It's Me・・・・

ひとには、それぞれのドラマがあって・・・・
こんな生き方をしてしまったわたしにも、家族と友達がいます。
友人が“あした、天気になあ〜れ”とメールをくれます。
曇りがちな心もすーっと晴れていきます。
いつか、きっと、願えば晴れが来る・・・。
そんな想いを込めて・・・・・。


  野良犬の出生
 

 私には誕生日が、3つあり、戸籍は2つります。これはとてもラッキーです。

 お友達が忘れても、「大丈夫、あと2回プレゼントを渡すチャンスがあります」

 と言えますし、うまくいくと年に3回も・・・うひひひひ。(未だ成功していませんが・・・)

 大阪に釜が先というところがあります。あいりん地区とも呼ばれています。東京でいう「山谷」です。

 この世を生きながらこの世を捨てた人たちの暮らす街です。

 昭和33年?1月8日?(たぶん)

 雪の降る寒い明け方近く。暖を取ろうと浮浪者たちが火を熾す。その傍で横たわる母。

 望まない命の出現はこうして始まりました。

 簡単だったと姉は話します。簡単に生んだよって。

 生れ落とされた私は可愛さとは無縁の“死体”でした。

 その首にはへその緒が4重に絡まり、泣き声をあげるところか、

 身体は青白く変色していたそうです。

 姉は、幼いながらも私を米袋に押し込み、火が燃え滾るのを待っていたという。

 当の母は、出血多量の瀕死の状態だったらしく、病院へと搬送。

 かくして、私の死と隣り合わせの人生が始まりました。

 かすかな泣き声に気付いた浮浪者仲間が、そっと袋を開けてみると、

 ゲゲッ!なんと悲鳴に似た泣き声をあげる私がそこにいたのです。

 こんな時から私の執拗な生命力は養われていた・・・。

 大阪・天満宮で、えべっさんの準備に追われている光景を目にしながら、

 私は産み落とされ、この世に生を受けました。

 雪が降っていたというから、そこから推測してたぶん、

 1月8日だろうというのだから、なんと曖昧なことでしょうね。

 父 玄 ○○。北朝鮮からの密入国者です。

 母はその男に見初められたらしく、次々と子供を生みました。

 産む事で父との関係を続けたかったのでしょう。父には本国に本妻さんがいて

 男の子が生まれなかった

 そうです。父との関係を続けるには、男の子が必要だったのでしょうね。きっと。

 昭和27年5月長女・出産

 昭和29年4月3日(後にこの誕生日が私のものとなる) 長男・出産。

 翌、5月。長男死亡。そして、

 昭和31年5月 次男・出産。後にこの兄は父の元へと引き取られ、

 別の人生を歩むことになります。

 昭和33年、野良犬・出産

 この世に望まれない命があったとするならば、きっと私のことでしょうね。

 この歳になっても、「あんたは、いらない子だったんだよ」と話す、母と姉。

 ここで、説教です!

 この子は橋の下で拾ってきたんだとか、鳥が運んできたから、

 どうしようもなく育ててやってるんだなんて、

 大人たちが冗談語化しに話すことがあります。

 そんな冗談はまっぴらごめんにしてください。

 小さな心にそっとしまって、傷つき続ける子供がいます。

 どうして私が生まれたの?って聞かれたら、愛する命を増やしたかったのよ

 って答えてあげてくださいね。

 

 生きてしまったものはどうしようもありません。犯罪者になることもできませんしね。

 1歳のころの私ときたら、髪の毛は1本も生えておらず、(6歳あたりからぼつぼつと生え始めました)

 体重も9キロを切っていたといいます。

 完全な栄養障害を抱えながらも、浮浪者の中で私は生き延びました。

 生れ落ちた日のことなんて、自分の記憶にあることではなく、

 人から聞いたことに過ぎません。誕生の頃って、本人の記憶にはまったく無いに決まっています。

 貴方の父と母はこの人ですよって言われたわけでもなく、

 ただ、小さいときから一緒に居るから、

 ああそうなんだと思い込んでるだけかもしれませんね。

 

 孤独の野良犬

 と、ここまでは、聞いた話にしか過ぎません。

 私の記憶は、5〜6歳頃からから始まります。

 姉と私はたぶん、6つ離れています。姉は学校へは行っていなかったのでしょう。

 記憶とは、ばらばらになった映像をつなぎ合わせていくものですから、

 きっとどこかで矛盾が生じてきます。まあ、それはしかたないこととして、

 心で感じたことは、鮮明に残るというもですね。

 

