2月頃からウォッチングしている私のブログで話題の某ブログの過去の最初頃の日記から、考察していきたいと思う。

まずは2004年6月21日に「日本人の声の出し方がおかしい」というタイトルで書かれた記事だ。これを書いた時期というのはかれもまだ30代全館のようなのだが、若者の言葉が気になって仕方がないらしい。「まったく最近の若いものは」というやつである。
 正直に彼も10代後半や20代前半のどこかで、直接言われたか、陰で言われたであろうことばを、今の若者にぶつけている。
 実に興味深い。

 あくまで私個人の印象だが、「気持ちが悪い」としかいいようがない。
やかましい騒音であり、非常に不快な拷問であり、
極めて自己陶酔的かつ自己中心的な歌い方だと思う。


この人は、自分がしゃべっている日本語が、古来より使われてきたいわゆる古代日本語と同じ言葉を話しているというのだろうか?もう底から前提がおかしい。
自分の価値観ならそれはそれでいいのだが、彼は自分の日本語や好き嫌いを棚に上げて、若者言葉を自己中心的とまで言ってしまっている。

 山口もえに至っては「頭、大丈夫だろうか?」と心配してしまう。
 本人達にしかわからない若者言葉、
主述関係もバラバラでだらだらと続く文章構成、等々である。
どれも決して美しい日本語としての「美」を含まない話し方であることは言うまでもない。


あくまで自分の主観であり、好き嫌いでしかない若者言葉のありようをここまで、自分尺度で批判し、決め付けるというのは、彼自身の個性を受け入れるキャパの狭さをさらけ出している。

 先にも書いたが、今我々が普通に使っている日本語は、100年前の日本語とは違うものだ。当たり前だ。100年間まったく変わらないなんてことがあったら、そっちのほうが不自然で気持ち悪い。200年前ならもっと違う。1000年前なら、今の我々では半分も意味がわからないだろう。
 言葉は世代を新しくする後とにどんどん変わっていくものだし、そうでなければ時代にそくさなくなってしまう。流れない水が澱むように、文化や言葉も変化しなければ、腐るのだ。

だいたい彼はPC関係の仕事をしているというのだから、PC関係の専門用語を多用する語り方を仕事中だけでもするはずだ。いや、日記のもそんな内容があった。あれは、PCを知らない人にはわったくわけのわからない、彼の言う若者言葉の通じないのと同じだ。
 PCの言葉は決まったロジックがあって、勉強すればだれでも話せるようになるなんて言うかもしれない。それを言ったら、若者の言葉にだって、若者なりのロジックがあって、勉強して覚えることは可能だ。しかも彼らの間ではコミュニケーションが成立しているのなら、外野がとやかう言うことじゃない。

 彼らの会話はお年を召された方には何が何だか全くわからないのである。

 
お年よりはいつでも若者の言葉を理解できないものである。
それは今にはじまったことじゃない。たぶんこれも言葉が生まれた頃からの連綿と繰りかえされてきたことだ。
確かに、言葉は意思を伝える道具で有る以上、正確に誰にでも通じることが望ましい。望ましいが、言葉は生き物である。生き物で有る以上、万人に同じ響きを持って伝わるなんてことはありえない。
世代、職業、環境、土地、様々な要素が絡み合って、その置かれた環境に合わせて、言葉はどんどん変化していきまた多様化していく。
それが言葉だ。
自分が知らないことを嘆くのではなく、新しくなる世界を受け入れるだけの余裕がほしいものだ。