日本統治時代 (台湾)
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台湾の日本統治時代(にっぽんとうちじだい)は、日清戦争の敗戦に伴い清朝が台湾を日本に割譲した1895年(明治28年)4月17日から、第二次世界大戦後の1945年(昭和20年)10月25日、中華民国統治下に置かれるまでの植民地支配の約50年間を指す。
なお、台湾では政治的立場や、歴史認識に対する観点の相違などによって、日本統治時代をそれぞれ日本時代、日治時代、日據時代、日本統治時期あるいは日本殖民時期と呼称しているが、日據時代と表記する場合については日本統治時代に対し批判的な意味合いがある。
目次 |
沿革
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統治初期の政策
日本統治の初期段階は1895年5月から1915年の西来庵事件までを第1期と区分することができる。この時期、台湾総督府は軍事行動を全面に出した強硬な統治政策を打ち出し、台湾居民の抵抗運動を招いた。それらは武力行使による犠牲者を生み出した他、内外の世論の関心を惹起し、1897年の帝国議会では台湾を1億元でフランスに売却すべきという「台湾売却論」まで登場した[1]。こうした情況の中台湾総督には中将以上の武官が就任し台湾の統治を担当した。
1898年、児玉源太郎が第4代台湾総督として就任すると、内務省の官僚として活躍していた後藤新平を民政長官に抜擢し、台湾の硬軟双方を折衷した政策で台湾統治を進めていく。また1902年末に抗日運動を制圧した後は、台湾総督府は日本の内地法を超越した存在として、特別統治主義が採用されることとなった[2]。
日本統治初期は台湾統治に2種類の方針が存在していた。第1が後藤新平などに代表される特別統治主義である。当時ドイツの科学的植民地主義に傾倒していた後藤は生物学の観点から植民地の同化は困難であり、英国政府の植民地政策を採用し、日本内地の外に存在する植民地として内地法を適用せず、独立した特殊な方式により統治するというものである。後藤は台湾の社会風俗などの調査を行い、その結果をもとに政策を立案、生物学的原則を確立すると同時に、漸次同化の方法を模索するという統治方針であった。
これに対し原敬などは『内地延長主義』を提唱した。フランスの植民地思想に影響を受けた原は、人種・文化が類似する台湾は日本と同化することが可能であるとし、台湾を内地の一部とし、内地法を適用させるというものであった。
1898年から1906年にかけて民政長官を務めた後藤新平は自らの特別統治主義に基づいた台湾政策を実施した。この期間内、台湾総督は六三法により「特別立法権」が授権され、立法、行政、司法、軍事を中央集権化した存在となっていた。これらの強力な統治権は台湾での抗日運動を鎮圧し、台湾の社会と治安の安定に寄与している。
また特筆すべき政策としては阿片対策がある。流行していた阿片を撲滅すべく、阿片吸引を免許制とし、また阿片を専売制にして段階的に税を上げ、また新規の阿片免許を発行しないことで阿片を追放することにも成功した。(阿片漸禁策)そのため現在の台湾の教育・民生・軍事・経済の基盤は当時の日本によって建設されたものが基礎となっていると主張する意見(李登輝など)と、近代化の中の日本の役割を過大評価することは植民地統治の正当化と反発する意見、台湾は日本への農作物供給地として農業を中心に発展させられたため工業発展に遅れたと主張する意見、日本商人の搾取によって富が奪われたとする意見(図解台湾史、台湾歴史図説)も提示されている。
内地延長主義時期(1915年-1937年)
日本統治の第2期は西来庵事件の1915年から1937年の盧溝橋事件であり、国際情勢の変化、特に第一次世界大戦の結果、西洋諸国の植民地統治の権威が失墜し、民族主義が高揚した時期である。民主と自由の思想による民族自決が世界の潮流となり、1918年1月にアメリカ合衆国大統領ウィルソンが提唱する民族自決の原則と、レーニンの提唱した植民地革命論は世界の植民地に大きな影響を与えるようになった。このような国際情勢の変化の中、日本による台湾統治政策も変化していく。
1910年代、日本の国内政治で新しい潮流が誕生した。それは藩閥政治に反対し政党政治を実現しようという大正デモクラシーであった。その政治環境の中、1919年に台湾総督に就任した田健治郎は初めての文官総統であり、また田は赴任する前に当時首相であった原敬と協議し、台湾での同化政策の推進が基本方針と確認され、就任した10月にその方針が発表された。田は同化政策とは内地延長主義であり、台湾民衆を完全な日本国民とし、皇室に忠誠な国民とするための教化と国家国民としての観念を涵養するものと述べている。
