家族という切り口で考えると、映画には実に多くの家族の形が描かれている。これは現代日本で発表されている多くの映画や小説と共通している。
湯灌、納棺のシーンでは多くの家族たちが詰めかけ、主人公が勤めた会社の社長や秘書もそれぞれに家族にまつわる過去を抱えている。
また主人公は、自分を捨てた父親のことを恨み続けるが、作品は主人公の父親探しの物語であり、親子のあつれきを克服するストーリーにもなっている。さらに、広末涼子さんが演じた妻との関係も、物語を牽引(けんいん)する大きな力になっている。差別に苦しんだ二人が和解する過程(新しく家族をつくっていく経緯)も、映画全体の流れを形づくっている。
『日記』には、きわめて印象的な場面がある。家族や親族が「私」の仕事を嫌悪し、つらい思いを抱いていた時に、昔の恋人に出会う。亡くなった彼女の父の遺体を湯灌している「私」に、彼女は寄り添いながら、額の汗をふいてくれる。感動的な場面だ。
「私」は、この元恋人のしぐさに心を動かされ、前向きに納棺師の仕事に取り組むきっかけをつかむ。
『日記』と映画には、共通点も多くある。その筆頭は納棺師という仕事に込められたメッセージだろう。生きている人はいずれ死ぬ。死者を敬う心は変わらず、その象徴的な仕事として、光をあてているのが、まず大きな魅力だ。そんな中、職業的な差別意識や違和感を徐々に克服していく主人公の姿も、共通するものだ。
舞台となっている土地も微妙に共通し、微妙に相違している。『日記』は富山、映画は山形(撮影は酒田市と鶴岡市を中心に実施された)。ともに日本海側の土地で、その風土の美しさや気候の厳しさは、活字にも映像にも、大いに力になっている。
青木さんは「立山(富山)がないのは残念だけど、鳥海山(山形)もいいですね。平野は富山もあんな感じです。滝田(洋二郎)監督も富山出身なんです」と話した。
2009年3月2日