強制連行

八木秀次 大師堂経慰 坪井幸生 村田昇 荒木和博 黄 文雄 データー 岡田邦宏 富山泰 藤岡信勝 石川水穂
稲田朋美 小倉紀蔵 鄭 大均 高市早苗 朴慶植 池田信夫       真中行造
 稲垣 武氏(ジャーナリスト)

 戦時中の勤労動員を「強制連行」と韓国や北朝鮮は言い立て、日本でも朝日など左翼メディアや反日文化人がそれに同調してきたが、その実態をどうして検証しないのか。
 勤労動員は、朝鮮半島からだけではなく、当時の「内地」、つまり日本国内でも真っ先に始まったのだ。豆腐屋さんなどの商店も強制的に廃業させられて軍需工場に徴用されたし、中学生、女学生まで動員された。
 当時、国民学校、いまの小学校の生徒だった筆者ですら勤労奉仕と称された農作業の手伝いや防空壕堀に汗を流した
 国の存亡を賭けて戦争をしているときは、そういう非常措置もやむを得ないのであって、同じ日本国民とされていた朝鮮の人たちも勤労動員の対象となったのは仕方がない。もちろん、労働は苛酷で生活環境も劣悪だったろうが、それは内地の人も似たり寄ったりだった。そういった勤労動員を強制連行と呼ぶのは史実無視も甚だしい。少なくとも何十万人も「袋詰」して内地へ連行したわけではあるまい。それを「強制連行」とするのは、李承晩政権以来、「反日」を国是とし、民族のアイデンティティとしてきた韓国の「お家の事情」だが、日本のメディアが何もそれに義理立てする必要はない。又反日宣伝に取り囲まれていた元韓国駐米大使がその影響を受けたとしても不思議はないが、大使のコメントを「第三者」の言うことだからと盲信するのも、未だに「近隣諸国条項」に呪縛されているからである。
 日本のメディアとしてなくべきことは、そういった誤解を解くように努力することであって、「朝日新聞」のように、中国や韓国の言い分のお先棒を担いで、自虐に耽ることではない。
 八木秀次氏(高崎経済大学助教授)

 拉致と戦時下の「強制連行」を同列に論じて、北朝鮮の罪責を相対化しょうとする議論が横行している。しかし「強制連行」という言葉がそもそも1960年代前半に朝鮮総連系の活動家によって用いられ、日本人に贖罪意識を持たせる効果を発揮したことは、都立大学教授の鄭大均氏が「環」2002年11月号、「中央公論」12月号ほかで繰り返し指摘している。この鄭氏の指摘を受けて「産経新聞」の名物コラム「産経抄」(11月19日付け)も「拉致」と「強制連行」は決定的に違う」、「嫌がる朝鮮人をむりやり”人さらい”で連れて来たようなイメージのこの言葉は、明らかに意図的な虚構なのである」と書いている。

 「正論3月号 平成17年度」
 論壇や学界での論争で既に決着している慰安婦問題がこうしていつまでも蒸し返される背景には平成5年8月に河野洋平官房長官(当時)が発表した談話の存在がある。「慰安所設置等に旧軍が関与し、慰安婦の募集も本人の意思に反して集められた事例が数多かった」「いわゆる従軍慰安婦として数多くの苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われてすべての方々に対し、心からお詫びと反省を申し上げる」「われわれは歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を長く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰りかえさない決意を表明する」というものだ。日本共産党はこれを「国際的公約」とまで言っているし、中山文科相や細田長官を縛っているのもこれである。しかしこの談話の内容は元・慰安婦の証言だけを根拠にしたもので、裏づけ調査もされず、政府の集めた公文書にも強制連行を示す記述がなかったことは政府関係者によって明かにされている。与太話だったという訳だ。元凶たる河野談話を政府に撤回させることが急務なのだ
 大師堂 経慰氏(元朝鮮総督府地方課長) 正論 2003年3月号

 ・最初は募集、昭和17年3月から官斡旋、昭和19年に入ってから徴用。
 ・最近まで使われていた、教育出版発行の中学教科書に「金大植さんは1943年2月、家で寝ているところを警察官と役場の職員に徴用令状をつきつけられ、集結地まで手錠をかけられたまま、125名の朝鮮同胞とともに日本に連行されてきた」という記述がある。昭和18年2月は、まだ徴用は実施されていない。「徴用令状をつきつける」など考えられぬことです。こんな教科書が文部省の検定に合格して世間に誤解を撒き散らしているのです。
 徴用令状には、何月何日にどこどこへ集り、徴用されていく先はどこで、こういう仕事だということが書かれている。これを受取った人は指定の場所に集り、引率されていくのが普通のやり方です。前述の教科書にある「土足で家に上がりこみ、手錠をかけて・・・」というやり方は、普通の徴用の例ではない。何度も徴用を拒否して出てこない人を徴用法違反で逮捕したときの描写だと思います。逮捕されると、検事局へ送られ、起訴されて裁判にかけられます。徴用令違反は、1年以下の懲役でした。
 坪井幸生(元朝鮮総督府警察部長)正論 2003年3月号

 ・徴用令違反者を警察官が面や邑の職員と一緒に行って逮捕することはあったと思います。中には、送検せずに内地へ送るグループに入れたケースもあり、それが「強制連行された」と受取られた面もあるのではないか。
 ・朝鮮では昭和13年に志願兵制度ができ、最初の志願兵は2,946人で、そのうち406人を合格させ、訓練所に入れた。訓練所で教育して、されにふるいにかけ、192人を入営させています。志願者数は14年に12,348人、15年は84,443人、16年は144,743人、17年は254,273人と増え続け、昭和18年には303,394人に達しました。30万人の朝鮮人青年が兵隊を志願したのですよ。しかし、そんなに収容できないから、試験で6,300人を選んで採用し、訓練所に入れて教練した。そういう状況下で、昭和19年から朝鮮人にも徴兵制が敷かれたんです。そういう世の中でした。
 村田 昇(滋賀大名誉教授 教育学博士)

 ・北朝鮮は併合時代における「数百万人に達する強制連行、日本軍”慰安婦”、文化財や資源の略奪行為」などを挙げ、「過去に犯した国家犯罪について真相の公開や補償をしないまま、何人かの拉致被害者問題にしがみついている」と反発しているが、このような事実は全くあり得ない。
 朝鮮人に兵役の義務が課せられたのは戦争末期だけであり、それまでは、昭和13年から同18年までの間に募集された志願兵として、毎年、数十倍もの倍率をくぐって合格した24万2千人以上もの韓国青年が軍人・軍属として出征していたのであり、その内の約2万1千柱が靖国神社に合祀されている。
 また、昭和13年に成立していた国民総動員法に基いて国民徴用令が発せられ、戦時動員が開始されたのは翌14年であるが、朝鮮では、これが「自由募集」(昭和14年9月)「斡旋」(昭和17年2月)「徴用」(昭和19年9月)という3段階にわたって穏やかに実施されたものであり、「募集」を「斡旋」の場合には配属された職場から離脱しても罰則もなかった。
 昭和17年1月から20年5月までの内地への動員数は約52万人であるが、この同じ時期に朝鮮半島から内地に出稼ぎのために渡航した者は137万7千人もあり、渡航者の約6割が動員以外なのである。
 そして徴用によって慣れない炭坑労働等に携わった人たちには、生活習慣の違いもあり、格別な労苦が伴ったかもしれないにしても、その分、厚遇されていたという記録が残されている。
 しかも、日韓併合以降、半島から内地への出稼ぎ移住は急増し続けていたのであり、当初には約1千3百万人であったのが、終戦時には約2千9百万人と、35年で何と2倍以上になっていることを見逃してはならない。
 それに「日本国民として「徴用」されたのを「強制連行」と同様に捉えていることは問題である。私も昭和20年5月から学徒動員として広島・東洋工業に派遣されたのであるが、これも強制連行と称するべきなのだろうか。
 荒木 和博 拓殖大学海外事情研究所助教授 正論 平成15年5月