その後20年にわたり台湾総督は同化政策を推進し、具体的な政策としては地方自治を拡大するための総督府評議会の設置、日台共学制度及び共婚法の公布、笞刑の撤廃、日本語学習の整備などその同化を促進し、台湾人への差別を減少させるための政策を実現した。また後藤新平の消極的な政策を改め、鉄道や水利事業などへの積極的な関与を行い[3]、同化政策は具体的に推進されていった。
この時期に勃興した台湾の社会史としては1914年、台中霧峰の著名な土着地主資産家である林献堂は来台した板垣退助と協力し在台日本人と同等の権利を求める台湾同化会を設立する。しかし、板垣が台湾を離れるとまもなく台湾総督府により解散させられた。
その後、台湾総督府の中央集権的な特権を認めた六三法の撤廃を求めて啓発会が結成され、その解散後は新民会が結成される。しかし知識人階級から六三法撤廃は台湾の特殊性の否定であるとの批判が出ると、台湾に議会設置を求める台湾議会設置請願運動が開始される。1921年、第一回台湾議会設置請願書を大日本帝国議会に提出すると、以降13年15回にわたって継続的に行なわれた。
1921年には台湾文化の涵養を目的として、林献堂を総理とした台湾文化協会が設立される。台湾文化協会は各地で講演会や映画上映などを行い大衆啓蒙運動を展開した。しかし1927年、左派が協会の主導権を握ると右派の離脱を惹起し、台湾における社会運動は分裂することになる。台湾文化協会は事実上台湾共産党の支配下に入り、台湾共産党が一斉検挙されると同時に台湾文化協会も崩壊した。
離脱した右派は、その後台湾民衆党を結成。しかし、台湾民衆党も蒋渭水により左傾化すると右派は台湾の地方自治実現を単一目標に挙げる地方自治連盟を結成した。1937年、日本統治期最後の政治団体である地方自治連盟が解散に追い込まれ、「台湾人」による政治運動は終わりを告げた。
皇民化運動(1937年-1945年)
詳細は皇民化運動を参照
1937年に盧溝橋事件が発生すると日本の戦争推進のための資源供給基地として台湾が重要視されることとなった。台湾における国民意識の向上が課題となった総督府により皇民化政策が推し進められることになる。皇民化運動は国語運動、改姓名、志願兵制度、宗教・社会風俗改革の4点からなる、台湾人の日本人化運動である。その背景には長引く戦争の結果、日本の人的資源が枯渇し、植民地に頼らざるをえなくなったという事情があった。
国語運動は日本語使用を徹底化する運動で、各地に日本語講習所が設けられ、日本語家庭が奨励された。日本語家庭とは家庭においても日本語が使われるというもので、国語運動の最終目標でもあった。その過程で台湾語・客家語・原住民語の使用は抑圧・禁止された。
改姓名は強制されなかったが、日本式姓名を持つことは社会的上昇に有利なこともあり、多くの台湾人が改姓名を行った。
日本は中国と戦争を行っていたことから、台湾の漢民族を兵士として採用することには反対が多かったが、兵力不足からやむをえず志願兵制、そして1945年からは徴兵制が施行された。およそ21万人(軍属を含む)が戦争に参加し、3万人が死亡した。
また台湾の宗教や風俗は日本風なものに「改良」された。寺廟は取り壊されたり、神社に改築された(寺廟整理)。中華風の結婚や葬式は日本風な神前結婚や寺葬に改められた。
1937年の10月1日には台北時間・西部標準時(グリニッジ標準時+8)が廃止され、東京時間・中央標準時(グリニッジ標準時+9)に統一された。(1945年9月元に復帰)
これらの運動は短期的であったこともあり、台湾社会に根付くことはなかったが、台湾が香港やシンガポールなど、日本の支配を受けたが皇民化運動が徹底されなかった他の華人社会に比べて日本的であるという理由の一つの説明にはなるだろう。
敗戦と中華民国の接収
1945年8月15日、日本は終戦の詔書を発表し太平洋戦争が終結し、台湾は中華民国による接収が行われることとなった。同年8月29日、国民政府主席の蒋介石は陳儀を台湾省行政長官に任命、9月1日には重慶にて台湾行政長官公署及び台湾警備総部が設置され、陳儀は台湾警備司令を兼任することとなった。そして10月5日、台湾省行政長官公署前進指揮所が台北に設置されると、接收要員は10月5日から10月24日にかけて上海、重慶から台湾に移動した。
