感謝されない韓国への技術移転

2006年06月11日 | Books
■高信太郎「おもろい韓国人」より抜粋

浦項製鉄という東洋一の製鉄所があります。
実を言うとそれは、日本の新日鉄がプラント輸出してできた製鉄所なんです。
でもね、僕らがそこで見せられた浦項製鉄の成り立ちについての映画では、全部自分達の力でやったことになっていて、「日本」の「に」の字も出てきません。
「東洋一の製鉄所である。どうだ、まいったか!」というそればっかりですよ。

その浦項製鉄はプロのサッカーチームをもっているんですが、そのチームマスコットがなんと「鉄腕アトム」なんです。(中略)
それで日本にきた韓国人がアトムを見て「日本人はけしからん!無断でわれわれのアトムを使っている」なんて言っている。

Amazon.co.jp: おもろい韓国人 愛があるから、ここまで言える: 本: 高 信太郎
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4334724604/503-1925740-7198339?v=glance&n=465392




『いい加減にしろ韓国』 豊田有恒 

感謝されない日本の技術移転
ぼくの友人T氏が、提携先の製鉄会社の社員である。かれの依頼で、その会社の独身寮で講演を頼まれたときのショックは、いまだに忘れられない。かれは、「うちの会社には、韓国が好きな人間は、一人もいないでしょう」と言った。

ぼくも見学してきたが、韓国の浦項製鉄は、日本の最新鋭工場と、同じレイアウトになっている。 単一工場での出銑能力では、日本と同じだが、人件費などの相違から、受注量がいまや日本をしのいでいる。だから、単一の工場では世界最大の生産量ということになる。

この工場の建設にあたっての苦労話をさせたら、日本最大のこの製鉄会社の社員には、いくらでも言い分はある。
「確かに契約として、会社として、やったことでしょう。だけど、それだけじやないんです。日本人は韓国に負い目を持っています。だから、このプロジェクトを成功させなけりゃいけないという使命感をみな持っていました。サラリーマンだって、生身の人間です。ほんの一言でいいんです。韓国語にも、ありがとう−−カムサ・ハムニダって、言葉があるでしょう。要は、気分の問題なんです。日帝36年を持ち出されると、こっちとしては、なにも言えません。うまく言えないけど、すべて終わったあとで、ぜんぶ自分たちがやったっていう態度にでられると、こっちとしても我慢しなけりやいけないと判っていても、割り切れない気持ちになるんです」
友人を通して、このとき知り合った製鉄会社の同僚は、こう言ったものだ。

この類の日本人の不満は、あちこちで聞かされた。
 
これは、直接に聞いたものではないが、日韓共同プロジェクトとして、ソウル市の地下鉄一号線の工事は、日本の技術援助で完工した。
だが、その開通式にあたっては、日本の援助には一言も言及されなかったという。


(豊田有恒『いい加減にしろ韓国』P71-72 祥伝社)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4396103476







ソウル地下鉄30年 ソウルからヨボセヨ(もしもし)

 ソウルに地下鉄ができてから三十年になった。交通が最大の難点と言われたソウルも大層便利になった。地下鉄の営業距離は今やロンドン、ニューヨーク、東京に次いで四位、輸送人員もモスクワ、東京に次いで三位である。駅も広く冷房完備で実に快適だ。

 ソウル市内はほぼどこでも地下鉄で行けるようになった。車だと渋滞で遅れる場合があるので、重要な約束ではむしろ地下鉄ということさえある。ただあれだけ地下鉄ネットワークが発達したのに、いまなお都心の道路を埋め、交通規制無視で暴走するバスの群れはどうしたことだろう。

 ところで三十年前に初めて完成した地下鉄一号線は国鉄との乗り入れだった。完成した一九七四年八月十五日は独立記念日ともいえる「光復節」で恒例の記念式典があった。その席で朴正煕大統領が在日韓国人青年に狙撃されるという大事件(夫人が死亡)が起き、大統領は地下鉄完成式には出席できなかったという歴史がある。