 「強制連行」というのも、もともと在日が自らを日本人に対して道義的に優位に立たせようとするために使う言葉だが、それ自体が虚構であるのに加え、終戦時に朝鮮に戻らなかった人が70万人もいたということ、さらにいったん帰った人々の中でかなりの数が密航船で日本にもどってきたことなどがそんときの状況を明らかにしているのである。
 そもそも日本に同化していなかったら、日本の敗戦後もあえて事実を曲げてまで反日を叫ぶ必要はなかったはずだ。すべてとは言わないが自ら同化して、内地の人間以上に「鬼畜米英」を叫んでいた人々が少なくなかったからこそ、日本の敗戦にともなってあわてて自らのアイデンティティを探さざるをえなかったということではないだろうか。
 やってきた米国あるいはソ連の軍隊に対して、「自分たちは暴虐な植民地統治によって仕方なく日本に追随せざるを得なかった」というフィクションを作らなければならなかったのだろう。北朝鮮の(韓国もそうだが)反日はこういうフィクションに基いており、現在北朝鮮が拉致問題に対応して反論するときの理論的根拠はこれしかない。

 正論 平成15年 9月号

 ・日本は大韓帝国との条約にもとづいて国家併合を行ったのであり、そこで35年間行ってきたことは少なくとも当時の時代背景から見れば異常とは言えない。戦争になり内地の男の多くが戦場で命を落としているときに、同じ国民を朝鮮半島の出身という理由で遊ばせておくことができないのは当然だろう。それを「強制連行」というレッテルのもとに断罪するのは無理がある。
 黄 文雄 評論家 正論 平成15年6月

 《「連行」どころか勝手に日本に殺到した朝鮮人》
 1937年7月、支那事変の勃発で日本は戦時体制に突入、翌38年4月には国家総動員法が成立した。しかしこの法律は内地の日本人に対するもので、朝鮮は適用外とされた。その後ようやく「統制募集」という名の内地企業による朝鮮人労働者の自由募集が認められた。42年に「官斡旋」が始まったが、これも強制ではなく、転職も自由だった。
 日本人と同じ徴用令が朝鮮に適用されるようになったのは44年9月である。しかし日鮮間の航路はすでに危険状態で、それによる人的流れはそれほど無かった。その一方で不法渡航者は相変らず増え続け、40年には119万人、45年には210万人に達している。

 《千年属国史に見る朝鮮人強制連行》
 朝鮮半島は、唐の時代以降の大陸諸民族による「強制連行」を蒙ってきたという哀史で貫かれている。おそらく現在の韓国人が、戦前に日本人に働かされたことを「強制連行」と決め付けてしまうのは、中国大陸の千年属国の歴史からくる一種の被害妄想が原因ではないだろうか。

 《責任転嫁と賠償欲しさー歴史捏造の背後の動機》
 戦時中の「徴兵」「徴用」などは、みな「強制連行」扱いだが、国家や民族の生存が脅かされている非常時に、国家総動員体制が布かれることは世界の常識ではないのか。
 兵役はれっきとした国民の義務だった。しかし徴兵のみならず志願兵までも「強制連行」とするのは言語同断というより笑止千万だ。さらには何ら公権力を持たない内地企業、外地企業による労働者、職員の自由募集までひっくるめて「連行」としている。歴史捏造もここまで堂々とやられれば、戦後生れはかえって思わず事実と信じたくなる。
 1939年の「国民徴用令」は、朝鮮人や台湾人にも「勤労奉仕」を求めるものだった。当時日本国民である以上、「国民の義務」が課せられるのは当然である。なにも「権利」だけを貪るのが国民ではないのである。
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「WILL 11月号 平成18年度」
 Q:「在日韓国、朝鮮人は「強制連行」された者の子孫だ
 A:「強制連行」の実態は、出稼ぎであり、強制どころか渡航希望者が殺到しました。日本政府と朝鮮総督府は日本入国を阻止しょうと規制し、取締を強化しましたが、逆に朝鮮人はこれを「差別だ」と、渡航要求の抗議集会まで開かれました。

 日本政府の渡航制限に対して「東亜日報」(1921年9月9日)は社説で、「朝鮮人全体を無視し、侮辱する悪法」と撤廃を求めました。1924年5月17日には渡日制限撤廃を訴える5万人の市民集会が釜山港で開かれたほどでした。
 文部省の調査結果 石川水穂 産経新聞論説委員 正論 平成15年6月号

 日本の外務省は昭和34年7月、在日朝鮮人の実態について発表している。それによると、昭和14年末、日本内地に居住していた朝鮮人は百万人だったが、20年の終戦直前には2倍の2百万人に増えた。増えた百万人のうち、70万人は自ら日本内地に職を求めてきた渡航者と出生による自然増加、残り30万人の大部分は鉱工業などの募集に応じて自主的に契約した人で、国民徴用令による戦時徴用者はごく少数であった。
 しかし、日本の歴史教科書では、この公式分書はほとんど参考にされない。
 岡田邦宏 日本政策研究センター副所長 諸君 7月号 平成15年

 (強制連行と言っている意味)
 ・一般的には国家総動員法に基づいて昭和14年に策定された「朝鮮人内地移送計画」によって、朝鮮人労働者が朝鮮半島から日本内地へと集団的に移送されたことを指す。
 その総数は、米国戦略爆撃団調査報告で引用されている『厚生省統計』で66万7684人、『内務省統計』では63万5千余りとされている。
 これに徴兵や軍属などの動員を加える場合や、戦時に限らず朝鮮半島から内地への渡航はすべて「強制連行」であるとし、総数を2百万(終戦時に内地に在住したと推定される朝鮮人の総数)とする主張もある。
 また、総数を「6百万余り」とする北朝鮮による根拠不明の「強制連行」説もある(北朝鮮は最近ではさらに数を増やして840万といい始めている)。
 しかし、多くの場合、昭和14年以降に行われた戦時の労務動員が「強制連行」と呼ばれているといってよかろう。

 (動員制度を検証すると)
 ・自由募集(昭和14年9月)、斡旋(昭和17年2月)、徴用(昭和19年9月)と三段階の動員が行われたのであり、この三段階すべての動員を「強制連行」だとするのが今日の「朝鮮人強制連行」論なのである。

 ・法的強制力をもつのは徴用のみであった。徴用を忌避すれば罰則があり、国家総動員法(第36条)によって1年以下の懲役または千円以下の罰金に処せられた。これに対して、自由募集はむろんのこと、斡旋を断わったとしても処罰されることはなかった。

 ・戦時の動員は、朝鮮人を含めた戦時下の日本国民に等しく課せられた国民的義務というべきものであった。実は「朝鮮人強制連行」論は、この基本的事実を無視した主張と言うべきである。

 (大半は自由意志の渡航者)
 <森田房夫氏の論文「在日朝鮮人処遇の推移と現状」(昭和30年7月、法務研究報告書第43集第3号)、そのデーターに基づいてさらに詳細な分析をされた西岡力氏の「朝鮮人『強制連行』説の虚構」(月曜評論・平成12年8月〜11月号)>より
 ・・・・出稼ぎ渡航・移住は、昭和14年9月に戦時動員が始まって以降も変わらず終戦まで続いた。昭和14年から昭和16年の3年間で、内地に渡航した朝鮮人は約107万人いたが、この期間にほぼ含まれる「募集」制度によって内地に渡航した朝鮮人はそのうち約14万7千人(厚生省統計)に過ぎない。つまり「募集」以外に約92万人もの渡航者がいたのである。
 「募集」という戦時動員による渡航者が、朝鮮人の内地渡航者全体のわずか14%程度に過ぎないことは注目に値する。この流れは「斡旋」「徴用」に当る時期についても基本的には変わっていない。昭和17年1月から20年5月までの内地への動員数は約52万。同じ期間の渡航者数は130万7千人だから、ここでも渡航者の約6割が動員以外ということになる。
 富山泰 国際ジャーナリスト 諸君 平成15年 11月号

 ・今日いる在日韓国・朝鮮人約70万人のほとんどが強制連行された労働者かその子孫だというのは、明らかに事実に反する。彼らの大半は、自由意思で日本に来た人と、その子孫なのだ。日本人は彼らに対して、変な贖罪意識を持つ必要はない。