1945年10月25日、中国戦区台湾省の降伏式典が午前10時に台北公会堂で行われ、日本側は台湾総督安藤利吉が、中華民国側は陳儀がそれぞれ全権として出席し降伏文書に署名され、台湾省行政長官公署が正式に台湾統治に着手した。公署は旧台北市役所(現在の行政院)に設置され、国民政府代表の陳儀、葛敬恩、柯遠芬、黄朝琴、游弥堅、宋斐如、李万居の他、台湾住民代表として林献堂、陳炘、林茂生、日本側代表として安藤利吉及び諫山春樹が参加し、ここに日本による台湾統治は終焉を迎えた。
行政機構
台湾総督府
詳細は台湾総督府を参照
台湾総督府は日本統治時代の最高統治機関であり、その長官が台湾総督である。総督の組織は中央集権式に特徴があり、台湾総督により行政、立法、司法、軍事が総覧され専制的な統治権が施行されていた。
沿革
台湾総督府の設立当初は民政、陸軍、海軍の3局が設置されていた。民政局には内務、殖産、財務、学務の4部が設置されたほか、台湾民主国の活動が行われた期間に高島鞆之助が副総督として任命されたケースもある。1896年、陸海軍両局が統合され軍務局に、また民政局より総務、法務、通信の各局が分離し7局体制が確立した。その後1898年、1901年、1919年の3回にわたる総督府官制変更の際にも組織形態は維持されていった。
総督
詳細は台湾総督を参照
1896年に施行された六三法及び1906年に公布された三一法或いは1921年の法三号により台湾に委任立法制度が施行され、総督府はその中央機関と位置づけられた。一般の政策決定は総督府内部の官僚により法律が策定された後、台湾総督府による総督府令の形式により発行した。また専売制などの導入など一部の内容は日本政府との事前協議及び国会の承認を必要とした内容もある。
1895年から1945年の期間中、日本は19代の台湾総統を任命している。その出身より前期武官総督期、文官総督期、後期武官総督期に分類することができ、各総督の平均在任期間は2年半である。
前期武官総督期の総督は樺山資紀、桂太郎、乃木希典、兒玉源太郎、佐久間左馬太、安東貞美、明石元二郎である。この中で安東貞美と明石元二郎は台湾人の権益を保護する政策を実施し、明石はその死後台湾に墓地が建立されている。
文官総督時代は大正デモクラシーの時期とほぼ一致し、日本の政党の推薦を受け赴任された。1919年から1937年までに田健治郎、内田嘉吉、伊沢多喜男、上山満之進、川村竹治、石塚英藏、太田政弘、南弘、中川健蔵が就任している。また台湾の統治方式を抗日運動の鎮圧から経済建設による社会安定に転換した時期である。
1937年に日華事変が勃発し台湾の軍事的価値が高まると、再び武官が台湾総統に任命されるようになった。この時期の総統は小林躋造、長谷川清、安藤利吉であり、戦争遂行のための軍事需要への対応と軍事基地化がその政策の中心であった。また最後の総統である安藤は、戦後戦犯とみなされ拘束され、1946年に上海において自殺している。
総務長官
台湾総督府初期は民政長官と称され、1918年8月20日に総務長官と改称された。総務長官は台湾総督の姿勢を輔弼すると共に、台湾総督府の各政策の実務を担当した。
台湾総務長官は、前身である民政長官を含め水野遵、曽根静夫、後藤新平、祝辰巳、大島久満次、宮尾舜治、内田嘉吉、下村宏、賀来佐賀太郎、後藤文夫、河原田稼吉、人見次郎、高橋守雄、木下信、平塚広義、森岡二郎、斎藤樹、成田一郎が就任している。その中で顕著な活動をした人物に後藤新平があげられ、日本統治時代の台湾経済の基礎を築いた人物である。
その他官庁
総督及び総務長官以外に総督官房、警務局、農務局、財務局、文教局、鉱工局、外事部、法務部などが設置され、これら行政機関以外に法院、刑務支所、少年教護院、警察官訓練所、交通局、港務局、専売局、台北帝国大学、各直属学校、農林業試験所などの司法、教育関係の部署を擁していた。
地方行政区域
中央行政機構以外に、内政統治を行うための行政区域が設置され、日本統治の50年間に10回もの改変が行われている。1895年、台湾統治に着手した日本は台北、台湾、台南の3県と澎湖庁を設置した。その後組織可変が頻繁に行われ、1920年に実施した台北州、新竹州、台中州、台南州、高雄州、台東庁、花蓮港庁および澎湖庁(1926年高雄州より離脱)の5州3庁設置と、その下に置かれた市・街・庄(高砂族の集落には社が置かれた)の地方行政区域で最終的な地方行政区域が確定することとなた。この時の行政区域はその後の国民政府による台湾行政区域決定にも影響を与えている。なお、5州3庁は内地の都道府県に、市・街・庄および社は内地の市町村にそれぞれ相当する。また1920年の行政区域設定の際には、打狗を高雄、錫口を松山、枋橋を板橋、阿公店を岡山、媽宮を馬公としたような日本的地名等への改称が行われ、改称された地名は現在でも数多く使用されている。
