世界の光・親鸞聖人の教えを世界に! 夢は大きく、現状には厳しい目を!
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 「みほとけとともに ~西本願寺の時間~」で、藤 大慶氏
が『「おくりびと」が教えてくれたもの』と題して、次のように
話をされていました。

「おくりびとは、亡くなった人の最期を、心をこめてお送りする
 と言っているのです。これは、どんな人も阿弥陀如来の本願に
 抱き取られて、間違いなくお浄土に参らせていただくというこ
 とが大前提となっています」

 さて、この文脈だと、重要なところがハッキリしないのです。

まず、
(1)どんな人でも、お浄土に参らせていただける
(2)阿弥陀如来の本願に抱き取られた人だけが、間違いなく
   お浄土へ参らせていただける

この二つでいえば、(1)ではないのは、明らかです。(2)こそ
が、宗祖の教えになります。

では、
(3)すべての人は、既に阿弥陀如来の本願に抱き取られている
(4)阿弥陀如来の本願に既に抱きとられた人と、未だ抱きとら
   れていない人とがある
そのいずれなのでしょう。

前述の藤氏の文章では、「どんな人も」と最初にあるものだから、
(3)の意味にとられかねません。(違うならば、そうコメント
をいただきたく思います)
 しかし、親鸞聖人や、覚如上人、蓮如上人のお言葉を拝読する
と、(4)であることは、明らかです。

 蓮如上人は、有名な御正忌の御文に、
「この御正忌のうちに、参詣をいたし、志をはこび、報恩謝徳を
 なさんと思いて、聖人の御前に参らん人のなかにおいて、信心
 を獲得せしめたる人もあるべし、また不信心のともがらもある
 べし。もってのほかの大事なり。その故は、信心を決定せずば、
 今度の報土の往生は不定なり」
と仰せです。
 親鸞聖人報恩講に参詣された方の中に、弥陀の本願に抱き取ら
れた(信心を獲得した)人と、そうでない(不信心の)人とがある。
 「もってのほかの大事だ」と言われています。
 なぜなら、信心獲得(信心決定)していない人、即ち弥陀の本願
に抱き取られていない人は、お浄土には往生できないからだ、と
いうことです。

 その「もってのほかの大事」といわれる部分が、藤氏のお話では、
ボンヤリとしたまま、もしかしたら、そういうところは曖昧にした
ままで、何しろ「死ねば、誰でも、お浄土だ」という(1)の意味
のままで、聞いてもらえたらいいな、という意図なのか、とさえ
思えるのです。

 蓮如上人が「もってのほかの大事」といわれたところを、あえて
ボンヤリと、曖昧にしてしまうのは、なぜなのか。
 「信」「不信」の違い目を、明らかにすることが、できないから
ではなかろうかと、勘ぐりたくもなるのです。
 いかがですか。
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素朴な疑問

阿弥陀如来は、全ての人を必ず抱き取ると約束されているのですから、未だ抱き取られていない人がいるとすれば、本願が成就していないことになります。

ですから、(3)は正しいのではないでしょうか?

さぶろう 2009/05/09(Sat)19:40:50 編集
薬は完成しても飲まなけりゃ・・・
さぶろう様、コメント有り難うございます。
親鸞聖人は、
「本願名号正定業 至心信楽願為因」(正信偈)
  本願の名号は正定の業なり 至心信楽の願を因と為す
 すべての人を、この世で「正定聚」に救う力のある本願の名号、
即ち「南無阿弥陀仏」は、十劫の昔に、すでに完成している。
 これは、至心信楽の願が因となって出来たものだ、と仰せです。
 すなわち、私たちを救う力のある名号は、すでに成就しているのです。

 そして覚如上人が、
「我すでに本願の名号を持念す。
 往生の業すでに成弁することを喜ぶ」(執持抄)
とおっしゃっていますように、名号を受持すれば、報土往生できるのです。
 問題は、名号を受持したか、どうかです。

