情報番組「発掘!あるある大事典II」の捏造(ねつぞう)問題は、4月初に関西テレビ放送が全国ネットで検証番組を流し、また社長が辞任したことで終息したかに見える。しかし、問題は関テレの1番組に限られたものではなく、「どのテレビ局にも起こりうる構造的なもの」と見る識者は多い。それは一体何なのか――。
「あるある問題」を詳細に調べた外部調査委メンバーだった吉岡忍氏(ノンフィクション作家)と村木良彦氏(メディアプロデューサー)の2氏に聞いてみた。まずは吉岡氏から。
(よしおか・しのぶ)1948年長野県生まれ。早大政経中退。日航機墜落事故をテーマにした「墜落の夏」で講談社ノンフィクション賞。
3層構造の番組制作
────調査委員会は3月23日、150ページ超の調査報告書を出しました。調査は7週間かかったそうですね。まず、どんな調査だったのか概要を教えてください。
最初に納豆ダイエットが「おかしい」と言われたので、そこから入りました。その制作過程を全部追った。1時間の番組の取材テープに始まり、取材プロセスの詳細、つまりアポ取りのファックスやメール、そういうものを全部調べ、それから当事者、つまりディレクター、出演者、プロデューサーなどにヒアリングしました。
関西テレビが日本テレワークという制作会社に委託し(1次委託)、そこが9社に2次委託していた3層構造です。また関テレの上というか横に、系列のフジテレビがいる。そういう3層構造のなかで、2次下請けの9社には、9週間に1度、番組制作が回ってくる。納豆ダイエットは「アジト」という2次委託が担当した。
1つの番組にはだいたい40~50人がかかわっています。2次委託が毎週大きく変わり、上のほうの日本テレワーク、関西テレビ、フジテレビは同じ。また出演者も基本的に同じという構造です。スポンサーの花王や、代理店の電通、フジの関係者から、下はアジトのディレクター、いろいろな実験の被験者、実験に立ち会った大学の先生、そのすべてに取材した。
────調査報告書では、アジトの作品10本、他の制作会社の6本を取り上げていました。
調査報告書の最初の部分(41ページ~63ページ)に、「納豆ダイエット」がどのように作られたかの経緯が書いてあります。なぜ捻じ曲がっていったのか、「捏造」という結果に至るひとつの典型的なストーリーです。
「捏造」で注意しなければならないのは、放送法との関係です。新聞も週刊誌も単に「捏造、捏造」と大騒ぎをしますが、「捏造」を認めた場合には、訂正放送をしなければなりません。関テレは1月下旬と3月28日にやっています。捏造ではないけれども「不適切な演出」の場合は、訂正放送はしなくてもいい。ですから、捏造か否かは非常に大事な区別で、そこのところをほとんどの人はわかっていない。
────厳密に、何が捏造に当たるのでしょうか。
例えば、外国人の研究者に話を聞いて、全然しゃべっていないのに「納豆は体にいいですよ」「納豆は痩せる効果がありますよ」と言っているという扱い方をすることは捏造です。また実験結果で、体重55キロが2週間後は逆に56キロに増えているのに、それを52キロにしたというのは捏造です。
基本的に、ありもしないことを「あった」とする。しゃべってもいないことを「しゃべった」する。これが捏造です。それは取材テープを調べれば、その人が本当にそういうことをしゃべったのか、しゃべっていないのかはわかります。ですから、取材テープを見ることは大事でした。
────膨大な調査から、浮かび上がってきた問題点は何でしょうか。
3月23日に調査報告書を発表しましたが、その後、テレビ、新聞を含めて他メディアの反応、報道ぶりを見ていて一体、何が足りないか。
「この放送回はこの問題、あの放送回はあの問題があった」と細かく報じているものもありますが、1番手薄になっているのは、要するに、なぜこういうことが起きるのか。ここです。ここをメディアのみなさん、どう捉えていいかわからなくて、手薄になっている。
生活情報&バラエティーにかすむ「事実」
この番組はいったい何なのか。ニュースなのか、情報番組なのか、何なのか。自分たちは「生活情報バラエティー番組」だと言っている。
