わかる!国際情勢  
Vol.15
 
「対立」を越えて
〜イスラエル・パレスチナの信頼関係を構築する
2008年9月25日、麻生総理の国連総会におけるスピーチでも言及された「イスラエル・パレスチナ合同青年招聘」事業。この事業はアラブ首長国連邦の高級紙「ガルフ・ニュース」でも好意的に取りあげられました。中東情勢と包括的な和平構築に対する日本の取組を解説します。
 
「イスラエル・パレスチナ合同青年招聘」事業とは
2008年7月29日〜8月4日まで、「イスラエル・パレスチナ合同青年招聘(へい)」プログラムにより、イスラエルとパレスチナの青年10名が日本を訪れ、共に各地を視察するとともに議論を行いました。将来を期待されるイスラエルとパレスチナの各界のリーダーを日本に招へいするというこの事業は、1997年に開始され、今回で11回目を数えます。これまでに両国から150名以上もの人々を招待しています。日本はなぜこのような事業を行っているのでしょうか。
 
現地ではまさに「会話が成り立たない」
長く続くイスラエルパレスチナの紛争。このため、現地では、双方の不信感が根強く、単純な意思疎通をすることさえもできなくなっている、と現地を知る中東専門家は言います。彼らの対立を解くには、まず、それぞれの主義主張は異なるものの、お互いに他者の言うことを冷静に聴く態度を持ち、会話ができるということを理解し合うことが必要です。そして、それを体験できる機会を提供するのは、中立の立場で双方に接することのできる日本ならではの役割だと考えています。この事業は、日本で出会ったイスラエル人とパレスチナ人が、数日間行動を共にし議論することで、互いに会話ができる相手であるということを知ってもらうことから始まります。
 
ひとつ屋根の下で
「平成20年度イスラエル・パレスチナ合同招聘」参加者日本滞在中、一行は、国会や秋葉原、京都、広島などの名所を訪れたり、着付けなどの体験をしますが、日程には様々な工夫が施されています。例えば今年は、日本旅館の大部屋に寝泊りしてもらい、イスラエル人・パレスチナ人がまさに“ひとつ屋根の下”で過ごす、という「仕掛け」を設けました。また、別の年には、イスラエル人とパレスチナ人をペアにして、日本人家庭でのホームステイをアレンジしたこともありました。
 
信頼〜寝食を共にした訪日の終わりに見えてくるもの
そして、訪日プログラムの終わりにお互いにしっかり向き合うことができるようになれば「成功」です。彼らが自国に戻って各界で活躍するようになった時、同じ経験を持つ彼らが双方の原動力となって、両者が建設的かつ前向きな話し合いを行える関係に発展するように、という未来への効果を日本は狙っています。実際に最終日の意見交換会では、「個人レベルで親交を深めることができた」「日本とイスラエル、日本とパレスチナ両者に共通する習慣・文化を実際に見ることができ、非常に有益であった」「原爆の悲惨さを目の当たりにしたことで、平和の大切さを改めて痛感した」「被爆者の方の『アメリカは憎くない。憎いのは原爆だ。』という言葉にはショックを受けた」などの感想が寄せられています。
 
ユダヤ人迫害とイスラエル建国による中東戦争
では、そもそも中東戦争とはどのようなものなのでしょうか。イスラエルパレスチナ間の対立は、民族、宗教、政治、経済など、色々な要因が絡み合った複雑な問題です。19世紀末、国家を持たなかったユダヤ人が、世界各地で起こった迫害から逃れ、イスラエルの地(パレスチナ)に祖国を作りたいという運動(シオニズム)を起こします。そして、英国によるパレスチナ委任統治の終了した1948年、イスラエルが独立を宣言。これに対して周辺のアラブ諸国が強く反発し、第一次中東戦争が起こりました。その後も中東戦争は断続的に勃発し、イスラエルのユダヤ人と、それまでこの周辺に暮らしていたパレスチナ人を含むアラブ人との対立は、石油危機など世界中に大きな影響を与え、多くのパレスチナ難民を発生させました。中東和平関連年表
 
オスロ合意
イスラエルの独立宣言以降、紛争が続きましたが、1990年代に入ると徐々に和平への機運が高まってきます。1993年には、イスラエル政府とパレスチナ解放機構(PLO)との間で、オスロ合意が成立。イスラエルとパレスチナは2つの国家として共存していく理念(二国家共存)を、国際社会と共有することになりました。その後1990年代を通し、オスロ合意に基づいて、最終的な和平に向けた話し合いが続けられました。
 