 ・日本の敗戦1年前の1944年9月には、「徴用」が始まった。徴用された人は指定された日に出頭し、指定された仕事場で働くことを義務付けられた。この徴用された朝鮮労働者は約22万人と見られている。もし、徴用を拒否すれば逮捕され、裁判にかけられて一年以下の懲役刑または千円以下の罰金刑を科された。徴用は拒否できないのだから、「強制連行」にほかならないと言う人がいる。
 しかし、戦時中の日本では、青年男子は徴用されて戦場へ行き、残る国民は国家総動員法に基づく国民徴用令により、徴用されて工場で働いた。そして、朝鮮人は当時、日本国民だった。戦争になれば、労働力を補充するためどこの国も戦時動員を行う。法律の手続にのっとって行われた戦時動員を、あたかも不法行為であるかのように「強制連行」、いわんや「拉致」と呼ぶのは適切ではない。
  藤岡 信勝氏 東京大学教授 正論4月 平成16年

 1965年に出版された朴慶植著『朝鮮人強制連行の記録』(未来社)で初めて使われた言葉である。朴慶植は1922年、朝鮮に生まれ、7歳の時日本に渡ってきた在日朝鮮人だった。
 この本を執筆した当時は、挑戦総連が設立した朝鮮大学校の教員だった。挑戦総連とは、言うまでもなく、金正日の指令に従って日本人拉致の手先となった組織である。
 この本が書かれた時代的な文脈は、二つあった。一つは、挑戦総連が1950年代の末から進めてきた北朝鮮への帰国事業が行き詰まったことである。在日朝鮮人の運動の目標は、北の祖国に帰ること、すなわち「帰国=祖国への貢献」という自己実現の方法だった。しかし、これは行き詰まる。都立大学教授・鄭大均氏は次のように書いている。

 <やがて在日たちは「地上の楽園」が北のプロパガンダにすぎないことに気付き、熱病のように拡がった帰国熱は急速に冷め、総連系人士には日本での定住を合理化する新しい根拠が必要となった。朴慶植氏の著書が刊行されたのはこのような時期であり、端的にいうと、それは50年代から60年代にかけて森田芳夫氏が発表した在日論へのアンチテーゼとして提示されたものである。
 在日一世の多くは「出稼ぎ者」であり、より良い生活をするために故郷の農村を離れ、内地での生活を始めたのだと森田がいったのに対し、「いやいや朝鮮人は自ら好んで日本に渡ったのではなかった」と朴は反論し、強制連行説を唱えたのである。>(鄭大均「拉致と強制連行を同列に論じるな」『中央公論』2002年12月号)

 朴慶植著『朝鮮人強制連行の記録』のもう一つの時代的文脈は、日本と韓国が戦後処理を協議した日韓会談に反対することである。これは、もう、この本の最初のページを開いた時から、一目瞭然である。同書の「まえがき」には、次のように書かれている。

 <現在のアジア情勢、特に朝鮮と日本をとりまいている現状は重大である。アメリカ帝国主義の指図の下で強行されている「韓日会談」は今から90ー60年前、日本帝国主義が朝鮮に侵入し、強奪を進めた情勢を彷彿させるものがあり、現在日本独占資本はアメリカ帝国主義を背景にして堰を切っておとす如く、南朝鮮に進出しつつある。

 日韓基本条約の締結は、北朝鮮が日本から金を取れなくなるから、大問題だったわけである。

 結論から言えば、朴慶植のこの本は学問的価値を云々できるような筋合いのものではない。それは、日本糾弾のためのプロパガンダの書でしかない。
 石川 水穂氏 産経新聞論説委員 正論6月号 平成16年

 ・外務省は昭和34年7月、在日朝鮮人の実態について調査した結果を発表しています。それによると、第二次大戦前の昭和14年末、日本内地に居住していた朝鮮人は百万人でしたが、20年の終戦直前には二百万人に増えました。増えた百万人のうち、70万人は朝鮮半島から日本内地に職を求めてきた渡航者と出生による自然増加です。残り30万人の大部分は鉱工業や土木事業などの募集に応じて自主的に契約した人たちで、国民徴用例(朝鮮半島では昭和19年9月から実施)による戦時徴用者はごく少数だったとしています。

 ・昭和14年以降、最初は「募集」という形態で朝鮮人労働者の移動が行われました。その後、戦争が激しくなるにつれ、17年から朝鮮総督府が朝鮮半島の面(村)や邑(町)に人数を割り当てる「官斡旋」方式に切り換え、19年から最も強制力のある国民徴用例に基づく「徴用」という形態に移行しました。
 国民徴用例は日本内地では、朝鮮半島より早い昭和14年7月に施行されました。徴用は法律に基づく戦時勤労員であり、それを「強制連行」とはいいません。まして、募集に応じて自由意志で朝鮮半島から渡ってきた人まで「強制連行」に含めるのは歴史の歪曲です。
 稲田朋美 弁護士 正論6月号 平成16年度

 <新潟地裁判決は「パンドラの箱」をこじ開けた>
 ・今回片野判決が、サンフランシスコ平和条約、日華平和条約、日中共同声明、日中平和友好条約により国家間で賠償権を放棄すると合意した内容を無視し、時効の援用を認めたことにより、日本の抱える戦後補償問題は収拾のつかない事態へと発展するおそれがある。まさにこの判決によってパンドラの箱が開けられたのである。

 <何故国は事実関係を争わないのか>
 ・戦後補償裁判を法律論だけで勝つことはできない。毒ガスも南京大虐殺も731部隊も強制連行もすべて、原告らの主張がそのまま判決理由中に書き込まれ、歴史となり、それが新たな戦後補償裁判の提起に繋がるのである。国が争わないことはこの悪循環を助長することになる。国は毅然として事実関係を調査し、争い、反論すべきである。

 <東京裁判の二の舞>
 ー 早急に戦後補償裁判専門部創設を ー 
 ・国が事実関係を認否もせず、調査もせず、反論もせず「訴訟の舞台」に上がらないことが原告らの訴訟活動を極めて有利に展開させているのである。国は早急に裁判体制を整え、関係省庁と連携をして事実関係を調査し、戦後補償裁判に真剣に取組むべきである。
 このまま国が戦後補償裁判、靖国訴訟の重要性を理解せず、何の対応もとらずに現在のままの体制で訴訟活動を続けていくのなら。日本は司法から滅びる。今回の二つの判決は、その始まりである。
 小倉紀蔵 (『韓国、引き裂かれるコスモス』平凡社、2001年)正論8月号 平成16年

 <植民地時代に日本へ来た朝鮮人がすべて「強制連行」だったかのようないいかたをするのは、甚だしい歴史の改竄である。現在の在日韓国・朝鮮人は皆、強制連行で連れてこられた「かわいそうな人々」の子孫であるというようなことを、臆面もなく主張する人々がいる。これは端的にいって政治的な言説以外の何ものでもない。ある者は子弟に高い教育を受けさせようと、またある者は経済的成功を手に入れようと、自ら玄海灘を渡ったのである>。
 高市早苗氏 近畿大学教授 正論3月号 平成17年度

 「検定済みの教科書でも、記載に誤りがあれば、大臣は発行者に対して訂正申請を勧告できる」との検定規則がある。

 教科書には、「強制連行」を想定させる記述が多く見受けられる事を取り上げた。「従軍慰安婦」として強制的に戦場に送り出された若い女性も多数いた」(東京書籍)等の表現だ。平林内閣外政審議室長が「政府の発見した資料の中には『強制連行』を直接示す記述は見当たらなかった」と国会答弁していることから、強制連行を想定させる記述も、「未確定な時事的事象について断定的に記述しているところはないこと」という検定基準に反する恐れを質したのだ。
 鄭 大均 東京都立大学教授 正論8月号 平成16年

 日本人だって、1938年に成立した国家総動員法により、15歳から45歳までの男子と16歳から25歳までの女子は徴用の対象となったのであり、徴用とは強制的なものである。「赤紙召集(徴兵)」であれ、「白紙召集(徴用)」であれ、それは強制力を持つものであり、応じない場合には、兵役法違反や国家総動員法違反として処罰され、「非国民」としての社会的制裁をうけたのである。

 朝鮮人であれ、日本人であれ、当時の日本帝国の臣民は国に奉仕することが期待されていたのであり、多くの国民は、それに従属的に参加していた。したがって「強制連行」などという言葉で朝鮮人の被害者性を特権化し、また日本国の加害者性を強調する態度はおかしいのではないかと思うのである。

