不安になるからだ。そこでたとへ「情け無く」見えやうが、自分が正しいことを証明しようとする。
それはまさに野嵜さんがしてゐることだ。

普通は、批判されただけでは「パニ」くったりしませんて。批判の方がまっとうで「論破された」と思った時に初めてパニックに陥るものです。だから、批判されて早速パニックになったり、自説を擁護しやうとして「情けない」状態に陥るのは、もともとの主張の根拠があやふやだったから、ですね。 削除

2009/6/2(火) 午前 11:39 [ ]

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> 一方、爺がどんなに批判されようが「あはは」の「ガハハ」の平然としてゐられるのは、爺にとつて「科学も SKK も憲法も正假名も」實は「礼賛・信奉」などしてゐない「どーでもいいこと」、ただ「他人を貶す爲」の道具でしかないからだ。「心にもない」ことで「パニク」つたり「情け無く」なる必要など無い。

これもまたユニークな解釈ですね。爺が平然としてゐる(やうに見える)のは、あなたがたの批判が「批判らしい批判」になってないからで、また「あはは」と笑うのは、もしくは笑ってゐられるのは、あなたがたの議論や批判が(この引用文みたいに)的外れで稚拙だから、であって、「爺にとって科学他がどうでも良い事だから」では決してありません。 削除

2009/6/2(火) 午前 11:42 [ ]

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> 「礼賛・信奉」してゐるからといつて「正しい」とは限らないし、「心にもない」ことであつても「間違ひ」ではない。しかし、「科学の専門家」を自認しながらまるで科學的でない爺の言動は「信ずる」に値しない。

前半の認識は(「深遠」とは言へないにしても)正しいやうですが、後半は全く的外れです。そもそも爺は科学の専門家ではないし、そう「自認」した覚えもありません。あなたがたが「科学的」を云々しながら何一つまともな事を言へないのでそう感じるのですかね。(あんまり嬉しくもありませんが。)それよりも、「しかし」が上手く繋がりませんが、爺の「まるで非科学的な言動」とはどんな事を指してゐるんですか? 削除

2009/6/2(火) 午前 11:43 [ ]

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> 「正かな」を「他人を貶す爲」の道具としかしないユーザならば減つてくれて結構。つーか最初出てきたときには正かななんか使つてなかつたではないか

爺が「愉快犯」にされた時にもお聞きしましたが、「正假名」を使って「他人を貶す」って、どうやるんですか。そもそも爺に「貶されてゐる」と感じてゐるんですか?それは、誤りを指摘されても、まともに反論できなくて悔しい、と感じてゐるという意味ですか?

(「出てきたとき」とは、なんだか幽霊みたいな云はれやうですが)だから初学者だって言ってるじゃあないですか。佐藤さんの正假名による名文を読まされるせいで、「初学者の熱意」は減殺されつつはありますが、いづれにしても、佐藤さんに許可をもらふ必要は感じてないのでお構ひなく。 削除

2009/6/2(火) 午前 11:44 [ ]

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野嵜さん、なる程、「科学的」はレトリックなどでは無いから、スレッドを伸ばすのを止める気も無い、と。でも、なんだか形振り構はない感じになってきましたね。

> 私は別に嘲笑しません。迷惑をかけられて嫌な思ひをして、それで尚、相手を嘲笑できるほど、センスがをかしくありません。

成程。馬鹿だ、アンチだ、愉快犯だ、荒しだ、絡らむなよ、といふレッテル貼りや悪罵は野嵜さんの「センス」に適うんですね。

> 要するに、「アンチ野嵜」は非科學的だ、と云ふ事です。思ひ込みが激しく、その思ひ込みに基づいて全てを解釋するし、反論を聞入れない――さうやつて、私の反論を聞入れない事で、彼等は「勝つ」。
しかし、さう云ふ「勝ち方」をするパフォーマンスに、何の意味もありません。

あはは、これアンチを取った方が意味が良く通りますね。あ「勝って」ないか。 削除

2009/6/2(火) 午後 0:49 [ ]

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> さて、私の豫言は大變よく當るのですが――爺はまだまだ執拗に絡んで來ると思ひます。そこで爺は、國語研究について自分では何も調べようとせず、「野嵜さん、説明して下さい」を何遍でも繰返す事でせう。實に横着な人です。

さうですか。ここだけ読むと、野嵜さんは「善意の被害者」ですね。でも、言い逃れを延々と続けてゐるのは野嵜さんですよ。

> 非科學的でドグマティックな人間も、科學的で論理的・客觀的な風を裝ふ事が出來、他人を欺すのみならず、自分をも欺いて、平氣で粘着化してゐられます。斯うした自己欺瞞を解く事は、容易ではありません。

これも、そのまま野嵜さんに当て嵌りますね。 削除

2009/6/2(火) 午後 0:51 [ ]

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> 爺と云ふ人は、私が斯う言つてゐるのに、理解する氣がありません。
>> 私は「規範として明治政府が定めた歴史的假名遣」以前の、その歴史的假名遣の基となつてゐる「研究成果の假名遣」が科學的だと言つてゐるのです。

「言ってゐるのに」って、でもこれ数日前に言ひだした事ですよね、野嵜さん。

まあそれでも、理解する気は有るのですが、これって私が言っている「規範」と「その基になっている仮説」とどう違ふんですか? 削除

2009/6/2(火) 午後 0:56 [ ]

