Thu, March 26, 2009
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桜井淳所長から親しい友人のX先生への手紙 6-鉄製とステンレススチール製の車両はどちらが丈夫か-
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X先生
鉄と綿のどちらが重いかというやり取りは、誰しも子供の頃の記憶にあるでしょうが、それは、真面目に、大人の感覚で考えれば、単位体積当たりの重さ(密度)で比較しますから、答えは、明らかに、鉄になります。しかし、子供の質問には、もちろん引っかけになっているのですが、"陽"には、比較の条件を示していないために、単位体積で比較する必要はなく、いくらでも綿を集めれば、綿の方が重くなるため、答えは、綿と言っても正しいのです。このことは、物を比較する場合には、比較条件を明確にしておかなければならないということを示しています。では、大人の会話で、鉄と紙は、どちらが丈夫か、という質問に対し、同じ幾何形状であれば(たとえば同じ厚さ)、鉄と答えるでしょうが、ナイフ(ピストルで撃ってもよい)で鉄0.1mm厚と紙10cm厚を突き刺した場合、どちらが阻止能が高い(丈夫)かと言えば、紙になります。重要なのは、その物質の材質的特性だけでなく、産業現場での利用の仕方、すなわち、幾何形状の情報が重要になってきます。私は、特に、1980年代後半から1990年代半ばまで、もちろん、その後も、独新幹線ICE脱線転覆事故(1998)や営団地下鉄日比谷線脱線事故(2000)(時速約30kmの対向車両の片方が脱線したため、もう片方の車両の側面をこすった結果、車両の側壁だけでなく、骨組み構造材まで完全に剥ぎ取られてしまい、乗客5名が死亡したが、もし、ラッシュ時であれば、数十名の死者になっていたものと推定され、車両の脆弱性が証明されました)の時にも、強調しましたが、新幹線や在来線の車両とも、①鉄からアルミニウムやステンレススチールへ変更しての高速化のための軽量化(軽量化すると強風・突風の影響を受けやすくなります)、②エネルギー効率改善による経済性向上、③塗装やり直し不要のためにメンテナンスフリー化、を目的に、従来の鉄製車両をアルミニウム製車両やステンレススチール製車両に変更した時のメリットとデメリットを考察しました(『新幹線「安全神話」が崩れる日』、講談社(1993)、『新幹線が危ない!』、健友館(1994))。そして、構造材に、アルミニウムやステンレススチールを採用して軽量化するだけで、脱線を想定しない車両構造設計では、十分な安全性が確保できないことを警告しました。そのことは、まことに不幸な出来事でしたが、営団地下鉄日比谷線脱線事故とJR西日本福知山線脱線転覆事故(2005)で証明されました。鉄とステンレススチールの金属学的特性が近いことくらい子供でも知っています。車両を鉄からステンレススチールにすることが悪いのではないのです。そのことは、繰り返し、2冊の著書で説明してありますから、ぜひ、読んでください。①軽量化と②脱線を想定しない構造設計が悪いのです。車体設計において、まったく同じ幾何形状にすれば、鉄からステンレススチールに変更しても、車体重量または構体重量(車両重量には台車が含まれますが、車体重量または構体重量には含まれません)は、当然ですが、ほぼ、同じになります。台車は、強度の関係から、普通、鉄のままにしてあります。よって、車体を軽量化するにはどうしているかというと、幾何形状を変更したり、構造材の厚さや数を減少したりしなければ、絶対に、達成できません。ステンレススチール製車体に問題があるという意味は、脱線を想定した構造設計をすることなしに軽量化するため、構造材の厚さと数を減らしているためです。いまは、昔と違って、コンピュータシミュレーション等の採用によって、計算の合理化や最適化は、達成できるでしょうが、それでも、同じ安全性レベルを保ちつつ、従来の半分(安田浩一『JRのレールが危ない!』、金曜日(2006))まで軽量化できるほど、構造設計は、単純ではありません(すべての車体が半分に軽量化されているわけではなく、2割、3割のものもあります)。