 たとえて申せば、薬は完成していても、それを飲めば病は完治しますが、
薬の効能を疑って服用しなければ、病気は治りません。
 大切なのは、薬を飲むか、どうかです。

 すでに成就された本願の名号を、受持したかどうか。そこが、最も
大切なのです。

 ということをふまえて、本文を再読していただけば、問題点が
お分かりいただけるのではないかと思います。
管理人 2009/05/10(Sun)23:58:46 編集
無題
お返事ありがとうございます。

>「我すでに本願の名号を持念す。
> 往生の業すでに成弁することを喜ぶ」(執持抄)
>とおっしゃっていますように、名号を受持すれば、報土往生できるのです。

これを読むと、名号の働きは、報土往生させることのようですね。


至心信楽の願が因となって出来たのが名号ですから、
至心信楽の願というのは、「報土往生させる」という願なのですね。

今まで勘違いしておりました。
どうも有難うございました。
さぶろう 2009/05/11(Mon)00:32:00 編集
この世で正定聚 死ねば報土往生
さぶろう様へ
さっそく御覧いただき、有り難うございます。
「本願の名号は正定の業なり」(正信偈)
名号には、私たちをこの世で正定聚不退転に救うはたらきがあります。
 それは、全ての人をこの世で正定聚に救う、と誓われている弥陀の
十八願(至心信楽の願)が、因であります。
 そのために、十七願には、全ての人をこの世で正定聚に救う力のある
南無阿弥陀仏の名号を成就すると誓われています。
 その名号は既に完成していますから、これを受持すれば、この世で
正定聚になれます。
 さらに、
「成等覚証大涅槃
 必至滅度願成就」(正信偈)
この世で等覚(正定聚)になった者を必ず極楽に生まれさせる、と
誓われた十一願(必至滅度の願)が成就していますから、この世で
正定聚に救われた人は、死ぬと同時に報土往生できるのです。
つまり
 ・十七願で、名号を成就された
 ・十八願で、名号を受持する一つでこの世で正定聚に生まれる、
そうなった人は、
 ・十一願で、死ぬと同時に報土往生できる、
そして
 ・その名号を受持するところまで、私たちを導かれるための方便に
  建てられたのが、十九願と二十願である

親鸞聖人は、これを教行信証に、詳しく明らかにしてくださっています。

短いコメント欄では、説明が尽くせませんが以上、補足しておきます。
管理人 2009/05/11(Mon)07:01:06 編集
たびたびすみません
すみませんが、理解が混乱しております。

>「本願名号正定業 至心信楽願為因」(正信偈)
>  本願の名号は正定の業なり 至心信楽の願を因と為す
> すべての人を、この世で「正定聚」に救う力のある本願の名号、
>即ち「南無阿弥陀仏」は、十劫の昔に、すでに完成している。
> これは、至心信楽の願が因となって出来たものだ、と仰せです。
> すなわち、私たちを救う力のある名号は、すでに成就しているのです。

前回は、このように教えて頂きましたが、
これを読みますと、十八願が因となって、名号が成就したことになります。

>・十七願で、名号を成就された
>・十八願で、名号を受持する一つでこの世で正定聚に生まれる、

今回は、名号を成就するのは十七願だと教えていただきました。

十八願は、「名号を成就する」という本願でしょうか?
それとも、「名号を受持させる」という本願でしょうか?

