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国際シンポジウム「歴史学の現在を問う」

「朝鮮燕行使と朝鮮通信使」
−1811年金善臣の通信行と1826年申在植の燕行を中心に−

本研究科教授 東洋史学  夫馬 進

 日本では江戸時代にあたる時代、朝鮮の外交使節が行き交うルートとしては、ソウルを基点として二つの国際線がのびていた。一つは日本の江戸へ向かうものであり、その使節は通信使と呼ばれる。もう一つは中国の北京へ向かうものであり、これを燕行使と呼ぶことにする。燕とは北京あるいは北京地域を示す雅名である。すなわち北京へ行く使節という意味である。

 文献上で出てくる言葉としては、「燕行使」というのは普通ではない。むしろ正朝使や謝恩使などといった使節の目的を持って呼ばれることが普通であった。また汎称としては、「事大使」とか「赴京使」と呼ばれるのが普通であった。ただ、学術用語として現在、事大使なり赴京使なりを使うのが適当かどうかというと、恐らくは適当ではない。なぜなら現在および長い将来にわたって、まだまだ韓国、北朝鮮、日本、そして中国の関係というものは大いにぎくしゃくせざるを得ない、と考えるからである。こうした段階にあっては、事大使あるいは赴京使などという過去の価値観を濃厚に含む言葉は、適当な学術用語とは考えられない。朝鮮から北京へ行った外交使節の旅行記は、「燕行録」と呼ばれる。燕行録というタームがすでに学術用語として定着していることに鑑み、朝鮮王朝時代に中国北京に使いした使節を総称して、とりあえず燕行使と呼ぶことにする。

 現在の日本の高校の教科書でも普通に載っている通信使は、江戸時代265年の間に12回来ただけであるが、ソウルから北京へ行った使節は、ある史料をもとに数えると、ほぼ同じ時代に494回行っている。しかも、これは実は朝鮮国王から北京または瀋陽の清朝皇帝に対する正式の使節の数に過ぎない。これに現在の我々の感覚で言うと外務省レベルの旅行団、例えば外交文書を運ぶ使節、あるいは北京でつくっていた暦を朝鮮から取りに行った使節を含めると、正確には数えていないが恐らくは600回とか700回とか、通信使に比べると桁違いの数になるであろう。

 通信使が最後に日本に派遣されたのは、文化度の通信使と呼ばれる1811年のもので、通信使はこれで切れるが、これに対し燕行使のほうは、1894年つまり日清戦争が勃発する直前まで出されていた。ソウルからは当時、江戸へそして北京へという二つの国際線がのびてはいたが、実はその便数から見るなら二つの使節団は甚だレベルの違うものであったと言っても過言ではない。国際線のパイプの太さが全く違っていたのであり、一方を幹線と呼ぶなら、一方はローカル線と呼んでもよい。

 ところが、現在の段階では、この通信使の研究というものは数多く、たとえば江戸時代に日本へ来た通信使が何を食べていたのか、という問題に至るまで詳細な研究が数多くなされているにもかかわらず、それらではほとんどこの燕行使とのつながりについては言及することがない。さらに、この二つを比較することによる通信使の客観化もなされていない。この朝鮮燕行使の研究は、実は韓国においても北朝鮮においても必ずしも盛んではない。中国でもこの研究がやっと最近始まったばかりである。しかし恐らくは現在の段階で言うと、日本の方がもっと研究に地の利を得ていると言いうる。なぜなら韓国、中国という直接の当事者よりも、我々のほうがより客観視できるのではないかと考えるからである。

 今日は1811年、文化度の通信使の一行としてきた金善臣と、1826年燕行使として北京へ行った申在植という二人の人物を取り上げ、通信使と燕行使とを比較しつつ、またそれらの連繋を考察しつつ、当時の日本、朝鮮、中国の文化の位相について述べようと思う。

 まず燕行使がどのようなものであるか、を簡単に説明しておく。中国では清の時代、朝鮮から派遣された燕行使は、もともと誰もそれになりたがらないものであった。この点では、日本へ派遣された通信使とよく似ている。現在日本でなされている朝鮮通信使の研究の多く、あるいはしばしば開かれる朝鮮通信使展覧会では、非常に友好的な関係が両国にあったかのごとく示され、またこれが強調されるが、それは事実の一面、あるいは一面が誇張されたものでしかない。もともと燕行使にしても通信使にしても、ともに嫌々行っていた使節であった。ともに欲せざる使節であった。清に対する燕行使というものは、丙子胡乱(崇徳元年=仁祖14年=1636)として知られる、満州民族が朝鮮を完全に制圧した年から始まるものであり、服従の証として朝貢のために行く使節であった。自分の先祖あるいは親子供を殺された者が敵国にゆく使節であるから、当然のことながら行きたくない。このメンバーを誰にするかを決めるのは丙子胡乱から100年近くの間は、大変難しかった。これと同じように、通信使もやはり行きたくない。これもメンバーを誰にするか、このメンバー選びからして大変であった。江戸時代の通信使は、秀吉による侵略を踏まえてのものであったから、これもまた嫌々行かざるを得ないものであった。なぜ通信使を日本に派遣せざるを得ないかというと、日本がいつまた再侵略してくるか知れなかったからである。いつまた野蛮な民族が朝鮮に災禍をもたらすかわからないからである。これを未然に防ぐためには、信(よしみ)を通じつづけておくとともに、敵国の国情を知っておく必要があった。朝鮮からすれば通信使の派遣とはいわゆる覊縻政策であった。すなわち馬があちらこちら飛び跳ねるのを防ぐために、馬をつなぎとめておくために、わざわざ高い予算を組んで通信使を12回にわたって派遣したのである。燕行使にしても通信使にしてもこの点では極めて類似しており、この研究のためには以上のことを基礎にして考える必要がある。