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> >假名遣ひは、究極的には「きまり」「規範」「正書法」の類いであって、そもそも科学的ではあり得ない。

> 私が何度「爺は私の言つてゐる事を歪曲してゐる」と指摘しても、爺は相變らず、自分の信ずる事を演説し續ける。

> 話になりません。

そんな一方的な決めつけをして見得を切らないで下さい。科学的であるかどうかは、「仮説」に対して一番はっきり言へるけど、假名遣ひが「仮説」でなければならない、としてしまったら、「科学的」である事を証明するのは苦しからう、と思ふのですが。

それでも、假名遣ひがそのまま「科学的」と言ひたい、言へる、と仰るのであれば、是非さうしてみて下さい。 削除

2009/6/2(火) 午後 0:59 [ ]

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> 「研究成果して語形を判明させる事」と「その語形を規範として採用する事」とは違ひますし、研究成果と規範とは別物ですが、爺はそれらを混同します。その混同を爺は「混同ではない」と言張つてゐるのですが、その根據を何一つ説明してゐません。

「規範」とそれが基いてゐる「仮説」と一貫して言ってゐるので混同はしてないと思いますよ。むしろ野嵜さんが

> 私は「規範として明治政府が定めた歴史的假名遣」以前の、その歴史的假名遣の基となつてゐる「研究成果の假名遣」が科學的だと言つてゐるのです。

てな具合に混同してゐるのだと思ひます。 削除

2009/6/2(火) 午後 1:00 [ ]

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> 既に述べた通り、江戸時代に活用の研究が行はれた事は事實ですし、その時點で大體、研究の成果が出てゐます。が、それはさう云ふ事實があるだけなのです。別に何の問題もない。ニュートン力學がニュートンの頃に大體成立してゐて何の問題もないのと同じです。

御意。しかしこれから「だから江戸時代の活用の研究の成果は科学的であった」とは言へないですね。 削除

2009/6/2(火) 午後 1:01 [ ]

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>・爺は、野嵜が、例へば(←これが重要)活用の研究を念頭に置いてゐる事に氣附いてゐなかつた。
> ・爺は、「語形の研究の成果」と「語形の研究の成果を正しい書き方と認めて採用した規範」とを、區別してゐなかつた。

どっちも、上述のやうに、野嵜さんが勝手に誤解してゐるだけです。と言ふか、新に拵えた言い逃れを尤もらしく「整理」してゐるだけ、ですね。

・爺は野嵜さんがどんな事を念頭に置いてゐるかなどについて予断してゐない。

・爺は規範と研究成果(仮説)は勿論違ふものだらう、と思ってゐる。

解消もなにも、野嵜さんの言ふところの「問題」が既に間違ってますね。 削除

2009/6/2(火) 午後 1:03 [ ]

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>> これに対して、いかなる実験や観測によっても反証されない構造を持つ仮説を反証不可能な仮説と呼ぶ。(反証可能性 - Wikipedia)

> 爺は「觀測」「實驗」を問題にしてゐますが、實は「假説の構造」こそが問題です。

はい完全に同意します。ずーっと「反証可能の形に書ける事」って言ってますし。で、まさか、この定義から「観測」「実験」が問題でない、と仰りたいのではないですよね。もしそう思ってゐるなら、それは野嵜さんが間違ってゐます。 削除

2009/6/2(火) 午後 1:08 [ ]

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> ポパーについて。ポパーが「進化論を認めた」と爺は解釋してゐますが、それは間違ひ。ポパーは「進化論の有用性を認めた」だけです。

さうですか?でも、解釈もなにも、Wikipedia にさへ、はっきりさう書いてありますが。

Popper said that natural selection "is not a testable scientific theory but a metaphysical research programme".[14] However, Popper later said "I have changed my mind about the testability and logical status of the theory of natural selection, and I am glad to have the opportunity to make a recantation."[15]

Falsefiability -- Wikipedia 削除

2009/6/2(火) 午後 1:12 [ ]

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> 何れにしても、爺と云ふ人が、ポパーの文章を讀み損ねた事、

これはどうも野嵜さんが読み損ねたみたいですね

> 國語研究について無知である事、

これは当り。でも、このところ野嵜さんも「どっこいどっこい」かなと言ふ疑問が……

> 野嵜が何を念頭に喋つてゐるかを獨り決めしてゐた事は、指摘しておいていいでせう。

これは外れ。爺は予断はしてゐません。むしろ、野嵜さんが最初の「あて」が外れて、方針を変えた事を言い繕はうとしているやうだ。

> それでゐて、爺は「ガハハ」「あはは」と書いてゐるのです
それだから、爺は「ガハハ」「あはは」と書いてゐるのです 削除

2009/6/2(火) 午後 1:14 [ ]

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「ノザキのいふ『科學』がちやんちやらおかしいからおれは笑ふのだ」と爺は言ふ。それはすなはち、「おれの『科學』には一切間違ひがない」という自信がなければそこまでいへないことであり、「科學の専門家」を自認してゐることにほかならない。
しかしそれは喜六郎なんかもそういふのだけれど、「専門家」は知識を笠に着て素人を笑ひものにしてよい、いや「すべき」である、といふことである。しかし知識を素人のために生かすことができる人間、素人を導くことができる人間を専門家といふべきではないのか。素人を笑ひものにするのはただの「知つたかぶり」である。
さらにいへば、「科學」とはそれこそ「反証可能性」、「自分は間違つてゐるのではないか」といふ不安をつねに抱へてゐるものでなければならないのではないか。爺のように「おれの考へには1mmの「間違ひも無い」と傲るのは「反証可能性」のない「疑似科學」でしかない。己の「正しさ」に一片の不安も持たない、「自分のはうこそ『ちやんちやらおかしい』のではないか」とはつゆとも疑はない、いや疑ふ必要など無い、といふ爺の言動は「科學的」ではない。 削除