行政区域 | 面積 (km²) |
現在 | 備考 |
---|---|---|---|
台北州 | 4,600.8 | 台北県、台北市、基隆市、宜蘭県 | |
新竹州 | 4,573.0 | 桃園県、新竹県、新竹市、苗栗県 | |
台中州 | 7,395.7 | 台中県、台中市、彰化県、南投県 | |
台南州 | 5,444.2 | 雲林県、嘉義県、嘉義市、台南県、台南市 | |
高雄州 | 5,721.9 | 高雄県、高雄市、屏東県 | |
台東庁 | 3,515.3 | 台東県 | 屏東県の一部含む |
花蓮港庁 | 4,628.6 | 花蓮県 | |
澎湖庁 | 126.9 | 澎湖県 | 1926年に高雄州より分割 |
抗日運動
台湾民主国
詳細は台湾民主国を参照
1895年に日清戦争の敗北が決定的になった清朝は、戦争の早期講和を目指して同年4月17日に日本と下関条約を締結し、その際に日本が求めた台湾地域(台湾島と澎湖諸島)の割譲を承認した。
しかし台湾に住む清朝の役人と中国系移民の一部が清朝の判断に反発して同年5月25日「台湾民主国」を建国、丘逢甲を義勇軍の指揮官とし日本の接収に抵抗した。しかし日本軍が台北への進軍を開始すると、傭兵を主体として組織された台湾民主国軍は間もなく瓦解、台南では劉永福が軍民を指揮、また各地の民衆も義勇軍を組織して抵抗を継続したが、同年6月下旬、日本軍が南下、圧倒的な兵力・武器の差の前に敗退した。10月下旬に劉永福が大陸に逃亡、日本軍が台南を占領したことで台湾民主国は崩壊した。台湾軍民で戦死又は殺害された者は14,000人(『台湾史小事典』)に及んだ。
抗日運動
台湾民主国の崩壊後、台湾総督樺山資紀は1895年11月8日に東京の大本営に対し台湾全島の鎮圧を報告、日本による台湾統治が開始された。しかし12月には台湾北部で清朝の郷勇が台湾民主国の延長としての抗日運動を開始した。1902年になると漢人による抗日運動は制圧され、民間が所有する武器は没収された。これらの抗日運動で戦死又は逮捕殺害された者は1万人余り(図解台湾史)との説もある。
この時期の総統である児玉源太郎は鎮圧を前面に出した高圧的な統治と、民生政策を充実させる硬軟折衷政策を実施し、一般民衆は抗日活動を傍観するに留まった[4]。日本統治前期の抗日活動は台湾を制圧し清朝への帰属を目指すものであり、台湾人としての民族自覚より清朝との関係の中で発生した武装闘争であると言える。
一旦は平定された抗日武装運動であるが、1907年に北埔事件が発生すると1915年の西来庵事件までの間に13件の抗日武装運動が発生した。規模としては最後の西来庵事件以外は小規模、または蜂起以前に逮捕されている。そのうち11件は1911年の辛亥革命の後に発生し、そのうち辛亥革命の影響を強く受けた抗日運動もあり、4件の事件では中国に帰属すると宣言している。また自ら皇帝を称するなど台湾王朝の建国を目指したものが6件あった。
霧社事件
詳細は霧社事件を参照
後期の抗日運動の中で大規模なものとして霧社事件がある。これは1930年10月27日に台中州能高郡霧社(現在の南投県仁愛郷)でサイディック族の大頭目莫那魯道が6部落の300余人の族人を率いた反日武装事件であり、小学校で開催されていた運動会会場に乱入し日本人約140人を殺害した。事件発生後総督府は原住民への討伐を決定、軍隊出動による討伐作戦を2ヶ月にわたって展開し、対立部族の協力も得た鎮圧作戦の結果700人ほどの抗日サイディック族が死亡もしくは自殺、500人ほどが投降した。その後生き残った約300人は川中島に移され、霧社タイヤル族は消滅した。
経済
日本統治時代の台湾は植民地型経済構造であり、総論的には台湾の資源と労働力を日本内地の発展のために利用していたと言える。この経済構造は児玉源太郎総督の時代に基礎が築かれ、太平洋戦争により最盛期を迎えた。この台湾経済をその内容により分類するとすれば、1920年までの糖業を主軸とする期間、1920年から1930年代にかけての蓬莱米の生産を主軸とする期間、そして1930年代以降にそれまでの工業を内地、農業を台湾としていた分業論を改め、軍需に対応すべく台湾の工業化が展開された3時期に区分することができる[5]。
これらは重点産業こそ異なれ、経済発展の目標は農産物或いは工業製品の生産工場に拠り日本国内の需要を満たすことにあったが、日本からの大量資本投下は台湾経済の発展と社会インフラ整備を支援し、戦後の台湾経済にも大きな影響を与えている。
糖業
