生きがいとはどうやら他者との相互関係の中にあると考えられる。それを定式化すれば次のようになる。
「生きがい」=「他人からよせられる関心」× 「それに応えているという自覚」
先ず他人からよせられる関心がある。それに応えているという自覚が生じる。そしてその2つの積として生きがいが生じるのである。
他人の関心がないのに自分だけで勝手に自負、ひいては生きがいを保つのは難しい。
視点を変えれば、生きがいとは富とか地位と異なり、無限に創ることができるものであるといえる。私が身近な人の生き方、興味、得意とするものに関心を示すならば、相手はそれによって励まされて、生きがいを感じるのである。多くの人の生き方、存在に関心を持てば多くの生きがいが創られる。
生きがいとは関心によって不断に分配可能なものである。他人への関心がその人の生きがいにつながるものと見れば、私は深い歓びを得る。
同時に周囲の人びとは私のなかにさまざまな関心を見つけ出し、私の自負心をかき立ててくれるだろう。
私ふうに言いかえれば、つまり、生きがいとは、人から必要とされている度合いとそのニーズ(必要とされていること)に応えられることとの積ということになる。
誰からも必要とされていない、むしろ邪魔な存在とみられていると言うことは生きがいの喪失につながるであろう。
そして必要とされていても、それに応えられないのであれば、また生きがいも消え去ってしまう。
他人から必要とされることとその必要に応えられることとは確かに生きがいを構成する重要な要素であることはまちがいない。
しかし、無名の多数からよせられている関心は受け手にとって真の関心ではない。それは幻想のなかの関心であり、そこから創られる生きがいは華やかに見えて空虚である。
真の関心は少しでも知り合っている人から向けられた関心である。よく知っている人から「ああ、あなたはこんな生き方をしていたのか、こんな能力があったのか」と関心をむけられた、真実の生きがいを感じ取る。
マス社会の関心から、個別の人間のネットワークのなかで生み出される関心へ、私たちは関心を作りかえる時に来ている。
そうすれば生きている実感は絶えることはなくなるのではないか。私たちは勤勉によって生きがいを所有ないし、独占しようとした時代から「生きがいシェアリングの時代」に映っている。
この定式によると、問題は「後期高齢者」とか「障害者」なのだろう。つまり、こういう人は「他人から必要とされること」も少ないし、「その必要に応える」こともほとんどできない。この人たちにこの定義・法則を伝えるにはどうしたらいいのか、お考えをお聞かせください。