検察官のバッジは「秋霜烈日章」と呼ばれる。白い菊の花と赤い旭日(きょくじつ)を組み合わせたデザインだが、菊花が霜の結晶のように見えるからだ。
だが、その説明では足りない。秋の霜のように厳しく夏の太陽のように烈(はげ)しいという「秋霜烈日」が、正義を追求する検察官の理想だからでもある。伊藤栄樹元検事総長の回想録「秋霜烈日」には、バッジのかたちと、厳正という検事の理想像とが重なり合ったものだと書いてある。
では「秋霜烈日」という言葉はどこからきたのか。中国・南宋時代の詩人、辛棄疾(しんきしつ)の「永遇楽・烈日秋霜」に「烈日秋霜、忠の肝(こころ)、義の胆(こころ)」という句がある。忠誠心の強さの形容だ。
注釈によるとこの「烈日秋霜」という表現は「新唐書」の段秀実列伝を踏まえている。段は唐の時代の武人。節度判官という地位にいたことがある。検察官の先祖かもしれない。新唐書は「たとえ千年五百年たっても、彼の英烈なる言葉は、、厳霜烈日のごとく畏(おそ)れ仰ぐべし」とたたえている。
8世紀の半ば、唐の大軍と、勃興(ぼっこう)するイスラム帝国アッバース朝の大軍が中央アジアで激突した。有名なタラスの戦いである。唐軍の主将は高句麗の貴族、高仙芝。副将が李嗣業、別将が段秀実という陣容だった。
唐軍は大敗する。高将軍は逃げ出した。夜中、異変を察知した段は上役の副将を責めた。「自分だけ逃げて多数の兵を危険に陥れるとは仁にもとる行為だ」。李は恥じて敗残兵を収容しながら退却した。
その後も段はしばしば上司の非を責めた。783年、ついに段は上司に殺害される。上司からクーデター計画に参加するよう誘われた。段は上司の顔につばを吐き「狂賊め、はりつけにしてやる」と言い、上司の手から象牙の笏(しゃく)を奪ってなぐりつけた。上司は満面血に染まった。
ことほど左様に、烈しく上司の非をただす気迫が秋霜烈日という言葉の真面目なのだ。
西松建設の政治献金事件で、検察は野党民主党の小沢一郎氏秘書を逮捕したが、与党議員の摘発はない。民主党は次の総選挙で与党になる可能性が高い。同じ秘書を逮捕するにしても、それまで待てば与党議員の秘書の摘発になった。検察の矛先が自民であれ民主であれ与党に向かっていたら検察批判は起きなかったろう。野党では秋霜烈日は役不足だ。(専門編集委員)
毎日新聞 2009年5月28日 東京夕刊
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