守屋神社奥宮 14.5.5
 守屋神社の祠は、守屋山東峰に鎮座しています。その祠の脇にある石柱には「守屋神社奥宮」とありますから、麓に「前宮」もしくは「里宮」が存在することになります。
 守屋山のウリである大パノラマを堪能し最高峰の西峰まで足を延ばすと、もうピストンの頂点です。サイクルの最終盤、もう少しで車のシートにヤレヤレと腰を落とせるという時に、「守屋神社里宮」の字を見ました。かなり足に来ていたので、国道沿いなのでいつでも来られる、と小さな標識の案内先をチラッと見るだけに留めました。

物部守屋神社里宮 15.6.29
 去年と同じ立石コース登山口に車を置き、徒歩で急坂の国道を登ったり下りたり…。守屋神社里宮はこの近く、と見当をつけたのですが、建物と言えば別荘ばかりです。案内板もなく、木立を空かしても鳥居らしきものは見えません。期待した山側に向かう車道ですが、その先は、何故こんな所に、と今見ている状況からは疑問を感じてしまう廃牧場でした。あの「守屋神社里宮」は白日夢だったのか、と疑念が募り始めました。下山路と道標の位置関係を思い出し、ここより下にあるのは間違いない、と車で下ってみました。徒歩より十倍以上の早さでも、思いの外、と言える距離にようやく鳥居を見つけました。
守屋神社本殿の覆い屋 「従六位物部連比良麿謹書」とある扁額から、守屋神社以外の何ものでもないと石段を登ります。最上部の社殿は、造りは拝殿ですがその背後にあるはずの本殿が見当たりません。本殿の覆屋を兼用しているのだろうか、と中をのぞきました。しかし、本殿はなく、右に神輿が置かれているだけです。空っぽと言う状態です。おかしいな、と脇へ廻ると更に上に続く石段がありました。
 神明造りの屋根がその先に見えます。諏訪大社の御宝殿にもひけを取らない厚い茅葺という重厚さに、これは、と期待しました。しかし、格子を透かしてその中に本殿を認めると、なーんだ、という覆屋でした。上奥に棟札が並んでいます。中央の消えかかったものでも大正ですから、その頃に建て替えたか新造したのでしょう。
守屋神社本殿 本殿の扉は、左は手前に開かれ、右は蝶番が外れ中に倒れ込んでいます。全くの見捨てられた状態に驚きました。いわゆる氏子、ここでは守屋神社氏子総代会などの組織が機能していないようです。
 覆屋が立派なだけ落差が際だった本殿を後にして、拝殿まで戻りました。その左右には石祠や灯篭が並んでいます。灯篭には神紋「三ッ柏」が見られます。境内の左端には新しい蔵があり、金色の「三ッ柏」を掲げています。その輝きは、つい最近まで神社と人との関わりがあったことを思わせました。