いまでも私にメールしてくる鉄道マニアの中には、以上のようなことが理解できておらず(その表現からすると、冗談やいたずら目的とも思えず、本気でそのように理解していると解釈できますから、救いようがありません)、哀れでなりませんが、解決策は、そのような方々には、どこかの大学の大学院工学研究科機械工学専攻で、特に、材料と構造設計について、勉強してもらう以外にないでしょう。国土交通省航空・鉄道事故調査委員会による通称「JR西日本福知山線脱線転覆事故報告書」には、車体構造材の接合法の改善等の重要性を提言していますが(国土交通省は脱線実験の予算も計上してあります)、当然であって、何もそのことは、事故後に、認識できることでなく、事故の10年以上前に出版されていた私の2冊の著書の中で警告しており、行政側とメーカーとJRが私の警告を真摯に受け入れていれば、運転士・乗客含め死者107名も出さずに済み、半減することは可能でした。その事故はJR西日本の無知の記念碑となりました。JR西日本どころか、日本の鉄道関係者の無知の記念碑とでも言えましょう。鉄道関係者の安全認識は私よりも明らかに10年以上も遅れています。私は、国土交通省航空・鉄道事故調査委員会、国土交通省鉄道局、車両メーカー各社、JR各社、私鉄各社に、真摯な気持ちと親切心から、"安全論"の出張講義に出かけたいと思っています。鉄道各社には、JR西日本福知山線脱線転覆事故のようなことは、二度と起こしてもらいたくないからです。
桜井淳
Thu, March 26, 2009
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【事務所報告】桜井淳所長の最近の講演内容-原子力発電所の機器・配管のステンレススチールについて-
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【講演要旨】歴史的に見れば、ステンレススチールの基本的な組成の考え方は、20世紀に入る直前には、すでに、できており、鉄・ニッケル・クロムの割合のうち、クロムの割合によって、鉄よりもはるかに優れた特性を有する合金が生成される事が示されましたが、20世紀前半の期間では、まだまだ、高価な特殊な合金と位置付けられており、特別に耐久性を要求されるような部品に採用される程度で、本格的に大量に採用され始めたのは、米国の最初の商業用軽水炉(加圧水型原子炉)であるシッピングポート原子力発電所であって、それまで、火力発電所や石油化学コンビーナート等では、鉄製の機器・配管等が利用されており、特に防腐の必要のあるタンクについては、内面に鉛を施す事により、何とか難をしのいでいたようですが(三菱重工業の元エンジニアからの聞き取り調査による情報)、しかし、シッピングポート原子力発電所では、運転開始1年後には、蒸気発生器のステンレススチール製伝熱管に応力腐食割れ(Stress Corrosion Cracking ; SCC)が発見され、その後、米国で二番目の商業用軽水炉(沸騰水型原子炉)のドレスデン原子力発電所でも、毎年のように配管に応力腐食割れが発見され、この頃には、米国を中心に、日本を初め、世界で、軽水炉の発注が進められ、日本の先行炉(敦賀1号機、美浜1号機、福島第一1号機)もこの頃に発注されており、まだまだ、二つの原子力発電所で発見された応力腐食割れが、発電所の建設段階や選択した製品に特有なものか、それとも一般性のあるものかということは、まったく分かっておらす、日本では、1970年代に、沸騰水型原子炉を中心に、応力腐食割れが続発し、取り替えやすい原子炉外の配管等については、改良材(SUS316やSUS316L)への取り替え、それが済むと、今度は、1990年代後半に、原子炉内の放射化されて取り扱いの困難なシュラウドやジェットポンプの取り替えをして、原子力界の特に材料研究者の間では、応力腐食割れの問題には、解決の目途がついたように解釈されていたところ、東京電力の福島第二原子力発電所や柏崎刈羽原子力発電所の改良材を採用していたシュラウドでも応力腐食割れが発見され、東京電力は、その意味とメカニズムが説明できなかったため、長期にわたりって隠蔽し、海外で同様の問題が生じてから、特に、修理に携わったGE社子会社の日本人エンジニアの内部告発によって、情報公開の道が開かれました、・・・・・・、ところで、ステンレススチール(stainless