戎橋北詰西側にあった南海食堂ビルから戎橋(手前)と道頓堀を望む=45年3月、矢追又一さん撮影
第1次大阪大空襲直後の道頓堀相合橋付近=45年3月、矢追又一さん撮影
第1次大阪大空襲直後の道頓堀戎橋周辺。松竹座(右)、アドビル(中)、三笠ビル=45年3月、矢追又一さん撮影
西区南堀江通1丁目(当時)で焼失した自宅跡に立つ又一さんの父、寅之助さん。一面焼け野原になった=45年3月、矢追又一さん撮影
現在の戎橋(北西から南東を望む)=12日、大阪市中央区
64年前の3月13日夜、大阪の中心部がB29戦略爆撃機から投下された焼夷(しょうい)弾で焼き尽くされた第1次大阪大空襲――。その直後の大阪・ミナミの街並みを撮影した未公開の写真24枚が撮影者の三男宅で見つかった。大阪国際平和センター(ピースおおさか)は「空襲直後のミナミを撮影した写真は数が少なく、貴重だ」と評価している。
写真を保管していたのは大阪府枚方市の矢追茂夫さん(80)。戦時中、大阪市西区で写真館を営み、約30年前に亡くなった父親の又一さんの遺品の中から見つけた。第1次大空襲で全焼した自宅の焼け跡に立つ祖父の写真もあったことから、又一さんが撮った空襲直後の写真とわかった。
空襲時、写真館兼自宅にいた茂夫さんは商業学校4年生。炎に追われ、家族とともに御堂筋沿いの大丸まで逃れた。熱風が吹き付け、吹雪のように火の粉が飛び散り、衣服に火がつくのを消し合いながら夜明けを待った。警防団員だった又一さんと再会できたのは約10日後。
「南海食堂ビルより」と題された写真には、戎橋から焼け跡を見つめる防空ずきん姿の女性らが写っており、一夜にして壊滅した繁華街の様子がよくわかる。
茂夫さんは「南海食堂は家族で何度もカレーライスを食べに行った思い出の場所。変わり果てた街並みを記録しなければと考えたのでは」と話す。
これらの写真は4月1日発売の雑誌「大阪春秋」(新風書房)の付録の古地図に掲載される。(武田肇)
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〈大阪大空襲〉 大阪への空襲は44年12月〜45年8月14日まで約50回に及び、このうちB29戦略爆撃機100機以上による大空襲は計8回にのぼった。中でも、45年3月13日深夜から14日未明にかけての空襲は「第1次大阪大空襲」と呼ばれ、274機から計1733トンの焼夷(しょうい)弾が投下され、大阪市中心部約21平方キロの約13万6千戸が焼けた。一夜で4千人を超える死者が出たとされる、大阪では最大の被害となった。