2009/6/4(木) 午後 10:15 [ 佐藤 俊 ]

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「狼狽へてゐる」から「間違ひ」といふわけではないし、「自信滿々」だからといつて「正しい」わけでもない。

「狼狽へてゐる」「慌ててゐる」と二言目には爺は言ひ、野嵜さんやぼくらを笑ひものにするが、なぜそこまで我々が「狼狽へてゐる」ことにしたいのか。
なんのことはなくて、一番「狼狽へてゐる」のは爺自身ではないのか。「狼狽へてゐる」ことを悟られたくなくて、先に「狼狽へてゐるだらう、やーいやーい」と揶揄することで自身の周章を糊塗してゐるのではないか。
實際、「余裕綽々」な人間が1ケ月以上も粘着したりはしないわな。なにそこまで「狼狽へてゐる」んだ? 削除

2009/6/4(木) 午後 10:21 [ 佐藤 俊 ]

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喜六郎のやうな知恵のないアンチは「インテリぶりやがつて」と嘲笑するし、爺のやうななまじ知識のあるアンチは「知つたかぶり」と嘲笑する。
「正しさ」は知識の多寡には關係無いやうだ。
さういへば喜六郎も「涙目」とか二言目にはいつてたつけ。 削除

2009/6/4(木) 午後 10:27 [ 佐藤 俊 ]

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ええと、爺の言つてゐる事が全部間違ひです。私の指摘は全部合つてゐます。

爺は勘違ひしてゐるから、自分の勘違ひが判らないらしいですね。議論になりません。もつとも、爺は自分に都合良く、事實を歪曲しようとしてゐるだけかも知れませんが。

それで、私が指摘した國語研究史について、爺は何時勉強を始めるんですか。

何れにしても、話になりません。爺が話をしようとしないからです。爺は、野嵜が狼狽へてゐる、野嵜の言つてゐる事がふらついてゐる、野嵜が爺を誤讀してゐる、と許り言つてゐますが、國語研究史それ自體に當つてさつさと爺の解釋を披瀝したらいいんではないですか。

もつとも、爺の解釋の怪しさは、既に「定評」がある訣ですが。

それにしても、これだけ長々と書込む氣力があるのなら、自分でサイトを作つて、野嵜批判でも何でも記事を作つたらいいでせう。何時までコメント欄に居座つてゐるんですか。

2009/6/5(金) 午後 7:34 [ nozakitakehide ]

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Kirokuroにしてもさうですが、爺も「野嵜が説明出來るかどうか」を問題にしてゐるんですよ。要するに、野嵜なる人に興味がある。その人が言つてゐる内容に爺は全く興味が無いんです。人から獨立して論理がある、と云ふ事を、日本人は理解出來ないんです。

假名遣の性質が何んなものか、なんて事に、爺は全く興味がない。「野嵜が言つてゐる新説」に興味があつて――「そんなバカな新説を言出す野嵜の愚かさ」を爺は證明したくて堪らない。野嵜と云ふ「人間」が問題なんです。だからアンチになる。

けれども、人が問題でなく、事實・論理それ自體が問題であるならば、私に絡まないで、爺は直接、私が證據として提出してゐるものに當つて、自分で考へれば良いんです。ところが、意地でも「野嵜に言はせてやる」と爺は息卷いてゐる――「野嵜」「野嵜」「野嵜」。Kirokuroと全く同じです。私の言ふ事を妨碍して、野嵜に吠え面かかせてやりたい――それだけがKirokuroの目的ですが、爺の目的でもあるんです。

2009/6/5(金) 午後 7:43 [ nozakitakehide ]

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――粘着のしつこさは、その粘着の言つてゐる事のをかしさの證明でもあります。一發で論破出來るのなら、粘着する必要もない。だから、人格攻撃に粘着は必ず走る。人に絡むなら、何時まででも絡めるからです。自分が間違つてゐても構はない、相手の人格を問題にすれば――何しろ人間だから、幾らでもつつける訣です。爺が人格攻撃に走るのも、當然です。爺が間違つてゐるから。

然るに、私がしてゐる反撃は、人格攻撃ではありません。「馬鹿」「粘着」「ネットストーカー」――かう言つた私の「常套句」に、Kirokuroも爺も過剩反應してゐますが、それらを「常套句」だと彼等が言ふのも、それらを「人格攻撃」だと彼等が看做してゐない證據です。しかし、そもそも、「馬鹿である」も「粘着してゐる」も「ストーカーしてゐる」も、事實の認定であつて、人格の毀損ではあり得ない。さうした事實の認定をされるやうな事を、爺もKirokuroも、言つたり、したりしてゐる訣です。それを私はありのまゝに述べたに過ぎない。それが爺にもKirokuroにも、氣に食はなくて仕方のない事である訣です。

2009/6/5(金) 午後 7:47 [ nozakitakehide ]

