2009.05.26
「サラリーマンNEO」を観て想う/よく闘い続けてきたものだ!?(謝罪・訂正版)
NHKらしからぬ構成で評価が高い「サラリーマンNEO」のエピソード4が相変わらず人気のようだ。確かに実に面白い。ただ前回までと比較して、少しばかりシリアスさが増したように感じるのは私だけだろうか?
正確に言えば私も約6年間、サラリーマン生活を送った事になる。だが、私の場合は自分が「サラリーマン」だという意識を殆ど持つ事はなかった。第一、私はスーツというモノを着た事が殆どない。毎日ジーンズにTシャツ、寒ければ上に革ジャンかスタジャンでも羽織ればよかった。ネクタイの結び方は今もよく分からない。
サラリーマンというより「編集者」「記者」という意識の方が強かった。
確かに嫌な先輩はいた。中村文保社長のニヤケ顔など見たくもなかった。とはいえ仕事だから耐えなくてはならない事も多かった。
耐えて耐えて…嫌な思い出しかない。しかし、イザとなれば蹴っ飛ばし殴ればいいと常に思っていた。空手・格技を扱う媒体に関わっていたからか、何度トラブルを起こし、殴られれば蹴り返すなどの「事件」を起こしたか分からない。
全日本空手道連盟の理事や大学空手部の監督・顧問、人間的に最低最悪(三瓶啓二や増田章などまだマシだ)の吹き溜まり・日本空手協会のバカ連中にはニラまれるし、当時は「取材拒否」だった我が故郷・極真会館からも敵視される中でよく生き抜いて来られたと…今になればまるで奇跡のような思い出が詰まっている。
だから、本音を言えば毎日がとても楽しかった。「第2の青春」真っ盛りだった。
同僚にはガールフレンドの容子がいたし(後に退社するが)、極真芦原道場黒帯の彼女と毎日、昼休みはトレーニングをしていた。土日は道場または容子と、銭がないので区営体育館のトレーニング場でウェイトトレーニング…これが2人のデートだった。
唯一、賞与もない最低レベルの給料だけが不満だった。自分が「低所得者」である事が悔しかった。1985年当時で手取り12万円、後に編集長になっても16万円だった。それで賞与なしはキツい。
だから後年、福昌堂が破産し、中村社長の先祖代々守り通してきた約300坪の敷地と御屋敷が人手に渡り更地になった時、正直「ザマーミロ、吝嗇の報いだ」とツバを吐いたものだ。
下世話な話だが、今の私は不況とはいえ普通のサラリーマンよりは数倍稼いでいる(生活自体は極めて質素だが)。飛行機のファーストクラスに乗るのに何の躊躇いもない。
閑話休題。
大企業でなく、社長も含めてせいぜい10名足らずの会社だ。だから人間関係も単純だったし、「敵」と「味方」がよく見えた。
しかし大きな企業では「敵」が見えない。人間というより会社という組織自体が「敵」であり、時には「味方」にもなる。自分の仕事の成果をいったい誰が正しく判断してくれるのか…、曖昧な中で機械の歯車のような生活を強いられる。
キツいと思った。
大学3年の秋から始まる就職活動で、私は極めて平凡に一般企業を目指していた。
後に広告業界も志望したが出版業界には全く興味がなかった。望洋ながら、「物書き」への憧れはあったが、それは仕事とは別に考えていた。
実際の就職活動でも幾つかの一般企業から内々定を貰った。皆、「超」のつく一流大企業である。大学生活最後の冬、就職先を決めて2週間の研修を過ごした。
だが面白くなかった。
たったそれだけの理由で私は親に相談もせず、相手企業に就職を勝手に断り、こうしてヤクザな道に踏み出す事になる…。
もっとも、私が就職を止めた事を知ったお袋は悲しんだ。だが、私が高校卒業時、マジで盃を交わしてホンマモンの稼業者になれ!
