「序章〜旅立ち〜」
「…お前を愛しているのよ…」
たったそのひとつの言葉が、唯一自分に母が居たという証しだった。
少なくとも、生まれる前から聞こえていた耳に焼き付いたこの言葉が、紅葉(くれは)にとっては、孤独を紛(まぎ)らわすものだったのかもしれない。
紅葉の住む鬼神(おにがみ)神社は、人が怖れる鬼を神として祀っているという風変わりな社(やしろ)だった。
紅葉の母、小磯(おいそ)は先代の巫女(みこ)と宮司(ぐうじ)を兼ねていた。紅葉はその二代目として育てられたのである。
小磯は自らの死が近いのを悟りつつも、後継者に恵まれなかった。自分の代で社を継ぐ者が居なくなる事を憂う中で、自身が次第に若き日の姿に戻っていくのに気づいた。
そして、人間でいえば50を過ぎた年齢になった時、ひとりの娘を身ごもった。それが紅葉であった。
娘が生まれたのと同時に死ぬと、皮肉にも同じ時にわかった。
やがて紅葉が生まれ、小磯が世を去ると、紅葉は二匹の鬼の手で一人前の巫女として育てられた。
そのうちの鬼のひとり、白夜(びゃくや)は紅葉が生まれ持った鬼の力を目覚めさせるという役目を果たすため、そして生涯その身を守るために捧げるために、常に傍らにいた。
もう一匹の鬼は朧月夜(おぼろづきよ)という女の鬼で、飯炊きなどの世話をするために紅葉の側にいたが、紅葉が11の時に、鬼の一族の郷(さと)へと呼びもどされた。
その後は飯炊きなどもすべて白夜がこなし、紅葉は修行に明け暮れる日々だった。
巫女という立場を忘れてはならない、と紅葉は何度も思いながらも、己の素直な気持ちに逆らう事は出来なかった。
幼いころは兄のように慕っていた白夜だったが、自身が成長する中で、ひとりの男として意識するようになっていた。
また白夜も、紅葉が美しく成長したことで、その美貌に魅入られてしまった。
若き姿の小磯を見て、思い慕っていた頃を思い出すようになっていたのかもしれない。
――この御方(おかた)を護って死ねるなら、それもわが望み。
白夜は紅葉が修行に励む姿を垣間(かいま)見る度に思っていた。
成長に連れて、若き姿の小磯に瓜二つとなった紅葉を見て、その思いはますます募っていった。
愛し合ううちに、紅葉は鬼の一族が望む、高い理想を知ることとなった。
「私ども鬼がいつか人に怖れられることなく、ともに歩んで行ければ…」
白夜は続けた。ひとの間で語り継がれて来ていた鬼の像が、人の、鬼に対する恐怖心をあおってしまっているのだと。
「人が作り出した物語がいけないのですね…」
「語り継がれてきたものを、そう簡単に覆(くつがえ)す事は出来ません」
紅葉も聞いた事がある。
ある物語では、鬼が美しい姫を丸呑みにしたという話、
ある地方では、部屋を覗いた為に鬼女が本性を露(あらわ)にしたという話、
またある物語では、鬼は人の欲望に棲(す)むとも書かれている。
「あのように描かれているのと、我らは違うと何れ人もわかってくれましょう…永き時の果てに何(いず)れきっと…」
そう言って、突然、白夜は言葉を止めた。
「どうしたのです?」
「表に物の怪の気配が致します。ご用心ください。――奴らの狙いはあなた様に相違(そうい)は御座いませぬ」
そう言って、白夜は寝間着姿のまま、弓矢を手にその場を出た。
紅葉は白夜ひとりに物の怪の相手をさせるわけにはいかないと思い、寝間着の襟を直して袴を履き、白夜のあとへそっと付いて行った。
「…いけませぬ、紅葉様」
紅葉が側について行こうとしているのに気づき、白夜が小声で言った。
「何故です、白夜」
「貴女様を危険に晒(さら)すわけにはまいりません。これは亡き母君様と我らとの約束で御座います」
「――この社の主は私です。私の手で物の怪を打ち祓(はら)わなければ」
紅葉の、社を守りたいという気持ちを、白夜はこの時初めて知った。
「蔵に薙刀(なぎなた)が隠してあります。それをお使いくださいませ。――そして、私の傍からどうか離れぬよう、常にご注意ください」
白夜はそれ以上、紅葉を止めようとはしなかった。
蔵へ向かった紅葉は、薙刀を手に戻った。
研ぎ澄まされたその刃先が月夜に照らされ、キラリ、と輝いている。
この薙刀は、朧月夜が使っていた物なのだろうか?