たびたび申し訳ありませんが、よろしくお願いいたします。
さぶろう 2009/05/12(Tue)13:25:30 編集
病を治したい それには薬を作らねば
さぶろう様

 書き方が悪くて、分かりにくくなり、すみません。整理して書きましょう。

 弥陀の18願は「全ての人をこの世で信楽の身に一念で救う」と誓われました。

 譬えて言えば、「全人類の病を治してみせる」とのお約束です。

 しかし、それには、病を治す力のある薬を作らねばなりません。
「そういう薬を、作ってみせる」と誓われたのが弥陀の17願です。

 その17願によって、名号は成就しました。
 あとは、それを受け取る一つで、つまり薬を飲む一つで、病は
全快します。

 これでお分かりのように、「薬を作るぞ」という17願は、「病を
治すぞ」という18願が因となっております。

 逆にいえば、「病を治すぞ」という18願がなければ、「そのための
薬を作るぞ」いう17願も、出てこなかったのです。

 これを、
「本願の名号は、正定の業なり
 至心信楽の願を因と為す」
といわれているのです。

 名号には、どんな力があるのかを、親鸞聖人は、
「無碍光如来の名号と
   かの光明智相とは
   無明長夜の闇を破し
   衆生の志願をみてたもう」
南無阿弥陀仏には、私たちの苦悩の根元である無明の闇を破るはたらきがある
全人類を永遠の幸福に救うという弥陀の願いが、私たちの上に満たされるのだ
と言われています。

 これを、名号には、「破闇満願」のはたらきがある、と言われるのです。 
 ゆえに、これを受持する一念で、全人類は救われるのです。

 くれぐれも間違ってはならないのは、阿弥陀如来のお手元に、十劫の昔に
南無阿弥陀仏が完成していても、それを私たちが受け取らなければ、助から
ない、ということです。
 名号が成就したこと、つまり薬が完成したことと、病が治ったこととは、
全く違うのです。
 薬が出来たことと、病が治ったことを勘違いした誤りが、十劫安心の
異安心といわれ、厳しく戒められていますから、よくよく注意したいと思います。

 それを戒められた蓮如上人のお言葉を、最後に挙げておきます。

◆『十劫正覚の初めより、我らが往生を定めたまえる、弥陀の御恩を
 忘れぬが信心ぞ』といえり、これ大いなる過なり、そも弥陀如来の
 正覚を成りたまえる謂を、知りたるというとも、我らが往生すべき
 他力の信心という謂を知らずば徒事なり」     (『御文章』一帖十三通)

◆『十劫正覚の初より、我らが往生を弥陀如来の、定めましまし
 たまえることを、忘れぬが即ち信心のすがたなり。』といえり。
 これさらに弥陀に帰命して、他力の信心を獲たる分なし、されば、
 いかに十劫正覚の初より、われらが往生を定めたまえることを知り
 たりというとも、われらが往生すべき他力の信心の謂をよく知らず
 ば、極楽には往生すべからざるなり」     (『御文章』二帖十一通)

◆『夫れ弥陀如来は、すでに十劫正覚の初より我らが往生を定め
 たまえる事を、今に忘れず疑わざるが即ち信心なり』とばかり
 心得て、弥陀に帰して信心決定せしめたる分なくば、報土往生
 すべからず、されば、そばさまなる悪き心得なり」     
           (『御文章』三帖八通)
管理人 2009/05/12(Tue)14:28:19 編集
ありがとうございました。
ご解答ありがとうございました。

>弥陀の18願は「全ての人をこの世で信楽の身に一念で救う」と誓われました。

この18願が成就しているのであれば、全ての人がこの世で信楽の身に救われますから、浄土往生できない人は存在しないことになります。


>これでお分かりのように、「薬を作るぞ」という17願は、「病を
>治すぞ」という18願が因となっております。

「薬を作るぞ」という17願が成就していることは分かりましたが、
「病を治すぞ」という18願は、成就しているのでしょうか?