 北朝鮮から妻子と別れ、脱北者になった父は、うまく韓国人部落に隠れ、そこで

 韓国籍を入手するのに成功しました。そのために必要だったのが、

 後に出てくる、第2の戸籍上の母、「たえこのおかん」です。

 たえこのおかんには、男の子が出来ず、母には男の子がいましたから、

 それを餌にこれまで母は幾ばくかの金を貪っていたようです。

 こんなアウトローの母ですから、当然のごとく親戚一同からは疎遠になっちまいました。

 父はというと、うまく次男を引き取ったもんですから、「たえこのおかん」とフツーに暮らしていました。

 母はしばらくの間、父から「お手当て」を頂いていましたが、

 やがてそれもなくなり途方にくれたようです。そして、次の棲家を探す決心を・・・。

 釜が先というところは人情に厚い町で、誰もが肩を寄せ合って生きている、

 生きながらえる人の墓場のようなところです。

 誰一人として、過去を探るものはいない。

 ここには、毎朝のように日雇い労働者を探す車がやってきます。

 そこに母のチャンスがありました。

  「飯場の賄い婦・求む・住み込み・可」

 私達の新しい生活のスタートです。私、5歳の

                

 おかげで食べる物と寝床には困りませんでした。

 朝早い宿舎は、ご飯の炊ける匂いで目覚めます。

 母がせっせと働く姿を見ながら、私達3人は誰よりも早い朝食をとります。

 炊き立ての白いご飯なんて始めて口にするものですから、おかずや味噌汁なんて・・・

 遊びといえば、高く積まれた布団部屋でのかくれんぼ。

 建築現場まで小さな足で歩いて、鉄を集める。それを売り小遣いにあてる姉。

 もちろん、私も参加しなければならなかったのですが。

 寝るというなんでもない毎日の習慣・・・・。これがたまらなくいやでした。

 3つに仕切られた布団部屋は、 端から母の部屋、真ん中が姉達の部屋。

 その隣、1畳ほどのスペースが私の寝床。。

 夜になると、母の部屋から何やら喘ぎに似た声が

 ベニヤ板の壁をとおり越えて、毎夜聞こえてきます。

 それは母が虐められている声だと思っていたのですね。

 後にそれは勘違いでどうやら、賄い婦以外の仕事の時の・・・

 本当に記憶というものは、当てにならないかもしれません。

 断片的な映像をつなぎ合わせ、そこに当時の感情を移入していきます。

 残っている記憶・・・・。飯場・鉄くず・布団部屋・喘ぎ声・・・・・。

 そして・・・・。セルロイドの人形。

 母と姉達はいつも一緒でした。

 公園に行くという母達に後姿は、どんどん遠ざかっていく。

 どんなに走っても、どんなに大きな声をだしても追いつけない。

 ひとり、公園にたどりついた私は、滑り台に登り、母達の姿を探す。

 遠くに気をやられて、私は滑り台から落下したのです。

 血だらけの足・・・。親指の爪が剥がれていたことを覚えています。

 歩けなくなった足を引きずりながら、まだ、母達を捜しました。一生懸命・・・

 後ろから聞き慣れた笑い声・・・。やっと逢えた・・・・。かあちゃん・・・

 泣きじゃくる私の横を、何もなかったかのように、母達は通り過ぎて行きます。

 もう、追いつけない。そのまま公園にたたずむしかなかった。

 自分は何かが違う・・・。そう思う出したのもこの頃。

 誰かがそっと持たせてくれた裸のセルロイド人形。

 誰にも見つからないよう誰かに青いペンで、「かあちゃん」と書いてもらいました。

 

 説教タイム!

 子供達は決して美食を望んでいません。欲もありません。

 ただただ、母の笑顔を見ていたいだけです。

 母ちゃん達、いつもどんなときも笑って子供を見てあげて!一生懸命にね。

 子供には母しか居ないのですから。

 子供の出すかすかな信号に気づいてあげてください。

 多くの言葉を持たない子供達ですから。人はひとり・・・人離では生きられません。

 

  

 時は変わって神戸市内。気づくと商店街のお菓子屋の2階に移り住んでいました。

 何故か、兄が居ない。そういえば、ここにくるまで母や姉の姿も見えませんでした。

 どうやら、しばらく施設で過ごしていたらしいのですが、

 その記憶はいつのまにか、所々消去されています。どれ位時間がたっていたのでしょうか?

