「お上任せ」から「市民が主役」へ、刑事司法が大きく変わる。裁判員は大変な役割だが、透明で民主的な社会を実現するために、定着へ向けて制度、運用の絶えざる見直しを続けたい。
二十一日以降に起訴される重大事件は裁判員裁判の対象となる。準備手続きを経て八月初旬には最初の法廷が開かれる見通しだ。
市民の司法参加は六十六年ぶりの復活で、今では体験者がほとんど残っていない。多くの人が不安に感じるのも無理はないが、国民が本当にこの社会の主人公になる大きな転機と受け止めたい。
過去の一時期を除き、日本では司法が法律専門家に任されてきたため、市民の意識や感覚との遊離がしばしば指摘される。裁判批判の報道で誤りが正された例もあるが、批判を「雑音」と決めつけ無視した最高裁長官さえいた。
裁判員制度では市民のものの見方、感覚などが事実認定、刑罰決定に反映することが保障されている。これを契機に、国の運営を政府や専門家に任せきりにせず、国民が主体的に関与する方向へ転換することが期待される。
欧米に定着している市民の司法参加は日本でも実績がある。一九二八年から四三年まで実施された陪審裁判では、先人たちが真剣に被告の人権を守り、法律家にも感銘を与えた記録が残っている。
戦後に導入され、検察官の不起訴処分を市民代表がチェックする検察審査会の活動も評価が高い。裁判員裁判も有効に機能する下地はあると言えよう。
ただし、いまの制度は制約が多すぎる。裁判員の経験を継承したり裁判を検証できるように裁判員の守秘義務、裁判員に対する取材規制をもっと緩和すべきだ。裁判官、検察官、弁護士は裁判員の負担を軽くするため、さまざまな工夫をさらに重ねてほしい。
もちろん被告の人権、公正な裁判を受ける権利を守り抜くことが大前提である。
裁判官は「主役は市民」と意識すべきだ。制度の理念は「専門家と素人の協働」だが、裁判官主導では真の協働にならない。「市民を裁判官が支える」姿勢で臨むのが望ましい。
裁判員は「被告が罪を犯したかどうか確信がもてなければ無罪」という原則を肝に銘じてほしい。
「提出された証拠で有罪と認定できるか否か」を判断するのが刑事裁判であり、真相解明を意識しすぎると冤罪(えんざい)を生みかねない。
この記事を印刷する