麻生内閣の看板の公務員制度改革が人事院の抵抗で難航し、事務官房副長官の漆間巌が機能していないためだと指摘されている。だが、麻生首相が漆間に期待するのは政府全体の調整役ではなく、元警察庁長官として刑事と公安の両情報を収集し、警察権力を政治運営に利用することだとみられる。今後、漆間のこうした動きに注目すべきだ。
◆難航する公務員制度改革
麻生太郎内閣の大きな課題のひとつ、公務員制度改革が難航している。1月30日を期限として設定していた「工程表」の決定を見送り、2月以降に先送りせざるを得なかった。幹部人事を一元化する「内閣人事・行政管理局」への機能移管に人事院が抵抗、調整がつかなかったためだ。
行革担当相・甘利明は3月中の関連法案の国会提出を目指し、1月中の工程表決定にこだわってきた。人事院は各省庁の給与に連動するポストの定数(級別定数)を決める権限を持っている。この権限を内閣人事・行政管理局に移さないと、柔軟な人事配置ができないとして人事院に移管を求めてきた。
◆人事院総裁の抵抗
前日の29日、自民党公務員制度改革委員会は人事院が同意しなくても政府が工程表を決めることを了承。これを受けて、甘利は人事院総裁の谷公士(まさひと)に電話し、30日に予定していた国家公務員制度改革推進本部への出席を求めた。しかし谷は推進会議への出席を拒否した。甘利は「反対は結構。ちゃんと説明してほしい」と迫ったが、谷は応じなかった。河村建夫官房長官の判断に持ち込まれ、政府内で摩擦を生まないよう時間をかけるべきだとして、先送りが決まった。
◆事務官房副長官が機能していない
どうして人事院がここまで抵抗するのか? 政府・自民党で浮かび上がっているのが事務官房副長官の漆間巌が機能していないという指摘だ。
事務官房副長官は、事務次官会議を主宰し、議長役を務める。つまり各省庁事務次官のまとめ役なのである。行革が大きな政治課題として浮上して以後、官僚の抵抗の強い事項については、事務官房副長官が説得役となってきた。
さいきんでは石原信雄(自治省出身)、古川貞二郎(厚生省出身)といった事務官房副長官が「長期政権」だったが、これに類した問題では、「官の抵抗」が突出しないよう抑え込んできた実績がある。どうやら現職の漆間巌には、それが自分の仕事だという認識さえないらしい。
◆警察官僚・漆間巌の消極姿勢
同時に漆間巌は、「天下り」抑制そのものに消極的であるといわれている。安倍政権時代の07年3月、当時の的場順三官房副長官が天下り抑制を中心とした公務員制度改革をとりまとめようとしたさい、事務次官会議メンバー(警察庁長官は事務次官扱い)の中で突出した強い姿勢で「絶対反対」を崩さなかったことで知られる。
これは警察官僚の立場を代弁したものとされる。警察は膨大な「地元採用組」を抱えている。警視庁と46道府県警が、警察官採用試験を行い、それぞれ採用する。その地元採用組が巡査からスタートであるのに対して、警察庁採用のキャリアは警部補付け出しとなっている。階級社会だから格差も歴然たるものである。
その地元採用組も、最終的には本部部長や、署長のポストに就き、定年後は天下りする。中央省庁のキャリア官僚が、天下り先の面倒を見てもらえないということになると、その影響は必ず地方の警察官にも及んでくる。一定期間を経て後には、地方の天下りも「禁止」ムードが強まるはずだ。警察庁キャリアは、地元組のためにも「天下り禁止」に与するわけにはいかないというのである。
漆間は調整に乗り出さないだけではない。今回の騒ぎでは、人事院の抵抗を煽るようなことまでやっているらしいのだ。
◆警察官僚起用の意味は?
なぜ漆間にはこのような行動が許されるのか。任命権者である麻生太郎首相が漆間に期待しているのは、官僚の世界の調整能力ではないからだ。
事務官房副長官は、旧内務省系の諸官庁の事務次官OBから指名されるのが慣例となっていた。しかし厚生、労働、自治各省OBが多く、警察庁は意外に少ない。警察庁出身者としては田中角栄政権時代の後藤田正晴の例がある。しかし後藤田は警察庁長官となったものの、自治庁(その後自治省、総務省)の官房長、税務局長を歴任した。
後藤田の場合、自治庁で身につけた調整能力が買われての起用だと思われ、実際のちに中曽根康弘政権の官房長官となった時期も、優れた調整能力を発揮した。
◆嫌われた二橋正弘
調整能力を重視するからこそ、厚生、労働、自治といった各省の次官OBが起用され続けてきたのである。石原・古川をついだのは二橋正弘(自治事務次官OB)だった。二橋は03年9月、小泉純一郎内閣で副長官に任命された。さいきんの例では安倍晋三内閣成立のさい、再任される方が普通といえる。
ところが安倍は二橋を嫌った。一つは女帝に道を開く皇室典範改正問題が理由となった。小泉首相(当時)は、首相自身の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」(吉川弘之座長)をつくった。05年11月、女性天皇、女系天皇(母方だけに天皇の血筋を引く天皇)を容認する報告書の提出をうけて、06年の通常国会にも皇室典範改正案を出すと意気込んでいた。