 沢山の子供達とずらりと並んだ、お日様の匂いする布団。

 いっぱいいる大人達・・・・。

 

 気づくと母と姉、そして私の3人暮らしが始まっていました。

 お菓子屋は「フサヤ」といって、大きな缶に詰められたおかしを小さな袋に詰め替えて

 売っているお店でした。

 今はもう姿がありません。

 6畳一間のその部屋の真ん中に、おおきなベッドが置いてありました。

 私の寝床は、ほんの小さな隙間、そのベッドの下になりました。

 自分だけのスペース。基地を、手に入れた気分・・・

 炊事場や、トイレは共同で使います。

 5年生になった姉はどうやら学校に通っているらしい。

 私は毎日、ロバのパン屋と紙芝居が到着するのを心待ちに待つ。

 相変わらず、母は昼も夜もいない。

 そんな生活はすっかり慣れていた。

 ロバのパン屋がやってくると、大声で商店街中を走り回り、

 客集めに精をだします。そうすると、その日の昼食、メロンパンをありつける。

 私だけに許された唯一の、だが偶にしかあたえられない昼食・・・。

 そして、競い合ってロバのうんこ踏み大会が始まります。

 足が速くなるという、おやじの言葉を信じていたこの無邪気・・・・。

 ロバのパン屋が、帰る頃、待ちに待った紙芝居がやってくる時間。

 拍子木をもって、またまた、商店街を一周します。

 型抜きを貰う為だ。5歳のちいさな手で一生懸命、型を抜く。

 いつも失敗に終わるのですが、おやじは必ず、水あめをくれました。

 

 商店街の入り口付近に米屋があって、私は常連。

 1週間に一度、私だけの米を1合買いに行く一番ちいさな客でした。

 その日もいつものように米を買いに行きました。

 雨が降っていた。傘と米をもって歩くのは、5歳の私にとっては重労働で。

 傘をさすと米が持てないし、米を持つと傘がさせない。雨に濡れる事より米のほうが大事です。

 目の前に大きな水溜りがあるとは知らない私は、見事、足をとられひっくりかえった。米・・・・・。

 地面に散らばってしまった1合の米。

 拾い集め、スカートにくるむ。そっと、そっと・・・・・・。

 砂利にまみれた米を丁寧に洗い、ごはんを炊く。

 ままごと用のちいさな茶碗は、何度でもおかわりができて私の空腹を満たしました。

 何度も、何度もおかわりが出来る幸せ。

 野良犬の血統書(1枚目)

 

 その日、母と姉は朝からとても機嫌が悪かったのを覚えています。

 どうやら、私の学校のことで役所ともめているらしいのです。

 私を学校にやらなければ、母が罰せられる。

 私には、この時まで戸籍というものがありませんでしたから、

 慌てて作ったのが、2番目の誕生日になる、4月3日。これは私の誕生日とは大きく離れています。

 これをどうやって今更ながら作ったかといいますと、

 当時に韓国籍を持つ者の戸籍自体がいい加減なもんで、

 どうにでもつくれたわけです。当時、長男は望まれて生まれてきた子でしたから、

 とりあげた産婆がいましたので、出生記録がありました。

 母は、この出生記録を取り替えたのです。生まれ年と性別だけを改ざんして。

 こうして、私は法律上、生まれました。

 始まり・・・。

 神戸市立春日野道小学校1年27組・・・。ほんとに27組だったのかなあ?27番かなあ?