台湾の糖業は日本資本の大規模資本投下によりそれまでの零細な生産体制から工場による大量生産へと転換した。台湾総督府も糖業の発展のために高い含糖量の蔗種導入を図るとともに、製糖方法の改善を推奨するなどの政策を推進した。また製糖業者保護のために「原料採集区域制度」を導入、甘蔗農家は付近の製糖工場への作物納入が義務付けられ、またその価格は工場側が決定するというものであった。
このような保護政策の下、日本の財閥も台湾糖業への投資を行い製糖が次々に設立され、台湾の伝統的な糖業は大きな打撃を受け、また甘蔗農家の収入が抑圧される事態が続いた。
金融
1895年5月、日本軍が台湾に進駐すると、9月には大阪中立銀行が基隆に「大阪中立銀行基隆出張所」を設立した。1896年6月、台湾総督樺山資紀は大阪中立銀行在台分行の設立を認可し、台湾における最初の銀行の設立となった。
1897年3月、帝国議会で台湾銀行法が通過、11月に台湾銀行創立委員会が組織され台湾銀行の開設準備が着手された。1899年3月、台湾銀行法が改正され、日本政府は100万元を限度額に台湾銀行株式の取得を認可した。同年6月に「株式会社台湾銀行」が設立され、9月26日より営業開始となった。日本統治期間中、台湾銀行は台湾総督府の委託を受け台湾での貨幣台湾銀行券を発行していた。台湾銀行の本部は台北に置かれたが、頭取は東京に駐在し、株式総会も東京で開催されていた。この台湾銀行を通して日本資本が大量に台湾に投下され、台湾の資本主義が発達したと共に、更に台湾より中国や東南アジアへの資金が投資されていった。
台湾銀行以外に、台湾総督府は台湾金融の安定化を図るために彰化銀行、嘉義銀行、台湾商工銀行、新高銀行、華南銀行、勧業銀行などを設立し、また特別法を制定し、信用組合、無尽、金融講、信託会社なども設立され台湾経済の発展に寄与させていた。
専売制度
日本統治初期、台湾の財政は日本本国からの補助に依拠しており、当時の日本政府において大きな財政的負担となっていた。第4代台湾総督の児玉源太郎は、民政長官の後藤新平と共に『財政20年計画』を策定、20年以内に補助金を減額し台湾の財政独立を図った。1904年に日露戦争が勃発すると、その戦費捻出のために日本の国庫が枯渇、台湾は計画を前倒して財政独立を実現する必要性に迫られた。
具体的な施策として総督府は地籍整理、公債発行、統一貨幣と度量衡の制定以外に、多くの産業インフラの整備を行うと共に、専売制度と地方税制の改革による財政の建て直しを図った。専売制度の対象となったのは阿片、タバコ(参照台湾総督府専売局松山煙草工場)、樟脳、アルコール、塩及び度量衡であり、専売政策は総督府の歳入の増大以外に、これらの産業の過当競争を防ぎ、また対象品目の輸入規制を行うことで台湾内部での自給自足を実現した。
教育
台湾の教育史も参照
台湾で抗日武力闘争が発生していた時期、総督府は武力による鎮圧以外にその統治体制を確立し、教育の普及による撫民政策をあわせて実施した。台湾人を学校教育を通じて日本に同化させようとした。初等中等教育機関は当初、台湾人と日本人を対象としたものが別個に存在し、試験制度でも日本人が有利な制度であったが、統治が進むにつれ次第にその差異は縮小していった。台湾に教育制度を普及させた日本の政策は現在の台湾の教育水準の高さに一定の影響を与えている。
初等中等教育
1895年7月14日、台湾総督府は初代学務部長に伊沢修二を任命し台湾における教育政策を担当させた。伊沢は日本内地でも実現していなかった義務教育の採用を上申し、総督府もその提言を受け入れて同年、台北市芝山岩に最初の近代教育を行う小学校(現在の台北市士林国小)を設置、義務教育の実験校とした。その後六氏先生事件なども発生したが、総督府は教育政策を推進し、翌年台湾全域に国語伝習所を設置するなどの教育機関の拡充に努めた。1898年、国語伝習所は公学校に昇格している。
当初、台湾の初等中等教育制度は台湾人と日本人を対象とするものが別個に存在していた。内地人(日本人)の初等中等教育は、内地に適用されるのと同じ教育法令に基づいて設置される旧制小学校および中学校、本島人(台湾人)のそれは、台湾教育令に基づいて設置される公学校および高等普通学校によってそれぞれ担われていた。
しかし1929年になると台湾教育令を改正し、中等教育については高等普通学校が廃止、中学校に一本化され、台湾人と日本人の共学制が採用された。同時に初等教育においても「内地人」、「本島人」という民族による区分が廃止され「日本語を常用する児童」が小学校に、「日本語を常用しない児童」が公学校に入学することとなった。