 『朝鮮人強制連行の記録』の著者である朴慶植氏の場合もそうである。朴氏は7歳の時、親と一緒に渡日した1・5世であり、『朝鮮人強制連行の記録』を執筆していた頃は朝鮮人大学校の教員だった。もともと朴氏は、組織に従順なタイプの人間というわけではなかったようである。とはいえ朝鮮大学校は、すべての在日同胞子女が金日成の世界観で武装し、祖国と民族の繁栄のために寄与することを目的とした教育機関であり、朴氏がその役割や規範から自由であったとは考えにくい。というよりも、氏自身も北朝鮮の社会主義革命を心の拠り所として生きた在日知識人であり、この本はそのような在日がその時代の北朝鮮や朝鮮総連(1955「昭和30」年結成)との相互作用を通して生み出された作品だったのである。

 「諸君4月号 平成17年度
 考えてみたらいい、妹は日本の公務員であり、これからも日本に住みつづけるというのに、なぜ日本国籍を取得し、この社会のフルメンバーになろうとはしないのか。彼女は韓国語で意思疎通ができるわけではないし、韓国で暮らそうと考えている人間でもない。にも拘らず、韓国籍を維持しているのはなぜなのか。韓国系日本人として生きていけるというのにである。このことはしかし、彼女が自らを抑圧や差別の被害者と規定し、その生き証人として生きて行こうとしているのだと考えると合点がいく彼女は日本人や日本国を糾弾することを自己の使命としている人間であり、そのためには彼女自身が日本人になってはまずいのである

 差別の事例として取りあげられているのが、アパートを借りるときの保証人の数であるのもおかしい。そもそもなんでこれが在日差別の事例なのか。日本人がアパートを借りるときだって保証人が二人必要なときがある。一方では、妹のような特別永住者の在日が日本人の保証人になることだってあるだろう。被害者意識に自己拘束された人間は世界を差別と被差別の視点から眺めるプロであるが、それでもこれこそは在日に対する本物の差別なりと断定できる事例を探すのが困難な、そんな時代に私達は住んでいるのである

 いいかえると、在日は日本に住むのがいやなら韓国に移り住むことができるのである、少数ではあるが、日本から韓国に生活の地を移している者もいる。韓国籍を持つ者にはヨン様の国で第二の人生をはじめる権利があるのであり、そこにはなんの規制もない。そのまま韓国に赴くだけでいい。ビザなんていらない。ビザがいるのは外国で暮らす場合であり、在日にとって韓国は外国ではないのである

 今日の在日に見て取れるのは、韓国・朝鮮籍を有しながらも本国への帰属意識に欠け、(韓国とか北朝鮮の)外国籍を有しながらも外国人意識にも欠けるというアイデンティティと帰属(国籍)の間のズレという状況であり、このような人々がさらに内国人との間の権利上の差異をなくすというのでは、ズレが永続化してしまうことになるであろう
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 「在日・強制連行の神話」 鄭大均著 文藝新書
  ≪エドワード・ワグナー
 戦後、韓国と日本で占領軍に勤務し、在韓日本人の引き挙げとともに在日コリアンの引き揚げ業務に従事し、後にハーバード大学でコリアン学を講じた。

 「敗戦の日本においては、朝鮮人少数民族は、いつも刺激的な勢力であった。数においては大いに減ったものの、朝鮮人は、依然として実に口喧しい、感情的・徒党的集団である。かれらは絶対に敗戦者の日本人に加担しょうとせず、かえって戦勝国民の仲間入りをしょうとした。朝鮮人は、一般に、日本の法律はかれらに適用され得ないものとし、アメリカ占領軍の指令も同じようにほとんど意に介しなかった。そのため、国内に非常な混乱をおこした。占領当初の数ヶ月、在日朝鮮人炭坑労働者の頑強な反抗のために、日本の重要産業たる石炭産業の再建は障害をこうむった。経済的領域における朝鮮人のいろいろな活動は、日本経済再興への努力をたびたび阻害した。1948年の神戸における緊急事態宣言は、日本の教育制度改革を朝鮮人が妨害した結果、行なわれたものである。引き揚げについては、占領当局が決定した政策を日本政府の手で実施しょうとするのを妨害した。
 このような、いろいろな要因および事件のために、日本人・朝鮮人間の伝統的敵対感情は一層深くなっていった。過去と同様に、戦後においても、在日朝鮮社会は、日本人から不信と軽侮をうけ、また、日本人の一般的不満感のはけ口とされた」

 「ほとんどすべての朝鮮人の不法行為は、そうした行為を犯罪としてみたとき、普通にもっている意味以上の影響をまきおこした。これは、ある程度は当然、日本の報道機関がそれに必要以上の注意を喚起したことによるものであるが、さらにそれ以上の要素は、小さな事件を派手な訴訟事件にする朝鮮人の性癖であった。朝鮮人を逮捕しょうとする際に、違法者とは同じ朝鮮人の血をひいているという以外は、何の関係もない朝鮮人分子がこれに加わって、暴徒と化した例はきわめて多い。そのうえ、政治問題に関しての朝鮮人同志の闘争にともなう暴力は、日本人の眼に朝鮮人の無法さをより鮮やかに示さずにはおかなかった。
 たとえ、このような事情で朝鮮人の犯罪性が拡大されることがなかったとしても、この犯罪性が日本人・朝鮮人の関係に与えた悪い影響は依然として甚大なものがある。朝鮮人の掠奪行為が、大部分、下層民の日常生活にとってきわめて重要な地域において行なわれたということもあった。さらに朝鮮人は、日本に不法入国しょうとしたが、ときには伝染病をもちこんだという事情もあって、この不安をつよめる実例を提供した。朝鮮人は「悪者」だという心理が、時の流れとともの、日本人の心から薄れていくであろうと信ずべき理由は、何もないのである」

 ≪新聞の連載記事より
 「“もう日本人じゃない”日本降伏の直後、マッカーサー元帥が厚木に乗り込んでくると、真っ先にこう叫び出したのは在日60万の朝鮮人だった。彼らの多くは戦前出稼ぎのため日本に渡ってきたか、あるいは戦時中軍部の徴用で連れてこられて者で、内地における生活がみじめだっただけにこの強気が一度に爆発した。彼らは敗戦国に乗り込んできた戦勝の異国人と同じように、混乱につけ込んで我が物顔に振舞い始めた。コメでも衣料でも砂糖でも“モノ”が不足していた時代に彼らは経済統制など素知らぬ顔でフルに“モノ”を動かした。当時絶対に手に入らなかった純綿の肌着や雑貨、菓子類、ウイスキー、外国の医薬品など彼らの闇市では簡単に買うことができた。ヒロポンや密造酒が集散されたのも主としてそこだった。ごみごみとしたマーケットから金持ちが続々と生まれていった。完全な無警察状態ー。そのいい例が24年春、東京深川でおこった枝川町事件である。朝鮮人4人が月島の織物問屋から純綿八十二反を盗み出して巨利をせしめた。犯人の身元がわかり、深川署の刑事ふたりが逮捕状をもって(略)出かけたところ、(略)逆に“不審尋問”され、袋叩きの目にあった。当時の朝鮮人の鼻息がどんなに凄まじかったか、容易に想像できる。“見まい、聞くまい、振り向くまい”深川署の刑事たちはそんな言葉で自分達の無力を嘆じあったという」(毎日新聞社編『白い手黄色い手』毎日新聞社、1956年、29〜30頁)

 ≪田中明
 敗戦直後の在日朝鮮人は、敗戦国の無力な警察を嘲笑しつつ、暴力と脱法行為で虚脱状態の日本社会を我がもの顔に横行した。超満員の列車から日本人を引きずり下ろして、自分たちが占領するといっと光景は、決して珍しいものではなかった。くどくいうのは控えたいが、その有様は、かって居留民団の団長をし、本国の国会議員にもなった権逸氏が、著書『回顧録』のなかで、「居間もその時のことを思い出すと、全身から汗が流れる思いがする」と書いていることから想像して頂きたい。そうした姿は「朝鮮人=無法者集団」という印象を日本人の胸に強く植え付けた。外国人の指紋押捺制度が1955年に採用されたのも、上記のことと関連があった。朝鮮人による外国人登録証明書の不正受給や偽造変造があまりにも多かったのである。密航者のための登録証偽造や、実在しない人間の登録証を役所に作らせて(脅迫や買収がからむ)それを売ったり、そうした幽霊人口によって得た配給食糧をヤミ市場に流すなど、さまざまな不正があった」(「一日本人の見た戦後日韓関係」『現代コリア』1992年12月号)