 とにかく、1年生になりました。オレンジ色のランドセルを覚えています。校庭が上と中と下に3箇所

 あって、木造の校舎だったような気がします。この頃の私は大の学校好き。

 いつだったか、おたふく風邪にかかり、それでも学校に行ったら、用務員の先生に

 返品されてしまいました。しっかり背中につかまり、風を切って走る自転車の速さと、

 用務員さんの暖かい背中を時々思い出します。

 「病気が治ったら、又おいで」・・・・その日がから行く事はなかったのですが・・・

 それでも私には友達がいました。聾唖のエイコちゃんは、たった一人の友達。

 彼女は私の泣き言を毎日聞いてくれました。聞こえる耳はもっていないけど、心の耳を傾けて。

 エイコちゃんも学校へ行ってなかったので、

 私が毎日持って帰ってくる給食の残りのパンを楽しみにしていてくれました。

 私もエイコちゃんといっしょにパンを食べます。学校以外で人と食事できるのは

 この時だけなのですから。

 この頃の私の頭は、毛が所々にしか生えていないというスペシャルハゲ星人。

 フサヤのおばちゃんが黄色の毛糸であんだ帽子をプレゼントしてくれました。

 長い三つ網がついている。毛の代わり?この帽子が悲劇を生む事になるなんて

 知るよしも無く、学校にかぶって行ってました。これが学校に行かなくなった原因です。

 民生委員の薦めもあって、私はハゲ治療に行く事になりました。

 毛の無いところに無数の注射をして行きます。極度の栄養失調状態の為、

 栄養が毛にまで届かない・・・。私は元気なのに。

 これがとても痛い。注射の後は腫れ上がり血だらけになります。

 本当は帽子をかぶってはいけないのですが、人の好奇な目を避ける為、帽子をかぶったのです。

 血と膿で帽子はべったりと頭皮に張り付いています。

 なんと、これをイベントを楽しむがごとく、母達は一気に剥がします。

 この時、決して悲鳴を上げたり、泣いたりしてはいけません。母達を興奮させてしまい、

 更なるイベントが待ち受けているからです。ただ、時間が過ぎるのを待つ・・・。

 額を伝わって生暖かい血が私の顔面を覆います。

 (帽子をかぶった私がいけなかったのだから・・・)

 

 

 開けて、正月。

 昔の正月には風情がありました。凧や羽子板、着物姿の商店街。

 私ときたら昨夜から、冷蔵庫の中に居ました。

 その頃の冷蔵庫は、氷がなければ冷えないという、私にとっては不幸中の幸い箱。

 古びた冷蔵庫は、それとしては役に立たず、ふだんは物置として使っています。

 どうやら、私が母と姉のご機嫌をそこねたらしいのです。姉の晴れ着に袖を通しただけなのに・・・。

 餅の焼ける匂いに目が覚めました。

 なんといってもこの冷蔵庫、こわれていますから簡単に出られます。

 冷蔵庫から、そっと身を出し、部屋をのぞくと、奥では姉の晴れ着姿が。

 そんなことより、置かれた餅を食べる方が先決です。

 晴れ着より餅が良い。晴れ着で腹は膨れないのだから。

 正月2日の夜中だったと思います。

 なにやら慌しく母と姉が、荷物を運んでいるのに目を覚ましました。

 あるだけの家財道具をリヤカーに積み込み、今から引越しをするのだといいます。

 今までも何度も引越しをしていたはずですが、私の記憶に残るのはこれがはじめてのお引越し。

 真夜中の闇に隠れて、私達はリヤカーを引き出しました。

 それでも何だか、楽しい。初めての家族旅行のごとくはじゃいだものです。

 たぶん、お昼が近かっただろうという時間に目的地、兵庫県明石市に到着。

 空腹と疲労の為、しゃべる事もできなかった私の前にそびえる建物、ここが新しい家?。

 なんとしゃれた建物。4階建ての、それも鉄筋コンクリート。

 鉄のドアをあけると、2つの部屋と台所。

 驚いた事に、部屋にトイレも風呂もある。トイレには水が流れる???

 そして、もっと驚いたことが私の待っていました。

 片方の部屋に男が居る。今日からの義父・前田。

 お父さん・・・。はじめて口にした言葉。

 前田は私を見ると、膝の上に招き入れました。大きなそして暖かい。あの布団部屋よりも・・・。

 その日から似非家族が出来上がりました。

 悪い子

 

 家から少し離れた所に薬局がありました。毎月月の初めには必ず行くところです。

 昔の生活保護費の受け取りは、地域の民生委員さんの所で行われていました。

 ハンコを持っていくと、当時のお金で4万9000円が渡されます。私たち、いえ、母達の生活費でした。

 約束のように、必ず聞かれること。

 「おかあちゃんは?」

 「病気で寝ています」

 こう答えることで、封筒と10円、そして『サトウチャン人形』がもらえます。

 私の唯一のコレクション。

 