重ね重ね申し訳ありませんが、お願いいたします。

さぶろう 2009/05/13(Wed)18:17:17 編集
十八願成就文
さぶろう様
 さっそく見ていただけたようで、有り難うございます。
 お尋ねの内容は、まさに浄土真宗、親鸞聖人の教えの核心に、
迫りつつあります。

 親鸞聖人は、
「横超とは即ち願成就一実円満の真教真宗これなり」(教行信証)
とおっしゃって、願成就の教えこそ、唯一の真実であり、完全無欠
の教えであり、真実の教えであり、真実の宗教であって、真宗とは
まさにこれである、と教えられています。
 三代目の覚如上人は、
「かの心行を獲得せんこと、念仏往生の願成就の信心歓喜乃至一念
等の文をもって依慿とす。このほかいまだ聞かず」
とおっしゃって、願成就の教え以外、親鸞聖人からお聞きしたこと
はない、と断言されています。
 つまり、願成就の教えに反するものは、親鸞聖人の教えではないし、
願成就の教えに反する信心は、真実の信心でもない、ということです。

 これで明らかなように、願成就の教え以外に、親鸞聖人の教えは
ありません。
 それほど重要な、十八願成就文とは、何か。それは、弥陀の
十八願を、釈尊が私たちに解説してくだされたお言葉です。
 そこには、こう教えておられます。

「諸有衆生 聞其名号
 信心歓喜 乃至一念
 至心回向 願生彼国
 即得往生 住不退転
 唯除五逆 誹謗正法」

その名号を聞く、即ち名号を受持する一念で、信心歓喜と救われる
のだ、と釈尊は、教えておられます。
 これが、十八願成就文の教えです。

ですから、成就しているというのは、決して「既にみな救われている」
ということではないのです。

「金剛堅固の信心の
 さだまるときをまちえてぞ
 弥陀の心光摂護して
 ながく生死をへだてける」(親鸞聖人)
 信心さだまる時(一念)、即ち名号を受持した一念で、弥陀の
心光に摂取されて、永遠に生死をはなれることができる、すなわち、
救われると仰せです。

 ですから、再三申しますように、あとは私たちが名号を受持する
一つにかかっているのです。

 もし、十八願は成就しているから、既にみな報土往生が決定して
いるのだ、ということになれば、願成就文に、
「その名号を聞いて救われるのだ」
と教えられた釈尊のご教導に反します。

 ここから先は、十八願成就文の、極めて重要な内容になりますので、
どうぞ善き師を求めて、直接、ご教導を仰いでくださいますよう、
お願いします。
管理人 2009/05/13(Wed)21:46:08 編集
たびたびありがとうございます
何度もありがとうございます。

> もし、十八願は成就しているから、既にみな報土往生が決定して
>いるのだ、ということになれば、願成就文に、
>「その名号を聞いて救われるのだ」
>と教えられた釈尊のご教導に反します。


もし十八願が、「全ての人をこの世で信楽の身に一念で救う」という誓いであるならば、信楽の人は、必ず報土往生できるのですから、すべての人の報土往生が決定していることになります。

十八願を「全ての人をこの世で信楽の身に一念で救う」と解釈することは、願成就文に反すると思いますが、どうでしょうか?

さぶろう 2009/05/13(Wed)22:40:41 編集
本願の名号を受持する一つ
さぶろう様
 さっそく見ていただいたようで有り難うございます。
「名号を受け取る一つで救われる」ように、成就している、ということです。
 そこまでは、阿弥陀如来が成就してくだされました。
 あとは私たちが、その名号を、受持する一つなのです。

 ところが、親鸞聖人が
「生死の苦海ほとりなし
 ひさしくしずめるわれら」
と仰せのように、なぜ私たちに苦しみ悩みが絶えないかといえば、
いまだ本願の名号を受持していないからなのです。
 つまり、この世でまだ信楽の身に救われていないからです。
 だからこそ、
「あわれあわれ、存命のうちに、みなみな信心決定あれかしと
 朝夕思いはんべり」(ご遺言)
とおっしゃって、一日も早く、本願の名号を受持(信心決定)せよと、
すすめていかれたのでした。

 繰り返しになりますが、十八願がどのように成就されているかといえば、
「本願の名号を受け取る一つで救われる」ようになされているのです。
 あとは、あなたが受け取る一つなのです。