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佐藤さん> 「ノザキのいふ『科學』がちやんちやらおかしいからおれは笑ふのだ」と爺は言ふ。それはすなはち、「おれの『科學』には一切間違ひがない」という自信がなければそこまでいへないことであり、「科學の専門家」を自認してゐることにほかならない。

成程。しかも、それで特に爺の(乏しい)「知識」に挑戦して来ないところを見ると、佐藤さんは爺を「科学の専門家」と見てくれてゐる訣だ。でも、それは買い被り、間違ってます。爺がたまたま「科学論」をあなたがたより(少しだけ)良く知ってゐただけ、ですよ。(さう「自認」してゐます。)しかも、残念ながら「ノザキのいふ『科学的』」をまだ開陳していただいてないので、それを笑ったりできる訣ないではなですか。野嵜さんもさういふ「いじけ気味」のコメントをされてゐますが、笑ふもなにも、まだ「科学的」の定義とか、「歴史的假名遣ひは科学的」をサポートする「仮説」をその片鱗さへ見せて頂いてない、と思ってゐます。 削除

2009/6/5(金) 午後 11:01 [ ]

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佐藤さん> 己の「正しさ」に一片の不安も持たない、「自分のはうこそ『ちやんちやらおかしい』のではないか」とはつゆとも疑はない、いや疑ふ必要など無い、といふ爺の言動は「科學的」ではない。
やっと爺の言動の「非科学的」である所以を教えていただけた訣ですが、それは「ちゃんちゃらをかしい」と思ひますよ。「己の正しさに不安を持たない」といふ忖度は外れてゐますが、さういう佐藤さんの感想は、爺の
・言ってる事が一貫してゐる
・なるべく相手の「言った事だけ」を議論しようとしてゐる
・なるべく明晰に言はうとしてゐる
といふ「努力目標」から来てゐるのでせう。そしたら、佐藤さんや野嵜さんの
・言ってる事がころころ変わる。話を逸らそうとする
・相手の内心を忖度し、それに基いて「人格攻撃」をやらうとする。相手の批判は自らへの人格攻撃ととる
・自己韜晦なのか、無知なのか、非論理的なのか、とにかく、はっきり物を言はない
といふ態度と較べたら、はるかに「科学的」ではないですか? 削除

2009/6/5(金) 午後 11:03 [ ]

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それにしても、佐藤さんの「反証可能性」の使ひ方には、心底がっかりしました。ご自身の言葉の遣ひ方が「をかしいのではないか?」と疑ふ事はないのですか?(やっぱり、佐藤さん野嵜さんには(江洲さんにも?)反証主義は「無理」なんですかね。)

とりあへず、爺の考へを(間違へて)忖度して、トンデモ論理を展開し、なんとか相手を詰ってみせる、といふ佐藤さんの「をかしい」論法は止めた方が良いですね。

佐藤さん> なんのことはなくて、一番「狼狽へてゐる」のは爺自身ではないのか。
>> (間違った想像)

佐藤さん> 「狼狽へてゐる」ことを悟られたくなくて、先に「狼狽へてゐるだらう、やーいやーい」と揶揄することで自身の周章を糊塗してゐるのではないか。實際、「余裕綽々」な人間が1ケ月以上も粘着したりはしないわな。
>> (トンデモ論理展開。しかしこれには笑へる!)

佐藤さん> なにそこまで「狼狽へてゐる」んだ?
>> (辛うじての決め台詞。だが、笑はせた後だから、効果の程は大いに疑問) 削除

2009/6/5(金) 午後 11:07 [ ]

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野嵜さん> ええと、爺の言つてゐる事が全部間違ひです。私の指摘は全部合つてゐます。

成程、「全部」間違ひで、「全部」合ってる、と。そんな風に大見得を切ってもあまり説得力はないですが。(例へばポパー云々は、どう「合って」ゐるんですか?)第一、佐藤さんによると「寸毫も自分の意見を疑はない」のは反証可能でなく、科学的でないさうですよ。

野嵜さん> 爺は勘違ひしてゐるから、自分の勘違ひが判らないらしいですね。議論になりません。もつとも、爺は自分に都合良く、事實を歪曲しようとしてゐるだけかも知れませんが。

あはは、だから、そう言いはるだけ、では説得力はないですよ。

> 要するに、野嵜なる人に興味がある。その人が言つてゐる内容に爺は全く興味が無いんです。人から獨立して論理がある、と云ふ事を、日本人は理解出來ないんです。

あはは、申し訣ないですが(お得意の「日本人論」を持ち出すまでもなく)野嵜さん個人に全く興味は無いです。野嵜さんの「疑似科学批判としての……」とか「假名遣ひは科学的である事」には大いに興味があります。 削除

2009/6/5(金) 午後 11:39 [ ]

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> 假名遣の性質が何んなものか、なんて事に、爺は全く興味がない。「野嵜が言つてゐる新説」に興味があつて――「そんなバカな新説を言出す野嵜の愚かさ」を爺は證明したくて堪らない。野嵜と云ふ「人間」が問題なんです。だからアンチになる。

> ところが、意地でも「野嵜に言はせてやる」と爺は息卷いてゐる――「野嵜」「野嵜」「野嵜」

だから、そんな間違った想像から話を作ってはいけません。假名遣ひには興味が有ります。で、新説にも興味があり、どういふ根拠があるかを知りたい、と思ってゐる。なんだか野嵜さんの仰りやうは、その新説の根拠を示したら馬鹿にされる、と頭から信じてゐるかのやうだ。でも、開陳して、議論してみないと帰趨は定まらないではないですか?繰り返しになりますが、「野嵜といふ人間」は問題ではありませんし、興味もありません。(野嵜さんは、ちと「自意識過剰」の嫌ひがありますね。) 削除