この女性・女系天皇容認へのシナリオをつくったのが、古川・二橋両副長官だったというのが、安倍の見方だった。小泉は自民党内右派の強い反対によって改正案提出を断念したのだが、安倍はその反対派の一員だったのだ(麻生も同じだった)。
もう一つは、04年5月、在上海総領事館員自殺事件があった。この館員が残した遺書には、中国公安当局と思われる男性に女性関係を指摘され、機密情報などの提供を強要されたという主旨のことが書かれていた。この事件について外務省は、官邸への情報提供を怠ったとして、週刊誌などに批判された。
この「事件」について、一部の週刊誌は、外務省が二橋副長官に相談したところ、二橋が「官邸に情報をあげるな」と指示したと書いた。安倍・麻生はともにその報道が正しいと判断。二橋を嫌った。
◆漆間を信頼した安倍晋三
安倍内閣の事務官房副長官についても「漆間説」があった。安倍は2001年12月の東シナ海不審船事件のとき官房副長官だった。当時警察庁警備局長だった漆間が防衛庁などより早く北朝鮮の工作船と断定し、「重装備の可能性が高い」と言っていたことに強く印象づけられた。その後、漆間に面談を求め、拉致問題だけでなく北朝鮮全般について詳しいことで、全幅の信頼を置くようになったという。
しかし安倍晋三がじっさいに任命した事務官房副長官は、大蔵官僚OBの的場順三であった。的場は晋三の父・故晋太郎と親しく、晋三自身にとっては官界についてのコーチ役だった。漆間は当時、現職の警察庁長官だった。続投させた方がプラスというのが、安倍の判断だったとされる。
◆洞爺湖サミットが実現した理由
安倍の漆間への信頼は揺るがなかった。2007年4月、翌08年日本が議長国となるサミット(主要先進国首脳会議)会場を、北海道・洞爺湖の「ザ・ウィンザーホテル洞爺リゾート&スパ」に決めたことは、それを示すものだった。警察庁長官の漆間が、「警備上最適」と推薦したのが、最大の理由だった。
しかし漆間の推薦には、別の理由が指摘されている。ウィンザーホテル洞爺はもともと、北海道拓殖銀行系列のリゾート開発会社・エイペックス(本社・札幌市)によって建設された。しかしエイペックスは1998年3月に倒産、同年11月の拓銀破たんの一因となった。
◆会場のホテルは、「セコム所有」
同ホテルはその後「ザ・ウィンザー・ホテルズインターナショナル」(本社・東京)の所有となったが、同社は大手総合警備会社「セコム」(本社・東京)の子会社であった。
警備保障業界は、すべての企業が警察庁の子会社のような様相になっている。とくに漆間は業界との関係が深い長官として知られていた。年齢の離れた実兄で、同じく警察キャリアだった漆間英治(最終ポストは中部管区警察局長)が綜合警備保障会社の社長となっていたからだ。業界トップのセコムにとっても、ウィンザーホテル洞爺でのサミット開催は、いわば起死回生の策であり、社長・会長を経て最高顧問となっていた飯田亮が熱心に動き回っていた。飯田の代理人となっていたのが漆間だったのである。
◆二橋の復帰と2度目の更迭
安倍の「政権投げ出し」によって福田康夫が首相に就任したのが、07年9月。このとき福田は、閣僚はほとんど再任したが、内閣官房は長官に町村信孝を起用、副長官も全員入れ替えた。事務副長官には安倍が嫌った二橋を復活させた。しかしポスト福田の首相となった麻生は、再び二橋を更迭、漆間巌を起用したのである。事務官房副長官の人事、具体的には二橋の扱いを見ると、安倍・麻生と福田の確執がいかに根深いものであるか明らかだろう。
麻生が漆間に注目したのは03年9月の内閣改造で総務相に就任して以後。それまでタブー視されてきた朝鮮総連や部落解放同盟などがからむ事件にもメスを入れる総指揮官は漆間だとの噂を聞き、じっさいに会ってみて意気投合したとされる。
◆麻生の期待は情報と権力に
「調整能力なき事務副長官」漆間に麻生が期待しているものは何だろうか? 一つは情報であり、もう一つは警察を動かせるという権力である。日本の警察は全国に網の目のようにはりめぐらした情報機関である。刑事警察は暴力団を、公安警察は左翼・右翼集団と政党全般を、そして外事警察は朝鮮・韓国人団体や外国人を監視している。防衛省(自衛隊の情報部門)や検察庁(傘下に公安調査庁を持つ)などとうてい及ばない、最強の情報機関なのである。
警察は当然、さまざまな事件を捜査する権力機関でもある。選挙違反など政治がらみの事件の捜査も含まれている。警察は公安部門と刑事部門の「二本立て」で相互に反目・対立しあっている。しかし漆間はその双方を渡り歩き、「両刀遣い」として知られる。
警備業界のため、ひいては自分の利益のために洞爺湖サミットをやらせるなど「権力の乱用」は、使う方から見れば魅力的であろう。安倍政権下で、公務員制度改革をめぐって対立したときには、渡辺喜美の身辺を調べさせたこともあるという。
◆起死回生の秘策を練っている?
支持率低迷に悩む麻生政権が「起死回生の秘策」劇を演じるとすれば、シナリオを書き、プロデュースする人材は漆間巌以外にはいないはずだ。
いずれにしても、後ろ暗い部分の大きい「国家の暴力装置」代表を内閣官房に抱え込んでいるのが麻生政権であることは強く意識しておく必要がある。その暴力装置代表が動き出すタイミングは何時かを注目すべきだ。
[月刊誌「選択」08年11月号「麻生官邸のキーマンたち」などを参考にしました。]