現在の竹島を表す「松島」と韓国・鬱陵島を示す「竹島」の間に、北前船の航路を描いた江戸時代後期の絵図「日本針図(しんず)」の原図が、鳥取市内で見つかった。新たに同航路を裏付ける記述も確認され、北前船の船頭が、竹島を日本領と認識していたことを示す史料として注目される。
日本針図は、海岸警備や船舶の管理に携わった鳥取藩米子の役所「船手組」が保管していた「日本夷国之針図」を、一八三六年に書き写し、海路の里数などを加えている。
二〇〇七年に島根県の竹島資料室の担当者が、新修米子市史第十二巻(一九九七年刊)に収録されているのを発見。両島の間の海上に、航路を示す赤い線が描かれているのを確認した。
同資料室は原図の行方を探していたが、鳥取市戎町の一行寺で保管されているのが分かった。調査の結果、航路の線に沿って「松前エカヘル船冬分多ハ竹嶋松嶋ノ間ヲヒラク」という記述を確認。冬は下関(山口県)から松前(北海道)へ帰る船の多くが、竹島(現鬱陵島)と松島(現竹島)の間を通っていたことが判明した。
島根県の杉原隆・竹島研究顧問は「新修米子市史では分からなかった記述が見つかったのは収穫。鎖国時代に他国の領海を航行することはなく、これで北前船の船頭が竹島を日本領と認識していたことが裏付けられた」と述べた。
北前船 江戸時代後期から明治時代にかけ、大阪を起点に瀬戸内海、関門海峡を経て、山陰、北陸などの日本海側の諸港を結び、後に北海道まで延長された回船。大阪などで仕入れた物資を途中で販売しながら北上し、北海道ではニシン、昆布など海産物を買い込み、瀬戸内海、大阪へと向かった。
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「日本針図」の竹島に関係する部分。中央に「松前エカヘル船冬分多ハ竹嶋松嶋ノ間ヲヒラク」の文字があり、航路を示す赤い線が「竹嶋」と「松嶋」(右上)の間を通っている
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一行寺で見つかった「日本針図」の原図=鳥取市戎町
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