放送法には番組のカテゴリーが「報道」「教養」「娯楽」「広告」と4つあって、「情報番組」という概念はありません。ところが、テレビ局は「情報番組」と言って、一応、放送法上は「教養」に分類しています。けれども、教養といっても高尚なテーマではなく、納豆だとか、よく眠れるとか、身近な生活情報を扱う。そして、タレントが出てきて、賑やかにやる。面白く、わかりやすく。これはバラエティーですよね。
────「教養」と「娯楽」のミックスであると。
ええ。ですから、簡単にニュース、教養だ、娯楽だと分けられるように、いまのテレビはやっていないわけです。全部「総合情報」になっている。
別の言い方だと、いまのテレビ局は、みんなバラエティーになっている。タレントが出てきて、バラエティー化が進んでいる。「生活情報、かつバラエティー」というのがテレビの最大のカテゴリーなわけです。
では、この最大カテゴリーの制作手法はどうなっているのか。この点については、調査報告書の133ページ以降に書いていますが、基本は「分業と協業」です。そして、そのとき、賑やかに、面白く、楽しくやるわけだから、事実はいい加減に扱われてしまう。
問題の納豆番組だと、「DHEAという成分は痩せる効果がある」という部分です。こんな事実はじつはないのですが、事実が非常に軽率に扱われ、ナイものがアルとなってしまう。
報道の人たちは、時には名誉毀損で訴えられたりするので、事実性に対してものすごく執着する。ところが、「生活情報バラエティー」は制作局が作る番組です。
制作局というのは、バラエティーやドラマを作るところで、どうしても事実を軽く扱う。いまはほとんどそうです。それが、いまの日本のテレビの作り方です。ワイドショーも制作局が作る。報道局は作りません。報道局は小さくて、制作局は巨大です。ドラマ、バラエティー、ワイドショー、クイズ番組と全部ありますから。
────そして、そこにスポンサーがしっかりつくわけですね。
そうです。ここで最も大きなお金が動き、そして視聴率競争も1番厳しい。テレビの1番の核心部です。この核心部分で、事実がどうやって扱われているか、番組がどうやって作られているかが問われるわけです。
コミュニケーションを嫌うテレビ制作
今、「関テレ問題」とみんな言うけれども、ほかも全部そうです。自分たちのことを指摘されていると思っていないから、「関テレ問題」をワーッと報道するわけです。
テレビの核心にある「面白く、楽しく、わかりやすく」の価値観を、テレビ制作がどう取り扱うかが問題の中心です。この問題について、テレビ局は触れないし、新聞社も触れたくない。
────新聞社は触れてもいいのでは。
僕もそう思うけれども、新聞社はやはり、系列テレビ会社を持っているから、自社系列が批判されることを考え、他社系列テレビへの批判が鈍る面がある。もう1点は、新聞記者はテレビがどう制作されているか、そのプロセスを知らない。だから、言われても意味がわからないわけです。
────吉岡さんのお仕事はもっぱら報道になると思います。報道の視点で見ると、制作局の仕事のやり方にはどんな違和感を持ちますか。
例えば、報道で取材する場合、相手が殺人犯だろうが、こうやって今、私があなたと話をしているように話をします。単に質問して、答えを待つだけではなく、「やり取り」をしますよね。「それは違うでしょう」だとか。コミュニケーションをするわけです。
ところがテレビの手法は、マスコミュニケーションの代表を装いながら、コミュニケーションがないわけです。「そのひとことをいただきます」でオシマイです。それはコミュニケーションではない。まさに材料を取っていくだけ。コミュニケーションがないのはテレビ制作のいくつかある大問題の1つです。
同じ殺人事件の取材に行ったとしても、ワイドショーの扱い方と、ニュースの扱い方とでは全然違うわけです。ワイドショー系はどちらかというと、「そのひとこと」をいただいたらおしまいで、それで、もう使えるわけです。「10秒しか使いませんから」というわけです。
けれども事実というのは、最終的に10秒で伝えなければならないにしても、取材する人間はもっと、100ぐらい知らなければいけない。ところがワイドショーにはそういう姿勢がない。10秒しか使わないから、隣の人の「悲鳴が聞こえました」というひとことを貰ったら、「ハイ、それいただき」ということで、番組が作れると思ってしまう安直さがある。
突然のシナリオ変更、迫る締め切り