2009/6/5(金) 午後 11:52 [ ]

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> しかし、そもそも、「馬鹿である」も「粘着してゐる」も「ストーカーしてゐる」も、事實の認定であつて、人格の毀損ではあり得ない。さうした事實の認定をされるやうな事を、爺もKirokuroも、言つたり、したりしてゐる訣です。それを私はありのまゝに述べたに過ぎない。それが爺にもKirokuroにも、氣に食はなくて仕方のない事である訣です。

あはは、さうなんですか。御自分の仰る事は全て「事実の認定」にすぎず、「人格の毀損」ではない、と。でも、さう言ってしまったら、お相手の仰る事も「事実の認定」なのかも知れない、と思ふべきですね。例へば爺の「あはは」は(あなたの人格ではなく)あなたの没論理を笑ってゐる、と解釈して下さい。それに Kirokuro さんは知らず、爺は「馬鹿」も「粘着」も「気に食はない」とか「けしからん」とか思ってないですよ。「をかしい」とか「滑稽」とか「子供じみてゐる」とか「戦術として稚拙」とか「言ひのがれしてゐる」とは思ひますが。 削除

2009/6/5(金) 午後 11:58 [ ]

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http://www.talkorigins.org/indexcc/CA/CA211_1.html

>Moreover, he said that natural selection is a useful theory.

>However, Darwin's own most important contribution to the theory of evolution, his theory of natural selection, is difficult to test.

>My solution was that the doctrine of natural selection is a most successful metaphysical research programme.

2009/6/6(土) 午後 1:14 [ nozakitakehide ]

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>I still believe that natural selection works in this way as a research programme. Nevertheless, I have changed my mind about the testability and the logical status of the theory of natural selection; and I am glad to have an opportunity to make a recantation. My recantation may, I hope, contribute a little to the understanding of the status of natural selection.

明かに、ポパーは、進化論の有用性を認めると言つてゐます。

自分の反證に關する主張は行き過ぎであり、考へを改めざるを得ないし、また自然淘汰説についても有用な研究方法として認める、とポパーは述べてゐる。

2009/6/6(土) 午後 1:19 [ nozakitakehide ]

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以上、ポパーの件に就いては、同じ論據から、野嵜と爺とで正反對の結論を引出してゐるが、野嵜の方が明かに正しいし、爺のは誤つてゐる。

國語研究史について言及し、調べてみればその科學性が解ると野嵜は「はつきり述べた」。それに對し、爺は野嵜が論據を「述べてゐない」と解釋してゐる。爺が誤で、野嵜が正しい。

爺もKirokuroも「粘着は惡くない」と言續けてゐるが、世間の常識に照らして異常だと言へる。私にしてみれば、「粘着は善」とする二人の主張こそ「新説」であり、その根據を聞きたいところだ。

2009/6/6(土) 午後 1:24 [ nozakitakehide ]

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爺は「野嵜の解釋」について文句を言つてゐるが、さうした方面にだけ文句を言ふのはなぜですか。

或は、爺は何うして「佐藤氏の態度」に文句を言續けてゐるのですか。佐藤氏の態度を詰れるほど、爺の態度は「良い」ものですか。「粘着は良い」と云ふのは一般に認められた發想ではありません。「新説」です。もつとも、惡質な粘着はみんな自分が正しいと思ひ込んでゐるものです。みんなが迷惑してゐるのに。

爺は、何うして國語史を調べないのですか。自分でも、學説それ自體を檢討しませうと言出してゐたのに。自分の怠惰を、野嵜の所爲にして、ごまかさうとしてゐるのでないですか。

問題は、野嵜の態度でも佐藤氏の態度でもないでせう。野嵜が指摘した、國語研究が、科學的と言へるものか何うか、でせう。それを「野嵜が説明できるかどうか」でテストしようとする爺の態度は――それは間違つてゐますね。横着して話をごまかさうとするんぢやありませんよ。

――呼吸をするやうに話を逸らす性質の人がゐる。爺がそれだ。

2009/6/6(土) 午後 1:30 [ nozakitakehide ]

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要するに、爺が無知であるからこそ、話が進まないんです。そして、無知であるからこそ、爺は自分が何かを發言する「權利がある」と、勘違ひして思ひ込めてゐる――粘着は皆さうです。

Kirokuroにしても爺にしても、或は虹裏の變な子にしても、粘着は、權利なんてないのに「ある」と無根據に思ひ込んで(根據がないから思ひ込みであるのは決つてゐます)、何時までも執拗に絡み續けるんです。それが迷惑なだけでなんの意味もない事に、粘着は氣附けない。そして、自分のしてゐる事が自分自身の立場ををかしくしてゐる事實にも氣附けない。だが、それゆゑに、粘着は豫め、匿名の蔭に隱れておく事で、自分の立場を守つてゐる――無責任ですが、同時にそれは粘着の甘えを意味します。

實名で、爺は――或はKirokuroは――私に粘着できますか。もちろん、できません。匿名だからこそ、爺もKirokuroも粘着できるんです。

2009/6/6(土) 午後 1:36 [ nozakitakehide ]