守屋神社の謎 19.4.7
守屋神社本殿  調べて5年目の再訪となった覆屋ですが、その扉が半開きです。失礼とは思いましたが、勝手に御開帳させて頂きました。直に見る本殿の扉は前回と同じく壊れたままでした。“神も仏もないものか”というほどの荒れ様です。神頼み以前の問題ですが、誰か手を入れてくれる人はいないのでしょうか。私でも良ければ、と手を挙げたいところですが、よそ者が助っ人に来ても神様は当惑するだけでしょう。
 今回は本殿の下に石棒があるとの情報を得ていて、それが目的の守屋神社里宮です。スカートの下を覗くような何か危ない感覚を覚えながら早速に目をやると、竪穴式石室のような穴があります。
守屋神社の石棒 ところが、期待していた「縄文の石棒」ではなく、私にとっては只の石が収まっていました。石棒なら、短絡的にはミシャグジ(御社宮)神となり、守屋神社が「物部守屋」を祭っていることと矛盾してしまいます。しかし、写真のような無加工の石です。
 かつてはこの“石室”には蓋があったと思われます。それが完全に露わになっていることから、私の得意な妄想半分の推理が始まりました。縄文マニアにとっては、石棒は垂涎の的となります。ましてや山中の“一軒社”です。盗難に遭ったとしました。祀りの根本となる神体を失ったため、代わりの石を安置しました。しかし、時代の流れもあって氏子の拠り所としての存在が薄れました。その結果として、今見る守屋神社里宮になってしまった、としました。
 その時代は全く分かりませんが、本殿内ではなく地下に石棒を安置したのは何故でしょう。諏訪大社以前の、諏訪神社以前の、諏訪明神以前の、縄文時代にまで溯るとも言われるのが諏訪の「ミシャグジ」です。そのミシャグジを祭る神社は御柱を建てないと伝えられています。「御柱を建てない守屋神社」とよく言いますから、あくまで諏訪明神に巻かれずに、「守屋」山から“流用した”守屋と物部連(むらじ)を合体させ独自の神社としたのでしょうか。ミシャグジの総本社は守矢神長官屋敷にある「御社宮司総社」と言われていますが、実はミシャグジの源流はこの神社だった…。
守屋神社本殿 最近は、ダメ押しとして目的圏外も注視しています。それに倣ってさらに上を眺めると、…拝殿と本殿の延長線上に石の祠が見えます。急斜面の松葉に滑りながら這い上がると、石造りとしては大きな祠が苔むした姿で佇んでいました。地元の氏子だけが知る人ぞ知る、でしょうか。持参のメジャーで測ると、基礎(台石)からの高さ1mで大棟の巾が0.8mです。ここで、この祠はメートル法で造られたのでは、と一瞬思いましたが、屋根(前後)の長さは1.03mでした。
 隣と言っても伊那郡外に当たる諏訪からの来訪者では、案内板や祠に彫り込みがないと全くお手上げです。拝殿や本殿もそうですが、一体、この祠をどう位置付けしたらよいのでしょうか。
守屋神社「三ッ柏」 手掛かりとなるのは、石祠大棟に刻まれた「三ッ柏」です。拝殿周辺で見られる神紋と同じなので、守屋神社の旧本殿なのでしょうか。これでますます謎が深まってしまいました。

 図書館でようやく見つけた資料ですが、「由緒等の古文書が焼失し詳細が不明」とあります。そのため、これ以上の情報はこのサイトでは紹介することはできません。永久に正体不明のまま、というのも面白いかも知れません。それにしても、その資料に「4月に例祭があり神輿の巡行がある」という記述も、この荒れ具合では廃絶していると思われます。

守屋神社の御社宮司 19.9.2
 写真の撮り直しに守屋神社へ出掛けました。目的を達したので、お昼は何を食べようか、と下ると、鳥居前の灯篭に目が留まりました。参道側の側面に「社宮司」と彫られています。もちろん「御社宮司」や「ミシャグジ」の「社宮司」です。
 「明治45年合祀」とありますから、神社の統廃合時に近隣から移されたのでしょう。問題は、「どこに合祀されたか」です。「合祀」は「合わせて祀る」ことです。ミシャグジの本質から本殿下の石室しかないと思われますが、どうでしょうか。

「従六位物部連比良麿」 20.10.20
扁額「比良麿」 鳥居の扁額にある「比良麿」をネットで検索しました。ヒットした物部氏の系図に、物部神社(石見国一之宮)の歴代神職が金子家とあります。明治に世襲制が廃止された関係でしょうか、末尾の「位置」に「有卿(ありのり)」と「比良麿」が見つかりました。「有卿」が直系で、「物部神社神職・金子有卿(ありのり) 男爵 石見国造 物部連 饒速日命後裔」とあります。
 話は飛びますが、5月に島根県太田市にある「石見一宮・物部神社」へ行ってきました。その時に持ち帰った「由緒書」ですが、このサイトとは“縁”が薄いので処分してしまいました。そのため、手許では「公の詳細」がわからないので、公式HPの「御由緒」を読んでみました。
(前略) この石見国造金子家は明治初年、神職千年以上奉仕する功により出雲の千家・北島の両家と共に男爵の称号を授けられる。その後国造金子有卿男爵は初代貴族院議員にまた出雲大社教初代副菅長などを歴任され、神社興隆のため活躍された。
 「世襲制を廃止したので普通の人に戻れ」と命じたものの、余りの名家に、それは忍びがたいと爵位を授けたのでしょうか。長男が「従五位」なので、(弟と思われる)「比良麿」が「従六位」になったと思われます。
 ところで、直系の兄ではなく、「比良麿」とあるのが不思議です。「物部守屋神社」の揮毫をお願いした時は、すでに弟の時代だったのでしょうか。

‖参考サイト‖ サイト内「守屋神社奥宮」
「諏訪大社と御柱」ホームページへ