わがリベラル友愛革命 <その4>
政治家を捨てる覚悟

 すでにさまざまなところで述べたことだが、私は友愛精神の本質は自己の尊厳の尊重にあると説いている。宇宙の中で生かされていることに感謝し、偶然ではなく必然としてこの世に生かされている自分自身の可能性に目覚め、自己の尊厳を高めることに最大の努力を払う。自己を高めて初めて他者に優しく振る舞うことができる。自愛が利他を生む。意見を異にしてもそれを許容し、品格を信頼し友情を結ぶことができる。これが友愛精神である。

 日本人は議論下手である。それが議論のない形骸化した国会を生んでいる。政治家はしぱしぱ、議論が合わないと相手の品性を疑い、憎悪の感情を持つ。政党や派閥の離合集散が、政策よりも愛憎の感情でなされるゆえんである。相手を許すことができないのは、自分に自信が欠如しているからである。55年体制という言葉が批判的響きを持つようになったころから、最も自己の尊厳を喪失した職業は、残念ながら政治であったのだろう。

 祖父一郎をはじめ保守合同を成し遂げた人々の思惑以上に、「保守自民党与党」対「革新社会党野党」の構図は定着した。表面的な対立は、水面下の国対政治が与野党それぞれの対面を守った。言論が意味を失い形式が重視され、政治家はバッジをつけることを自己目的化し、自民党では官僚以上に官僚的ヒエラルキーシステムが形成され、大臣になることが目標となった。政治のために選挙の洗礼を受けていた者が、選挙のために政治を利用する者に変貌した。自分の応援団づくりに狂奔し、甘い言葉しか発さなくなった。自分を支援する業界や労働組合や宗教に顔を向け、自己の信念とは別の世界に没頭し、国民を等しく眺める勇気を失った。かくして政治家は自己の尊厳を失っていった。

 いま政治家に最も求められているのは、自己の尊厳の回復である。端的に言えぱ、政治家を捨てる覚悟である。この覚悟を持った同志の結集が日本の明るい未来への扉を開くと信じたい。これが友愛革命である。

 現在の政治は恥ずかしい話だが、与野党ともに閉塞状況に陥っている。例えぱ住専処理にしても私たちが反省すべきことは、国民に正直に本音を伝えるのを恐れたこと、白信を持って臨む勇気を持たなかったこと、および世論は尊重しつつ世論に迎合する態度は慎むべきであったこと、などである。内容に対する批判もさることながら、私はむしろ対処する姿勢が問題であったと感じている。

 また、政財官の甘えの構造が、住専をはじめとするバブルの後始末の不良債権問題をきわめて深刻化させてしまったことは明らかである。護送船団方式は民間の力が弱かったころには意義があったであろうが、子供が大人になっても赤信号みんなで渡れぱ怖くない、は通用しない。大人になった民間企業に不要な規制をかけるのは、行政がいつまでも民間を統制下に置きたいからである。これが企業の体質を衰えさせ、国際化を阻んでいる。規制緩和は、行政に甘える政治からは本質的に成就し得ない。

 行政改革も同様である。最近の大きな不祥事である住専、薬害エイズ問題、高速増殖炉「もんじゅ」の事故には共通点がある。第一に情報開示が不十分かつ迅速でないこと、第二に行政と業界とが密接にかかわっていること、第三に責任の所在が不明確で監督のあり方に問題があること、などである。したがって、金融・薬務・科学技術のそれぞれにおいて行政とは独立した検査監督機関を設置することや、行政が集中的に把握している情報を原則開示する方向性が何よりも求められよう。一方で規制緩和を進めて経済の自由化を促進させ、他方で不正をチェックする機能を高めることが日本の取るべき方向である。

 財政再建の立場からも、行政改革は急務である。否、財政投融資も含めて日本の財政が危機を超えて瀕死の状態であることは最大の国内問題であり、中央官庁の統廃合、地方への権限移譲や、公共部門の民営化などきわめて大胆な行政改革を断行する強い意志が政治に求められている。さらに公共事業も配分の見直しだけでなく、総額の抑制も避けられぬ状況になっている。一方で税制の国際化は必然の流れであり、産業空洞化対策のためにも法人税・所得税の減税ば行わねぱならず、直間比率見直しとしての消費税の増税は時間との勝負になろう。あわせて、高齢化時代の社会保障負担のあり方も早急に国民的合意を得なくてはならない。

 このように戦後50年の経済発展の陰で蓄積されてきた膿とツケを後世に残さぬために、私たちは膿をかき出して治療し、ツケを支払うよう最善の努力をせねぱならぬ時期にいる。美的倫理感に基づき先憂後楽の発想で臨むことが、今に生きる政治家の務めである。この作業は、選挙を恐れていては叶うはずがない。ややもすると近視眼的になりがちな人の心に、その人々に選挙の洗礼を受ける者が、より遠くを見、視野を広げることを勧めることは容易ではない。しかし、自己を高め、そこに正義を見いだし、政治家を捨てる覚悟さえあれぱ、自然体のまま歴史の変曲点で舵をとることができよう。

 イデオロギー対立の時代の保守合同は、党と党の合併の形式でなされた。しかしイデオロギー対立の図式が終焉し、政策に絶対的対立が存在せず、政策を遂行する強い意志が存在するか否か、すなわち「保身」か「政治家を捨てる覚悟」かが大きな分水嶺となる時代には、党対党の合併による政界再編はほとんど意味を失っている。個の確立を叫び自己責任の原則を主張する者が、自らの行動は大きな組織に拘束されるというのは滑稽である。さきがけが社民党からの温かい配慮をいただきながらも、党対党の合併を実行に移すことができないのは、まさにこの理由による。

 党の合併で成立した新進党が選挙互助会であるように、社さの合併も選挙のための保身的行動と喝破されれぱ共感は得られまい。先に申したようにさきがけにも欠点は多いが、1人ひとりの決断によって構成されてきたことには誇りを感じている。
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