 この時期の在日コリアンを考えるとき重要なのは「朝連」(在日本朝鮮人連盟)の存在である。「朝連」は在日コリアンの帰国を斡旋する自治団体として終戦直後に発足するが、やがて急激に左傾化。朝鮮民主主義人民共和国を支持する共産主義組織になり、占領軍と対立するようになる。49年9月、「朝連」は連合軍総司令部の命令により解散。それを継承する形で結成されたのが「民戦」(在日朝鮮統一民主戦線、51年1月結成)であるが、この組織は北朝鮮の「祖国戦線」kと直結して朝鮮半島の統一のため日本共産党と提携、あるいは単独で過激な武装闘争を展開。1952年のメーデー事件、吹田・枚方事件、大須事件などにおいて主要部隊となったほか、米軍基地や兵士への果敢な実力闘争を行なった。
 ある座談会での大宅壮一の発言を借りるなら、この時代の日本人には「朝鮮人と共産主l儀、朝鮮人と火炎瓶、朝鮮人とやみ、朝鮮人と犯罪」を結びつけて考える心の習慣ができあがっていて、それを解きほぐすのは容易なことのようには思えなかった(「在日朝鮮人の生活と意見」『中央公論』1952年9月号)。事実、その後、日本人や在日を取り巻く状況は大きく変化したように見えるが、日本人の在日に対する「悪者」や「無法者」のイメージや印象は、強度や頻度を弱めながらの、60年代や70年代の調査にも現れているのである(鄭大均著『韓国のイメージ』中公新書、第1章)

 「加害者」から「被害者」へという在日イメージの転換に最も強い影響を与えたのはメディアの動向であり、具体的には80年代以後、日本のマス・メディアが第二次世界大戦中の日本の国家犯罪を語り、在日の犠牲者を語る過程で、在日は無垢化されるとともに、「被害者」や「犠牲者」の神話が実現していくのである。学校教科書や辞典の類に「朝鮮人強制連行」についての記述が登場するのも80年代以後のことである。在日コリアンに対する「悪者」や「無法者」という言説は、今や言葉の世界では周縁的なものとなり、政治的に正しくない言説をして封じ込められるようになっているのである。
 とはいえ、相反するイメージは、しばしば心のなかに共存するものであり、在日コリアンに対する否定的なイメージや印象が周縁的なものになったといっても、そのことは人々の心の中からかっての「無法者」や「悪者」のイメージや印象がきれいに払拭されたことを意味するのではない。一方のイメージが浮上する過程で、姿を消したかに見えるもう一方のイメージは、舞台の影に身を潜めながら、再び舞台に躍り上がる日を待ち望んでいるのであり、それは実際以外なところでひよっこり顔を出して、私達を驚かしてくれることもある。イメージの共存のわかりやすい例は、インターネットの世界であろうか。書き言葉の世界で、コリアンに対する「悪者」の言説が封じ込められるようになったのは事実であるが、それを補うかのように、インターネットの落書き的なサイトには、その反動といえるような情景が見て取れるのは周知のとおりである

 第二章 反論(強制連行への)

 ≪自発性の視点
 「植民地時代に日本へ来た朝鮮人がすべて「強制連行」だったかのようないい方をするのは、甚だしい歴史の改竄である。現在の在日韓国・朝鮮人は皆強制連行で連れてこられた「かわいそうな人々」の子孫であるというようなことを、臆面もなく主張する人々がいる。これは端的にいって政治的な言説以外の何ものでもない。ある者は子弟に高い近代的教育を受けさせようと、またある者は経済的成功を手に入れようと、自ら玄海灘を渡ったのである」(小倉紀蔵『韓国、引き裂かれるコスモス』平凡社、2001年、169〜170頁)

 ≪朝日新聞
 外務省はかって在日61万人のうち徴用で来たものは“245人”に過ぎないという数字を発表したことがある。これは50年代末、在日朝鮮人の北朝鮮帰還をめぐって、韓国などから提起された批判に対応する形で出されたもの。
 「在日朝鮮人の北朝鮮帰還をめぐって韓国側などで「在日朝鮮人の大半は戦時中に日本政府が強制労働をさせるためにつれてきたもので、いまでは不要になったため送還するのだ」との趣旨の中傷を行なっているのに対し、外務省はこのほど「在日朝鮮人の引き揚げに関するいきさつ」について発表した。これによれば在日朝鮮人の総数は約61万人だが、このうち戦時中に徴用労務者として日本に来た者は245人にすぎないとされている。主な内容は次の通り。

 一、戦前(昭和14年)に日本内地に住んでいた朝鮮人は約百万人で、終戦直前(昭和20年)には約二百万人となった。増加した百万人のうち、七十万人は自分から進んで内地に職を求めてきた個別渡航者と、その間の出生によるものである。残りの三十万人は大部分、鉱工業、土木事業の募集に応じてきた者で、戦時中の国民徴用令による徴用労務者はごく少数である。また、国民徴用令は日本内地では昭和14年7月に実施されたが、朝鮮への適用はさしひかえ昭和19年9月に実施されており、朝鮮人徴用労務者が導入されたのは、翌年3月の下関ー釜山間の運航が止まるまでのわずか7ヶ月間であった。
 
 一、終戦後、昭和20年8月から翌年3月まで、希望者が政府の配船、個別引き揚げで合計百四十万人が帰還したほか、北朝鮮へは昭和21年3月、連合国の指令に基づく北朝鮮引き揚げ計画で三百五十人が帰還するなど、終戦時までに在日していた者のうち75%が帰還している。戦時中に来日した労務者、復員軍人、軍属などは日本内地になじみが薄いため終戦後、残留した者はごく少数である。現在、登録されている在日朝鮮人は総計61万人で、関係各省で来日の事情を調査した結果、戦時中に徴用労働者としてきた者は245人に過ぎず、現在、日本に居住している者は犯罪者を除き、自由意志によって残留した者である」(「朝日新聞」1957年7月13日付け)

 ≪動員労働者の引き揚げについて
 「1946年3月18日に総指令部は前年12月末日を以って一旦打ち切った計画輸送を再開する為に帰国叉は永住希望の登録を行なった。その結果は、総登録数646,943人のうち帰国希望者が514,035人で、登録総数の8割が帰国を希望した。もっともこの登録は帰国を希望しない者は帰国権を放棄した者と見なされるとの触れ込みで登録が行なわれた結果でもあるが、何れにしろ8割が永住権より帰国権の方を選択している事実には間違いない。然るに登録があった半月後即ち46年の4月1日から再開された計画送還において同年12月末日迄に帰還したものは僅かに七万二千人程度であるに過ぎない。それ故に在日朝鮮人の戦後における引き揚げは、事実上は1946年の3月の春耕期を前にして一段落し、その間に140万人が引き揚げそれから46年の年末までに約10万人が引き揚げたものであるということができる。
 然らば150万人の引き揚げは在日朝鮮人のうち如何なる層の引き揚げであるか。先ず第一に徴用者叉は労務動員者の82万人は大体に戦後直ぐ引き揚げたものと見てよい」(朴在一著『在日朝鮮人に関する総合調査研究』新紀元社、1957年、35〜36頁)

 「私の提案として、戦争中の朝鮮人に対する強制的な動員については、総称として「戦時動員」という用語を使い、その戦時動員の中の具体的な現象であった暴力的な動員が「強制連行」であると概念を再構成してみたらどうかと思うのである(金英達著『金英達著作集U 朝鮮人強制連行の研究』明石書店、2003年、45〜46頁)」