1941年3月、台湾教育令は再度改正が行われ、小學校、蕃人公学校と公学校を統合し国民学校(一部は蕃童教育所として統一された。これにより台湾の教育制度は完全に統一され、特殊な原住民を対象とする教育以外、中央或いは地方財政で学校が運営され8歳以上14歳未満の学童に対し6年制の義務教育が行われるようになった。
台湾人の就学率は当初緩慢な増加であったが、義務教育制度が施行されると急速に上昇、1944年の台湾では国民学校が944校設置され、就業児童数は876,000人(女子を含む)、台湾人児童の就学率は71.17%、日本人児童では90%を越える世界でも高い就学率を実現した。
年代 | 1904年 | 1909年 | 1914年 | 1920年 | 1925年 | 1930年 | 1935年 | 1940年 | 1944年 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
台湾人学童 | 3.8% | 5.5% | 9.1% | 25.1% | 27.2% | 33.1% | 41.5% | 57.6% | 71.3% |
日本人学童 | 67.7% | 90.9% | 94.1% | 98.0% | 98.3% | 98.8% | 99.3% | 99.6% | 99.6% |
高等教育
日本統治期間中、台湾における高等教育は当初は日本人を対象とし、台湾人が高等教育を受ける機会は限定されたものであった。
職業教育
職業教育では総督府は当初農試験講習生制度を設立し台湾の産業発展に寄与する人材育成に着手した。その後糖業講習所た学務部付属工業講習所など就学期間を半年から2年とする教育機関を設立した。その後台湾各地に中学校が設立されるようになると、総督府は技術人材の育成を目的とした職業教育の充実を目標とし、1922年の台湾教育令改正の差異に、職業学校として農業、工業、商業学校を定めた。これらの実業学校は当初2年制であったが、太平洋戦争勃発後は4年に修業期限が延長され、台湾における技術人員の育成が行われた。
交通
総督府は台湾の近代化のために都市整備と交通改善を実施している。その中で鉄道建設が最重要政策とされ、また一定規模を有する道路建設も重要項目として整備された。交通の改善により台湾の人口は1895年の260万人から1945年の650万人に増加し、台湾の南北を連絡する交通網は台湾社会の大動脈として現在も利用されている。
鉄道
1899年11月8日、台湾の鉄道を管轄した鉄道部(台湾総督府鉄道)が総督府内に設立された。成立後総督府は台湾での鉄道建設を積極的に推進し、1908年には台湾南北を縦貫する縦貫線を完成させるなど、それまで数日を必要とした移動を1日で移動できる空間革命となった。
鉄道部はその後も鉄道整備を推進し淡水線、宜蘭線、屏東線、東港線などを建設すると共に、私鉄路線であった台東南線(現台東線の一部)、平渓線を買収した。このほか林田山、八仙山、太平山、阿里山などの森林鉄道の整備も進められていた。
このほか総督府は北廻線、南廻線、中央山脈横断線などの調査も行ったが、これらの新規路線は太平洋戦争の激化により計画にとどまっている。また民間企業による鉄道建設も進み、糖業鉄道、塩業鉄道、鉱業鉄道などが軽便鉄道として台湾各地を網羅し台湾における交通の要となっていた。
国民政府により台湾の資源を収奪した植民地時代として否定的な評価が行われるが、鉄道に関して確実に戦後の台湾経済の発展に大きな影響を与えた遺産となっている。現在台湾の鉄道輸送に対する依存度は低下したが、しかし鉄道網の日本統治時代の鉄道路線をそのまま踏襲し、重要な輸送手段の一つとして使用されている。
道路
鉄道の整備に比べ、日本統治時代の道路建設は積極的なものでなかった。濁水渓や下淡水渓(現・高屏渓)など比較的川幅の広い河川への橋脚整備が未整備であった。しかし日本統治時代後半になると道路網の整備も一定の成果があると、鉄道と自動車輸送の競争が生じ多くの軽便鉄道がバス輸送に代替された。このバス輸送に対し鉄道部は鉄道との平行バス路線を買収するなど対策を行っていた。
また市内交通では「乗合自動車」が設置され、鉄道駅を中心に放射状のバス路線が整備されていた。
港湾
台湾の海運業の改善と、日本の南方進出のための中継港湾基地として総督府は基隆港、高雄港の築港を行い、大型船の利用が可能な近代的港湾施設が整備された。そのほか台湾東部や離島との海上交通の整備の一環として花蓮港や馬公港などもこの時代に整備されている。
水利事業
