ほとんどひとつながりの文章として読めてしまうのだが、実際は「血液型 差別」でサイト内検索して結果を、ヒット順に配列してあるだけ(関係の薄いコメントや、コメント内の内容に関わらない応答は除いてある。それにしても驚愕)。
きくち May 9, 2007 @00:26:28
血液型性格判断は実際に差別と結びついています。
ただ、これは血液型性格判断の正否とは別なんですよね。仮に血液型性格判断が正しいとしいも、差別に使ってはならないわけです。
きくち May 23, 2007 @00:36:33
仮に血液型性格判断が当てになるとしても、それは「やってはいけないこと」なんです。基本は「本人の努力ではどうしようもないことで、差別してはならない」ですから。
きくち May 23, 2007 @01:40:54
おっしゃるとおり「建前」です。
現時点でも「入社の面接で血液型を訊かれた」という話は、いろいろなところで挙がっています。血液型による差別は「すでに存在する差別」と考えるべきでしょう。
僕たちはふたつのことを世間に訴えなくてはなりません。
まず「血液型性格判断はニセ科学であって、根拠がないこと」そして、「よしんば血液型性格判断に根拠があったとしても、それを採用のための判断基準とするなど、差別の根拠としてはならないこと」です。
きくち May 26, 2007 @09:57:16
たしかに「自分ではどうしようもないことで差別してはならない」は非常に一般的なスローガンなので、その中身については個別に考えなくてはならない点がいろいろあると思います。
「人権」については、長い長い議論の歴史があるわけですし。
そういう意味では、就職差別についていえば、「個人の能力・適性だけで判断せよ」ということですよね。
まず「個人」ということが重要で、「個人の属する集団の性質」ではない。それから、「適性」については、職業ごとに違いますし、技術の進歩によっても変わっていきますから、完全にケースバイケースでしょう。
スローガンについては、その背景にある考え方まで説明しないと誤解を招くかもしれない、ということでしょう。「道徳を自然科学で根拠づけるべきではない」でもそうでしたが(^^;
まあ、どんな場合にも「一文」ですべては語れないわけです。ただ、キャッチフレーズもそれはそれで重要なので。まあ、そこはいつでも悩ましい。
きくち May 27, 2007 @11:21:56
現実には「血液型で人を判断する」のは差別であるとみなさん考えておられるわけです。それはいいですよね。そこにまで疑問符を付けるかたに対しては徹底的に議論しますが。
その先の「仮に血液型と性格にかなりの相関があったら」は、問題設定が非現実的なので、実はなかなか真剣には議論しづらい。しかし、それが来るべき「遺伝子差別」と非常に近い問題であることは認識しておいたほうがいいでしょう。
むしろ、"ファンタジー"にすぎない血液型のことは忘れて、「遺伝子差別」の話にしたほうがはっきりするかもしれません。
この問題については既に多くの論考があるのだと思いますが、僕はあまりフォローしていません。ただ、少なくともグールドの「人間の測りまちがい」くらいは読んでから議論したほうがいいかとは思います。
きくち October 22, 2007 @09:24:31
ふたつの問題は別とも言えるし、別でないとも言えて、なかなか整理は難しいです。
僕は「血液型性格判断は差別につながる」と主張しています。この点は、何度か出てきた放送倫理を議論する機関であるBPOの声明にも書いてありますし、「血液型性格判断の社会的影響」を考えるうえでは最も大事な点だと思います。
そして、それ自体は血液型性格判断の科学的な成否とは関係ありません。仮に事実であっても差別につながるということです。
たしかにABOFAN氏はその問題に無頓着であり、「法律違反でないからいい」という趣旨の発言をされるかたであることがわかりました。それはそれとして、批判されるべきであると考えていますし、実際、その議論は行なわれました。
ただし、ここでは科学的な成否についての議論に、より多くのコメントが割かれています。ひとつの理由として、ABOFAN氏がネット上で「血液型性格判断を科学的に肯定しようとする論客の代表的人物」とみなされていることが挙げられます。ABOFAN氏の議論が科学的にも論理的にも破綻していることは、一連の議論で完全に明らかになったと思いますが、ABOFAN氏はまだ続けるおつもりのようです。そうであるなら、純粋に科学的な議論は、差別とは別問題として続けたいと思います。
科学的な問題に関して、僕やほかのみなさんがABOFAN氏を批判しているのは、その論理的でたらめさと議論における不誠実な対応です。
差別に無頓着であることとどこかでつながっているのかもしれませんが、いちおうそのふたつは分けています。
社会問題としては差別のほうが重要であるというのは、おっしゃるとおりです。
きくち October 22, 2007 @22:22:04
>そんなことはあり得ないのですが
いろいろ調べられた結果として「関係がないことがわかった」のであって、「あり得ない」わけではないです。
血液型性格判断以外の問題も考えると、「事実であったとしても、差別の材料としてはならない」というのは極めて重要なことです。
その意味で、「科学的事実」と「差別」を分けておく必要があります。
きくち October 25, 2007 @22:07:54
>倫理観が科学的真偽に依存するようなものではあってはならない
その点では基本的には同意できてると思うんですけどね。
ただし、例外はいくらでもありえます。医療の発達で「生」と「死」の概念すら、かつてとは変わってきています。「脳死」など、かつては問題として存在しなかったのです。そういう新しい概念に対して、新しい倫理を作らなくてはならない場面は今後いくらでもでてくるでしょう。
差別につながりかねない発見の多くが、同時に医療につながるものでもあり得ます。差別につながりかねない発見を単に「なかったことにする」「見なかったことにする」では却ってよくないという事態は今後どんどんでてきます。難病が遺伝性であることがわかるなら、治療法につながる可能性があります。しかし、同時に差別にもつながり得ます。
考えるべきは、差別につながりかねない発見を「差別に結びつけない」という社会的合意です。それを「科学者の倫理」だけですまそうとするべきではありません。
【ニセ科学対策教材の種の最新記事】
菊池氏はその程度の話題をプレイアップして、「差別差別」と大騒ぎしたいのでしょう。一般的な感覚から遊離したニセ科学批判の首謀者らしいコメントの連鎖をアップしていただき、氏の常識はずれを再確認することができました。ありがとうございます。