きょう三日、日本国憲法は施行から六十二年を迎えた。与野党の対立で鳴りをひそめていた憲法改正論議だが、改憲の手続きを定める国民投票法の施行まで約一年後となる中で、再び動き始めようとしている。
与党は、二〇〇七年に衆参両院に設置されながら休眠状態だった憲法審査会の委員数や議事手続きなどを定める審査会規程制定へ向け働きかけを強めている。衆参で多数が異なる「ねじれ」もあって具体的な改憲への進展は難しい状況で、次期衆院選を視野に党内に護憲派と改憲派を抱える民主党への陽動作戦との見方もあるが、選挙結果次第では加速する可能性もある。
この時期に、憲法をあらためて見詰め直しておく必要があろう。「国民主権」を掲げる憲法の理念は、直面する問題や、私たちの生活の中で生かされているのだろうか。
救えぬ安全網
昨年末から年始にかけて東京・日比谷公園に人々の視線が注がれた。突然の解雇で、職と住居を失った非正規労働者たちを救済する「年越し派遣村」である。
「派遣切り」された多くの人々が炊き出しを受け、ごろ寝する。一年で最も厳粛な時期とはあまりにかけ離れた衝撃的な光景は、世界的な経済・金融危機が洗い出した日本の労働構造の脆弱(ぜいじゃく)さだった。非正規労働者は、小泉政権の規制緩和策による製造業への派遣労働者解禁で急増した。それが、大規模な不況に見舞われるやたちまち路頭に迷う大量の失業者を生み出した。
憲法二五条は「全ての国民は健康で文化的な最低限の生活を営む権利を有する」とする。これに基づいて雇用保険や生活保護などの安全網が一応はある。問題は、これらがうまく機能せず、救済の網に引っかからないことだ。制度の中身や周知不足、役所の「水際作戦」で生活保護が受けられないなどである。
派遣村の村長を務めた湯浅誠さんは「つけを将来に残す」という。厚生労働省によると、昨年十月から今年六月までに失職や、失う見通しの非正規労働者は二十万人を超えた。生存権が揺らいでいる。
司法参加への挑戦
主権者の位置付けから憲法論議を呼んでいるのが、今月二十一日に施行される裁判員制度である。
国民から選ばれた裁判員が、裁判官とともに重大な刑事事件の一審を審理、有罪無罪や量刑を判断する。日本の刑事司法にとって画期的なことだが、人を裁く重い問題だけに、立場や考えの違いなどが絡み合う。
反対論が指摘する憲法上の問題点は、国民の司法参加の規定がなく、憲法は裁判官による裁判だけを想定している上、裁判員の職務が憲法の禁ずる「意に反する苦役」に当たるなど。
これに対して賛成論は、参審制度の国でも憲法に規定はないとし、旧憲法の「裁判官の」裁判を受ける権利を、現憲法は「裁判所の」と意識的に改めたとする。また、裁判員の職務も、より良い社会構築への応分の責任で「苦役」ではないなどである。
初めてだけに不安や疑問な点はあろうが、主権者として司法に市民感覚を反映させる意義は大きい。辞退理由の柔軟な運用や、裁判員の守秘義務の再考など問題点を改めながら信頼される制度に高めていかなければならない。
理念と現実検証を
憲法は主権者である国民の自由と幸福のための公権力への規範であり、国民生活の根幹をなす重要な存在である。その在るべき像について論議を深めることは大切だ。
しかし、その前に憲法の理念が生かされているか、現実と乖離(かいり)しているなら、そうなった原因は何かなどをよく検証してみることが必要だろう。もし、公権力側が理念をないがしろにしながら、都合が悪いからと改憲に走るならば、もってのほかだ。
それは主権者側の問題でもある。憲法一二条は、憲法が国民に保障する自由と権利について、国民の不断の努力で保持しなければならないとしている。主権者にとって、政治や行政に声を届ける最も効果的な手段は選挙権であろう。近づく次期衆院選などで「物言う主権者」としての一票を行使したい。そのためにも、憲法への関心を一層高めなければならない。