steel)のstainには、"汚れ"という意味があり、化学の研究者は、化学反応の過程でできる着色や生成物の付着等のことをよくstainと呼びますが、それに打ち消しの意味を有するlessをつないで、stainlessとし、"汚れない"の直訳を意訳して、"錆びない"という意味を込めたもので、逆に、stainedとして利用している例は、それにglassをつなげstainedglassとし、"汚れたガラス"の直訳を"色付きガラス"と意訳し、さらに、そのまま"ステンドグラス"と呼んでいますが、ところで、女性の化粧品のひとつに、ステン水というのがありますが、stain水のことで、この場合のstain汚れは、水にかかるのではなくて、省略されている言葉、すなわち、"汚れた顔を綺麗に拭き取るための水"の意であるために、汚れたは顔にかかります、・・・・・・、ステンレススチールのことをSUSと略しますが、これは何の略かと言えば、米国にあるUS Steelの頭文字の順序入れ替え(昔、動燃の部長が私の質問に対してそのように回答していました)の略ではなくて、金属分類法の順序において、金属種Steel /用途Use /呼称Stainless Steelの頭文字を略したもので、Useは、"特殊目的"の意味が込められており、ステンレススチールよりもSUSの方が語呂が良いので普及したものと推察されます。
Thu, March 26, 2009
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桜井淳所長から親しい友人のX先生への手紙 5-日本原子力学会と新聞記者の"不適切な関係"-
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X先生
私は、いまでも日本原子力学会に加入しており、好むと好まざるにかかわらず、毎月、黙っていても、『日本原子力学会誌』が郵送されてきます。昔の学会誌には、中身の濃い解説論文や原著論文・技術報告等の学術論文が掲載されており、読みごたえがありましたが、最近のものは、読みやすくするため、原著論文と技術報告等の学術論文は、和文論文誌を新設し、そちらに掲載して、学会誌には、巻頭言・ニュース・時論・解説論文・部会等の成果報告や連載・会議報告・その他の意見になっており、読みやすくなっているものの、中途半端な内容に留まっています。そのため、問題意識を持っている研究者には、物足りなさが残り、それでは、原子力学会の単なる"広報誌"ではないかと揶揄したくなるような内容になってしまいました。巻頭言や主張は、一貫した論理性がなく、原子力界にしか通用しないような業界の広報レベルでしかなく、学術的価値はゼロと言ってよいでしょう。まさに仲間内の慰めあい程度の内容です。原子力学会は、社会・環境部会等を通じて、マスコミ、特に、新聞記者を巻き込み、利用しようと画策してきましたが、すでに、その企てに引っかかって、歯の浮くようなへつらい雑文を投稿する者まで現れ、学会と新聞記者の持ちつ持たれつの利用しあいの"不適切な関係"ができつつあるように思えます。経済産業省等の政府関係委員会には、特定の新聞社の編集委員等が委員として入っていますが、実際には、主要全国紙を発行しているすべての新聞社に委員就任の依頼状を出していますが、見識のある新聞社は、報道の客観性を維持するため、そのような委員会への委員就任には、同意しておらず、結果として、産経新聞社と読売新聞社の編集委員だけが委員に就任しています。原子力学会誌への投稿依頼にしても、見識のある新聞社の記者は、安易に対応せず、依頼されても大部分が辞退しており、投稿しているのは、癒着に鈍感になっている記者だけです。文科系出身者の産経新聞社記者の水上創氏は、日本原子力学会誌、Vol.51, No.3, pp.62(2009)において、新潟県中越沖地震の時、柏崎刈羽原子力発電所で黒煙が上がっている光景を見て、テレビのニュースキャスターが、「チェルノブイリの事故のときのような黒煙が出ています。