 ところが、もともとは誰も行きたくない使節であったが、当時鎖国的な状態にあった朝鮮からすれば、知識人が外国のありさまを知りたいという欲求はどうしても抑えがたいものであった。当時の朝鮮では、外国へ行くためには燕行使の一団に加わるか、通信使の一団に加わるしか、基本的にはなかった。18世紀の中ごろから始まるものと思われるが、特に北京への観光は一種の国際ツアーと呼ぶべきものとなり、おおよそ200人から500人規模で毎年何回か旅行団が出されていた。北京へ行って帰国した者の中には、「自分は天下を見てきた」と豪語する者が当時のソウルには多かったようである。これと同様に、ソウルから江戸まで旅行するというのもまた、かけがえのない外国見学であった。ここで紹介する金善臣も、外国を見てみたいということで来た人物であると考えられる。

 ただ、同じ外国へ出るのであるが、待ち受けていた世界は全く別のものであり、交流の在り方は全く別のものであった。日本へ来た通信使は、ほとんど自由を奪われていて、本屋へ行って自分で本を買うことさえもできなかった。これに比べると、北京にツアーに出かけた人々のツアーコースとして、たとえば琉璃廠と呼ばれる書店街へ行き、自由に読みたい書物をあさってくることがあった。北京市内の観光も実に自由であった。燕行使も通信使も、中国人または日本人とは主に筆談で話していた。ただ、筆談の在り方が日本へ来る通信使と北京へ行った燕行使とは、まるで違っていた。北京での知識人の交遊には、誰も監視する者がおらず、実に自由であった。金賢根の『玉河日記』は、清朝の年号で言うと道光17年(=1837)の日記である。これは昨年刊行した『燕行録全集日本所蔵編』(林基中・夫馬進編、ソウル、東国大学校韓国文学研究所、2001)に収録されている。この『玉河日記』の中には、「詞人の交遊寄宿すること、見て郷里に同じ」という記事がある。これは朝鮮と中国知識人とが親密に交際しあい、朝鮮知識人が中国人の友人の家で韓国国内におけるのと同様に寝泊まりしていたことを示すものである。このような交流の在り方が、当時国際社会の中にあった。こうした外国人の家へ行って泊って帰ってくるような交流の在り方を、「東人に冒犯の失あるのみならず、彼の人もまた恬として惧れとなさず」と表現している。東人というのは朝鮮人である。朝鮮人がそうした禁令を犯しているだけではなしに、清朝の知識人たちも全く外国人を怖いとも考えずに泊めていたのである。これに比べると、日本へ来た通信使には常に監視の目が光り、両国知識人の交遊も実に堅苦しいものであった。

 金善臣が1811年に通信使の一員として日本へ来たことと、申在植が1826年に燕行使に行ったこととは、ほぼ同じ時代であるが、このような異なった状況をもとに考える必要がある。金善臣が出てくる史料では、極めて堅苦しい交流の様が描かれるのに対し、申在植が出てくる史料では、実にのびのびした交遊が描かれている。

 問題は、日本へ来た通信使が伝えた当時の清朝中国の学術の状況が、全く現実を反映していないことである。文化の通信使の中には、李文哲のように自ら燕行使の一員として、北京へ行ったものがいた。金善臣自身、北京ではないが瀋陽まで行ったことがあった。ところが、彼らの日本人に対して伝えた中国における学術動向の情報は、虚偽を大きく含むものであった。

 申在植が1826年に北京へ行った時に、尋ねられて答えた日本における学術動向も、不正確なものであった。申在植と金善臣とは、親しい知人であり、金善臣らの帰国によって、詳しく正確な日本の学術動向を申在植は知っていた、と考えるのが常識的である。

 さらに金善臣が放った清朝中国人の学術に対する批判の矢は、彼らを大きく怒らせるものであった。申在植は金善臣を弁護しつつ、親しい交遊の場で中国の学術の在り方を批判した。

 何故、日本・朝鮮・中国の間で誤った、あるいは不正確な学術状況しか伝わらなかったのか。また金善臣の持っていた何が清朝知識人をおこらせるほどのものであったか。それは三国における学術のあり方が、大きく異なりつつあったからである、というのが私の考えである。

参考:拙稿「燕行録と日本學研究」(『韓國文學研究』第二十四輯、ソウル、東國大學校韓國文學研究所、2001年)

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