日本国憲法をつくった人たちには先見の明があった。施行から六十年以上が経過したが、憲法週間が始まるにあたってあらためてその思いを強くしている。
日本国憲法は二五条一項で、「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と定めている。いわゆる基本的人権の一つとして、生存権を保障した規定だ。
憲法制定時、多くの人はまず空腹を満たすことに精いっぱいだった。そんな国民にとって二五条は、大きな支えだったかもしれない。
「一億総中流」といわれた時代もあった。バブル景気を謳歌(おうか)したが、その崩壊で「失われた十年」を経験した。雇用回復の兆しが見え始めたころ、世界同時不況の大きな渦の中にのみ込まれた。
そして今、日本は雇用が崩壊し、職ばかりか多くの人が家を失い、路上生活を余儀なくされている。経済格差も広がっている。
年末年始の「派遣村」は、日本社会が抱える問題を象徴的に示していた。二五条の生存権が、いやが上にもクローズアップされたのはまちがいない。
政府がこれまで進めてきた構造改革は、経済格差や貧困などの社会問題を拡大した。そして職を失うことが生存の危機に直結するという、セーフティーネット(安全網)のもろさを露呈した。
非正規が労働者全体の三分の一を占めるまでになっているにもかかわらず、政府は非正規労働者の多くが雇用保険に加入していない状態を放置してきた。これでは失業した際の安全網は働かない。
二五条二項は政府の責務を規定してもいる。このことを考えれば放置した不作為は憲法精神に反し、明らかに政治の怠慢といえよう。
生活保護制度の「母子加算」や「老齢加算」の減額・廃止をめぐって、生存権を保障した憲法に反するとして全国で訴訟が提起されている。同制度は生存権に基づく安全網の最後のよりどころだ。政府や国会は生存権の意味をいま一度問い直すべきだ。
貧困問題などを論じるとき、時に自己責任が強調される。その一面があることは否定しないが、構造改革路線が格差を固定し、貧困の連鎖を生んできたことを忘れてはならない。自己責任を論じるよりも、再スタートを切れる安全網の整備を憲法は求めていると考えるべきだ。
二五条は九条と同様に世界に誇っていい規定だ。「最低限度」でなく「健康で文化的な」の文節も大事にしたい。
経済格差や貧困が社会問題になっている折、二五条の存在意義は重要だ。政府だけでなく、社会全体の取り組みも問われている。