2008/12/22
「霊操 その2」
Ignatius Loyola。イグナティウスの生涯は,「霊操」成立まで三期に分けられる。第一期は,イグナティウスの誕生から青年期まである。イグナティウスは,1491年12月,スペインのアスペチャ地方のロヨラ城でバスコ貴族の末っ子として生まれた。ロヨラ城は今も残っており,往時の偉容を誇っている。彼は16歳の時,騎士として教育を受けるために,1507年アレバロの城主ドン・ホアン・ベラスケスのもとへ送られ,宮廷で小姓として王に仕えた。騎士的精神はまた高貴な女性に憧れた。自叙伝によると「26歳まで世俗の虚栄に溺れ,空しい大きな名誉欲を抱き,武芸に喜びを見出し,密かに高貴な貴婦人に憧れ,武勲を立てることに夢中になっていた」と書いている。
その後イグナティウスはナバラ王に仕えるようになった。1521年,フランス王フランソワ1世は1万2千の軍勢をひきいてナバラの首都バンブローナを攻め,町は軍門に降ったが,バンブローナ城だけは,イグナティウスが僅かの兵士とともに降伏せず,フランス軍と戦った。しかし,イグナティウスが砲弾に倒れ,重症を負うと,城はあえなく陥落した。フランス軍はイグナティウスの勇敢さに敬意を表し,彼の傷に応急措置をして,彼をロヨラ城まで送り返した。
第二期は,イグナティウスの回心からマンレサでの大きな神秘体験までである。治療中イグナティウスは「騎士物語」を読みたかったが,ロヨラ城にはその種の本がなく,代わりにルドルフォ著「キリストの生涯」とヤコポ・ア・ヴァラツェ著「聖人たちの華」という聖人伝の二冊が与えられた。そしてついに「聖フランシスコがしたこと,聖ドミニコがしたことを,もし,この私がするとしたらどうだろう」と自問するようになった。そしてキリストに仕えたいとの心が燃えるようになっていった。
病気からの回復期にイグナティウスはエルサレムへ巡礼し,神への愛に燃えて断食苦行をしようと「聖なる望み」を抱いた。それは世俗的な憧れを次第に忘れさせてくれた。「ある夜のこと,目をさましていると,幼きイエスを抱いた聖母の姿がくっきりと目の前に現れた。それがかなり長く続いたが,その間,言い知れぬ大きな慰めを覚えた」。晩年になって次のように言う。その結果から言って「この示現が神からのものだったと判断してよいだろう」と。その結果とは,二つあった。一つは「過去の生活全体,ことに肉欲に対して非常な嫌悪を覚え,それまで魂に描かれていたすべての影像が取り除かれた」こと。もう一つは,30歳のその時以来,62歳で『自叙伝』を口述するまで,「彼は肉の誘惑にわずかの承諾も決して与えたことはなかった」ことである。彼は魂の中で起る霊動に対して慎重に熟慮し,「それが神からのものかどうか」を餞別した。イグナティウスはその後もこの「魂の眼」を光らせながら,神から示された道を歩んだ。その体験から生まれたのがこの『霊操』である。
イグナティウスの『霊操』完成までに,スペインとパリの大学での学問研究が必要だった。パリ大学勉強中に『霊操』の大部分が完成された。これが第三期である。イエズス会を創立し,若い会員を養成するとき,ラテン語・ギリシャ語とギリシャ・ローマの文学の徹底的な勉学を義務づけ,その上で哲学・神学の研究をさせるようになった。その後,イエズス会のコレジウムが全ヨーロッパに拡がり,この教育方針が受け継がれ16世紀末には200校を数えた。
カール・R・バルトの言葉を引用しておこう。「イエズス会員たちは周知のように,われわれがもっている文学の理念を形成する上で,非常な貢献をした。旧いヨーロッパでいわば独占していた教育を通じてラテン的修辞学の相続者であり,伝播者であったから,彼らはブルジョワジーの支配するフランスに見事に書くという理念を伝えたのである」と。
『霊操』の最終目的は,イグナティウスが恵まれた神秘体験に霊操者を導くことである。それは霊操者が自分に対する特別な神の御意思を探し,見出すことなのである。神の御意思は人間の理性では見出し得ない。神は無限で広大無辺な神秘だから,有限な人間には知ることはできない。無限な神の御意思を有限な人間がどうして知ることができるのか。ところが,聖書の伝える神は慈しみ深い方で,罪人である人間を高め,御自分と人格的な愛の契りを結ぶことを望まれる神である。しかも,人類全体のために特別な使命を果たすことを望まれ,その御意思をわれわれ一人一人に示し,それを実行してほしいと望んでいる。
それを通して全人類の救済を実現しようとしているのである。従って,「神の御意思を見出す」ことは,慈しみ深い神が人間に与える神秘体験である。イグナティウスは真剣に『霊操』に従って修行するなら,この神秘体験に達することができると考えている。しかし,このような高い恵みを受けるためには,魂を準備し,調える必要がある。そこからこの神秘体験の恵みを受けるために,「魂を準備し,調えるあらゆる方法」という,霊操の具体的実践方法が生まれた。そこでイグナティウスは『霊操』の冒頭に次のような『霊操』全体の目的を述べる。まず第一に,「すべての邪な愛着を己から除き去り」,第二に,除去した後に,神の御意思を探し,見出すことである。神の御意思は霊操者の邪な欲情・執着のために覆われているから,霊操の第一の目的は霊操者が,「すべての邪な愛着を」を根絶することにある。しかし,イグナティウスは自分の経験から,『霊操』を忠実に行えば神の御意思を「探し,見出す」ことができると確信している。この確信は「探せ(求めよ),そうすれば与えられる」<マタイ第7章7節>というイエスの言葉に基づいている。霊操の究極の目的は「神の御意思を探し,見出す」という神秘的体験である。