大丈夫でしょうか」とコメントしていたことを揶揄していますが、たとえ、原子炉建屋でなくてタービン建屋からとしても、そのようなことは、原子力発電の専門家でもない限り的確に解読できず、ニュースキャスターが、的確なことを言えなくても、当然であって、何の問題にもならないでしょう。その光景を原研の研究者が観ても、誰でも的確な説明ができたわけではなく、原子力発電所の安全性関係の研究をしていて、発電所に出入りしていて、建物の配置や各建物内の機器配置まで知っている研究者しか的確なコメントは、できないでしょう。水上氏は、原子力発電所の取材をした経験があるために、そのような光景を観て、理解できたかも知れませんが、では、石油化学コンビーナートの火災事故の光景を観た時に、その火災箇所だけから、そのままでもよいか、爆発して危険かという判断ができただろうか。原研の研究者でも解読できません。しかし、石油化学コンビーナートに詳しいエンジニアが見ると、むき出しの巨大な配管・タンク群の大きさや形状を読み解き、各部分の機能と危険度を解読することができ、的確なコメントをすることができます。水上氏の言っていることは、自身の経験だけで判断しており、世の中一般の常識の範囲での判断にはなっておらず、しかも、致命的なのは、事故後、1年半も経って、情報が出尽くした後、それらの情報を基に、"後づけ"しているだけであって、意味ある主張にはなっていません。ただ、原子力界への苦々しいリップサービスくらいの意味しかありません。
桜井淳
Thu, March 26, 2009
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桜井淳所長から親しい友人のX先生への手紙 4-高レベル放射性廃棄物地下貯蔵所の候補地をめぐって-
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X先生
日本は、英仏への大量海外委託分も含めて、また、茨城県東海村の原子力機構(実際には、統合前の動燃、そのつぎのサイクル機構)・東海再処理施設で試験的な再処理を実施してしまったため、さらに、これから青森県六ヶ所村の日本原燃・六ヶ所再処理施設で実施する予定になっているため、その上、商業用第二再処理施設の建設が計画されているために、地層が安定していて地下水のない地下約600mに高レベルガラス固化体放射性廃棄物地下貯蔵所の建設と運用は、避けて通れない問題のひとつになっています。より根源的には、米国のように、再処理をするか否かにかかわりなく、原子力発電を実施してしまえば、使用済み燃料を高レベル放射性廃棄物として、同様の施設に貯蔵しなければなりません。国は2030年の運用開始を目指して諸条件を調整中です。そのために環境整備機構(NUMO)を設置しました。建設期間を10年とすれと、2020年に建設すれば間に合い、候補地選定と地質調査等の期間を考慮すれば、これから10年以内に、建設地を決定しなければならない状況になっています。高知県東洋町の町長が住民や議会の意見すら集約することなく、民主主義の手順を無視して独断で、候補地として名乗りを上げてしまったため、町民は、町長リコールを経て、新町長を選出して、その問題を収拾しました。ところが、つい先日、今度は、福島県楢葉長の町長がまたも民主主義の手順を無視して独断で名乗りを上げ、つぎに、議会に諮ったところ、反対にあい、いとも簡単に撤回表明せざるを得なくなってしまいました。両自治体とも、共通点を抱えており、それは、過疎地であって、財政が厳しいということです。もし、自治体が候補地として名乗り上げれば、国(その代わりを務めるNUMO)が文献調査を実施し、年間10億円、最高計30億円の交付金を支給し、建設地としての可能性があれば、さらに、ボーリング等の地質調査や地下貯蔵所として備えねばならない条件を検討し、当然、その期間も莫大な交付金が支給されますが、最終決定しますが、もし、途中で、自治体が中止を申し出て、両者が合意すれば、それ以上の進展はなくなり、自治体による"食い逃げ"も可能なようになっています。