 戦時中、徴用などという強制によって多くの朝鮮人が日本に連れてこられたことは事実である。日本の敗戦時、日本本土には約二百万の朝鮮人がいた。この人たちは、日本の敗北とともに喜び勇んで帰国した。だから一年のうちにその数は60万人に減っている。強制連行についての記録は、いずれも日本での生活が「地獄」だったと記している。だから、自由を取り戻した人々が、次々と帰国したのは当然であろう。
 では、そんな「地獄」に、自由を回復した後も居残った60万人の人々は、どう考えたらいいのであろうか。さまざまな理由はあったろうが、もはや日本官憲の強制はないのだから、日本への居残りは、みずから選択したものとみなさざるをえない。故郷より「地獄」に住むことを好む人はいまいから、その選択は、帰国するより日本にいる方がベターだという判断にもとづいたものであろう。警察力が麻痺した敗戦国日本では、戦勝国民のように威勢を振った人も少なくなかった。
 だから、そうした人々が自分達の選択した行為をないことにして「今我々が日本にいるのは、強制連行の結果である」というのは、ご都合主義と言わねばなるまい。こういう態度は、今日の自分を強制連行の産物を規定することによって、自分達は「戦前、日本人にやられたまま、戦後の45年をも送ってきた哀れな存在」だと、みずからを貶めているのである。人間が主体的にいきるとは、おのれの責任において決断と選択を繰返しながら生を営むことである。ところが強制連行論者は、それと正反対のことをしている。彼らは戦後の時間、すなわち選択と決断の可能だった時期を抹殺し、自分達をひたすら「責任負担能力のない被害者」に仕立て上げている。そうした作風は「なんでも他人のせいにする韓国人」という不名誉な通念を補強することになっており、まことに残念である」(田中明「『よき日本人になれ』とはいえぬか」『韓国論壇』1991年8月号)

 ≪ロバート・ホワイティング批判
 朝鮮が日本に統治されていた時代に、日本語が国語と呼ばれ、朝鮮語が公的言語から退けられていたのは事実である。しかし「占領時代の後半に」は「朝鮮人に自国語で話すことさえも許されなかった」という記述はおかしい。日本統治の末期である1942年の調査によれば、日本語を解する者は全人口の二割弱、男子三割弱、女子一割弱である。「『大東亜共栄圏』の推進者たちは、朝鮮人に自国語で話すことさえも許さなかった」というが、日本語を解することができない者が、どのようにして日本語を使うことができたというのか。そもそも朝鮮の総人口に占めるエスニック日本人の数は3%程度。この3%が、残る97%の人間の生活習慣を牛耳っていたなどというわけではないのである。つまり、この時代の朝鮮半島において、家庭内や近隣・職場での会話は、基本的には朝鮮語でなされていたのであり、支配者である日本人は実は、朝鮮人がなにを考えなにを噂していたのかを十分に把握していなかったのである。
 それにしても「百五十万以上の朝鮮人を日本に連れ帰り、強制労働させている」というときの「百五十万」という数字の根拠はなにか。同書の巻末の「執筆ノート」には「韓国や台湾の大日本帝国の領土だった1920年代、30年代に、日本の炭坑や工場で働くために強制連行された韓国人や台湾人が」(384頁)という文があるが、20年代や30年代の朝鮮人の渡日を「強制連行」などというのは乱暴すぎる。森田芳夫氏が記しているように、この時代はむしろ内地側の規制や取締りにも拘らず、朝鮮人の内地流入を食い止めることができなかったと考えるほうが合理的であろう。

 ≪ノーマン・フィールドへの批判
 在日が「朝鮮系日本人』にはならず、韓国・朝鮮籍が維持されていることを、日本の「単一民族国家のアイデンティティ」との関係で触れた部分。
 1952年から2002年までの間に、韓国・朝鮮籍から日本国籍を取得した者は、累計で約二十六万三千人。この数は多いのだろうか、少ないのだろうか。どちらともいえる気がするが、いずれにせよ「朝鮮系日本人」と呼びうる人々は存在しているのであり、ソフトバンク社長の孫正義や俳優の李麗仙のように、そのことを表出して生きている人間もいる。アメリカとの対比で、日本国が「単一民族国家のアイデンティティ」をつらぬいているというのはいいが、少なくとも、それは「朝鮮系日本人」の形成を妨害するというほどのものではなにのである。
 
 ≪コリアンの被害者性と日本人の加害者性を残したいために≫
 日本の共生論者や人権主義者たちは、コリア系日本人(263,000人)がいるのに、いないように振舞う。他の誰よりも早く、「コリア系日本人」とか「韓国系日本人」という言葉をつかってしかるべき人々が、それを避けているのだが、それはな何故なのだろうか。「コリア系日本人」という名称が、前者に、日本人という枠組みの多様化の意識が反映しているとしたら、後者には在日をコリアンとして保存したいという意思が反映していると見ていいのではないだろうか(小中華意識である。格下げになると考えているのだ。たとえば貴方は日本系中国人や日本系韓国人になることを臨むだろうか?

 第三章 一世たちの証言

 ≪強制連行という言葉
 「強制連行」という言葉についても、ある者はそれを日本統治下の渡日のすべてに当てはめて使うが、ある者はそれを@「募集」(1939年9月〜1942年1月)の時期から使い、ある者はA「官斡旋』(1942年2月〜1944年8月)の時期から使い、またある者は、かりに「強制連行」という言葉を使うとしても、それはB「国民徴用例」(44年9月以後)の適用以後に限定して使われるべきだという。

 ≪鄭大均氏の見解
 私が共感するのは「強制連行」よりは、それに対する批判のほうであり、「強制連行」という言葉の使用には懐疑的である。何故か。
 今日「強制連行」と呼ばれる歴史事象は、戦時期の朝鮮人に対する朝鮮人から日本本土、樺太、南方地域への「労務動員」をさして使われるのが一般的であるが、それをして「強制連行」と呼ぶのは、日本人の加害者性や朝鮮人の被害者性を誇張しすぎていると思うからである。当時の朝鮮半島は日本帝国の一部であり、エスニック朝鮮人も日本国民の一部を構成していたのだということ、戦時期の日本にはぶらぶら遊んでいるような青壮年は基本的にはいなかったのだということを想起されたい。

 戦争が長期化すると徴兵が拡大し、そうすると労働力不足が生じる。それを補うために労働力の統制や動員が強化され、その過程で朝鮮半島出身の朝鮮人のなかに、炭坑や建設現場といった劣悪な労働現場に送り込まれ、重労働を強いられ、多くの精神的苦痛が与えられ、食事、賃金などで民族差別的待遇を受け、また暴力的労務管理のもとで強制労働に従事することを強いられたものが少なくなかったというのは事実であろう。加えていえば、1938年2月からは、徴兵制の対象外であった朝鮮人にも志願兵制度がはじまり、44年からは日本人同様徴兵制が施行され、また軍属として前線に赴いた者も少なくない。

 だが、エスニック日本人の男たちは戦場に送り込まれていたのであり、朝鮮人の労務動員とはそれを代替するものであった。兵士として戦場に送られることに較べて、炭坑や建設現場に送り込まれ、重労働を強いられることが、より「不条理」であるとか「不幸」であると、わたしたちはいうことができるのだろうか。日本人の場合だって、1938年に成立した国家総動員法により、15歳から45歳までの男子と16歳から25歳までの女子は徴用の対象となったのであり、それは強制的なものであった。「赤紙召集」(徴兵)であれ、「白紙召集」(徴用)であれ、それは強制力を伴うものであり、応じない場合には、兵役法違反や国家総動員法違反として処罰され、「非国民」としての社会的制裁を受けたのである。
 
 いいかえると、朝鮮人であれ、日本人であれ、当時の日本帝国の臣民はすべて、お国のために奉仕することが期待されていたのであり、多くの者は、それに従属的に参加していた。つまり「不条理」は、エスニック朝鮮人のもならず、この時代の日本国民に課せられた運命共同体のようなものであり、したがった、「強制連行」などという言葉で朝鮮人の被害者性を特権化し、また日本国の加害者性を強調する態度はミスリーディングといわなければならない。

 ≪許可証について
 日本統治時代、朝鮮人は外国人として旅券を持って日本に入国したのではないが、内地への移動の自由が保障されていたわけでもない。だから「密航で日本へ渡った」というような証言もあるのであるが、「許可証」は旅行証明制度を指すものと思われる。これは三・一運動(1919年3月)の翌月にはじまるもので、朝鮮人が朝鮮半島の外に出ることには、所轄警察署から旅行証明を受け、出発地の警察官に提出することが義務づけられていた。だが旅行証明制度は、1922年12月、総督府令により廃止。しかし1923年9月の関東大震災を機に復活するが、再び1924年6月に廃止というように、「制限」と「自由」の間で揺れが激しかった。