 (どうか、時計が進んでいませんように)・・・。

 5時が近くなると、恐怖がよぎります。

 放課後の給食室の前で、残りの牛乳が出てくるのを心待ちに待つ。−これが今日の夕食−。

 先生が言ってた。牛乳は骨を強くするって。骨を強くしておく必要があったのです。

 必ず2本飲み干して急いで帰る。

 母からの体罰は日に日に増してゆく。門限破りは、裸吊りと決まっています

 しくじりました。牛乳が出てくるのがもう少し早ければ・・・。

 廊下と台所の間に横柱があってそこは私を吊るすためにあります。

 最初に着ている物を全て脱がなければなりません。

 次に、何故時間に遅れたのかを聞かれます。が、答える必要はありません。

 答えても答えなくても次のイベントは同じなのですから。

 黒の皮のベルトが私の両足めがけて鈍い音を奏でます。これは片足10回づつと決まっていましたので

 10・9・8・7・・・・・・。1の次は終わり。そしてもう片方。

 私の頭の中はただ数を数えるだけ。泣いてはいけないのですから。

 私は門限を破った悪い子ですから、しょうがありません。きっと友達も同じはず・・・・。

 次に私の両足はベルトで縛られ、柱に吊るされます。私は母の捕虜。

 やがて、一通りの儀式を終えると私は風呂場に置かれます。

 さっき飲んだばかりの牛乳は私の髪の毛にべっとり張り付き、

 お尻の下に置いた手はもうしびれている。空腹は頂点。

 痛みを感じなくする方法は、何となく心得ていました。何も考えず、何も見ず数を数える。

 そっと聞き耳をたて、部屋の様子をさぐり、母が夜の飲み屋やへと出て行くのを待ちます。

 やがて母が出て行くときのドアの音がけたたましく鳴り響き、私の平穏がやってきます。

 私の部屋へ戻るには台所を通らなければなりません。この時も注意して・・・。

 母が姉の為に作った食事、これに決して目をやらないようにしなければ、

 明日は、水攻めが待っている。

 部屋に戻ると、残してきた給食のパンをかじります。何度も吐きそうになるけれど・・・。

 恩師
 

 私さえいなければ、母は玄と結婚して幸せに暮らしていたのかなあと思う日があります。

 毎夜、酔っ払って帰ってくる母の着物をたたみながら、子供心にこの人の哀れを感じたことがあります。

 母の執拗な虐待は止まるところを知らず、

 ある時などは熱したアイロンを太ももに当てられたこともありました。

 さすがにこの時は悲鳴に似た叫び声を上げたものです。

 私は5年生になっていました。ずーっと悪い子のままで。

 5年生の冬。私にも初潮がやってきました。

 その日はいつも通り学校へ行き、ひとり、教室の片隅に座っていると、

 生暖かい感触があって、トイレに駆け込み、股間を伝わる少量の血。

 怖くて、怖くて、トイレに何時間も閉じこもってしまったのです。

 私は、教室から忘れられた存在でしたから、誰も気づかないまま、時が過ぎ、

 鍵を掛けにきた教頭先生に見つかるまでは・・・。

 保健室に連れて行かれた私は、その時初めて女の子の初潮というものを知ったのでした。

 下着を替えられ、綿花を当ててもらいました。

 「明日から、トイレに行くたびに綿花を代えてね。」

 そう言いながら、保健室の先生が涙ぐんでたのを覚えています。そして、

 私の足や背中に残る無数の傷を見て、どうしたの?と。

 何も答えなかった私がそこにありました。何も聞かないでという想いも。

 その日から私は学校には行けなくなりました。

 