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もつとも、面が割れてゐても、虹裏の變な子は依然として變な子で、或は糞コテであり續けるのだから、よつぽど自分の正義を信じてゐるのらしい。

然るに、かうした連中が何時までも絡むのは、問題が「何時までも絡める」事に屬してゐるからで、それは「解釋」と云ふ問題であります。即ち、粘着は、「私はかう解釋する」と言張り續ける事で、相手の解釋を「否定」し續ける――けれども、解釋なんてものは何うとでも出來るので、爺がやつてゐるやうに全てを正反對に解釋し續け、それをもつともらしく講釋し續ける事も出來る訣です。それが幾らでも出來るから、爺は執拗になる事が出來るし、さうした自分の行爲を「正しいもの」と看做す事が出來る。けれども、爺の言動は非常識で、異常です。

2009/6/6(土) 午後 1:39 [ nozakitakehide ]

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――しかし、何れにしても、解釋を言ふ事は問題になるんです。價値觀を論ずる事は、アンチを生むんです。だからこそ、アンチと云ふ存在は、爺やKirokuroに限らず、あつてはならない。ドグマ的に「あいつは默らせなければならない」と云ふ態度を取るアンチは、ただ議論を妨碍する事だけが狙ひの、惡質極まる存在です。

國語問題において、「解釋の問題」に話を引込む手合が多く、それに私は抵抗してゐる訣ですが、その手の手合は執拗に「野嵜の解釋」を問題にし、野嵜と云ふ人間に執拗に絡む――それによつて野嵜に發言させまいとする訣です。「露伴派」の誰だかさんも、「自分の解釋」に拘つたし、爺もさう。Kirokuroなんかはただの「愉快犯」だから論外だが、人を罵倒する時、尤もらしく言ふ爲に、野嵜の發言ををかしく「解釋」するのはKirokuroの常套手段。

2009/6/6(土) 午後 1:43 [ nozakitakehide ]

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「現代仮名遣い」が最初から「規範」として「定められ」て反論封じを行つてゐるのも問題だが、さうした反論封じを平氣でやらかす異常な人間は、科學的な歴史的假名遣を論じながら、解釋で「をかしなもの」「根據のないもの」と極附けて、否定する――さうしたやり方も問題だと私は言はざるを得ない。

客觀的に、理論や事實そのものを扱ふ科學的態度が必要なのであつて、さうした態度を日本人が當り前に取れるやうに「ならなければならない」と私は言つてゐる。
ところが、「露伴派」のオウムや爺は、或はKirokuroは、「私の解釋」に拘つて、言葉を客觀的に見る必要を認めない。

主觀的な見方にしても、某氏や爺のやり方は、餘りに「自分」に引附け過ぎる。爺は、自分は客觀的で、野嵜こそ主觀的だ、と言ふだらうが、爺は「野嵜が説明するかどうか」を重視してゐるから、人間が重要であつて、事物は重要でない、と判斷してゐる。それは爺こそが主觀的である事實を示してゐる決定的證據だ。ところが、爺は、證據を突きつけられてもたぢろがない。根據が全くない人間は、盲信してゐるから、反論にたぢろぐ事があり得ない。

2009/6/6(土) 午後 1:49 [ nozakitakehide ]

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「現代仮名遣」は「正書法」だと云ふ言ひ訣も、要は「現代仮名遣を盲信しろ、信ずる者は濟はれる」と云ふ殆ど宗教的な説教に過ぎない。「現代仮名遣」は、非科學的なやり方で作られた根據のないもので、それを「正しい」と云ふ事にするには「正しいと信じなさい」と言ふしかない。

それに私は反對してゐる訣だ。

ところが、さう云ふ私を非難して、爺は「ガハハ」と嗤ふ訣だ。が、嗤ふ根據が爺にはない――少くとも、爺の言つてゐる事は全部をかしいのであつて、をかしな人が他人を嗤ふ事は出來る筈がない。けれども、をかしい人だからこそ、爺は自分に「他人を嗤ふ資格がある」と信じて疑はない。

2009/6/6(土) 午後 1:54 [ nozakitakehide ]

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・正しい理由で他人を誤と非難する。
・正しい理由なく他人を誤と非難する。

人の態度には、どちらの場合もあり得ます。何れにしても、反論を受附けない點では同じです。
けれども、前者の場合、反論が間違ひであるのですが、後者の場合、反論が正しい可能性がある。

爺の場合、野嵜を笑つてゐますが、その根據は甚だ怪しい。野嵜は反論してゐますが、それを爺は受附けない。この時、態度だけを見れば、野嵜がをかしいとも、爺がをかしいとも判斷出來る。

だからこそ、態度を問題にして爭つてゐては話が進まない訣です。だからこそ、爺には國語史を勉強して貰つて、國語學における學説をちやんと知つて貰ふ必要がある。さうしないと、話が進まない訣です。

が、それをやられると、爺は自分の主張がをかしい事を認めざるを得なくなる。此處まで拘つたからには、爺も間違ひを認めたくない訣で、それを認めざるを得ない状況に追込まれるのは困る。だから爺は意地でも「自分では調べたくない」と言ふんでせう。

2009/6/6(土) 午後 1:58 [ nozakitakehide ]

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既に述べた通り、用言の活用研究には(爺の所謂)科學性が十分な認められます。もちろん、それを認めたくないから、爺は必死になつて目を逸らしてゐる訣ですが、事實があるからには幾ら目を逸らしても仕方がない。或は、價値の矮小化をはかつても仕方がありません。

