「平和ボケ」「カネだけ出して汗を流さない」「一国平和主義」「旗を見せろ」
国際貢献や国際協調という言葉の前で、日本は必ずといっていいほど内外の批判や圧力にさらされる。そのたびに日本国憲法九条は大きく揺さぶられる。同時に憲法の三大原則のひとつ、平和主義のありようが試される。
九条一項は戦争放棄を高らかにうたう。そして、二項で戦力不保持と交戦権否認を規定する。
悲惨な第二次世界大戦と、その反省にたち、国際平和への願いと非戦の誓いをあらわすものだ。憲法記念日を前にその意味をかみしめたい。
九条の歴史は、政府による苦しい解釈と歪曲(わいきょく)の変遷である。東西冷戦終結後の一九九〇年代から、政府は国際貢献を旗印に「自衛隊を海外に出す」ことに躍起になった。
それでも派遣のたびに国会などで論争となり、十分とはいえないまでも審議に時間を費やした。批判や圧力に対して、ぎりぎりの選択をしてきたともいえる。九条は一定の歯止めとなってきた。国民の多くが九条精神を尊重し、よりどころとしてきたからだ。
だが今世紀になると、海外派遣は変質した。米国主導の「対テロ戦争」に同調した政府は、派遣の目的として「国益」を前面に押し出す。小泉純一郎元首相の「自衛隊がいるところが非戦闘地域」が象徴するように、政府の説明と手続きも粗雑になった。
「専守防衛」としてきた政府解釈の形骸化(けいがいか)は見過ごせない。憲法と法律の関係を逆転させるような対応はソマリア沖の海賊対策でも見られる。
活動の実質的な裏付けとなる海賊対処法案の成立を後回しにして現地に向かわせた。法案で武器使用を一部容認しながら、「警察活動だから武力行使ではない」と言い張る政府見解は詭弁(きべん)にしか聞こえない。
法案は今国会で審議しているが、与野党の議論は恐ろしいほど低調だ。あきらめのような姿勢は、もはや政治の責任放棄といえよう。
世界で戦争が絶えない。既存の国民国家が解決できないさまざまな問題が噴出している現実がある。だからこそ国家の枠組みを超えた武器を持たない市民の存在は大きい。
日本の市民は汗を流していないわけではない。平和創造を実践する非政府組織(NGO)の活動は世界各地で活発だ。一九九〇年のハーグ国際平和市民会議を機に、日本国憲法の九条精神を評価する動きが広がっている。
いま、九条を捨て去るのはもったいない。憲法前文に掲げた「崇高な理想」こそ海外に伝え、「平和のうちに生存する権利」を追求していく努力は、わたしたち一人一人にも課せられている。