わがリベラル友愛革命 <その1>
 世界の多くの国々に比べ、はるかに経済的に恵まれた環境にあるにもかかわらず、口を開けば景気の話ばかりする日本人は、最も大切なものを失っている気がしてならない。多種多様な生命が白由に往来する時代に、相手との違いを認識し許容する友愛精神は共生の思想を導く。弱肉強食と悪平等の中間に位置する友愛社会の実現を目指して、そして精神的なゆとりが質の高い実のある「美」の世界をもたらすと信じつつ、政治家として青臭いとの批判をあえて覚悟のうえで一文を認めることにした。

 スペースシャトル「エンデバー号」で宇宙を飛んだ若田光一飛行士は、地球を眺めながら何を思ったことだろう。そして日本を見つけたとき何を感じただろうか。地図には国境があるが、実際の地球には国境が存在しないということを、どのように実感したであろうか。宇宙意識にめざめつつあるこの時代に、国とは何なのか、私たちは何のために生きているのかを、いま一度考え直してみるべきではないか、政治の役割をいま見つめ直す必要があるのではないかと思う。とくに昨今、言論の府であるべき国会が自ら言葉を放棄してしまうなかで、国会議員の1人であることに痛烈な恥ずかしさを覚えながら、それでも政治家であり続ける覚悟であるならば、いかに行動すべきかを厳しく問いただしてみたい。

 実は、政府の住専処理策に反対し、新進党が違法なピケ戦術によって予算委員会室の封鎖を1週間ほど続けていたころ、母から電話があった。話の大半は新進党には本当に呆れたというものであったが、あなた方も予算の削除は認められないのでしょと、必ずしも政府案に埋解を示してくれているふうでもなかった。そして最後に、「あなたも邦夫も議員バッジをはずして、2人で新党を旗揚げしなさいよ」と言って電話が切れた。母にも息子2人が国会議員であることが恥ずかしいのであろう。

 「新党」に関しては伏線があった。この電話の3日前の3月7日は祖父一郎の命日であり、例年どおり朝8時に一郎に縁のある者数十人が谷中墓地に集まり、墓参りをしてくださった。

 一郎の墓前で私は参集してくださった方々に謝意を申しながら、たまたまこの日が大野明議員の死去による参議院岐阜補欠選挙の告示日であることに触れ、「一郎は政敵・大野伴睦氏とも友情で結ばれており、それが保守合同につながっていった。祖父の友愛精神をいま再び蘇らせて、私は今年中に弟と同じ舞台で仕事ができるようにしたいと思う」と述べた。

 続いて挨拶した弟の邦夫は、「兄貴の言うとおりである。しかしそれは針の穴にロープを通すくらい難しい」と、彼らしい表現で答え、その後しばらくピケ戦術の必要性の弁明に努めていた。弟もつらい立場にあるなと彼の心中を察した。母はこの兄弟のやりとりを聞いて電話をよこしたものと思う。

 現在の政治状況に対する認識は、兄弟でそれほどかけ離れてはいない。現状をブレークスルーする必要性も共に認識している。ただ、多くの国民にとってみれば、兄弟が同じ舞台の上で協力するか否かは家族の内輪の話であり、あまり興味をそそることではないかもしれない。それでも私は、弟と共に行動できるか否かが政治勢力の結集の成否を占うリトマス試験紙と考えている。なぜなら、弟こそ祖父の友愛の理念を継承するべく、私よりだいぶ早く政治の世界に身を投じているのだから。

 政治家が政治家であり続けたいという執着から解放され、政治家を捨てる覚悟で臨むならば、そして自分が今何をなすべきかを純枠に問い直すとき、恩讐を超え、政党間の壁を越えることは決して難しいことではないと信じている。問題は政治家を捨てる覚悟ができるかであるが、あとで申し上げる友愛革命の原点は、政治家にとってはまさに政治家を捨てる覚悟にほかならない。

 宇宙からとは残念ながら言えないが、私も職業上、空から日木の国土を眺め下ろす機会は多い。そのようなとき、ふと日本はだれのものかと考えることがある。何げなく私たちは、日本は日本人の所有物だと考えている気がするし、その暗黙の了解のもとに各種政策が遂行されているように思われてならない。

 しかし、思い上がりもはなはだしいと言うべきだろう。日本には現在、135万人の外国人が住んでいる。日本の人口の1パーセント強である。内訳は、韓国・朝鮮人が約半数の68万人、中国人が増えて22万人、ブラジル人も4年間で3倍近くの16万人、以下フィリピン人、米国人、ペルー人と続く。

 まず、他の国々に比べて外国人の比率がかなり低いこと自体が大いに問題である。これは外国人にとって、日本は住みにくい国であることを物語っている。米国に留学した経験から、米国は異邦人に住みやすい国だと実感している。外国人は必ずしも米国人のホンネに深く入り込むことはできないし、潜在的な差別意識もないとは言えないが、それでも基本的に「開かれた社会」であることが外国人を米国びいきにするのだろう。語学習熟の困難さも手伝っているが、日本に来ている主としてアジアの留学生が、概して日本嫌いとなって母国に帰るのと大きな違いである。国際化といっても形式にしかすぎず、日本人の心は決して外国人に開かれていない。

 この環境のもとで、高知県の橋本大二郎知事が一般事務職員の採用に国籍条項をはずすことを主張されているのは、誠に注目に値する。案の定、自治省が強く抵抗していると聞く。閉じた日本の風土からは当然の反応なのだろうが、地方分権の声が泣く。また新党さきがけの錦識淳議員が中心となって、定住外国人に対して地方参政権を与える問題に取り組んでいる。これに対しては自民党からの反発が強く、議論が停止した状況になっている。

 私などはさらに一歩進めて、定住外国人に国政参政権を与えることをも真剣に考えてもよいのではないかと思っている。行政や政治は、そこに住むあらゆる人々によって運営されてしかるべきである。それができないのは畢竟、日本人が自分に自信がないことの表れである。日本があらゆる人々の共生の場となるために、日本人の自己の 尊厳が今こそ尊重されなければならない。

 実は、人間中心主義の考え方そのものが思い上がりであり不遜なのである。この世の中には人間だけでなく、動植物などの生命体と水や空気や鉱物などの非生命体が存在している。人間以外を自然とか環境とかひとくくりにして、自然保護とか環境保護とかを唱えているが、その言葉自体がおこがましいのである。

 まず、自然の有するエネルギーがしょせん人間には計り知れない規模であることに畏怖の気持ちを抱き、自然と共に生かされているという感謝の気持ちで行動する原点に戻らなければならない。人間が物質的豊かさの虜になり、自然を制圧し都合よく自然をデフォルメするために英知を駆使するようになって以来、自然のバランスは破壊された。天然記念物はそれなりに大事にするが、そこいらに咲く草木は切ってもいいという発想は間違いである。 むしろ、どこにでもある種ほど、エコロジーのサイクルのなかで役割を担っているとも言えよう。

 不可逆過程の行き着く先は命なき世界であることを認識するならぱ、経済社会活動にいかにエコロジカルな意味での可逆過程を組み入れていくかにこそ、最大の英知が注がれなくてはならない。国内的には、国民意議の啓発上からも環境税の導入が検討されるべきであり、地球的には南北間の調和が図られなければならない。地軸が南北両極を結んでいる以上、東西問題は人為的、刹那的であり、南北問題は自然的、永久的である。したがって南北間の対立は今後さらに熟を帯びてくるが、この解決にあたっては南が経済的に北に追随する速度以上に、北が環境において南を支えていくことが不可欠となる。人間と自然との共生は、また南北間の共生でもある。
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