教員による小学児童への懲戒行為を体罰と認めなかった28日の最高裁判決は、教師の実力行使が許される場合があることを最高裁として初めて示した。適切な戒めなのか、禁じられた体罰なのか見極めが難しい中、教育現場に一つの判断材料を示したと言える。
体罰は元々「熱心な指導の延長」などとして黙認されてきた。しかし、教諭に頭部を殴られた8歳の男児が死亡したり(87年神奈川県)、頭などを手で突かれコンクリート柱に激突した16歳の女子高生が死亡する事件(95年福岡県)があった。その都度体罰への批判が高まり、体罰で処分を受けた教職員数は87年度に初めて300人を超え、03年度には最多の494人に上った。
こうした中、90年代後半から児童生徒が勝手に席を立つなどして授業が成立しない「学級崩壊」が問題化。小中高生の暴力行為は07年度に過去最悪の5万2000件に達した。その背景の一つとして「懲戒がどこまで認められるか機械的に判定できず過度の萎縮(いしゅく)を招いている」との指摘が出ていた。
判決は体罰について「目的、態様、継続時間などから判断する」と述べた。「場所的、時間的環境、態様等の諸条件を考慮する」とした07年の文部科学省通知とも重なり、行政の見解に司法がお墨付きを与えた形だ。
一方で基準と呼ぶにはあいまいで、今後も事例ごとに適否を判断する状態が続き、苦悩する現場への特効薬とまでは言えないだろう。
体罰を恐れるあまり指導をためらってきた現場には朗報ではあるが、判決は今回の行為を「教員が立腹しており、やや穏当を欠く」とくぎを刺している。教育の名に値しない暴力が認められないことは言うまでもなく、判決の拡大解釈は許されない。【銭場裕司】
堀尾輝久・東京大名誉教授(教育法学)の話 児童の胸ぐらをつかむ行為は肉体的苦痛や強い恐怖心を与えるもので、指導ではなく体罰に当たるのではないか。最高裁判決は下級審の判断を覆すだけの新しい根拠を示しておらず、子どもの権利についても言及せず、説明不足の印象を受ける。判決で教育的裁量の範囲が過度に広く容認される方向に拍車がかからないよう望む。教師はまず第一に子どもとの信頼関係の構築を心がけるべきで、「体罰基準」の解釈にとらわれ過ぎるべきではない。
毎日新聞 2009年4月28日 15時51分