キャンプ・デービットにおける調停の不調
和平への努力が続けられる中でもパレスチナ過激派によるテロは続き、イスラエルにおいても強硬派の政策がとられると和平交渉は停滞します。しかし、99年にイスラエルが再び労働党のバラック政権となり、2000年に米国仲介のもと、米国のキャンプ・デービットにおいて、アラファトPLO議長とバラック・イスラエル首相の間で話し合いが持たれます。オスロ合意に基づき最終和平に向けた未解決部分の調整が行われましたが、東エルサレムの帰属問題、パレスチナ難民の帰還先などについて合意が得られず、和平交渉は膠着状態となってしまいます。
 
第2次インティファーダ
こうした中、イスラエルのシャロン・リクード党党首がイスラム教徒の聖地でもあるエルサレムの「神殿の丘」を訪問。そしてイスラエル・パレスチナ間で大規模な衝突(第二次インティファーダ)が起こります。さらに翌2001年に起こった9.11米国同時多発テロの影響も受け、イスラエル・パレスチナ双方の信頼関係は、再び崩れてしまいます。
 
現在のパレスチナ情勢
イスラエル・パレスチナ間のみならず、パレスチナ内部の対立も、和平を妨げる大きな要因となっています。2006年のパレスチナ立法議会選挙で、イスラエルを承認せず、武力闘争を標榜するイスラム過激派組織のハマスが圧勝します。ハマスと、これまで政権を担っていたアッバース大統領率いるファタハは連立組閣を目指しますが、最終的に非ハマス系閣僚を多数含む「挙国一致内閣」が成立しました。しかし、ファタハとハマスの対立は激化し、2007年、ハマスはガザ地区を占拠します。武力をもってガザ地区を制圧したハマスに対して、国際社会からの非難が集中します。以後イスラエルとハマス、およびハマスとファタハの衝突は続き、イスラエル・パレスチナ双方の一般市民の生命を脅かす、深刻な事態へと発展しています。中東和平関連地図
 
両当事者から信頼される日本の役割
中東和平問題は、エネルギー問題や平和構築などの観点から、日本の外交にとって重要な課題です。日本は、国際社会と連携しながらも、中東においてこれまで中立の立場をとってきており、両当事者から信頼されるという特長を活かして独自の取組を行っています。その取組とは、政治的働きかけ、信頼醸成、対パレスチナ支援の3つの柱であり、その総体として「平和と繁栄の回廊」構想があります。政治的な働きかけとしては、イスラエル・パレスチナ双方に対し、首脳等の高いレベルで、一貫して和平交渉を支持し支援するという立場を明らかにし、和平に向けた双方の努力を促しています。信頼醸成としては、前述の合同青年招聘事業などにより、地道な、しかし着実な支援をしています。
 
対パレスチナ支援:対話を促すパレスチナの経済的自立
3つ目の柱はパレスチナ支援です。経済的に豊かなイスラエルに対し、パレスチナ自治区は貧困率が高く、経済が十分に発展しているとは言えません。パレスチナ人に対する経済的支援は、将来のパレスチナ国家としての自立を促し、対立の解消に役立つと日本は考えています。この考えに基づき、日本は93年のオスロ合意以降、約10億ドルにのぼる支援を実施しています。我が国の中東和平に対する取組〜3つの柱と「平和と繁栄の回廊」構想〜
 
地域を巻き込んだ「平和と繁栄の回廊」構想
さらに、これらの取組を総合するものとして、「平和と繁栄の回廊」構想があります。これは、聖書の時代から肥沃な大地として知られていたパレスチナ自治区のヨルダン川西岸に着目し、この地に農産業団地を建設するという構想です。これにより西岸地域からヨルダンを通り、サウジアラビアやドバイなど経済的に豊かな湾岸諸国や欧米諸国、可能であれば日本にまで農産品を輸出する物流インフラを、周辺国の協力も得て構築することで、パレスチナ経済を発展させ、また域内の信頼醸成に役立てることを狙いとしています。周辺地域を巻き込んで行うこの構想では、日本の無償資金協力や技術協力を通して農産加工と物流拠点整備のための調査が間もなく完了します。現在、日本、イスラエル、パレスチナ、ヨルダン4者間の協力により、2009年の早い時期に農産業団地の基礎インフラ整備に着手できるよう、準備を進めています。周辺地域を含め、相互依存関係を深めながら平和に共存共栄する、そのための支援を日本は惜しまない覚悟です。
 
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