 本願の名号を受持した一念で、弥陀のご苦労が知らされ、親鸞聖人は
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。
 されば若干の業をもちける身にてありけるを、助けんとおぼしめしたちける、
本願のかたじけなさよ」(歎異抄)
と、五劫兆載永劫のご苦労に感泣し、そのご恩を感謝なされて、
「如来大悲の恩徳は
   身を粉にしても報ずべし
 師主知識の恩徳も
   骨を砕きても謝すべし」(恩徳讃)
と、命がけのご恩報謝に突き進まれたのです。
 どうか、一日も早く、本願の名号を信受させていただきましょう。
管理人 2009/05/14(Thu)10:17:12 編集
確認です
読解力が乏しいようで、肝心なところが不明なので、確認させてください。

>「名号を受け取る一つで救われる」ように、成就している、ということです。
> そこまでは、阿弥陀如来が成就してくだされました。
> あとは私たちが、その名号を、受持する一つなのです。

つまり、十八願では、「受け取る一つで救われる働きのある名号を作る」ということが誓われているのであって、「その名号を受持させる」ということは誓われていない、ということですね。

誤解があってはいけませんので、よろしくお願い致します。
さぶろう 2009/05/14(Thu)10:26:49 編集
繰り返しますが
さぶろう様へ

 繰り返しになりますが
十七願に「名号を完成させる」と誓われ、
十八願に「その名号を受け取る一つで信楽に救う」と誓われています。
(このことは、もう幾たびも書いてきたことですので、よろしく)

 親鸞聖人は、こう書かれています。

「もしこのたび、疑網に覆蔽せられなば
 かえりてまた曠劫を逕歴せん」(教行信証)

 残念ながら、今生で本願に疑いが晴れぬ(名号を受持せぬ)まま、
ということは、救われぬまま終わる人もありましょう。そうなれば、
曠劫を逕歴せねば(永く苦患に沈まねば)なりません。
 これを後生の一大事といわれます。

 しかし、阿弥陀如来のご念力は、十方衆生が救われるまで、休まれる
ことはありません。
 未来、再び人間に生まれたときに、何とか名号を受け取らせようと、
全力あげてくださっています。その時でもだめならば、その次、三度、
人間界に生を受けたときにでも、と。

「三恒河沙の諸仏の
   出世のみもとにありしとき
   大菩提心おこせども
   自力かなわで流転せり」(親鸞聖人)

 私たちは、過去幾億兆の生死を繰り返し、何度も仏縁にあい、仏法を
聞き求めてきながら、名号を受持するところまで求めきれないで、迷い
を繰り返してきたのです。
 親鸞聖人も、自分もそうだったと、述懐なされたお言葉です。

 果てしなく六道を回り続けてきた私たち。
 今生こそは、本願の名号を受持(信心獲得)するところまで、
聞きぬかせていただきましょう。
管理人 2009/05/14(Thu)13:27:06 編集
誤解が解けました
誤解の余地の無いよう、明快にご解答いただき、ありがとうございました。

>十八願に「その名号を受け取る一つで信楽に救う」と誓われています。

十八願は、無条件で信楽に救うのではなく、「名号を受け取った人だけを信楽に救う」と誓われているのですね。よく分かりました。


> 残念ながら、今生で本願に疑いが晴れぬ(名号を受持せぬ)まま、
>ということは、救われぬまま終わる人もありましょう。そうなれば、
>曠劫を逕歴せねば(永く苦患に沈まねば)なりません。

十八願は、「名号を受持させる」とは誓われていないので、名号を受持せぬまま死ぬ人もあるのですね。よく分かりました。

結論としては、

「名号を受持すれば信楽に救われるが、名号を受持させるとは誓われていないので、信楽に救われずに死ぬ人もある。
 だから、すべての人が浄土に参らせていただけるのではない。」

これでよろしいですね。
間違いがあればご指摘ください。
さぶろう 2009/05/14(Thu)13:53:10 編集
素朴な疑問
 今生こそは、本願の名号を受持(信心獲得)するところまで、聞きぬかせていただきましょう。