こんな所に隠してあったということは、だれかが使っていたというのは紅葉にもわかる。
――このような薙刀が一体何故こんなところに?
今は、そんな風に考えている場合ではない。
「何者だ!――このような夜分遅しに、無礼にも程があるぞ!」
白夜の、何者かを威嚇(いかく)する声が聞こえた。
その声は、今まで聞いていたあの優しい白夜の声とは全く違っていた。
「白夜…私を護るために…」
熱いものが自分の中でこみ上げてくるのを抑(おさ)え、紅葉は近づいてくる魑魅魍魎(ちみもうりょう)と対峙(たいじ)することとなった。
近づく物の怪を相手に白夜は矢を放ち、紅葉は薙刀を振った。
そして、紅葉は戦う中で思った。
こんなに楽に身体が動くとは思わなかったし、自分にこんな力があったのかと。
これが鬼の力である事はわかる。
しかし、鬼の力とはこれほど強いものとは思いもしなかった。
「はぁ…はぁ…」
物の怪達は、自分たちの力ではこの二人に太刀打ちできないと判断したのか、その場から去る者が増えた。
白夜がくれた力の恐ろしさを紅葉は知った。
そして、自分がもう後には戻れないことも。
「お母様…」
生きていれば、あなたと同じように、人として生きられたのでしょうか…。
それとも私は、こうして生きねばならぬ運命であることは、変えられなかったのでしょうか。
そんな思いが胸を疼(うず)いていた。
鬼の力、永遠の命。
その二つを手に入れた紅葉にとって、己が何故生まれ、何故このような運命のもとに生きなければならないのか、このときはまだ分からない事のほうが多かったのである。
そんな紅葉の気持ちを察したのか、白夜は彼女を鬼神神社の外の世界へと連れ出した。
二人の長き旅がいま、始まったのである。
たったそのひとつの言葉が、唯一自分に母が居たという証しだった。
少なくとも、生まれる前から聞こえていた耳に焼き付いたこの言葉が、紅葉(くれは)にとっては、孤独を紛(まぎ)らわすものだったのかもしれない。
紅葉の住む鬼神(おにがみ)神社は、人が怖れる鬼を神として祀っているという風変わりな社(やしろ)だった。
紅葉の母、小磯(おいそ)は先代の巫女(みこ)と宮司(ぐうじ)を兼ねていた。紅葉はその二代目として育てられたのである。
小磯は自らの死が近いのを悟りつつも、後継者に恵まれなかった。自分の代で社を継ぐ者が居なくなる事を憂う中で、自身が次第に若き日の姿に戻っていくのに気づいた。
そして、人間でいえば50を過ぎた年齢になった時、ひとりの娘を身ごもった。それが紅葉であった。
娘が生まれたのと同時に死ぬと、皮肉にも同じ時にわかった。
やがて紅葉が生まれ、小磯が世を去ると、紅葉は二匹の鬼の手で一人前の巫女として育てられた。
そのうちの鬼のひとり、白夜(びゃくや)は紅葉が生まれ持った鬼の力を目覚めさせるという役目を果たすため、そして生涯その身を守るために捧げるために、常に傍らにいた。
もう一匹の鬼は朧月夜(おぼろづきよ)という女の鬼で、飯炊きなどの世話をするために紅葉の側にいたが、紅葉が11の時に、鬼の一族の郷(さと)へと呼びもどされた。
その後は飯炊きなどもすべて白夜がこなし、紅葉は修行に明け暮れる日々だった。
巫女という立場を忘れてはならない、と紅葉は何度も思いながらも、己の素直な気持ちに逆らう事は出来なかった。
幼いころは兄のように慕っていた白夜だったが、自身が成長する中で、ひとりの男として意識するようになっていた。
また白夜も、紅葉が美しく成長したことで、その美貌に魅入られてしまった。
若き姿の小磯を見て、思い慕っていた頃を思い出すようになっていたのかもしれない。
――この御方(おかた)を護って死ねるなら、それもわが望み。
白夜は紅葉が修行に励む姿を垣間(かいま)見る度に思っていた。
成長に連れて、若き姿の小磯に瓜二つとなった紅葉を見て、その思いはますます募っていった。