 地下鉄一号線の建設には日本の経済協力資金が投入され日本の技術者が多数加わったが、完成式に日本人は招かれなかった。こうした韓国に対する過去補償的な日本からの経済技術協力はソウル地下鉄をはじめ韓国発展の基礎になった。しかし、“日本隠し”によってこうした事実は韓国ではほとんど知られていない。残念なことだ。(黒田勝弘)

産経新聞 2004年8月21日付け紙面より



「日本と韓国」 昭和50年 朝日新聞社刊

『「日本にもこんな地下鉄があるか』。道案内の女子学生にこう聞かれてびっくりした。ソウル駅から青涼里駅まで7.8キロ。1974年8月、陸英修大統領夫人が凶弾に倒れた日に完成した地下鉄はソウルっ子の自慢のタネである。が、この地下鉄の建設に日本の経済・技術協力があったことは韓国民には全然知らされていない。「韓国の独力で完成した」という宣伝がゆきわたり、日本の協力については「外国の援助もあり」とつけ加えられる程度である。これにはソウルに住む日本人は一様に割り切れない思いでいる。後宮駐韓大使もこうした日本人の気持ちを代弁して「ひとことでも日本の経済協力が関与していることをいうよう配慮」(大韓商工会議所セミナーでの演説)して欲しいと遠慮がちに訴えたほどだった。

新日鉄の協力でできた浦項製鉄所にしても同じことだ。実際に功績のあった日本人実業家たちには勲章が贈られ、この国の知識人たちのあいだでは日本の協力があったことは知られてはいるが、一般民衆はほとんど知らない。「あきらめてますよ」と日本企業のソウル駐在員たちはいう。どうせ、かつて日本がこの国を支配した「三十六年」がある。なにをしたって日本は陰の存在。表に出て、いいように思われることはない、と。


大韓民国の鉄道 - Wikipedia

1974年には北朝鮮の平壌地下鉄に1年遅れ、日本のODAでソウル地下鉄が開通(ただし完成式には日本人は招かれず、スピーチでも日本の援助には一言も言及されなかった)、以後韓国各地で地下鉄の建設が進められていくことになる。





『韓国では嫌いな相手からカネを借りたり、
   技術を教えてもらう社会習慣でもあるのか?』


[8、園田外相の発言]

昭和五十年代に外務大臣を三度務めた園田直(すなお)という人がいました。昭和五十六年(1981年)八月の日韓外相会談の席上、
韓国側が安全保障問題 ( 韓国が共産主義に対する盾になり、日本を守っているとする主張 ) も絡めて、日本に五年間で六十億ドル( 当時、
二兆一千六百億円)という法外な政府借款 ( カネを貸せ )や技術移転を執拗に要求しました。それに対して園田外相は、

韓国では嫌いな相手からカネを借りたり、技術を教えてもらう社会習慣でもあるのか?。

と公式の席で発言しました。韓国ではその当時から反日教育や反日宣伝を盛んにしながら、その一方で日本に大量の資金援助、技術援助を求めてきましたが、園田外相の発言は韓国の非常識で国際儀礼を失した態度を痛烈に批判したものでした。これに対して韓国外相は歯がみして悔しがったものの、まともな反論もできなかったことが当時話題になりました。


世界の常識では常に悪口を言う相手にはカネを貸さず、技術を教えないのが常識ですが、韓国人にはそういう常識や礼儀が通用しないのです。悪口を言いながらも平気でカネを借りに来たり、技術を教えろとを要求するのです。更にカネを借りたり、技術を教えて貰った場合でも、相手に感謝することを知らないのです良いことは全て自分(自国)の手柄、悪いことは全て他人(他国)のせいにするのです。ウソだと思ったら続けてお読み下さい。



[9、浦項 ( ほこう )製鉄所]


韓国の東海岸の浦項 ( ほこう、韓国語でポハン )には、韓国産業開発の象徴的存在である P O S C O ( 浦項総合製鉄所 )がありますが、現在では世界で五本の指に入り、新日鉄に次ぐ生産規模を誇っています。その建設に際して全面的な資金協力、技術協力をしたのは当時の日本であり、日本の協力なくしては絶対に不可能な事業でした。