日本統治時代、台湾の主要産業は農業であり、水利施設の拡充は台湾経済発展に重要な地位を占めていた。もう業方面では地籍登録事業により台湾の耕地面積を確定させた後、水利事業の整備を推進した。 1901年、総督府は『台湾公共埤圳規則』を公布、以前からの水利施設を回収すると共に、新たに近代的な水利施設を建設することをその方針とした。これら水利事業の整備は台湾の農業に大きな影響を与え、農民の収入を増加させるとともに、総督府の農業関連歳入の増加を実現している。
嘉南大圳
詳細は嘉南大圳を参照
台湾南部に広がる嘉南平原は大河川が存在しない上に降水量が乏しい地域であり、秋から冬にかけては荒涼とした荒野になっていた。総督府技師の八田与一は10年の歳月を費やし、当時東南アジアで最大となる烏山頭ダムを完成させると、1920年には嘉南大圳建設に着工、1934年に主要部分が完成すると嘉南平原への水利実現に伴い、台湾耕地面積の14%にも及ぶ広大な装置を創出した。
発電事業
台湾での工業化を推進するために整備が進められた台湾での本格的な発電事業は、1903年2月12日に土倉龍次郎により台北電気株式会社の設立に始まる。深坑を流れる淡水河の支流である南勢溪を利用した水力発電所を建設し、台北市への電力供給を開始した。その後台湾の近代化を推進する総督府は官営の発電所として台北電気作業所及び亀山水力発電所を1905年には台北に、翌年には基隆への電力供給を開始している。その後1909年に新店渓の小粗坑発電所、高雄県美濃鎮の竹子門発電所、1911年には台湾中部の后里発電所などが次々と建設された。
1919年、台湾総督明石元二郎は各公営・民営発電所による台湾電力株式会社を設立、より大規模な水力発電所の計画を立案し、当時アジア最大の発電所建設のための調査が着手された。その結果日月潭が建設予定地に選定され、日月潭と門牌潭に落差320mの水力発電所建設が着工された。この建設のために縦貫線二八水駅(現・二水駅)より工事作業地区までの鉄道を敷設し物資の輸送を行った。これが現在の集集線の前身である。工事は第1次世界大戦後の恐慌の影響を受けるなどあったが、1934年に日月潭第一発電所が完成、台湾の工業化の基礎となる電力供給が実現した。その後増加する電力需要に対応するため、1935年に日月潭第二発電所、1941年には万大発電所の建設が開始されたが、太平洋戦争中のアメリカ軍の空襲にで被害を受け工事が中断した。
社会改善事業
阿片対策
1895年に日本による台湾統治が開始されると当初阿片吸引は禁止された。しかし阿片吸引人口が多く、急進的な禁止政策は社会不安を招くとし、即時禁止政策を漸禁政策へと転換させた。1897年1月21日、総督府により『台湾阿片令』が公布されると、総督府は阿片を専売対象品目とし民間の販売を禁止し、また習慣的な吸引者には一代限定の吸引免許を発行し、新規免許の発行を行わないことで時間をかけた阿片撲滅を図った。1900年の調査では阿片吸引者は169,064名(総人口の6.3%)であったものが、1921年には45,832人(1.3%)とその政策の効果が現れている。また財政的にも阿片専売による多額の歳入があり、台湾経済の自立にも寄与する政策であった。
公共衛生
日本が台湾に進駐した初期において、日本軍は伝染病などにより多くの戦病死者を出した経験から総督府が台湾の公共衛生改善を重要政策として位置づけた。当初総督府は各地に衛生所を設置し、日本から招聘した医師による伝染病の発生を抑止する政策を採用した。大規模病院こそ建設されなかったが、衛生所を中心とする医療体制によりマラリア、結核、鼠径腺ペストを減少させ、この医療体系は1980年代まで継承されていた。
設備方面ではイギリス人ウィリアム・バードンにより台湾の上下水道が設計されたほか、道路改善、秋の強制清掃、家屋の換気奨励、伝染病患者の強制隔離、予防注射の実施など公共衛生改善のための政策が数多く採用された。
また学校教育や警察機構を通じた台湾人の衛生概念改善行動もあり、一般市民の衛生概念も着実に改善を見ることができ、また台北帝国大学内に熱帯医学研究所を設置し、医療従事者の育成と台湾の衛生改善のための研究が行われていた。
歴史的評価
日本統治の功罪
鉱山の開発や鉄道の建設、衛生環境の改善や、農林水産業の近代化などで台湾の生活水準は向上し、農工業の生産も増大した。戦争になると台湾の豊富な食料物資が内地への供給に貢献したほか、高雄には飛行基地が建設され、徴兵制が敷かれるなど、日本人と同様に台湾人も兵士や労働力として活躍した。1945年には選挙法が改正され、台湾から国会議員が選出される道も開かれたが、敗戦により実現はされなかった。また満州国の経営や中国との折衝で台湾人が登用されるケースも多かった。