 聞きぬくというのがよく分かりません。何かを聞くと信心獲得できるという保証(約束)でもあるのでしょうか?
通行人 2009/05/14(Thu)15:02:08 編集
通行人さんの「素朴な疑問」へ
通行人さんの「素朴な疑問」にお答えします。
 「仏法を聞く」とは、何を聞くのか。どのように聞くのか。

親鸞聖人は、『教行信証信巻』に
「聞というは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし。
 これを聞というなり」
と教えてくださっています。
 仏願とは、阿弥陀如来の本願のこと。
 生起本末とは、なぜ本願が建てられたのか、そのもとから末まで。
 疑心あることなし、とは、ツユチリほどの疑いの心も無くなったこと。
 しかも、一時無くなって、あとでまた出てくるのではなく、
「有ること無し」未来永劫、疑いの無くなったこと、です。
 そのようになったのを、「聞」というのだ、と仰せです。

 また、ご和讃には、
「たとい大千世界に
   みてらん火をもすぎゆきて
   仏のみ名をきく人は
   ながく不退にかなうなり」
と教えてくださっています。
・・・たとい、大宇宙が火の海になろうとも、そのなか仏法聞き抜く人は、
必ず不滅の幸せに輝くのだ・・・
 蓮如上人は、さらに、
「火の中を 分けても法は 聞くべきに 雨風雪は もののかずかは」
と励ましておられます。
 仏法を聞きぬきましょう、と言ったのは、そういうことです。
管理人 2009/05/14(Thu)16:56:23 編集
果遂の誓い
さぶろう様へ

「誤解がとけました」とのコメント、有り難うございました。
 一点だけ、誤解を解いておきます。

>「名号を受持すれば信楽に救われるが、名号を受持させるとは
>誓われていないので、信楽に救われずに死ぬ人もある。
> だから、すべての人が浄土に参らせていただけるのではない。」

「誤解」といったのは、十方衆生が名号を受持するところまで、即ち
信心決定するまで、阿弥陀如来は何もなされていない、何も誓って
おられない、というのは、誤りだということです。

 何とか、信楽の身に救われるところまで、即ち十八願の救いにあう
ところまで、十方衆生を導こうとしておられるのが、弥陀の十九願と
二十願の、方便の二願なのです。

 名号を受けとる一つで救う、しかし、そこまではお前たちの力で
求めて来い、と言われても、私たちには、求める手立てがありません。
 そこで、阿弥陀如来は、聞く一つで救われるところまで、どのように
求めていけばよいのか、その道程も教えてくださっています。
 それが、十九願と二十願です。
 よって、十八願を真実(真)の願といい、十九願と二十願を方便(仮)の願といいます。
「願海につきて、真あり、仮あり」(教行信証)
とは、そのことを言われているのです。
 「従仮入真」といわれるように、仮よりしか真には入れません。
 方便がなければ、一人として、真実の世界には入れないのです。
 宗祖親鸞聖人は、『教行信証』に、この親鸞も、十九願、二十願の
弥陀のお力によって、十八願の世界、即ち、選択の願海に入ったぞ、
と仰せです。
 長くなりますが、その有名な三願転入のお言葉を挙げておきましょう。

「ここをもって愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、
久しく、万行諸善の仮門(十九願)を出でて、永く雙樹林下の往生を
離れ、善本徳本の真門(二十願)に廻入して、偏に、難思往生の心を
発しき。
 然るに今、特に、方便の真門(二十願)を出でて、選択の願海(十八願)
に転入し、速やかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。
果遂の誓、良に由あるかな。
 ここに久しく願海(十八願)に入りて、深く仏恩を知れり。」(教行信証)
 