 6年生になって、担任が変わったことを知りました。

 頭のでっかい、もしゃもしゃ髪をしたその先生は、毎日私の所へやってきました。

 母が病気かもしれない事、私は何も悪くない事、いつか晴れる日が来る事

 いっぱい教えていただきました。詩を書く事も。

 宿題を一門づつ置いていきます。これができたら食べていいよと、

 1つのキャンディー。食べる事のできなかった私の宝物。

 修学旅行、行けないと思っていたのに、先生が連れてってくれました。

 先生が残してくれた言葉・・・「不正を怒る人間であれ」

 先生は私を助けてあげれないことを悔やみながら、私が中学に上がった春、

 この世を旅立ってしまいました。

 さようなら、合田先生・・・・。いつか晴れる日が来るね。

 地獄
 

 姉のお下がりの制服は、私には少々大きすぎましたので、安全ピンは大変役に立ちました。

伸びきった髪をお下げに結び、新しい環境は少しの間、私に夢をくれました。

水泳部、テニス部を経てソフトボール部に落ち着いていた私の門限は、6時となりました。

その頃の母は、何故かしら元気がなく、

お陰で毎日繰り返されるであろう“ゲーム”のゴングは鳴ることはありませんでした。

いつものようにクラブを終え校門前のパン屋でチェリオを飲み干し、

通りにある肉屋でコロッケを買います。

それは必ず2個と決まっていて、コロッケと一緒に残しておいた

昼食のパンを食べながら家路に着きます。

家に着くと、めずらしく灯りが消えていて、戸口で待っていると、

美容院へ住み込みで働いていた姉と義父が深刻な顔をして戻ってきました。

明日の学校は休むように命じられ、家の中には母の姿が見えませんでした。

翌朝、早くに玄関を叩いたのは、白衣をきた数人のおじさんたち。家の中を消毒し始めました。

母が結核になってしまったこと、1年間は療養所から戻れない事、

私たちも感染しているかも知れない事を告げられ、私は天にも登る気持ちでいた事を忘れません。

晴れた!やっと晴れた。結核に感染してようともそんなこと問題ではない!

数日後、義父と共に遠くはなれた療養所に母を見舞いに行きました。

面会はガラス越しに行われ、母の顔には大きな真っ白なマスクが掛けられていました。

腕には点滴の針が通され、この針はとても痛いものであるようにと

神様にお願いしていた自分がいます。

帰りの電車は夕暮れ時も手伝って、のんびり動きます。車中から見る建物に夕日が

きらめき、開放された心と義父の優しさがいつのまにか眠りへと誘っていました。

電車から降りてバスを待つその前に、小さなお好み焼き屋さんがあって、

義父が夕食をここで済ませていこうと提案してくれました。生まれて初めての外食です。

焼きそばを注文した私は、目の前の鉄板で踊るように豚肉が焼かれ、

キャベツが甘い香りを漂わせながら音を立てている・・・。

口の中ときたら、飲み込んでも飲み込んでも唾液があふれ、

もうそれだけでお腹いっぱいになりました。

義父は消毒だよと言って、日本酒を1合私に勧めてくれました。

アルコールだから、消毒なんだと・・・・。

一口二口と飲んでいく私の意識はもうそこには存在しませんでした。

息苦しさに目を覚ますと、そこには義父の大きな体が覆いかぶさり、私の自由を奪っていました。

もがいても、叫んでも、私の体は義父の下から出る事は出来ず、

やがて、股間に激痛と共に生暖かい出血を見ました。

何も考える事も出来ず、何が起こっているのかもわからず、痛みと義父の重みに耐え、

朝を迎えたとき、襲い掛かる吐き気を抑えながら、歩く事もできず、布団にくるまっていました。

やっと、布団から這い出し、飼っていた文鳥の元へと・・・・。

本当に一人ぼっちになってしまいました。

冷たくなっていた文鳥を抱え、小さな穴を掘り、ただ呆然とその場を離れられなかった。

母のゲームから逃げようとしたことがあります。毛布と少しばかりの食料を持って。

夜中にそっと抜け出すとそこには木に繋がれた1頭の犬、ジョン君がいて、

彼が私の逃亡を阻止してしまいました。彼も一人だったから・・・。

今でも夜は嫌いです。夜になると不安で怖くて冷たくて。

義父の執拗な遊びは母の退院の日まで続きました。

退院の日、がたがた震えて声にならない声でそっと母に打ち明けました。母は薄笑いを浮かべ、

またもや、母の目の前でそれは繰り返されたのです。

幾ばくかのお金は手元にありました。中学2年の夏。

1時間目の授業が始まる前に、購買部で私が買ったもの。折りたたみのカミソリ。みんなが鉛筆を

削るために用意するものです。赤に近いとても綺麗なピンクだったのを覚えています。

2時間目の国語の時間。窓際に席があった私は外を眺め、せみの鳴く声を聞きながら、

机の下に手を差し込み、カミソリの刃を広げます。

これで、本当に全てがなくなる。きっとあの文鳥が舞い降りてきて、私をどこかに運んでくれるんだと

願いを込めて、手首に当てた刃を一気に引き抜きます。

熱い感じが腕いっぱいに広がり、もう一本・・・。熱い中に冷たい液体が流れていきます。

先生が読み上げる古文がトンネルの中の響きに変わり、隣の席の級友がめくるページの音は、

小波のように耳に心地よい・・・。薄れていく意識の中で紙芝居の拍子木がなり、

鼻の奥に残っている揚げパンの香りを思い出しながら・・・・。

気づいた白の空間の中に、母と姉の顔がありました。

また生きてしまったことを罵倒されながら、薄黒い顔が二つ並んでいました。