「5年間踏ん張ればトルコ(現在の言葉ではソープ)の2、3店任せられる身分になれるぞ、カタギよりずっと儲かる」
真顔でほざいた親父は何にも言わなかった。
やはり大企業のサラリーマンは辛く大変だ。
昇進、減給、栄転、左遷、単身赴任、倒産、合併、リストラetc…、大学時代の仲間達の25年間は皆、波乱万丈に飛んでいる。
それでも彼らは「オマエ程、波乱万丈もない」と笑うが…。
確かに私の人生も山あり谷ありだった。修羅場も幾度か潜ってきた。夢現舎を興してからは死ぬ程一生懸命に頑張ってもきた。
「筋」だけは違えず不正とは正面から戦い続けてきた。クライアントとの怒鳴り合い、ケンカ沙汰はしょっちゅうだった。
毎日がクライアントや取材対象の空手団体との闘いだった。
現在の私が多少なりとも銭に余裕があるのも長年の闘いの結果だと思っている。その時は損をしても、「筋」だけ通していれば必ず報われる。私は自らの体験を通して学んだのである。
考えてみたら、こんな幸せな人間はいないかもしれない。名目は代表取締役だが、「隠居」を自認し嫌な事を我慢する必要もない。自分が嫌な事はやらないし、部下にもやらせない。
半世紀生きながら、未だに空手だ柔術だと騒いでは年中体を壊し、しかし某会を通じて生涯の「義兄弟」も出来た。
後は、望むかたちで第2の人生をやり直し、倅には悔いが残らないように空手を学ばせ、会社事業を引き継いでもらうだけだ。
しかし…、一歩間違っていたら私も大方のサラリーマンと同じ毎日を送っていたかもしれないのだ。
友人は「オマエはたとえサラリーマンになっても結局は続かずヤクザ稼業に身を投じていたに違いない」と断言するが…。なるほど、少なくとも他人に使われる仕事はしていないだろう。
間違いなく気に入らない上司か先輩を殴って退社していたと自分でも確信している。実際、福昌堂でもM、I、Y、S、A…何人を「鉄拳粛清」してきたか分からない。大学時代の友人らの予想は現実になったと言えるだろう。
でも…、私は編集制作会社の、そして物書きの「矢沢永吉」になるという夢は諦めつつある。私には矢沢さんのような底なしのエネルギーがないという現実を痛いほど思い知らされた。
ちなみに蛇足だが、今年9月19日。矢沢さんの40周年記念東京ドームコンサートが敢行される。たった1回だけの超特大イベントである。全国から40000人のファンが集結する。驚きのサプライズが幾つも予定されていると聞く。必見だ。とはいえ既にチケットは完売、私はファンクラブの特権を利用しつつ3度目の挑戦で買えたほどだ。
しかし、私は「物書き」の矢沢永吉にはなれない。今後、どんなに頑張っても矢沢さんの背中さえ見えずに終わるだろう。
そんな私は、生き方として「吉田拓郎」に惹かれている。あの飄々と好き放題、自然に生きてきた吉田さんの包容力に多大なる魅力を感じている。これも一種の挫折かもしれないが…。
とはいえ、まだまだ夢現舎の、また物書きとしての「夢」は捨ててはいない。もう日本の腐れプロ野球界では試合をしたくない。目指すはメジャーのヤンキースかドジャースのレギュラーポジションだ。今のところ、何とかメジャーリーグのレギュラーにはなれそうだ。キツいがやるしかない。
…そんな事を考えながら「サラリーマンNEO」を観ている。笑いの中に、必ずサラリーマン生活の悲哀が漂う。それが私には違和感として映るのだが。
大学時代の友人も含め、彼ら世のサラリーマンたちはどんな気持ちで「サラリーマンNEO」を観ているのだろう? フッと複雑な感慨を覚えてしまった。
(了)
※既に修正しましたが、仕事を通した些細なイザコザから私はなくてはならないパートナーを否定するが如き文章を書いてしまいました。仕事のトラブルや著書の制作に臨み、私たちはよく「ケンカ」をします。
しかし、それはあくまで両者2人で解決するべき事なのです。それを感情に任せてパートナーを腐する表現を書いた事をここに反省も含めてお詫びいたします。
samurai_mugen at 15:38
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