 震災後の復興事業に伴って、朝鮮人労働者の渡航が続き(1924年の渡航者は12万余人)、これは内地に労働力の供給過剰や失業問題を引き起こした。これに対処するため、1925年8月、内務省から朝鮮総督府に渡航制限について要求があり、総督府はその年の10月からは一定条件を具備する者を除いて、朝鮮人の渡航を阻止するようになる。

 だが朝鮮人渡航者の数はその後も増加し、1928年末時点で、内地在住朝鮮人は24万人を数える。1929年12月、内務・拓務両省は朝鮮総督府と合同の協議を行い、「朝鮮側で現行の地元阻止を継続励行するとともに、とくに労働者の授産事業をおこし、なるべく朝鮮内で就職せしむるみちをひらく」ことを決定。当時、午前と午後、関釜連絡線が出発する2時間前から、釜山桟橋の水上署出張所調査室では、朝鮮人労働者には戸籍謄本と再渡航証明書を、朝鮮人学生には内地で所属する学校の在学証明書を提示させ、また目的地などのついての口頭調査を行なったうえで渡航伝票を交付した。

 1932年1月、桜田門外で、韓人愛国団の李奉昌が観兵式から帰る途中の昭和天皇に手榴弾を投げるという事件が発生。同年4月には、天長節を祝って上海の日本人街で開かれた日本軍民集会で、やはり韓人愛国団の青年による爆弾事件があり、このときは上海派遣司令官の白川義則大将らが死亡している。事件を機に、内地移住朝鮮人は、厳重な警戒対象となり、1932年10月からは、内地に渡航する朝鮮人全員に、身分証明書を朝鮮内所轄警察署または駐在所で交付所持させる制度が実施される。

 若い朝鮮人渡航者の中には、在学証明書を偽造したり、他人の証明書を使用したりという例が少なくなかった。内地の私立中学校が敬遠難打開のため、随時朝鮮からの学生・生徒を募集し、入学料、考査料、月謝等を納付すると、自動的に入学許可を与え、在学証明書、鉄道割引券等が発給交付されるため、それが悪用されるというケースもあった。これに対して、1938年3月、総督府は内務省および厚生省と協議をし、内地側に取り締まりの改善を求め、次のような取決めを結んでいる。

 @内地側は労働者以外の一般朝鮮人の渡航は自由であることについた、その趣旨の徹底につとめ、朝鮮側が発給した証明書を尊重し、二重取り締まりの幣を避けること。
 A渡航取り締まり当事者の朝鮮人に対する言語・態度などには特に注意すること。
 B一時帰鮮証明書の発給を朝鮮人労務者全員に広げ、その有効期間が1ヶ月となっているのを2ヶ月に延長し、必要に応じ、随時延長すること。
 C扶養義務者がすでに内地にいる場合は、その扶養家族が義務者のもとに渡航する場合には特別の配慮をすること。
 D内地在住の不良朝鮮人は、内地側当局が教化・指導につとめ、朝鮮に送還することを控えること。ただし内地側の協和事業を妨害するものは送還すること。
 E内地の雇用主で、朝鮮内から労働者を募集するものに対しては、内地在住の失業朝鮮人kら雇用するように勧告し、朝鮮内からの新規の労働者を不正の方法で誘因せぬよう取り締まること。
 F私立学校生徒には、写真を添付した在学証明書を発給すること。
 G密航者でも、相当年月を経過して就労している者は、朝鮮に送還しないこと。この送還の取扱いは、一般犯罪人のように過酷にしないこと。

 ≪在日の来歴 森田芳夫
 「戦前に日本内地に移住した朝鮮人は、一般労務者、動員労務者、学生の三種類に大別される。このうち、移住者の主流をなしていたのは一般労務者であった。
 通常、民族の移動は、窮迫と誘引に原因し、その窮迫は食べ物の欠乏、または実際的に同一に帰するところの人口過剰の結果による。
 朝鮮人一般労務者の日本内地移住の原因も(略)具体的には、左の三点に帰する。
 (イ)日本統治下において、朝鮮人人口が異常に増加したこと。
 (ロ)その増加人口の主体をなした南鮮の農民の生活の窮迫が甚だしく、耕地ときりはなされた農業労務者が多かったこと。
 (ハ)当時の日本内地の経済社会がそれを労働力として要求したこと。

 併合より終戦まで、朝鮮在住朝鮮人人口は、千三百余万から二千五百余万に増加した(このほかに、日本に約二百万人、満州、華北、ソ連に約二百万人いた)。この増加人口をもっとも多く包含したのが農村であり、農業人口は、併合当時から昭和十七年まで約七百万の増加をみせ、このうち南鮮の農業人口は、昭和十七年に千二百余万であった。
 農民の耕地面積についてみると、昭和8年内地一戸あたり平均1・7町歩に比して、全鮮は1・59町歩である。これは北鮮の広大な利用価値の少ない地方をふくむためで、南鮮だけについてみると、最高は忠南の1・21町歩で、最低は慶南の1町歩である。(略)

 併合直後、総督府の着手した土地調査は、近代的土地所有権確立の基礎をきずいたが、土地解放をともなわなかった。施政当初農業以外に目ぼしい産業がなく、資本の多くが土地に投下されて、土地兼併の弊を生じていった。人口は過剰で、生産力はひくく、零細経営のままで、交換経済が強要され、高利貸資本の活動を許し、自作および自作兼小作への転落ははなはだしかった。
 
 小作農業は、日本内地で全農家の二割六分を占めたが、朝鮮では五割三分をしめていた。

 昭和5年の総督府の統計は、農民総戸数お48%にあたる百二十五万戸が春窮農家として発表された。
 この窮乏の農村救済のために、昭和7年以来総督府のかけ声で、農山漁村の振興自力更生運動が実施されていたが、充分な成果をあげ得なかった。また昭和の初めから、北鮮で水力発電利用による大工場の建設を地下資源の開発が進められて、南鮮の過剰人口を吸収しはじめていた。(略)しかし、それより前に、海を越えた日本内地は、この過剰人口のはけ口として絶好の場所であった。生育期にあった日本資本主義は、朝鮮人を労働力として求めた。そこへ行く運賃は安かった。都市や工場や鉱山には働く仕事があり、いけば飯が食えた」森田芳夫『在日朝鮮人処遇の推移と現状』(『法務研究報告書』第43集3号、法務研修所、1955年)
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 「諸君 平成18年4月号」
 ・「強制連行」という言葉を考えるとき、私は今から二千二百五十年前の戦国時代の思想家・荀子の言葉を思い出す。
 「邪説・僻言には三つの型がある・・・名前を偽って正しい名前を混乱させるもの・・・・・事実を偽って正しい名前を混乱させるもの・・・・・名前を偽って事実を混乱させるもの」(「正名篇」)

 戦時期の朝鮮人に対する「労務動員」や「徴用」をして「強制連行」と呼ぶのは、朝鮮人の被害者性を特権化するとともに、日本国の加害者性を強調する態度であるが、それは荀子風に言えば、「名前を偽って、正しい名前を混乱さえるもの」であると同時に「名前を偽って、事実を混乱させるもの」といえるのではないだろうか。

 《在日の品位を傷つける強制連行論》
 ・朴慶植著 「朝鮮人強制連行の記録」(未来社)には在日の被害者性を際立たせるための「はったり」があり、また日本人からの批判を回避するために被害者性を売り物にするという態度があった。
 朴慶植 「朝鮮人強制連行の記録」 