高レベルガラス固化体放射性廃棄物地下貯蔵所が建設されれば、文献調査・地質調査・建設条件調査も含め、将来的には、約2兆円の経済効果が期待されると推定されています。財政の厳しい地方自治体にとっては、建設か否かにかかわりなく、文献調査だけでも年間10億円というのは、喉から手が出るくらい大きな魅力と映るに違いありません。両町長も、表面的には、国への協力とか、町の将来的発展とかというきれいごとを並べていますが、短期的な視野から多額の交付金が欲しいだけなのでしょう。高レベルガラス固化体放射性廃棄物地下貯蔵所の建設と安全性は、まだ、試験開発段階であり(清水和彦「高レベル放射性廃棄物の地層処分をめざして」(解説論文)、日本原子力学会誌、Vol.51, No.3, pp.15-21(2009))、世界で一番進んでいるのは、米国ネバダ州ヤッカマウンテンに建設中の使用済み燃料貯蔵地下貯蔵所ですが、安全性の証明は、実施しながら確認するということであって、ガラス固化体に含まれる放射性核種の半減期からすれば、少なくとも1000年、普通に考えれば、数千年も注意していかなければならず、いくら関係技術の研究開発機関の原子力機構が安全性を強調しても、単なる"期待"であって、"証明"にはなっていませんから、この問題は、実に厄介な問題になります。NUMOは、女性タレントを使って、「必要だと思います」と言わせていますが、そのような安易なイメージ作戦でよいのかどうか疑問です。日本原子力学会誌でも、同様、原子力企業の女性従業員を利用して(彼女達は業務命令の延長でそのような役割を背負っているのです)、さかんに、原子力安全・推進のイメージ作戦を展開していますが、とんだ見当違いの愚策です。結局、原子力界は、原子力の推進をその程度に考えているということです。「むつ」「もんじゅ」の不祥事や原子力施設の各種不祥事を生み出した原子炉メーカーや電力会社等の従業員が、空々しく、自身の責任を棚に上げ、ただ、微笑めば、事が好転すると単純に考えているとすれば、間違いですから、その毒々しい考え方を改めてください。高レベルガラス固化体放射性廃棄物地下貯蔵所の安全性は、上記の清水論文から読み取れるように、まだ、世界的に、実証されていません。清水論文(解説論文)が示しているのは関係者の"期待"だけです。
桜井淳
Thu, March 19, 2009
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桜井淳所長から東大大学院人文社会系研究科のH先生への手紙 -神学研究の方法 23-
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H先生
比較宗教学の視点から、『梅原猛著作集第9巻-三人の祖師-』(小学館、2002)の「歎異抄」(pp.371-687)を熟読吟味してみました。梅原先生は、「歎異抄」を最高に高く評価していますが(人生最高の書とまで持ち上げています)、私は、とても、そのように受け止めることは、できませんでした。「歎異抄」は、全18条(pp.641-686)からなる親鸞による浄土真宗の根源的理念である"他力本願"の意味を誰にでも分かるくらい砕けた表現で解説したものです。最澄や空海の仏教論とその宗派の根源的理念を比較し、親鸞の浄土真宗の「南無阿弥陀仏」の誰にでも唱えられる経の単純さと深さを示したものです。そして、何の知識も徳もないどうしようもない悪人ですら、それだからこそ、善人よりも、より救済されなければならないと諭しています。実は、この部分の解釈をめぐって、悪人の方が尊重されているかのように解釈しているひとがいるようですが、そのようなひとたちは、仏教の理念と「歎異抄」に書かれている全体をとおしての意味と主張を理解できないのでしょう。梅原先生はそのあたりをきちんと解説しています。私は、梅原先生の解説を読む前から、梅原先生による18条の現代訳を読むだけで、理解できました。親鸞は、鎌倉時代、京都から離れ、いまの水戸市より西に20kmに位置する笠間市稲田(当時は常陸の国の稲田)で布教活動をしていた時期があり(p.366)、そのことを知ることができただけでも、著作集を読んでよかったと感じました。
桜井淳