 まず、阿弥陀仏の本願に、真実(真)と、方便(仮)のあることを
判定し、十八願を真実、十九・二十の二願を、方便と断定されています。
 真実とは、本心のこと。
 十八願には、弥陀の本心(どんな人をも、必ず信楽=絶対の幸福
に救いとる)が、誓われているから、真実といわれます。
 方便は、方法便宜の省略で、目的を果たす、方法手段をいいます。

「十九・二十の二願は、弥陀が目的(十八願)を果たす、方法手段に
誓われたもの。
 従って、三願は、無関係に孤立したものではない」

 これが、親鸞聖人の見解であり、宣言であります。

「十九・二十の二願は、弥陀が
目的(十八願)を果たす、方法手段に誓われたもの」なのです。
 この点を、よくよく知っていただきたいと思います。

 余りに長くなりましたので、これまでと致します。
管理人 2009/05/14(Thu)17:25:32 編集
そうしますと…
ご丁寧な解説、ありがとうございました。

十九願、二十願のお導きはありますが、
十八願において、「今生で名号を受持させる」と誓われているわけではないことが、明らかになりました。

だから、力及ばずで、信楽に救われずに死ぬ人があることも分かりました。


そうなりますと、以前に教えていただいた、

>弥陀の18願は「全ての人をこの世で信楽の身に一念で救う」と誓われました。

というのは不適切ということでしょうか?
さぶろう 2009/05/14(Thu)22:38:58 編集
願わくは深く無常を念じ
さぶろう様
 だからこそ、親鸞聖人は、『教行信証行巻』に、
「呼吸のあいだ即ちこれ来生なり。
 ひとたび人身を失いぬれば万劫にもかえらず。
 この時さとらざれば、仏、衆生をいかがしたまわん。
 願わくは深く無常を念じ、いたずらに後悔を残すことなかれ」
と、ご教導くださり、蓮如上人も『御文章一帖』に、
「命のうちに、不審(本願を疑う心)もとくとく晴れられ候わでは、
 定めて後悔のみにて候わんずるぞ。御心得あるべく候」
と、教誨くださっているのです。
 一日も片時も急いで、信心決定せよと、両聖人はお勧めになっているのです。

 とはいえ、蓮如上人もご遺言に仰せの通り、すべては、
「まことに宿善まかせ」(御文章五帖)
であります。救われるかどうか、宿善まかせとまでおっしゃっています。
 それは、両聖人の独断ではなく、
「いずれの経釈によるとも、すでに宿善に限れり」(御文章三帖)
あらゆる経典やお聖教に、明らかなことなのです。
 さらに、
「無宿善の機にいたりては、力及ばず」(御文章四帖)
「無宿善の機は、信心をとり難し」(御文章三帖)
宿善の無い人は助からないのだ、と仰せです。
 宿善がいかに重要な問題か、お分かりでしょう。
 だからこそ、親鸞聖人は、
「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」(教行信証)
とおっしゃり、信心獲得(名号を受持)したならば、遠く宿縁を慶ばずには
おれない、と述懐しておられるのです。
 蓮如上人も
「宿善有り難し」(御一代記聞書)
とおっしゃっています。


 さて、最初のさぶろうさんの疑問に戻るならば、
「すでに救われている人と、いまだ救われていない人がいる」のは、なぜか。
それは、ひとえに宿善の相違によるのです。
 最後に、それを教えられた蓮如上人のお言葉をお示ししましょう。

「陽気・陰気とてあり、されば陽気をうくる花は早く開くなり。
 陰気とて日陰の花は遅く咲くなり。
 かように宿善も遅速あり。されば已・今・当の往生あり。
 弥陀の光明に遇いて早く開くる人もあり、遅く開くる人もある。
 とにかくに信・不信ともに、仏法に心を入れて聴聞すべきなり」
(蓮如上人御一代記聞書309)

管理人 2009/05/15(Fri)11:05:22 編集
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プロフィール
HN:
TAXI
年齢:
48
性別:
男性
誕生日:
1960/10/31
職業:
真宗関係
趣味:
音楽・映画・地図を眺める
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