 ≪朝鮮民主法律家協会の声明(1964年3月20日)≫
 日本帝国主義が朝鮮にたいする植民地支配の時期に朝鮮人民にたいしておこなったいまひとつの大きな罪悪は、かれらが朝鮮人大量に日本に強制連行して残忍に抑圧、搾取し、虐殺した事実である。
 帝国主義は、朝鮮を占領したその日から高率の植民地超過利潤をしぼりだし、強盗的な掠奪と搾取で朝鮮人民から生存の手段をうばった。
 生活の道を失った朝鮮人民は、日本の独占資本の恒常的な安い労働力の源泉となった。第一次世界大戦後、いっそう膨張した日本帝国主義は、安い労働力を見つけ出すのに狂奔しながら、欺瞞と懐柔、脅迫などあらゆる卑劣な方法で朝鮮人を日本にかりたてていった。
 とくに大陸大陸侵略と太平洋戦争の時期にいたって、日本帝国主義は戦時労働力の不足を打開するために、朝鮮人民を強制的に大量徴用した。日本帝国主義は当時朝鮮人を連行するにあたり、夜中に農家を急襲し、白昼にトラックを横付けして畑で働いている朝鮮の青壮年たちを手当たり次第に拉致していくなど、文字通りの「朝鮮人狩り」をおこなった。(鎌田沢一郎著『朝鮮新話』1950年)
 このようにして日本帝国主義の植民地支配の期間に強制的に日本にひきたてられていったか、流浪していった朝鮮人はじつに約500万人にのぼるが、このうち1939年から1945年までの期間だけでも、日本帝国主義は百十五万余名の朝鮮の青壮年を徴兵、徴用などで強制的にひきたてていった」(284〜285頁)
 (コメント)よくぞこれだけ事実無根の激烈な言葉が発せられるものだ。まるで日本人は無実の罪人を引っ叩いていくような描写である。日本人への憎悪を煽る意図で書かれている(真中)

 
≪解放15周年記念における金正日の演説≫
 「わが国がこのように急速に発展しているのはけっして偶然ではない。このような発展テンポは、搾取と抑圧から解放された人民がいかに偉大な力を発揮するかを、如実に示している。われわれは、短い期間に社会主義の基礎を成功裏建設し、立ち遅れたわが国を自立的な経済的土台を持つ社会主義的工業ー農業国に変えた。
 我が人民の生活は日増しに向上しており、民族文化と芸術が花咲く時期を迎えている。全勤労者は繁栄し、隆盛・発展する自分たちの祖国をほこりにしながら、幸福で希望にみちた生活を楽しんでおり、いっそう輝かしい未来をめざして引き続き千里の駒をかる勢いで前進している。
 日本帝国主義統治時代に、わが国の勤労者は過酷な搾取と抑圧のもとで、飢えと寒さにあえぎ、数多くの人々は職を失い、あてどもなく放浪生活をした。
 今日、わが勤労者は、すべて職をもっており、自分の職場で国家と社会のために、自分自身の幸福のために思う存分働くことができ、衣食住の問題についてなにひとつ心配することもなくなった。わが国ではすでにずっと前から失業がなくなり、勤労者の収入は著しく増大した。(中略)現在、労働者、事務員の賃金水準は、彼らに安定した生活を充分に保障しうるし、農民の生活もおおむね中農水準に達した。勤労者には毎年数多くの新しい住宅が支給されている。戦後の時期だけでも都市や農村に2,200平方メートル以上の文化住宅が建設された。もちろん、今のところわが勤労者が裕福に暮らしているとはいえない。しかし、われわれはすでに、国民生活の基本的な問題を解決しており、今後いっそう幸福に、裕福に暮らすことのできるすべての条件をつくりあげた。

 わが国の勤労者は、自分の職業を衣食住についてばかりではなく、子弟の教育問題についても心配がなくなった。若い世代はすべて、国家により無料で中等教育をうけられるようになっており、大学や専門学校の学生たちは国家から奨学金までうけている。今、わが国には、37の大学をはじめ約8,000の各級学校があり、そこで250万名の学生が勉強している。すべての人々に学びの道が開かれ、誰もが希望と能力に応じて専門学校または大学へあがれるようになり、自分の才能をのばすことができるようになった」(「労働新聞」1960年8月15日付)

 要するにここに記されているのは、自己の被害者性を際立たせるためのはったりであり、これをいうと、日本人は萎縮し、黙ることを知っているから、こんな文を「序」においたのである。これはつまり自己防衛的な言葉であり、在日には多分身に覚えのある話であるから、苦笑の声も聞こえてくるというわけである。

 一世の立場からすれば、自分が日本にいることを、すべて戦前の日本人の強制連行のせいにするような話しには、他者に対する欺瞞とともに自己に対する欺瞞があり、これは本来なら恥ずべき行為であったはずである。⇒この点ではシナ人と朝鮮人は実に良く似ている(真中)

 やがて見て取れるのは、かっては恥ずべきとされた朴慶植の態度がお手本となり、それが本物のコリアンになる方法として推奨されていくという状況である。強制連行の歴史を自信満々に語る二世や三世の言説のいくつかは、・・・被害者アイデンティティに人生の根拠と動機を見出したポスト朴慶植の子供たちなのである。

 より良い生活をするために、私達は、祖国や日本との関係をどのように変えていったらいいのか。これがおそらくは多くの在日コリアンが共有する関心事であると思われるのだが、被害者アイデンティティに身を任せた人間は、前向きの人生を選択しない。つまり彼らが関心を寄せるのは、日本人とコリアンのより良い未来の模索などというよりは、「不幸の科学」(レイモン・クノー)の歴史であり、その在日版の位置にあるのが『朝鮮人強制連行の記録』を著した朴慶植なのである。

 被害者アイデンティティに人生の根拠と動機を見出している人間には、自己責任の感覚がない。自己責任の感覚が欠けているということは、自己検討の機会を自ら遠ざけているということであり、それは、北朝鮮に対する幻想が幻滅に変わった後になっても、北朝鮮との関係を持続させる契機になってしまう。そんな悪しきお手本みたいな本を、在日論の「名著」だとか「古典」だとかいって、持ち上げるのはもうやめたほうがいい。在日コリアンの北朝鮮との不透明な関係を維持し、その核開発や国家テロに利用される契機を作り出すのに、この本は一役買っているのである

 「在日においては、民族主義はもはや反侵略の対抗根拠ではなく、差別への対抗根拠となっている。在日の新しい世代が日本社会に対して持つ対抗性は、差別によるものであって、国家間の侵略や支配によるものではない」(竹田青嗣「在日と対抗主義」井上俊也編『岩波講座現代社会学 第24巻 民族・国家・エスニシティ』所収、岩波書店、1996年)。

 80年代は、日韓が加害者・被害者の役割分担を明瞭にした時期であるとともに、在日の青年世代が二世から三世に移行し始めた時期であり、また公務就労や参政権を除くと、特別永住者の在日が日本人とほとんど変わりない権利・義務関係のなかで生活することができるようになった時期でもある。

 今日の若い在日世代に自己葛藤があるとしたら、それは何よりもアイデンティティ(主観的自己)と帰属(客観的自己)のズレに起因するもので、在日は、客観的には、外国籍を持ち、朝鮮半島に帰属していることになっているが、主観的、心理的には、朝鮮半島への帰属意識や京属感情に欠け、また日本においては外国人意識にも欠けている。つまり、在日は朝鮮半島との関係においても、日本との関係においても、不透明な存在になっているのであり、その不透明性を解消するためには帰属をアイデンティティの側に近づけるという方法、つまり日本国籍を取得するという方法以外にないと思われるのであるが、前章でも記したように、オピニオン・メーカーといわれる人々に特徴的なのは、日本人や日本国に対する対抗主義的な性格であり、彼らには在日の明日のために、ものごとを前向きに考えるという習慣がないのである。
 池田信夫 上武大学大学院教授 「諸君6月号」 平成19年度

 ・かってリアルな世界の領土を支配した者が大きな権力と富を握ったように、このサイバースペースを制したものが今後の数百年を制することになるかもしれない。今そういう地位を確立しつつあるのがグーグルであり、ウィキペディアである。

 

 真中行造 サイト管理者

 「強制連行」という言葉についても、ある者はそれを日本統治下の朝鮮人の渡日のすべてにあてはめて使うが、ある者はそれを@「募集」(1939年9月〜42年1月)の時期から使い、ある者はA「官斡旋」(1942年2月〜44年8月)の時期から使い、またある者は、かりに「強制連行」という言葉を使うとしても、それはB「国民徴用令」(1944年9月以降)の適用以後に限定して使われるべきだという(鄭大均著 『在日・強制連行の神話』 59頁)。

 いずれもおかしいと思う。なぜなら、「徴兵」にしろ「徴用」にしろ、国家非常事態下においてはどこの国でも強制を伴うものである。このような言葉を敢えて使うのは、当時の朝鮮人はれっきとした日本国民であったという事実を認めたくないからであり、日本人=加害者、朝鮮人=被害者という構図を崩したくないからである。
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