浦項製鉄所建設に際して、韓国は最初から日本を相手に選んだのではありませんでした。まずドイツの D K G グループを契約相手に選び、ドイツからの製鉄技術の移転を当てにし、アメリカから資金を調達する計画でした。ところが国際 コンサルティング会社の調査によって、韓国の生産性が低く日本との製品競争に勝てる見込みが無いと判断された結果、西ドイツ政府、イギリス政府からも資金調達、技術協力を拒否され、アメリカ輸出入銀行からも最終的に借款不可能を宣告されました。


そこで当時の朴政権はやむなく日本政府に、資金と技術援助を求めて 泣きついて来ました。種々の問題があったものの建設に必要な資金一億六千万ドルのうち、日本が一億ドルつまり六十二パーセントを提供することにより製鉄所建設工事が開始されました。第一期工事は昭和四十五年(1970年)に始まり昭和四十八年に完成しましたが、日本の資金協力、技術協力がなければ製鉄所の工事、施設は到底完成できませんでした。


製鉄製鋼部門に限らず、自動車、家電製品、紡績、電子など韓国における産業の半分以上は、日本からの技術移転によるものです。昭和五十年代に毎週金曜日の夜に成田や大阪からソウルに向かう飛行機は、日本人のパソコン関係の技術者で常時満席の状態でした。韓国の会社で土曜、日曜と パソコンの ハード・ソフト作りの技術を指導し、日曜日の最終便で日本に帰国したからでした。


更に韓国が昭和五十一年(1976年)に、鳴り物入りで初めて輸出した小型乗用車の ポニーに搭載したのは、韓国製のエンジンではなく、三菱自動車製の エンジンだったことは、当時車に興味のある者なら誰もが知っていることでした。韓国の現代自動車(株)が作った エンジンでは、すぐに故障して使い物にならず、やむなく三菱から小型 エンジンの提供を受け、技術支援を受けたからです。



ある資料によれば、昭和三十七年(1962年)から昭和五十八年(1983年)までの二十一年間に韓国が技術導入した件数のうち、五十六.三パーセントは日本からのものでした



[10、日本の経済援助、技術援助の存在を無視]


ところで以上述べた経済産業開発に関する日本の多大な援助や技術協力について、韓国の国定歴史教科書には、どのように記述されていると思いますか?。



政府は1962年(昭和37年)から経済開発五ヶ年計画をたびたび推し進め、輸出のために積極的に努力した。経済開発計画の推進は貧困から解放され、立ち後れた経済社会分野を発展させ、自立経済を達成できる基盤を整えるためのものだった。こうして外国の資本を導入し、多くの工場を建設して−−−。(387頁)

経済、産業開発に関しては日本という言葉を決して使わずに意図的に外国と書き、しかも、あれ程日本に技術移転をせがみ、日本から技術を導入した件は、一字も書いてありませんでした。つまり資金は外国(日本)から借りたが、自前の技術で開発したと生徒に虚偽の教育をしているのです


最初に書いたように韓国人とは、良いことは全て自分の手柄にし、悪いことはすべて外国や他人のせいにするという民族的悪癖を持つ国民なのです。浦項製鉄所を ゼロ から立ち上げて韓国人に高炉の建設や、製鉄の技術指導を長期間おこなった新日鉄の技術者達も、韓国人から感謝の言葉を言われたことは、唯の一度もなかったと述べました。



それだけではありません、事実を歪曲しウソで塗り固めた教科書で教育を受けた韓国の若者達は浦項製鉄所の自慢をしてもそれが日本の経済、技術援助によって作られたことを全く知らず、事実の指摘に対しては妄言(でたらめ)と答えたそうです。


一方日本では、この頁の [1:歴史を道具に使用すること]で述べた如く、従軍慰安婦の ウソ を教科書で教えても、日本が韓国の戦後の産業経済の発展に大きく貢献した事実を、日本の教科書では全く教えていないのです。このことに皆さんは疑問を感じませんか?。

韓国の歴史教科書
http://homepage3.nifty.com/yoshihito/rekishi.htm

韓国と言う国。経済協力で、非常識だと困惑する、日本政府。
http://jp.youtube.com/watch?v=StGTdMKVL6g

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