別の問題、アカデミズムの問題もあります。これがまたひどい。取材テープを見ればわかりますが。ディレクターが用意した紙を読むだけの学者がいる。
産学協働路線のなかで、学者は自分の研究を事業化させないといけない。テレビに出て人気教授になれば、メーカーと組んで、自分の研究を何らかの新製品として発売して、実績にできる――。そういう思惑がテレビの場合、より強く働く。そういう下心が見え見えの学者が存在して、生活情報バラエティー番組にしばしば登場する。
例えば、今回の納豆ダイエットでは、当初、β-コングリシニンという成分を番組の中核として使おうと思った。次に、この成分が某メーカーによって製品化されることがわかった。ある大学の先生と組んで、その研究にお金を出して、サプリメントで売り出そうという計画です。
せっかくサプリメントを作って売ろうとしているのに、「納豆を食べれば同じ成分を摂れてしまう」と広まったら、事業化は成功しない。だからこの先生の取材ができなくなった。それで番組は、ダイエット成分を急きょ、DHEAに変えることにした。これが捏造に至る最初の躓きです。
本来、誰に対しても事実を明らかにすべきなのがアカデミズムでしょう。それを特定のメーカーからお金を貰って、そこのためにしか使わない。そこに問題はないのか。
もちろん、メーカー側にも言い分があって、自分たちが資金を提供した研究で、ある有望な事実をつかんだ。それを製品化するにあたって、「同じ効果は納豆でとれますよ」と言われたら、投資が回収できなくなってしまう。それは確かに言い分としてはあるわけです。
────締め切り近くになって、想定していたシナリオを大幅変更しなくてはならない……。アジトのディレクターのあせりは想像できます。
β-コングリシニンについての研究で、別の学者を見つけられなかった。それで別の成分でということで、DHEAに急きょ飛びついた。けれども、科学的根拠がよくわからなかった。ある人は「ダイエット効果がある」、別の人は「ない」、さらに別の人は「まだ動物実験の段階だ」と。
仕方がないから、とにかく動物実験レベルでいいからとやってしまったわけです。
現場でやっているアジトのスタッフは、結構、一生懸命走り回る。けれども、日本テレワークの段階になると、「ああ、よさそうじゃない、その話」となって、「本当にDHEAはいいの?」「DHEAの実験結果はどうなっているの?」という重要な点について、英文の論文を読んだ形跡はない。「それじゃあ、どうやって見せるわけ?」とか、「納豆の食い方を研究しようよ」というような話になってしまっていて、DHEAの成分自体についてきちんとリサーチしていない。
プロデューサーたちはなんのためにやっているのか、なんのために集まっているのか、わかっていない。生姜を入れるか、入れないかみたいな議論をして。
1次制作会社はリサーチャーがゼロ
もう1つの問題は、リサーチ体制の決定的な欠落です。例えば、「納豆でダイエットにしましょう」というテーマを取り上げた。そこまではいい。しかし、本当にそれが成立するのかというリサーチをしなければならない。リサーチャーは日本テレワークの段階で、本来、少なくとも5~6人は置かないといけない。毎週番組をやっているわけですから。
ところが、テレワークには実際は1人もいない。ゼロです。アジトにはいますが。
────リサーチャーを外注していると。
外注して、しかもアジトにいるのは1人か、2人です。1番肝心なところのリサーチが薄いわけです。普通はあり得ないですよ、我々が何か調べるときに。リサーチによる事実発掘こそが1番のキモであって、それを土台に、どうやって展開していくかを考える。そこが確実になった段階で初めて、インタビューに行くかどうかだとか、テーマをどう設定するだとかが成立する。
なのに、その部分はほとんど紙ペラ1枚ぐらいしかない。それで1時間番組のテーマをつくってしまうわけですから、これはもう真面目にやっているとは思えない。
────きちんと事実を押さえ、それから報道するかどうかを考える新聞的手順ではなく、まずキャッチーな見出しなり、プランから入って「これはトレンドだから行ける」という感じで誌面を作る雑誌的手順と言うか……。新聞経験にバイアスがかかっているので誤った比喩かもしれませんが。