しかし台湾人の登用はあくまで日本人の補助としての存在であり、多くの有形・無形の差別があった。例えば初等教育においては日本人の通う小学校と、現地人の公学校は明確に区別された。そして高等教育機関進学や官吏登用では制度的に差別された上、日本人の間には台湾人に対する差別意識も存在しており、それを解消すべく戦時中には皇民化政策により日本人との同化が義務化されるなどの政策が行われた。
更に植民地人の間でも差別は行われ、古代、天皇家と姻戚関係があったことなどから朝鮮人は二等国民とされ、台湾人はその下の三等国民とされた。
また、当時理蕃政策と称された台湾原住民に対する統治政策では、原住民の教育水準に一定程度の向上を見ることができ、法的には日本人や中国語系住民とほぼ同等の権利の保障が認められるようになった。しかし現実には社会的な差別は根強く残存していた。
更にこうした差別や、経済的・政治的格差に対する反発から、植民地統治に反抗する武力蜂起も数多く起こった。こうした武力蜂起は日本警察や軍隊により悉く鎮圧され蜂起に参加した者の多くは逮捕、もしくは殺害された。特に、日本統治時代最大規模の武力蜂起である霧社事件の際は、鎮圧への毒ガス使用が検討された。また、蜂起した原住民部族に対する出草(首狩り、理蕃政策の一環として法律で規制されていた風習)が、鎮圧に協力した部族に許可された。このため、事件前に1400人だった霧社地区の人口は、事件後300人にまで減少し、消滅した。
1942年には台湾で陸軍特別志願兵制度が始まり、1944年には徴兵制も実施され、それに伴い、台湾からも衆議院議員を選出できるようになった。約20万人余りの台湾人日本兵(軍属を含む)が日本軍で服務し、約3.3万人が戦死または行方不明となった。先住民族からなる高砂義勇隊は南方戦線で大きな活躍を見せた。しかし日本は国交が無いことなどを理由に補償を拒み、戦後40年以上経った1987年に、漸く一律200万円の弔慰金が支払われた。しかし毎月30万円の遺族年金が支払われている日本人兵士に対し、日本国籍を離脱した台湾人兵士にはそれ以上の支払いはなく、批判する声もある(高金素梅など)。
また日本ではインフラ確立など、植民地統治のプラス面が評価されがちだが、それに対し結局は台湾人でなく日本人の利益を第一義に考えての投資、優遇された日本人商人による搾取、日本の食糧庫・南進基地に位置づけられ、工業化が遅れたなどの批判もある。
戦後の評価
台湾では戦後、国共内戦に破れ遷台した中国国民党が、それまで台湾に住む本省人を弾圧(白色テロ、1947年に発生した二・二八事件はその最大規模のものである。)、大陸反攻を国是とし軍事を優先とした政策を実施したため、台湾のインフラ整備は後回しにされた。このため一部の本省人は「犬(煩いかわりに役には立つ)の代わりに豚(食べるばかりで役たたず)が来た」(狗走豬擱來)と大陸からやってきた人間を揶揄し、日本の統治時代を部分的・相対的に肯定された。
前総統の李登輝は国民党の独裁体制を廃し台湾内での民主化を導いた。李登輝の時代に監修された台湾の歴史教科書「認識台湾(歴史編)」では、従来地方史として軽視されていた台湾史を本国史として扱い、特に日本の統治時代を重点的に論じたが、この認識台湾は陳水扁の民進党政権時代に公教育から撤廃された。
総統引退後の李登輝は台湾の中華民国(中国)からの独立を訴えた。その中で国民党批判と共に日本の統治政策を再評価を訴えている。
一方で国民党や親民党は李登輝の日本評価を売国的であると批判し、日本統治時代についても日本による搾取に過ぎなかったと位置付けた。また民主進歩党では日本統治に対して同情的ではあるが、植民地主義は現代において認められないとの立場を表明しており、日本統治を評価しつつも、その根底に存在した植民地主義を批判する立場を取っている。
日本統治時代の台湾での評価は朝鮮に比べて肯定的であり、その影響もあり日本人は台湾には好意的である。
脚注
参考文献
- 遠流台湾館 『台湾史小事典』(遠流出版公司 2000年)台湾の国民中学での副読本。
- 廖宜方著・陳国棟監修 『図解台湾史』(易博士文化 2004年)
- 周婉窈 『台湾歴史図説』(聯経出版公司 2002年)
関連項目
- 台湾ニ施行スヘキ法令ニ関スル法律
- 台湾総督府
- 日本統治時代の台湾行政区分
- 台湾総督府警察
- 台湾銀行
- 台湾協会学校
- 台湾放送協会
- 台湾の神社
- 台北市民歌
- 茶工券
- 日本統治時代
- 日本統治時代の朝鮮
- 親日
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