が、福田恆存が指摘してゐるやうに、定家が「發音と表記にはずれがある」と認識した事は重要で、以後のかなづかひ研究が國語研究として非常に有用なものであつた事實を、爺も認めざるを得ないのではないですか。ポパーが反省したやうに、爺にも反省していただければ幸です。

2009/6/6(土) 午後 2:02 [ nozakitakehide ]

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「日本語の用言は未然・連用・終止・連體・已然の各形に活用する」と云ふ訣で、具體的には語によつて違ふ訣だが、大體の傾向はあつて、四段活用とか上一段活用とかに分類されてゐる。

斯うした假設に基づいて、現代のIMEはプログラムされてゐるが、「skk信者」の爺には一般のIMEの價値が認められない。だからIMEのアルゴリズムの基礎となつてゐる國語の理論も爺には認められないと云ふ訣だ。

けれども、私には連文節變換のIMEには價値があると認められるのであつて、その點で爺と根本的に價値判斷が異つてゐる。

2009/6/6(土) 午後 2:20 [ nozakitakehide ]

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もちろん、活用のみならず、形態素とかいろいろの研究がある訣で、それら全てを合理的だとか科學的だとか言ふ積りはないけれども、全體としてかなづかひと云ふものは科學的に解明されてゐると言つて良いし、それを假設として見た時、現代のIMEは實驗として認める事が出來る。誤變換をしよつちゆうやらかすし、それはIMEのアルゴリズムに問題がある事を意味するけれども、だからといつてIMEの根本的な理論が全體として誤つてゐるとまで言ふ必要はなく、細かい修正を當てればそれで話が濟む。

形態素なんて云ふ概念も、てにをは研究が淵源にある事は明かで、日本語に歐米の言語學の成果を適用する事が出來たとすれば、それは從來の研究と云ふ下地があつたからだと言ふ事が出來る。

所謂學校文法の問題は指摘されてゐるけれども、教育用に整理されたその種の文法は兔も角、山田孝雄や松下大三郎、或はその他の人々の提唱した文法假設はその後の研究に役立つてゐるのであり、IMEの開發にも參考になつてゐる。

2009/6/6(土) 午後 2:27 [ nozakitakehide ]

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ところが爺はそれらを全否定してかかるのであつて、私には爺の主張が全く認められない。

2009/6/6(土) 午後 2:28 [ nozakitakehide ]

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IME開發にしても、ほぼ全てのIMEが「現代仮名遣」ベースであるが、契沖の開發で市川氏が述べてゐる通り、「現代仮名遣」の爲の文法モデルよりも、歴史的假名遣の文法モデルの方がシンプルなものになつてゐる。

福田氏が述べる通り、國語における理論的な單純さ・一貫性は、國語の實態を否定し得るほどの重要性は持たない。けれども、理論的な假設としては、よりシンプルな文法である方が有利だと言へる。

文中におけるは行の文字の發音が歴史的にわいうえおに一齋に移行してゐる、或種の連續した母音の發音は一定の變化を伴ふ(au→o:)、といつた法則性も組合さつて、用言の活用の法則は現代語でも結構通用してゐる。

斯うした語形の研究を認めて、そつくりそのまゝ表記の規範として認める歴史的假名遣の立場を、私は十分科學的だと認識する。

2009/6/6(土) 午後 2:34 [ nozakitakehide ]

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> 以上、ポパーの件に就いては、同じ論據から、野嵜と爺とで正反對の結論を引出してゐるが、野嵜の方が明かに正しいし、爺のは誤つてゐる。

野嵜さんて、英語もよく読めないんですか?「有用性を認める」の後に、「考へを改めて、改宗する」すなはち「科学と認める」と言ってるではないですか。

それを無視して「明かに」と言ったって、なかなか通りませんよ。

色々書いてをられますが、結局「歴史的假名遣ひは科学的である」をサポートする「仮説」が見付からなかった、と言ふ事ですか? 削除

2009/6/6(土) 午後 3:45 [ ]

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「反證可能性を根據として科學として認める」立場だつたのを「改宗」して、ポパーは進化論について「有用性を認めて科學として認める」と言つてゐるんですよ。
爺さん、あなたは論理が解らない人です。だから自分勝手な議論をしようとして、一方的に人の言つてゐる事を極附けるんです。

歴史的假名遣が科學的である事についていろいろ書きましたが、爺さんは相變らず全部無視して自分に都合の良い結論を引出さうと云ふのですか。さうでせう。爺さんは、自分に都合の良いやうにしか物事を見る事が出來ない人間なのです。しかし、爺さんの反論が無いからには、私の言つてゐる事が正しく、爺さんの反論は全部言ひがかりに過ぎない事が明かになりました。

IMEが存在する事それ自體が國語研究が科學的である決定的な證據です。爺さんはこれに反論出來ません。だから無視するのです。「無視する事によつて勝つ」――こればつかりです。

2009/6/7(日) 午後 5:10 [ nozakitakehide ]

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好い加減、爺さんには出て行つて貰ひたいんですが、まだまだしつこく絡んで來ますか。好い加減荒らすのは止めていただけませんか。迷惑です。

爺さんは、正かなは非科學的だと云ふ印象を振りまく爲に、わざと正かなでこの記事にコメントを書込んで、自分が如何にも公正な人間であるかのやうに見せかけつゝ、私の「言論活動」を妨碍しようとしてゐるんでせう。