雑誌は残るし、お金を出して買ってもらう。だから今の出版界はもうちょっと厳しい。テレビの場合、別に視聴者からお金を貰っているわけではないから、そこにある種の緩みがあると思います。
ビジネス化するインタビュー行為
────テレビ局の報道局がやっているような手法を、制作局が採用すれば事態は改善するのでしょうか。
人事交流があって、かつて報道をやって修羅場をくぐった経験のある人が制作局に来て、バラエティー系のものをやるというようにすれば、多少は違うと思います。今は、どのテレビ局も入社時点に「報道」に配属された人はずっと「報道」、「制作」に配置されればずっと「制作」ですから。
制作でやっている手法は、スポーツ選手にインタビューするにしても、芸能人にインタビューするにしても、“切った、張った”の世界ではないわけです。取材を受けてもらったら謝礼を出す。インタビューを受ける側も、謝礼を貰えると期待してやっている。やり取り自体がすでにビジネスです。いわゆる報道局の取材とは違うでしょう。
制作局取材の典型的な悪い例ですが、少年事件があると、中学生にお金を配って卒業名簿を貰ったりする。そういうことを生々しい取材現場でやったら、大問題になることは報道局出身の人間は知っています。子供にお金をやって写真を貰ったりしたら問題だと。
しかし、大人の世界では、しゃべる側はお金を貰い、聞く側はお金を渡すという関係が一種のビジネスとして成立しているわけです。そういうのが当たり前になっている番組の作り方自体、いいのかと。
ですから、今おっしゃったように、報道をやっていた連中が制作をやれば、多少は変わるかもしれません。「これは、いくらなんでも事実を曲げ過ぎじゃないか」「演出し過ぎじゃないか」というのが、どこかで働くかもしれないけれども、いま、この両者の間で人事交流がないから。特に在京企業はほとんどない。
“1流意識”と制作パワー低下の相関
────「あるある」は、もともと存在していたことが報道されるようになったのか、それとも制作の緩みが最近、とくに顕著になってしまったのか……。
両方でしょう。ただ言えるのは、テレビの第1世代が完全にいなくなった。モノクロの時代から、新聞や雑誌から2流のメディアだ、単に「電気紙芝居」でジイちゃん、バアちゃんの相手をしているだけだと、一段低く見られていた時代に番組を作ってきた連中がいた。その彼らがいなくなって、次の連中は、これはもう最初から制作畑と報道畑に分かれてしまっていて、知識の幅が薄いし、狭い。そういう30代、40代が今、中心になって番組を作っている。
────旧世代は、バカにされたことを跳ね返すために、質向上を志向して、仕事をしていたということですか。
一生懸命ドキュメンタリーなどを作ったわけです。ところが、ドキュメンタリーなどをやっても、視聴者は「面白くないよ」と言って見ない。さんまがいい、志村けんがいいという話になるわけです。
────「面白くなきゃテレビじゃない」と約20年前にフジテレビが言い始めて、自分たちの手でテレビを“1流メディアのステージ”に引き上げたことと関係ありますか。
あります。それと制作力が弱くなったことは裏表です。あまり深いことをやったり、ややこしいことをやっても見てもらえない。30分でできることは何か。ゲストが3~4人いれば15分潰れる。あと15分で何がやれるか。そうすると3つか、4つのネタがせいぜいだ……。という具合に、逆算して作っていく。それが時間をかけたコミュニケーションより、「ひと言いただき」につながってしまうのです。
作り込みより優先される生産性
────定まった時間枠にどれだけの労力とコストをかけるか、という効率の問題になるわけですね。
そうです。あちこち取材しながらやっていてはコストが合わないわけです。だから、無駄弾は撃たない。「これは取材しましたが、要りませんでした」ということになると、人件費だけがかかる。だから、そんなことはしないで、最初から確実なところでいく。あるいは、それに合わせたネタを書かせることになる。
────個人のモノづくりであれば、最終的にお金やコストとは関係なく、いいものを作ろうという、それ自体が動機になりますが、組織だと、なかなかそうはなりにくい……。
ならないですね。僕らの場合は、取材で山のような資料を集めて、いろいろな事実を集めて、結局8割は捨てて、2割で書きます。彼らは8割を使うでしょう。「8割を捨てるのがよくて、8割使ってしまうのがダメだ」というルールがないし、その成果を評価する物差しもないから、これを改めろというのはむずかしい。