愛し合ううちに、紅葉は鬼の一族が望む、高い理想を知ることとなった。
「私ども鬼がいつか人に怖れられることなく、ともに歩んで行ければ…」
白夜は続けた。ひとの間で語り継がれて来ていた鬼の像が、人の、鬼に対する恐怖心をあおってしまっているのだと。
「人が作り出した物語がいけないのですね…」
「語り継がれてきたものを、そう簡単に覆(くつがえ)す事は出来ません」
紅葉も聞いた事がある。
ある物語では、鬼が美しい姫を丸呑みにしたという話、
ある地方では、部屋を覗いた為に鬼女が本性を露(あらわ)にしたという話、
またある物語では、鬼は人の欲望に棲(す)むとも書かれている。
「あのように描かれているのと、我らは違うと何れ人もわかってくれましょう…永き時の果てに何(いず)れきっと…」
そう言って、突然、白夜は言葉を止めた。
「どうしたのです?」
「表に物の怪の気配が致します。ご用心ください。――奴らの狙いはあなた様に相違(そうい)は御座いませぬ」
そう言って、白夜は寝間着姿のまま、弓矢を手にその場を出た。
紅葉は白夜ひとりに物の怪の相手をさせるわけにはいかないと思い、寝間着の襟を直して袴を履き、白夜のあとへそっと付いて行った。
「…いけませぬ、紅葉様」
紅葉が側について行こうとしているのに気づき、白夜が小声で言った。
「何故です、白夜」
「貴女様を危険に晒(さら)すわけにはまいりません。これは亡き母君様と我らとの約束で御座います」
「――この社の主は私です。私の手で物の怪を打ち祓(はら)わなければ」
紅葉の、社を守りたいという気持ちを、白夜はこの時初めて知った。
「蔵に薙刀(なぎなた)が隠してあります。それをお使いくださいませ。――そして、私の傍からどうか離れぬよう、常にご注意ください」
白夜はそれ以上、紅葉を止めようとはしなかった。
蔵へ向かった紅葉は、薙刀を手に戻った。
研ぎ澄まされたその刃先が月夜に照らされ、キラリ、と輝いている。
この薙刀は、朧月夜が使っていた物なのだろうか?
こんな所に隠してあったということは、だれかが使っていたというのは紅葉にもわかる。
――このような薙刀が一体何故こんなところに?
今は、そんな風に考えている場合ではない。
「何者だ!――このような夜分遅しに、無礼にも程があるぞ!」
白夜の、何者かを威嚇(いかく)する声が聞こえた。
その声は、今まで聞いていたあの優しい白夜の声とは全く違っていた。
「白夜…私を護るために…」
熱いものが自分の中でこみ上げてくるのを抑(おさ)え、紅葉は近づいてくる魑魅魍魎(ちみもうりょう)と対峙(たいじ)することとなった。
近づく物の怪を相手に白夜は矢を放ち、紅葉は薙刀を振った。
そして、紅葉は戦う中で思った。
こんなに楽に身体が動くとは思わなかったし、自分にこんな力があったのかと。
これが鬼の力である事はわかる。
しかし、鬼の力とはこれほど強いものとは思いもしなかった。
「はぁ…はぁ…」
物の怪達は、自分たちの力ではこの二人に太刀打ちできないと判断したのか、その場から去る者が増えた。
白夜がくれた力の恐ろしさを紅葉は知った。
そして、自分がもう後には戻れないことも。
「お母様…」
生きていれば、あなたと同じように、人として生きられたのでしょうか…。
それとも私は、こうして生きねばならぬ運命であることは、変えられなかったのでしょうか。
そんな思いが胸を疼(うず)いていた。
鬼の力、永遠の命。
その二つを手に入れた紅葉にとって、己が何故生まれ、何故このような運命のもとに生きなければならないのか、このときはまだ分からない事のほうが多かったのである。
そんな紅葉の気持ちを察したのか、白夜は彼女を鬼神神社の外の世界へと連れ出した。
二人の長き旅がいま、始まったのである。
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