さう言ふと「ガハハ」と爺さんは嗤ふでせうが、それこそ爺さんの本性を顯してゐる象徴的なせりふです。嫌がらせが目的で、嘲笑しようとして書込んでゐるんです。そして、野嵜は嘲笑されるやうな馬鹿な事を言つてゐる「かのやうに見せかける」のが爺さんの目的です。

もつとも、本當に爺さんがをかしい人間である可能性の方が高いと思はれます。いいから爺さんは默つて下さい。正しい事を言つてゐる人間に、間違つた事を言つて絡み續け、相手を苛々させて何が愉しいんですか。

2009/6/7(日) 午後 5:15 [ nozakitakehide ]

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私に絡みたければ、過去の國語研究について、勉強してからにして下さい。

もちろん、爺は絶對に勉強なんてしません。したら自分が間違つてゐると解つてしまふからです。或は、いろいろ調べても、全部自分に都合良く解釋してしまふだけで、ちつとも勉強にならないんでせうが。

2009/6/7(日) 午後 5:18 [ nozakitakehide ]

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>Nevertheless, I have changed my mind about the testability and the logical status of the theory of natural selection

これについて、爺は「反證可能性に基いて自然淘汰説を科學と認める事にする」とポパーが言つた、と解釋してゐる。

>野嵜さんて、英語もよく読めないんですか?「有用性を認める」の後に、「考へを改めて、改宗する」すなはち「科学と認める」と言ってるではないですか。

誰が何う見ても明かに間違ひ。
「檢證性と自然淘汰説の論理的な位置附けについて考へを變へた」とポパーは言つてゐる。

2009/6/7(日) 午後 5:28 [ nozakitakehide ]

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即ち。
・從來、反證可能性を基準に科學と認めるか認めないかを決定するとしてゐたのを、有用性をも考慮に入れる事にすると、ポパーは考へを改めた。
・自然淘汰説について、反證可能性の觀點からは科學と認められないが、(新たに導入した)有用性の觀點から研究方法として價値を認めるとポパーは考へ方を變へた。

で、Wikipediaの記述でも、科學の定義に關して、世間の趨勢は、反證可能性オンリーの考へ方から、研究方法としての實用性を考慮に入れる考へ方に移りつゝある、と云ふ風になつてゐる。
ポパーもさうした世の中の流れに從ふやうになつた――と、さう考へれば自然に理解できる。

ところが、爺は「改宗」すると言つた――「科學と認めたんだ!」と怖ろしく簡單に解釋してゐる。別に良いけれども、その時點でポパーの考へる「科學」の定義が變化してゐる事實に氣附くべきだ。

2009/6/7(日) 午後 5:35 [ nozakitakehide ]

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けれども、今までの「議論」の中で解つた事だが、爺と云ふ人は、何時如何なる場合にも、語句が同じならば内容も完全に同一である筈だし、あるべきである、と云ふ飛んでもなく頭の固い發想の持主で、だから、「科學」と言へばどんなに内容が異つてゐても同じ内容に「なる」と信じてしまつてゐる。だから、ポパーが「改宗」しても、「科學」と言つてゐるからには同じ「科學」であると爺は本氣で信じ込んでしまつてゐる。

が、反證可能性に基いた科學と、實用性を考慮した科學的メソッドと、爺は何うして「同じである!」と力強く主張するのだらうか。「科學」と云ふ一つの言葉で結び附いてゐるから? 頭が惡すぎる。

2009/6/7(日) 午後 5:37 [ nozakitakehide ]

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「科學」と云ふ一つの用語ですら、定義に變遷がある、と云ふのに、爺には「一つの用語は絶對的に一つの意味しか持ち得ない」と云ふ凄まじい異常な主張がある。こんな異常な發想の持主とは話が出來ません。

http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/kokugo/kotoba/Definition.html

語の定義は、一つの記事・一つの文章・一つの議論の中では一貫してゐる事が望ましい――が、現在の議論では、科學なる語の定義の「變遷」がテーマになつてゐる。となると、「科學」と言つたつて、永遠に一つの意味だけしか持たないなんて話し方は出來る訣がない。

ところが爺は「それでも一つの意味で解釋しなければならないんだ!」と激しく主張してゐる。だからこそ爺は「すなはち「科学と認める」と言ってるではないですか。」と簡單に言ふのだが、さう云ふ簡單な言ひ方をする事がそれ自體として欺瞞だ。と言ふか、爺の言つてゐる事は、理窟として破綻してゐる。ところが、表面的な語句で判斷する爺は、自分が破綻してゐる事に氣附かない。

2009/6/7(日) 午後 5:43 [ nozakitakehide ]

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逆に言ふと、表面的で皮相的な、「言葉の用ゐ方」だけで人の言ふ事を判斷して「野嵜は間違つてゐる」と爺が執拗に主張した事は、野嵜の言つてゐる「内容」が正しい事實を裏書きしてゐるものと言へる。

實際、爺は、表面的な人の發言に拘るものの、國語研究それ自體に關しては依然として無知である。無知であるがゆゑに理解出來ないのだが、ところが無知だからこそ爺は力強く好き勝手な事を言へる。無知は強いとしか言ひやうが無い。

で、何時になつたら爺は勉強を始めるんですか。知らないで偉さうな口を聞いても、説得力は皆無ですよ。

2009/6/7(日) 午後 5:46 [ nozakitakehide ]

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