────時間やコストを考えると、「ムダが品質を向上させる」などと説明するのは極めて難しい。
結局、テレビの問題というのは、そこにいい人が集まっていない問題に帰着します。特にプロダクションは「メディア教育」を受けた人はほとんどゼロです。みんなアルバイトとして、スタジオの弁当や車の手配なんかするところから始めて、そのうち「うちに来ないか」と誘われて、アシスタントディレクターをやり、現場経験を経て、ディレクターになっていくという感じです。
だから、たとえばマスコミがどういう経過を経て、「表現の自由」を獲得したか、そんなことは誰も全く考えない。どれだけひどい目に遭って、表現の自由が得られたのか。それを粗末に扱うと、いかにひどいことになるのか。それが制限された戦時中はどうだったのか。そんな話は全然知りませんよ、今の20代、30代前半ぐらいは。知識の幅が狭く、厚みが薄い。
その代わり、つまらない雑学は知っているわけです。雑学は実務で取材しているから知っているけれども、それが体系化されていない。みんな箇条書きみたいな感じです。そこが問題ですね。
────プロダクションは、大手企業並みの賃金でメディア教育を受けた学生を採用できるほど資金的な余裕はない。安く使える人たちを採って、使っていかなければならない。
プロダクションは給料がキー局の3分の1ですからね。ですから、経済的にも結構難しい。テレビの世界は、すごい格差社会ですよ。
自ら作らず、作り手を管理するテレビ局のお仕事
────良い悪いは別に、新聞社はほとんどの工程を全部、社内でやってしまっています。
そこは違いがあって、僕も今回いろいろ考えてみて、なるほどと思いました。例えば、新聞であれば、政治部、社会部などの社員がほとんどを作ってしまうわけですが、並行して、寄稿という仕組みがあります。寄稿は、寄稿者の名前で出ます。連載小説などもその一部です。言ってみれば、この寄稿部分が、テレビでいう制作会社に当たる部分です。
ところが、テレビと新聞が違うのは、テレビの場合、寄稿にもかかわらず“署名記事”が1つもないわけです。本来、制作プロダクションの名前がなければならないのに、それがない。いかに優遇していないかがわかりますよね。
例えば、あるバラエティー番組があっても誰が作ったかわからない。テレビ局がつくったものはほとんどありません。テレビ局本体のプロデューサーは30代、40代前半ですが、何をやっているかというと、プロダクション管理をやる。自分で番組を作った経験はゼロではないかもしれないけれども、入社後数年間、結局プロダクションと一緒にやっただけ。あとは基本的にプロダクション管理です。お金の管理から始まって、納期が正しいかの工程管理をする。
一方、下請けのプロダクションの側はお金を貰って、実際に作っているけれども、お金は、今回の「あるある」はテレワークからの支払いが、なんと75日後ですよ。下請法という法律には、60日以内に支払わなければいけないと書いてあります。ですから75日は法律違反です。
「協業」という名の上下関係
こういう状態で、2次下請けはお金がないから、無駄弾は撃てないわけです。最低限でやる。だって、花王から電通に1億円支払われるのに、制作現場にいくと800万円になってしまう。少なくとも「納豆でやります」と決まった瞬間に、3分の1は渡すべきだし、番組制作が半分進んだところで、もう3分の1、放送したところで3分の1を渡すべきです。常識的には。
だから、非常に前近代的で、協業者同士がパートナーではないわけです。例えば、新聞が城山三郎さんに原稿を頼む。城山さんがご自分の名前で書くわけです。それはお互いにパートナーの関係ですよ。
ところが、テレビ局と1次下請、2次下請はパートナー関係ではなく、前近代的な上下関係です。なぜこんなことが起きるかというと、テレビ局同士で競争がないからです。これだけ新しそうなメディア業界は、構造自体が非常に前近代的なのです。
(村木良彦氏のインタビューは4月24日に掲載します)
【編集部注】誤字を訂正いたしました(2007/4/24 15:50)
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