1905年9月、日本の山陽汽船によって「関釜連絡船」(釜山−下関)が就航しました。翌年には鉄道省の管轄となり、1945年5月まで運航されました。

船名は、壱岐丸(いきまる)、対馬丸(つしままる)から始まって、高麗丸(こうらいまる)、新羅丸(しらぎまる)という旧国名、景福丸(けいふくまる)、徳壽丸(とくじゅまる)、昌慶丸(しょうけいまる)という王宮名、金剛丸(こんごうまる)、興安丸(こうあんまる)、天山丸(てんざんまる)、崑崙丸(こんろんまる)という山脈名などがつけられました。日本のアジア侵略の深化を彷彿とさせる名称です。

ほかにも、1923年に就航した済州島―大阪間、1930年の麗水―下関間、1943年の釜山―博多間などの航路がありました。1920年代後半から30年代にかけて、毎年8万〜15万の人々が、日本へ渡って来ました。
なぜ、これほど多くの人が日本をめざしたのでしょうか。

当時、朝鮮では多くの人々が土地調査事業で土地を奪われ、産米増殖政策で借金がかさんで生活苦にあえいでいました。さらに戦時労働動員で何十万もの人々が強制的に日本に連行されたという背景があったのです。朝鮮人の日本への渡航は、日本の植民地統治政策を抜きには語ることができません。

ただ、渡航には、厳しい検問がありました。旅費以外に10円を所持し、日本語がわかり、就職先が確実な者のみが上陸を許されました。下関には1928年に昭和館が設置され、条件を満たさない朝鮮人を一時収容していました。

 

朝鮮人は、日本に渡ってからも朝鮮での生活や伝統を活かすための工夫をこらしました。日本式の作法や習俗にはなじみにくく、自然と故郷での生活様式を持ち込むことになったのです。特に女性たちは民族服を好んで着て、朝鮮の料理を作りました。

朝鮮人に家を貸してくれる日本人はいませんでしたので、自分たちで建てて暮らしていました。中には、オンドル(床下に暖かい空気を送り部屋を暖める装置。今でいう床暖房のこと)を備えた家もありました。日本社会の差別と偏見から助け合うため、次第に一ヵ所に集まるようになり、やがて集住地区(いわゆる朝鮮人部落)が形成されました。

ほとんどの集住地では、水道・下水・電気などの設備がなく、不便な生活を余儀なくされました。トイレも地区全体で1、2ヵ所しかなく、衛生的にも問題とされました。

しかし、集住地には「故郷のにおい」がありました。唐辛子やにんにくをはじめとする朝鮮料理の食料、朝鮮服地、朝鮮食堂などの店があり、仕事の斡旋をしてもらうこともできました。故郷を離れた人々にとっては、気がねなく朝鮮語で話すことができる、唯一の心休まる場所でもあったのです。

やがて同郷会や親睦会などができ、労働・民族運動の場ともなりました。日本に渡った朝鮮人は、朝鮮人集住地区で、お互いに助け合い、厳しい環境と闘い、民族的な伝統を守りながら生活していたのです。

 

 

 

 

日中戦争勃発後、日本は国家総動員法、国民徴用令などを公布し、総動員体制を確立します。日本国内における基幹産業を中心に朝鮮の青壮年男子を多数動員し、過酷な労働を強要しました。いわゆる「朝鮮人強制連行」です。

1939年秋に始まる労働動員は、当初の「会社募集」から太平洋戦争勃発後は「官斡旋」方式に強化されました。戦争末期になって有無を言わせぬ「徴用」とされたものの、日本政府は実質的には当初から一貫して関与していたのです。

「労務動員計画」(1939〜1941年度)、「国民動員計画」(1942〜1945年度)で、延べ72万人以上が、朝鮮から日本国内・南樺太・南洋群島に連行されました。そのうちのほぼ半数は炭鉱に、残りは鉱山・土木建築・工場・港湾荷役・農場へと送り込まれました。

炭鉱の労働は危険できつく、食事も満足なものではなかったので、寮から逃走する者が続出しました。会社はこれを防ぐ意味からも、賃金の大半を預貯金や送金にして現金を手渡さず、抵抗する朝鮮人を「タコ部屋」送りにするなど、厳しい労務管理を行ないました。

解放後、常磐炭田や北炭夕張では、日本政府と会社を相手に朝鮮人が闘争しましたが、GHQはこれを弾圧しました。未払い賃金、遺骨の放置、サハリンの離散家族など、今なお未解決の問題が残されています。

 
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