ここから本文エリア 大逆事件 入獄者の叫び2009年05月16日
◇◆崎久保誓一の手記、御浜で発見◆◇ 明治天皇の暗殺を計画したとして社会主義者らが処刑された「大逆事件」(1910年)で、無期懲役刑となった崎久保誓一(1885〜1955)の獄中手記や手帳が、御浜町下市木の崎久保家で見つかった。出獄後も支援した社会主義運動家からの手紙や仮出獄票など当時の社会状況がうかがえる資料もあり、県史の近現代文化を担当する尾西康充・三重大教授(42)が分析している。(中村尚徳) ◆処刑前の幸徳の様子も◆ 獄中手記は2冊で、鉛筆書きの文字が薄くなり判読は難しい。ただ、仮出獄後に書いたとみられる毛筆書きの手帳には、事件の首謀者とされた幸徳秋水(1871〜1911)の処刑直前の様子について教誨師(きょうかいし)からもれた情報をつづっている。 「処刑当日、幸徳らは申し合わせたようにミカンの皮をむき、筋を取り出したる後、きちんと皮の中に筋を納め、それをテーブルの片隅に置き、少しも取り乱さなかった」 また、処刑に立ち会った教誨師が凄惨(せいさん)な光景に「いたく頭脳を刺激せられ、子々孫々にいたるまで決して監獄の教誨師たるべきものにあらずと、直ちに職を辞したる」などと言ったことも伝聞として記している。 崎久保家にはこれらの資料が木箱四つほどに整理されて保管されていたが、内容が十分に調べられてこなかった。手記のほか、堺利彦、山川均、荒畑寒村ら日本史に名を残す社会主義運動家からの手紙やはがきも見つかった。 荒畑らは服役中から崎久保を支援。出獄後も関係は続き、崎久保は感謝の印として町特産のミカンを送ったことも書簡から分かる。 弁護した今村力三郎から出獄後に届いた手紙には「乳臭き域を脱せず遺憾。慚愧(ざんき)に堪えない」と自らの力不足をわび、「今の弁護士は(思想事件から)逃避する始末」と当時の風潮を嘆いたくだりもある。 事件をめぐっては戦後、2人の被告や遺族が再審請求したが棄却された。今村は「再審は有望」と促したが、崎久保は手続きを取らなかった。 ◆「事件の真相知る手がかりに」◆ 崎久保は沈黙を守ったまま亡くなり、事件に連座させられた経緯や再審請求しなかった理由などは解明されていない。 それだけに、尾西教授は今回の資料を「手つかずに残っており貴重だ。事件の真相を知る手がかりになる」と評価する。 大逆事件があった年、日本は日韓併合で植民地をひろげ、国内では事件を見せしめに自由に物が言えない社会に変わっていった。尾西教授は「今の時代を映す歴史の鏡として大逆事件を見つめ直す必要がある」と指摘する。 大逆事件は、大半がでっちあげの冤罪というのが定説となっている。だが、当時国民から批判が出なかったのは、あらかじめ社会主義・無政府主義者らの悪い印象を流したため、と尾西教授は解説する。そのうえで、近く始まる裁判員制度について「(当時のように)被告の悪い印象を植え付け、裁判が進むようなことは絶対あってはならない」と話している。 ◎大逆事件 1910(明治43)年、旧刑法の大逆罪「(皇族に)危害ヲ加ヘ又(また)ハ加ヘントシタル者ハ死刑」を初適用。社会主義・無政府主義者ら26人が起訴され、一審のみの裁判で24人が死刑となった。12人は1週間後に処刑、12人は翌日に無期懲役に減刑された。事件を機に警視庁特高警察課が新設されるなど思想弾圧が強まった。
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