神の超越性は個人の内面にあり参照
<本記事はイグナチオ・デ・ロヨラ著 門脇圭吉訳 岩波書店『霊操』などの解説・要約・編集です>。
ローマ時代のモザイクでできた魚。魚座の象徴はイエス・キリストなのである。たとえば聖ペテロはイエスに出会う前の名前はシモンであるがガリラヤ湖には聖ペテロというスズメダイに属する魚がいる。学名は「Chromis simonis」という。
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紀元前1600年頃クノックスで描かれた魚の壁画。次の時代は魚座と暗示している。
エチオピアではすべての家庭に『マタイによる福音書』が置いてあるという。少なくともその他ルカによる福音書,ヨハネによる福音書は教養として読まなくてはいけません。西欧文学を専攻し聖書の知識がないなんて.......
その『マタイ第7章』には「人を裁くな。あなたも裁かれないようにするためである。あなたがたは,自分の裁く裁きで裁かれ,自分の量る秤(はかり)で量り与えられる............神聖なものを犬に与えてはならず,また,真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり,向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう.......求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば,見つかる。門をたたきなさい,そうすれば開かれる。だれでも,求める者は受け,探す者は見つけ,門をたたく者には開かれる........まして,あなたがたの天の父は,求める者に良い物をくださるにちがいない。だから,人にしてもらいたいと思うことは何でも,あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である』
米国で放蕩三昧をしていた高橋是清はある時ふとマタイによる福音書の『思い悩むな』を手にした。「だから,言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと,また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり,体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず,刈り入れもせず,倉に納めもしない。だが,あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは,鳥よりも価値あるものではないか」と。その後高橋是清は日本の大蔵大臣,総理大臣をつとめた。
イエスが幼少の時,両親(ヨセフとマリア)はイエスを見失ってしまった場所。「イエスが道連れの中にいるものと思い,一日分の道のりを行ってしまい,それから,親類や知人の間を探し回ったが,見つからなかったので,捜しながらエルサレムに引き返した。三日の後,イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り,話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた........。両親はイエスを見て驚き,母が言った。なぜこんなことをしてくれたのです。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。すると,イエスは言われた。<どうしてわたしを捜したのですか?わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを,知らなかったのですか>
しかし両親はイエスの言葉の意味が分からなかった。それからイエスは一緒に下って行き,ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことすべて心に納めていた。イエスは知恵が増し,背丈も伸び,神と人とに愛された。<ルカ2:44〜52>
彼はこの町へ来て住んだ。マリアとヨセフの故郷である。「彼はナザレの人と呼ばれる」マタイ2:23
OUT OF EDENを読まれている方は高い精神性が必要になります。クリストファー氏への支援の件はトップページに書いてありますが病気療養中のためとメールがあり『500円』いただいた時は感動いたしました。こういう高い精神性を持った方がいることは嬉しいことです。『だから,人にしてもらいたいと思うことは何でも,あなたがたも人にしなさい』というマタイの言葉にありますようにこの方は見えざる手によって祝福されるでしょう。この人にいつか会いたいと思っています。
闇は真の光に対抗するために、光を偽装して戦力を集めようとする。しかし、見極める目を養えば、真の光と、光を偽装する闇とを区別することは可能である
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